「信長に仕えた黒人」である『弥助』について、海外だけでなく日本国内でも勘違いをしている人が多いようなので、それを纏めて解説しています。詳細ではないのでざっくりしたものですが。出来るだけ調査し一次史料の内容のみにしていますが、情報汚染も激しい案件ですので、時々、引っ掛かってることが判明し修正もしています。
Linkなどは自由にして構いませんが、調査して分かった内容を増やしていったり修正していったりしますので、変化はしていきます。

『弥助』の出自や名前など

ここは興味がある人も多いのではないでしょうか。
「宣教師ヴァリニャーノに連れて来られたが、日本に来る以前は不明である」というのはよく聞きます。
しかし、イエズス会の記録を調査していくと、もう少し前までは分かります。

結論から言えば、弥助は宣教師ヴァリニャーノに連れて来られたわけではありませんし、奴隷でもないですし、モザンビーク人でもインド人でもないですし、名前・年齢・出身地・洗礼名までは分かります。

書簡から分かる情報と疑問

『日本年次報告』や『日本通信』などのイエズス会の記録を原文や編纂書・翻訳本・写本を見ていると、気になる部分があります。一番は、原本の原文や、原本にできるだけ近い版(1597年以前)と編纂書・翻訳本・写本の記載(1598年以降、特に1630年以降)では、たびたび表記が違う、と言う事です。
ですので、その違う部分を比較していくと、弥助の正体を探していく手掛かりが出てきました。

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弥助の出自
元々は日本語訳本から読んでいたのですが、原文を読んでいくと「奴隷」とは特に書かれていません。
また、意訳して纏めればほぼ同じ意味にはなるのですが、その元になっている『日本教会史』や『日本史(通称:フロイス日本史)』などと、それより以前の書簡の記録とは、たびたび書かれている内容(文章)が違う、また弥助の呼び方が違うなどがあり統一感がなかったことが多く。版に注意して見ていく事になると、「cafre」と書かれていた書簡というのが次々と「新しい版にしかない」というのも分かってきたので、古い版を求めていく事になりました。

その古い版で確認すると、弥助の出自として書かれている部分が限定されていきます。
フロイスの書簡では
▶ "モザンビークの黒人"
▶ "エチオピアの大領主の息子である黒人"
と記載しています。
また、ヴァリニャーノも
▶ "モザンビークの黒人"
▶ "エチオピアの王の息子である黒人"
と記載しています。1585年からは、
▶ "カフラリアの黒人"
という記載も出てきます。

当時の世界情勢でエチオピアとモザンビークがはっきりわかれていなかったのか?と調べると、16世紀当時を見れば、『モザンビーク』はポルトガルの植民地でしたが、『エチオピア』はエチオピア帝国と歴史がある独立国です。明らかに違う2カ国なのですが、これが同時期に混同して出てくるので不思議に思い調査をしました。
研究本を見れば「書き間違えではないか?」などという意見もあるようですが、その割には「モザンビーク」「エチオピア」という記載は度々出てきます。

さらに『日本教会史』(初版は1649年)なんかだと、どの版までは確認していませんが「ギニアエチオピア人のように黒いムーア人モザンビーク出身黒人で、カフリと呼ばれる喜望峰周辺の住民」と何か情報過多に足された説が載っているようで、書簡の原文には載っていない情報が大量に入っており、恣意的に歪められている事が感じられました。

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インドから来た
また、イエズス会の書簡の記録には、弥助が何度も「インドから来た黒人」と記載があるので、インドから来ているのはほぼ確かです。書簡では何ヵ所も書かれていますが、例えば『日本通信』の1581年10月15日に書かれたもので、書簡の原文はポルトガル語で書かれています。
"hum negro que o Padre Valignano trouxe consigo da India, chamado Lasù, o qual o Xogum tanto estimou, que lhe deu espada e renda, e o fez servir de moco de camara a Dona Oeno, sua principal mullher, e ainda de seu proprio aposento."
"ヴァリニャーノ神父に同行していたインドから来た弥助と呼ばれる黒人を、将軍(信長)はとても高く評価し、刀と御扶持を与え、お濃の方の付き人と、また自分の部屋付きとして仕えさせた。"
このように、「弥助と呼ばれるインドから来た黒人」という表記は、何度も確認する事ができます。
この「インド」もヒントになります。

ちなみに、この文章は1943年と1977年の日本語訳では、
"ヴァリニャーノ神父がインドから連れて来たきた弥助と呼ばれる黒人を献上"
と訳されています。ですが、原文から訳して見るとこの文章に「献上」という単語はなく、意訳だと分かります
たぶんですが、「中世ヨーロッパの黒人=奴隷」という先入観や、1598年以降に原文からラテン語で訳された書簡文章が各国言語に訳されていますので、日本語訳した人が読みやすい言語翻訳版を参考にして訳したのだと思います(このラテン語翻訳版のさらに翻訳版では「奴隷」と訳されています)。
1999年版の訳では「紹介」となっているのですが、これも16世紀に書かれたポルトガル語の文章としてもこの単語(「紹介」)が文章内に存在していません。

