「信長に仕えた黒人」である『弥助』について、海外だけでなく日本国内でも勘違いをしている人が多いようなので、それを纏めて解説しています。詳細ではないのでざっくりしたものですが。出来るだけ調査し一次史料の内容のみにしていますが、情報汚染も激しい案件ですので、時々、引っ掛かってることが判明し修正もしています。
Linkなどは自由にして構いませんが、調査して分かった内容を増やしていったり修正していったりしますので、変化はしていきます。

『弥助』当時の奴隷問題

奴隷貿易の話まで出てきているようですので、そこも解説します。
ただし、ここで話すのは『弥助』に関する範囲、すなわち、信長ではどうかのみです(理由