この「hum negro que o Padre Valignano trouxe consigo da India, chamado Lasù」という文章についても再検討の余地があります。
ここで気になったのは、「hum negro」という位置でしょうか。この文章の主役は「ヴァリニャーノ神父」ではなく「ある黒人」なんです。「ある黒人(hum negro)」について、その黒人は「ヴァリニャーノ神父と同行(Padre Valignano trouxe consigo)」しています。ここで「同行(trouxe consigo)」は「連れて来た」とも訳せますが、立ち位置が従属的なのであれば「伴ってきた(tinha consigo)」の方がはっきりします。
問題は「インドから来た(da India)」と続きますが、これが「ある黒人(hum negro)」に掛かるか、「ヴァリニャーノ神父と同行(Padre Valignano trouxe consigo)」に掛かるかで話が変わってきます
「hum negro que da India」だと「インドから来た黒人」になります
▶ 「o Padre Valignano trouxe consigo da India」だと「ヴァリニャーノ神父とインドから同行してきた」になります。
日本語訳を含む外国語翻訳版で多く出ているのは後者の訳です。
ですが私は、この文章は「ある黒人」が主役で、それ以降の部分が全て掛かってきていると思います。これを書いたフロイスが、書きながら説明を加えていったのでは、と考えたわけです。
「ある黒人」
▶ その「ある黒人」は「ヴァリニャーノ神父と同行していた黒人」であり
▶ その「ある黒人」は「インドから来た黒人」であり
▶ その「ある黒人」は「弥助と呼ばれる黒人」である
という具合に「信長に仕えた黒人」が誰かと説明を付け加えて書いたのではないかと考えたわけです。
また、もし「弥助がヴァリニャーノ神父の奴隷であり、それを献上した」と言うなら、主役は「o Padre Valignano(ヴァリニャーノ神父)」になります。書き方も「o Padre Valignano tinha consigo da Índia um negro chamado Lasú,(ヴァリニャーノ神父は、インドから弥助と呼ばれる黒人を連れていた)」のように、「o Padre Valignano(ヴァリニャーノ神父)」を文章の前に持ってくるのが自然ではないかと思います。
その「ある黒人」は後の文章にも続きます。
▶ 「将軍(信長)」は、その「ある黒人」を「とても高く評価」し
▶ 「将軍(信長)」は、その「ある黒人」に「刀と御扶持」を与え
▶ 「将軍(信長)」は、その「ある黒人」を「妻の濃の方の付き人」とし
▶ 「将軍(信長)」は、その「ある黒人」を「自分の部屋付き」にもした
という事です。

また、今、話題になる部分が出てきます。
それは「tanto estimou」です。この中で「tanto」は「非常に」「とても」などの意味なのです。
問題は「estimou」で、これは人や物を「高く評価する」と訳せるのですが、同時に「尊敬する」「大切にする」などの意味で訳す事も出来る単語だからです。「estimou」を翻訳する際には、適切な訳語を選ぶことが大切なのですが、例えば、ビジネスの文脈としてですと「評価する」「重視する」で、私は「刀と御扶持(que lhe deu espada e renda)を与える」「仕えさせた」という契約的な関係からこれを選んでいます。個人的な関係ですと「大切にする」「愛する」などにも訳せます。これが、宗教的な文脈で言うならば敬虔な気持ちで「崇拝する」と訳せる単語なので、それを主張している人がいる訳です。
信長の性格、出自や身分に拘らず人を評価している現代的感覚がある人物でしたから、「とても高く評価した」というのが一番合うと思います(「崇拝」しているのなら、それに続いている「刀や御扶持を与える」も「仕えさせる」もおかしいですからね)。

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弥助はキリスト教徒
イエズス会の記録には弥助の事を「敬虔な黒人キリスト教徒」という記載している書簡が何通も確認できます。この「キリスト教徒」というのもヒントになります。名前や出自と併せて調査すると、具体的に洗礼記録が見つかります。

「日本で洗礼を受けた」という説も存在しているのですが、この逸話が現れる書籍まで辿ってみると、1593年に堺で洗礼を受けた黒人ジョアンの話が混じっているようです。この黒人ジョアンですが、ポルトガル商人が連れてきており、インドの逃亡奴隷らしいという記載がありますね。

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弥助の名前
弥助の名前が分かりませんでしたが、これも当時のイエズス会の書簡を調べてたところ、『弥助』と日本語で訳される部分が共通しているのが分かりました。
フロイス書簡で弥助を示すのにポルトガル語で「Lasù」「Lazù」「Lacù」とあります
その他の書かれ方だと、「エチオピアの黒人」「モザンビーク(東アフリカ)の黒人」「インドから来た黒人」「将軍(信長)に仕えた黒人使用人」という具合に書かれています。1585年からだと「カフラリア(南東部アフリカ)の黒人」が増えます。

これらの出自・来歴・宗教・名前までは、フロイス書簡で分かる部分です。
これかと調べると、「ッンヤス」と発音(ただ、最初の「ン」は日本人には発音が難しいです。喉を締めた感じで「ン」から「リャ」「ニャ」「ヤ」を無理矢理発音する感じにすると近くなるかも?)するようです。「ヤスケ」というのはこの名前から来ているみたいですね。ちなみに「Lasù」をそのまま英訳などに翻訳すると「Nyas」などに変換されます。
これらの表記は、アムハラ語などのエチオピア諸言語の音声をポルトガル語で表記したものと考えられます。 エチオピア諸言語にはポルトガル語にはない音があるため、完全な一致は難しいので、表記にブレが出るようです。
「大谷」を「otani」や「ootani」や「ohtani」と表記されているようなものです。

他、この「ッンヤス」というのはエチオピアでは普通にある名前のようです。
モザンビークでもエチオピア寄りの地域では、名前として使われる事があるそうです。

『弥助』という日本語読みをポルトガル語で記載していたなら、こういう具合に表記されるはずです。
・Yasque: 最も直感的で、日本語の発音に近い表記です。
・Iasque: 「ヤ」の発音を「イ」と表記することもあります。
・Yásque: アクセントを「ア」に置く場合に用いられます。
ですが、原本の原文にはこういう記載がされていません(このような表記に物は。1598年以降の翻訳版からです)。
ということで、「Lasù」「Lazù」「Lacù」は日本語での呼び方からは来ていません。
「Iasque」という表記は見掛けますが、この名前で記載されていた場合は、当時の記録ではなく後世で書かれている文章と考えてほぼあっています(現在の所は、外れはありません)。

この「Lasù」「Lazù」「Lacù」の名前で「エチオピア人」と仮定して調査すると、イエズス会の記録から日本では知られていないデータが出てきます。ただ、これが「本名」なのか「通称」なのかまでは分かりません。
また、この「Lasù」「Lazù」「Lacù」という名前で調べると、日本語には訳されていないイエズス会の記録でもう少し情報が出てきます。

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出自はエチオピア

結論から言えば、弥助は「エチオピア人」です。

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「モザンビーク」とは
17世紀のイエズス会の編纂書や翻訳書を見ると「モザンビークの奴隷」という記載が出てきます。
原文を読むと、弥助の出自は「エチオピアの黒人」「モザンビークの黒人」「インドから来た黒人」というものが見られます。ですが、その元になった書簡を確認すると、別に「奴隷」とは書かれていません
そして、同じく17世紀後半からはエチオピアという記載があまり出てこないようになります。
説が色々とあり、モザンビーク出身説が主流とありましたが、ポルトガル語原文を訳してもすっきりとした文章にならない文章がありましたので、考えを変えました。

フロイスの書簡にはこのように書かれていおり、それが日本語訳ではこう訳されています。
"Um serviu negro de Moçambique chamado Lacù que serviu Xogum"
"信長に仕えた弥助と呼ばれるモザンビークの黒人奴隷"
このポルトガル語原文の翻訳を『モザンビークの奴隷』と訳しているのですが、この訳は辿っていくと原文ではなくラテン語翻訳本から来ています。これは、このポルトガル語の「serviu negro(黒人使用人)」という部分が、ラテン語翻訳本では「servus niger」と翻訳されているからですが、この「servus」は古ラテン語で読むと「奴隷」とも訳せる単語だからです(16世紀のラテン語だと普通に「使用人」と訳せます)。また、17世紀も後半になると、この部分が「serviu cafre」と書き換えられた写本や改定本が出てきたりもします。
ですがこの部分は、ポルトガル語で「黒人奴隷」と言いたいなら「escravo negro」と書かれます。ポルトガル語だからこそ、『奴隷』と書かれていない事がはっきりと分かります

で、問題となる「Moçambique」ですが、「エチオピア」「モザンビーク」が現代の単語の意味ではなく、16世紀の単語の意味として読むと、文章の意味がはっきりします。
16世紀の意味として「エチオピア」はエチオピアでしたが、「モザンビーク(Moçambique)」はモザンビークという国の意味以外に、『東アフリカ』という広い範囲も指している事が分かります。つまり、
"Um serviu negro de Moçambique chamado Lacù que serviu Xogum"
"信長に仕えた弥助と呼ばれる東アフリカ出身の黒人使用人"
という意味です。これで、フロイスの書簡の記載に「モザンビーク」と「エチオピア」、二種類の出身地(他にも「インドから来た」というのはありますが)は意味がきちんと通り、弥助の出自が「インドから来た東アフリカ(モザンビーク)はエチオピアの黒人」と定義付ければ、全体がすっきりと訳せるようになります。

また、この「エチオピア人」というのが更に弥助の正体を見つけるのに繋がります。

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「カフラリア」とは
これは「cafraria」と書きます。
たまに、「弥助は『cafre』と書かれている。『cafre』は黒人の差別用語だ。だから弥助は奴隷だ」というのを聞いた事はないでしょうか?
ですが、私は17世紀に編纂された二次史料の中ではその原文で「cafre」を見掛けた事があるのですが、16世紀の原本である書簡では見掛けた事がありません。史料を比較していくと、「negro」という文字が「cafre」と書き換えられたり、「モザンビーク(Moçambique)」が「cafraria」に書き換えられているのが分かりました。
調べていくと、1626年ぐらいから弥助奴隷説が出てきており、1670年ぐらいからそれが主流となって広められていたのが分かります。

宣教師ヴァリニャーノが1585年の書簡に「cafraria」というのが記載のが日本からの書簡の初めだと思いますが、これは、当時の単語の利用に関係しており、モザンビークとエチオピアの文化的や歴史的な違いがヨーロッパでも認知されるようになってきており、『モザンビーク(Moçambique)』が「東アフリカ」という広い地域を指す意味の単語として使われなくなってきた、という時代背景があります。
この「cafraria」ですが、これもイエズス会で使い始められた頃の単語の意味を調べますと、「南東部アフリカ」地域を指す言葉としても使われている単語です。

ヴァリニャーノは、「モザンビーク(Moçambique)」が「東アフリカを指す言葉」として使われなくなってきた時代背景(ヨーロッパで「エチオピア」という国と「モザンビーク」いう国の歴史的哉文化的な違いがはっきりと認識されるようになってきた)もあり、それに代わって当時の流行りとして出てきている書き方を1585年にしただけで、別に侮蔑的意味はなかったようですね。

ただ、『南東部アフリカ』は地理的に「モザンビーク」はともかく「エチオピア」は入るのか?と疑問になり、17世紀前半のヨーロッパの資料で『cafraria』に含まれるアフリカ地域を調査したところ――半々です。エチオピアはちょうど南と北の境界にあり、『南東部アフリカ』に入れる人もいれば、入れない人もいる、というものでした。人によってはエチオピアは『北アフリカ』に入れていた人もいます。
どうも、当時のヨーロッパではアフリカ大陸をきちんと分かっていない人が多かったようですね。

また、「cafre」という単語自体が、16世紀末から17世紀にかけて使われるようになり一般化した単語ですので、1581〜1582年のイエズス会の書簡で書かれている事はありえません(最初の記載が1585年のヴァリニャーノの書簡で、そこは「cafre」ではなく「cafraria(南東部アフリカ)」が使われています)。ですので、時々『弥助はフロイス書簡で「cafre」と書かれている』という事で奴隷身分だった証拠だと出す人がいますが、それは間違いです。宣教師が日本から出した書簡にはないですが、イエズス会の他の書物だと「cafre」も16世紀末から使われ始めています。ただし、初期は侮蔑的な意味はないようです。侮蔑的な意味で使われ始めたのは17世紀中頃以降になりますね。

ここら辺は、「当時の単語の意味」を調べると同時に、「その単語が何時から使われ出しているか」なども調べる必要があります。

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その他の出自
『日本教会史』(初版は1649年)なんかだと、「ギニアエチオピア人のように黒いムーア人モザンビーク出身黒人で、カフリと呼ばれる喜望峰周辺の住民」と何か情報過多に足された説が載っています。
つっこみ処が多すぎるぐらいですが、
▶ ギニアは西アフリカ
▶ エチオピアは東アフリカ
▶ ムーア人は主に北アフリカで、黒人でも薄めの色が多いです
▶ モザンビークは南東部アフリカ
▶ 喜望峰は南アフリカ
▶ カフリ(cafre)も元は南東部アフリカ人を指す言葉で、喜望峰周辺の住人を指す言葉ではありません
と、アフリカ大陸を詰め込んでいます。

ちなみにムーア人は、中世のマグレブ・イベリア半島・シチリア・マルタに住んでいたイスラム教徒のことですね。
ヨーロッパでは、スペインや北アフリカに住むイスラム教徒全般、特にアラブ系やベルベル系の人々を指す、より広範でやや侮蔑的な意味でも使われてきました。植民地時代にはポルトガル人が南アジアやスリランカに「セイロン・ムーア人」「インド・ムーア人」という呼称を伝え、ベンガル人のムスリムもムーア人と呼ばれています。
フィリピンでは16世紀にスペイン人入植者が現地のイスラム教徒を指して導入したこの言葉が、「モロ」として一部ムスリム住民の自称にも用いられています。『ムーア人』は明確な民族でもなければ自らを定義する民族でもなく、1911年『ブリタニカ百科事典』では、この言葉は「民族学的な価値はない」と述べています。
それにモザンビークは、16世紀の当時はポルトガル植民地であり、キリスト教が布教されている場所です。イスラム教ではないですね。

この本は、フロイスなどの書簡を基にして書いてはいますが、編纂したのはまったく別の複数のイエズス会士です。何か、編纂者なのか翻訳者なのか分かりませんが、その人物が知っているアフリカ知識を全て盛り込んだ、という感じですね(初版からそうなのか、途中の版からこうなのかまでは確認していません)。

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弥助の洗礼記録

フロイスが弥助の事を「敬虔な黒人キリスト教徒」と書いていますので、洗礼をどこかで受けていないかと調査しました。

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エチオピア正教会
エチオピア人ですと、当時のエチオピアは国教がエチオピア正教会ですので、エチオピア正教会の教徒であった可能性が高いです。

エチオピアは4世紀頃からエチオピア正教を国教としており、長い歴史を持つ独自のキリスト教文化を築いてきました。ただし、当時の宗教情勢を確認すると、16世紀の当時ではエチオピア正教会はカトリックと対立しており、カトリックはエチオピア正教会を認めていません。

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改宗の洗礼
16世紀だと、カトリックはエチオピア正教会を認めていなかった為、イエズス会の会士に「敬虔なキリスト教徒」と言われるような立場なっているのであれば、カトリックへの改宗の洗礼を受ける必要があります(カトリック同士では会派を変えるのに再洗礼は不要です)。洗礼名が聖書に載っている名前であれば、再洗礼でも洗礼名まで変える必要はありません。

ただし、エチオピア正教会の信者がカトリックに改宗するのは大変な事態を生み出しかねません
例えば、1596年にエチオピア皇帝サスニヤス2世の使節団がゴアを訪れ、カトリック洗礼を受けたことはエチオピア国内で様々な議論を巻き起こしました。宗教的対立・政治的影響が大きく、これらの問題を受けエチオピア国内では激しい議論が繰り広げられました。皇帝サスニヤス2世は、使節団の改宗を擁護し、カトリックとエチオピア正教は共存可能であると主張しました。しかし、多くの国民は使節団の改宗を批判し、エチオピア正教の伝統を守るべきだと主張しました。

結局、皇帝サスニヤス2世は国民の反発に屈し、使節団の改宗を無効とする勅令を発布しました。
しかし、この事件はエチオピア国内における宗教対立を深め、その後の政治情勢にも影響を与えています。

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洗礼記録の調査
カトリック(イエズス会)の洗礼記録がないかと調べていたところ、「イエズス会本部とインドのゴアに記録がある」と書いてある海外の弥助についての研究に書いてありました。これは「インドから来た」にも当てはまりますね。調べていくと、確かにゴアに記録が残っていました。
1582年1月25日付書簡でも
"Alguns dizem que foi baptisado em Goa, mas eu não tenho nisso certeza."
"ゴアで洗礼を受けたという話もあります。しかし、私はそのことについて確信を持っていません。"
という記載があるのです。ただ、これは古い『日本通信』には掲載されておらず、フロイスの書簡集である「Documentação para a História das Missões do Padroado Português no Oriente. I. Japão (1549-1585)」に収録されているものです。この書簡集は、1981年にポルトガルで刊行された書籍ですね(ですので、新たに書簡が見つかり入れられたものなか、そうではないのか。真偽はまだつきません)。

もう1つ、同じ書籍に「デカン地方で洗礼を受け、キリスト教徒になった」という記載もあったのですが、こちらの洗礼記録もまだ見つけていません。洗礼記録についてフロイス書簡の文章は、海外でもかなり偽文が出回っているようなので気を付ける必要があるようです。

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ゴアの洗礼記録
ゴア大司教区公文書館のオンラインデータベースに、年齢や出身が当てはまり名前に類似性がある人物が見つかります(これはインターネットで調査が可能です)。
"Dia 21 de Dezembro de 1577, baptisou-se Lacùs, negro de Ethiopia, de 25 anos."
という記載があります。これは
"1577年12月21日、エチオピア出身の黒人、ラクスが洗礼を受けた、25歳"
という内容です。洗礼名、年齢、出身が全て分かりますね。

1577年12月21日に25歳ですので、信長に紹介されるのが1581年3月27日ですから、その時点での弥助の年齢は28〜29歳という事ですね。『信長公記』の記載では、「弥助の年齢は26〜27歳ほど」とありますから、大体あっているとは思います。

「Lacùs」はどうも洗礼名ですね。
フロイスがよく記載している「Lasù」「Lazù」「Lacù」という名前は、モザンビーク(国)でもエチオピア寄りの地域だとありえる名前なのですが、エチオピアの方が一般的い使われる名前です。

ちなみに、なぜ見つけられたかと言うと、16世紀のポルトガル領ゴアにおけるエチオピア人のカトリック改宗に関する記録は大変に少ないからです。対立していたカトリックへの改宗はエチオピアでは問題になるというのも関係していると思います。

弥助がゴアで洗礼を受けたのは、もうエチオピアに帰る気は無かったのでしょうね。

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洗礼記録の問題
ただし、調査したデータに問題がありました。
実は、同じページのマイクロフィルムのコピーなのですが、2つあり、1単語だけ片方は追加があります。
"Dia 21 de Dezembro de 1577, baptisou-se Lacùs, negro de Ethiopia, de 25 anos."
"1577年12月21日、エチオピア出身の黒人、ラクスが洗礼を受けた、25歳"
これ、もう1枚、記録が見れます。
"Dia 21 de Dezembro de 1577, baptisou-se Lacùs, negro de Ethiopia, de 25 anos, cativo."
"1577年12月21日、エチオピア出身の黒人、ラクスが洗礼を受けた、25歳、奴隷"
同じ記載内容のページなのですが、片方には「奴隷」と最後に記載があります。このデータはどちらが正しいのかは、ゴアまで行き原本を確認する必要があります。

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他の洗礼記録の確認
ただ、どちらの方が正しい可能性が高いかはだいたい分かります。
この表記は不自然で、他の奴隷身分であった人の洗礼記録を見るとこうあります。
"baptisou-se Maria, cativa de um Portugues, de 20 anos."
"ポルトガル人の奴隷であるマリアが洗礼を受けました。20歳。"
"baptisou-se João, cativo da terra, de 35 anos."
"この地の奴隷であるジョアンが洗礼を受けました。35歳。"
"baptisou-se Francisco, negro cativo de Benapole, de 22 anos."
"ベナポール出身の黒人奴隷であるフランシスコが洗礼を受けました。22歳。"
"baptisou-se Inês, cativa moura, de 18 anos."
"ムーア人の女奴であるイネスが洗礼を受けました。18歳。"
といった記載があります。

弥助の洗礼記録も、最初から記載されたものであれば、
"Dia 21 de Dezembro de 1577, baptisou-se Lacus, negro de Ethiopia, de 25 anos, cativo."
と記載するのではなく。
"Dia 21 de Dezembro de 1577, baptisou-se Lacus, negro cativo de Ethiopia, de 25 anos."
という記載が普通になりますので、最後の「, cativo」という記載は後世に追記(捏造)された可能性が高いと考えられています(ただし、確証にはなりません。ごくたまに、文の中ではなく最後に付いている記録もやはりあるからです)。

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弥助は奴隷か?
インドのゴアに来るまではどうかは分かりません。
より古い記録はないかと調査はしているのですが。

ですが、当時のゴアはポルトガル法がありますので、ゴアでカトリック教徒になっている弥助は日本に来た時点では奴隷身分はありえません
1510年にポルトガルがゴアを占領した後、現地のヒンドゥー法やイスラム法に加え、ポルトガル法が導入されました。ポルトガル法は、奴隷制を含む様々な社会問題を規制していました。ポルトガル法では、奴隷は財産として扱われ、様々な権利を制限されていましたが、一方で、キリスト教徒は奴隷身分から解放されるという規定もありました。

例え弥助がゴアに来た際には奴隷になっていたと仮定した場合でも、ゴアで洗礼を受けていれば奴隷身分から解放されていますので、奴隷身分はありえないのです。フロイスも書簡の中で「敬虔な黒人キリスト教徒」と記載していますし。
ですので、「弥助は奴隷か?」は「弥助は奴隷ではありません」という回答になります。

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来日についての誤解

この洗礼の記録により、一般に知られている説の1つが違う事が分かります。

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宣教師ヴァリニャーノ
「弥助」について「宣教師ヴァリニャーノが日本に連れてきた」とよく聞きますが、これが合いません。
なぜなら、ヴァリニャーノがゴアを出たのが1577年9月だからです(ヴァリニャーノが日本に来たのは1579年7月ですが、ゴアを出発したのは1577年9月です。同年10月にマラッカ、1578年9月にマカオに到着しています。1579年7月にマカオを出発して日本に向かいます)。
1577年12月21日に洗礼を受けている弥助は合わないのですね。

また、ヴァリニャーノは日本に来た際のお供も書簡で残っていますが、それには護衛と、インド人奴隷2名(他の宣教師の書簡だと5人とも書いてある)ですね。このヴァリニャーノがお供としてインド人奴隷を連れていた事が、後世の研究でも「弥助インド人説」を生み出しており、誤解も生んでいます。
司馬遼太郎が出している『信長公記』研究本では、弥助がインドの僧の息子となっています。

この誤解は、『日本通信』の1581年10月15日に書かれた書簡で、原文はポルトガル語で書かれている文章の外国語訳によることも大きいでしょう。原文では別に「奴隷」と書かれていないのですが、ラテン語翻訳本からの翻訳本(この翻訳本が世界に広まっている)では「奴隷」と書かれています。
これは「インドから来た』で説明していますが、原文まで確認する事が大事です。

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宣教師オルガンティーノ
フロイスの書簡から「宣教師がインドから護衛として連れてきた3人の黒人キリスト教徒のうちの1人」とは分かっていますので、ゴアからの出発で合う宣教師を探すと『オルガンティーノ』という人物ですね。ただ、この人物のお供は書簡でまだ見つかっていません。

フロイスの書簡の記録には、オルガンティーノが「インドから連れてきた従者たちと一緒にいた」と記しています。しかし、従者の肌の色や人数については言及されている書簡は、まだ見つけていません。
オルガンティーノが滞在していたという京都の寺院にはポルトガルと所縁がありその文化財も残っており、その中にオルガンティーノと一緒にいた人物の肖像画が残されているそうです。この肖像画には、オルガンティーノの他に、3人の男性が描かれており、3人の男性は黒い肌をしているそうです。
ただし、これは実際の絵画をまだ見ていないので確認中です。

「インドから(オルガンティーノ?が)連れてきた黒人が、ヴァリニャーノが信長に拝謁する際に同行した」というのが本当のようですね。

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弥助の身長
『日本通信』1581年10月15日付書簡に
"Un Negro de Etiopia, que tenia el Señor de Meaco, era de estatura de seis pies y dos pulgadas, y muy bien hecho, y de buena condicion."
"京(みやこ)の殿さまが召し抱えていたエチオピアの黒人は、身長6フィート2インチ(約188cm)で、体格がとてもよく、性格もいい。"
とスペイン語であります(ポルトガルが主ですが、送る先によってスペイン語の書簡もあります)。
「seis pies y dos pulgadas」と記述されていまが、これはスペイン語で「6フィート2インチ」という意味です。つまり、弥助の身長は188cmだったとフロイスは記載しています。

「フロイスの書簡だとポルトガル語では?」と思うかもしれませんが、これは宛先で変わるようです。
イエズス会本部やポルトガル王への書簡が多いのでポルトガル語の書簡が多いのですが、スペイン王やインド教区長に送った書簡はスペイン語で書かれているようです(この書簡はインド教区長宛てのものですね)。当時のイエズス会は、ポルトガル王とスペイン王の支援を受けていたので、ラテン語ではなくポルトガル語とスペイン語が主な言語です。

『家忠日記』には、
"天正八年六月十五日、切支丹国より黒坊主参上。名は弥助、身の丈六尺二分、黒きこと牛のごとく、壮健な体にて剛力は十人に優れ、ことに眼力は人に物をきらめかすべく強きことあり。言語はポルトガル語にて、唐土語も少し解すよし。是は織田殿へ参上せし黒坊主とは別人なり。"
"天正8年6月15日、切支丹国から黒坊主が参上した。名は弥助、身の丈六尺二分、黒々として牛のようであり、壮健な体で剛力は十人に優れている。特に眼力は人を威圧するほど強く、言語はポルトガル語で、中国語も少し解せるという。これは織田殿へ参上した黒坊主とは別人である。"
今の「六尺二分」は「約182cm」ですね、
わざわざ「別人」と書いてますが、共通点が多く、同一人物と考えられている説もあります(政治的理由で「別人」とわざわざ記載したのだろうと)が、別人と言う説もあります。
ただ、これに書かれているのは『天正8年6月15日』という日付ですあり、これは1580年の日記となります。この時期はまだ弥助は信長に仕えていませんので、1580年の部分の日記に「これは織田殿へ参上した黒坊主とは別人である」という記載がある事が少しおかしいというのもあります。

よく言われる『家忠日記』は原本ではなく、一般的に知る一番古いものも1663年『家忠日記 増補追加』という改訂版の版を重ねたものから来ています。この『家忠日記 増補追加』は江戸時代前期の幕臣である松平忠冬1624年〜1702年)が編纂したもので、『家忠日記』を根本として、文禄3年以前を増補し、慶長1年(1596年)以降を追加して家康の死んだ元和2年(1616年)までを記載したものとされています。
原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主・松平忠房が修補したものが保管され現存するそうですが、原本の内容と1897年に出た史誌業書本及びそれをもとにした本の内容(一般的に知られている『家忠日記』の内容)は相違があると指摘されています。ですので、原本を確認しないと実際は分かりません。

この疑問から、複数の『家忠日記』を確認しました。
それぞれが、
・東京大学史料
・国文学研究資料館
・早稲田大学図書館デジタルアーカイブ
他、3編ほどを確認しました(これらの版は、現在、研究されていますが国会図書館版よりも古い可能性が高いです。それぞれで作られた時期が少しずつ違います)。
結果ですが、

・天正5年元旦の議
ここに「上様御ふち候、大うす進上申候、くろ男御連れ候、御書院へ御成りなり」という記載があります。
この『くろ男』ですが、当時の使われ方を見ると「弓の名人」という意味のようですね。また「大うす」を「デウス」とこじつけているのを見掛けますが、これは本当に「大臼」です(当時の風習です)。

・天正10年12月25日
ここに「弥助、身長六尺二分と成長著しく、家康公より褒められる」とあります。
この『弥助』は、時期からも見て「黒人の弥助」とは別人の弥助です。

"天正8年6月15日"という記載自体が後世の創作である可能性が高く、この文章は、別の日付の記載内容が複合されて創作されたものである可能性が高いです。

それに対して1615年『信長公記活字本』には「六尺二寸」すなわち「約188cm」と書かれています。この身長は、フロイスの書簡と同じですから、可能性が高いかと思います。

その他の記録では、日本の記録でもイエズス会の記録でも「牛の様に大きかった」「頭一つ分大きかった」と、背が高いのは分かりますが、具体的な数値が見当たりません(どこかで6フィートという記載は見た覚えはありますが、それが原文かは分かりません)。そのため「体が大きかった」ことから日本では「6尺(約180cm)あったのでは?」、海外では「6フィート(約182cm)あったのでは?」という研究本が出ています。また日本の本が訳された書籍かららしく、海外だと5フォート11インチ(約180cm)説も流れているようです(そう主張してきた外国人と会いましたので)。
どちらにしろ、約182〜188cmの間であるのは確かでしょうね。188cm説の方が可能性が高いとは思います。

ちなみにですが、当時の日本人男性の身長は155cmぐらいと言われますが、背が高い人物も結構います。
明確な記録がある人は少ないのですが、甲冑のサイズから身長は推定されています。
・上杉謙信:推定180cm
・真田幸村:推定178cm
・長宗我部盛親:推定175cm
・本多忠勝:推定172cm
・浅野長勝:推定175cm
・藤堂高虎:推定190cm
・前田利長:推定178xm
・六角義賢:推定180cm
・島津義弘:推定175cm
・三浦義意:推定230cm
他にも、170cm台の武将は大勢いますね。
当時のポルトガル人は平均身長は160cmほどですね。

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その他外観
「体格がよく、腕力が強い」という記述はありますね。
強力だったのは、日本の史料でもイエズス会の書簡史料でも確認できます。
顏については何も書かれていません。
日本では「牛のように大きい」「牛のように黒い」とあります。
そしてイエズス会の記録でも「牛のように大きい」とあります。
何故か皆に牛推しされている弥助です。

また、『日本通信』1581年10月15日付書簡に
"Un Negro de Etiopia, que tenia el Señor de Meaco, era de estatura de seis pies y dos pulgadas, y muy bien hecho, y de buena condicion."
"京(みやこ)の殿さまが召し抱えていたエチオピアの黒人は、身長6フィート2インチ(約188cm)で、体格がとてもよく、性格もいい。"
この文章では、エチオピア人の外見(「muy bien hecho」)と性格(「y de buena condición」)が対比されています。ここで「hecho」は「体格が良い: 物理的な造りが良く、健康でたくましい」という意味で使われています。当時の価値観として16世紀のヨーロッパ社会では、健康でたくましい体格が美と力の象徴とされていたのもありますし、 もし「容姿が整っている」という意味で使うのであれば別の表現が使われていたでしょう。

弥助がモザンビーク人だという説の証拠と上げられる1つに「エチオピア人よりモザンビーク人の方が肌が黒い」というのがあるのですが……黒人を知らない日本人から見れば、「日本人の肌より黒い」のだから、そんなのは分かりませんよね(モザンビーク人の方が肌が黒いって知ってました?)。

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弥助の性格
書簡には「愛想が良く、道化ができた」とあるので、所謂『陽キャ』なキャラクターだったようです。
『すごいフレンドリーで笑顔で寄ってくる好奇心旺盛な大きな黒人』像が私は浮かびました。

また、『日本通信』1581年10月15日付書簡に
"Un Negro de Etiopia, que tenia el Señor de Meaco, era de estatura de seis pies y dos pulgadas, y muy bien hecho, y de buena condicion."
"京(みやこ)の殿さまが召し抱えていたエチオピアの黒人は、身長6フィート2インチ(約188cm)で、体格がとてもよく、性格もいい。"
「buena」は「良い」という意味の形容詞で、人物の性格に関して用いられる場合、一般的に「善良な」「温和な」といったポジティブな意味合いを伴います。「y de buena condicion」は、健康状態で言えば物理的な「健康状態が良い」という意味になりますし、社会的な地位や身分を表す場合、「身分が高い」「地位が高い」という意味になります。ですが、その前に「y muy bien hecho」と物理的な意味が付いていますので、ここでは精神的な内容「(善良で温和で)性格がいい」となります。

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日本語は話せたか?
頭はそれなりによかったようです。
コンカニー語か、何か南アジアの言葉も話せた(調べていた時に出てきたのですが、どこにあった記載かは再調査中)ようなのですので、エチオピアのアムハラ語・ゲェズ語に南アジア語、それにポルトガル語。ゴアのイエズス会に出入りしていたらスペイン語もある程度話せていたかもしれませんね。中国語も少し話せた事は日本の史料に書かれています。複数の言語を使えたそうですが、それは海外では珍しい話ではありません(日本人では分かりにくい感覚かもしれませんが)。
1580年にオルガンティーノの護衛として来た可能性が高く、そこから信長に会う1年間。書簡の記録を見ると、信長と会った時点で片言でしょうが多少の日本語が既に話せたみたいですね。

そして、1581年3月からは周囲は日本語しか分からない日本人ばかり、という日本人に囲まれての8か月の生活の後の記録があります。
1581年11月のフロイス書簡ですが「(たぶんポルトガル商人や宣教師を相手に)通訳もして、茶道も教えていた」という記載があります。また茶会への出席も何度かしているのが記録から分かります。
カタコトだったのか、ペラペラだったのかまでは分かりませんが、ある程度は日本語を話せても私は別におかしくないと思います。日本語しか分からない人が殆どの国に来て、そこで生活したり布教を手伝ったりすれば、自然、幾らかは話せるようになるでしょう。ましてや、集団ではなく1人で日本人の集団の中で暮らす様になれば、数か月もすればある程度は話せる事になってもおかしくありません。
濃の方の付き人もしていましたから、信長と共にイベントごとには連れ回したのかもしれませんね。

信長の部屋付きになり、信長の余裕がある時はイエズス会が献上してきた書籍を読ませ説明させる。「弥助、ここにはなんて書いておる?」「コレハ〜〜」と身振り手振り大きく説明する弥助、というのを私は想像しましたが。本当にこんな風だったかは分かりませんが、信長の海外情報にも好奇心旺盛な性格と、弥助の愛想が良く道化が出来る性格だと、このようなやり取りが当てはまりそうな気がします。
所感ですが、記録は限られてますが、弥助も好奇心が旺盛な性格を伺えますので。

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戦に連れて行ったか?
分かりません。
堺辺りには出したらしいであろう記録はあるのですが、主に京都での記録しかないからですね。
イエズス会の記録を見ると「使用人」という立場で、仕事は「濃の方の付き人」と「信長の部屋付き」です。
本能寺の変の時も記録では本能寺ではなく、「御所(たぶん二条新御所だと思われる)」に居ましたし。

「甲州に信長の指示で視察に行った」という説もあるのですが、この説の正体は『家忠日記』や『甲陽軍鑑』も確認して貰う事になりますが『黒人の弥助』の事ではありません。ここに出てくるのは『黒坊』と呼ばれた人物です。この「黒坊」は1553年に記録に出てきており、1560〜1562年で信玄に参上し仕え、1568年9月29日には信玄を裏切り信長に付いた『黒坊』こと「甘楽忠貞」の事です。

まぁ、これは確証はなく私が思うだけですが。
信長が居ない平時は、濃の方の付き人をして茶堂など日本文化を楽しみながらお手伝い。信長が居て時間がある時は、イエズス会の宣教師が献上してきた書物の中身や物品の説明をさせたり、海外の話をさせていた。
そんな感じではないでしょうかね。
なんというか、現代でも日本に来て仕事をしながら日本文化を楽しむ外国人みたいな感じが想像されます。
まぁ、戦国時代なので殺伐とした部分はあるでしょうが。
私の考えでは茶人や芸能者と同じような扱いで、戦の場に連れて行く事はほぼなかったのではないでしょうかね?

銃とかそういう技術がある人物ならともかく。
剣術など物樹は日本は古くからあり、それに適した道具になってますし。

話しは少しそれますが、日本の剣術などですが。
日本の剣術は、古くから存在し、長い歴史の中で様々な変遷を遂げてきています。その起源を明確に示すことは難しいですが、古墳時代後期(4世紀後半〜6世紀後半)には既に騎馬戦に特化した剣術が存在していたと考えられています。
神宮や寺院などでは、神事や武術の鍛錬として剣技が伝承されていおり、10代天皇が神社に剣を奉納したなども書かれています。代表的な例として、鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)があります。これらの神社では、剣術だけでなく、相撲や馬術などの武技も伝授されていました(忍術や築城術なんかもあります。当時だと、神宮って技術の伝承場所でもあったのです)。
平安時代中期(10世紀頃)になると、武家が台頭し、剣術は戦闘技術として重要性を増していきます。太刀を用いた「太刀術」が主流となり、多くの流派が生まれました。代表的な流派としては、天流、新陰流、陰流などがあります。
室町時代(14世紀〜16世紀)から江戸時代(17世紀〜19世紀)にかけては、剣術はさらに発展しています。多くの流派が生まれ、剣術は武士の必須科目となりました。

日本とはこういう国ですから、中には「弥助は武術を教えた」なんてトンデモ説なんかもありますが、そこは求められない部分なんですよね。

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信長の南蛮鎧
弥助に直接は関係ないのですが、面白い研究もあります。

信長が南蛮鎧を着た逸話は有名ですが、信長の書状で、信長は南蛮鎧を南蛮人から贈られたことを示す書状を残しています。
この書状の日付は1577年(天正5年)11月14日であり、信長が南蛮鎧を着用していたことを示す最古の史料となります。
また、信長は茶会で南蛮鎧を披露することがあったとされています。例えば、1576年(天正4年)に開催された茶会では、信長が南蛮鎧を着用して客をもてなしたと記録されています。

この『信長の南蛮鎧』ですが現在も研究されており、面白い論文が出ています。
『信長の南蛮鎧とエチオピア様式』(山田雄司著, 『歴史学研究』第86巻第1号, 2017年)
この論文では、信長の南蛮鎧とエチオピアの戦士が着用していた鎧を比較分析し、両者の間に共通点が多いことを指摘しています。
弥助はエチオピア人ですから、こういう話でも信長と盛り上がったのではないでしょうかね。

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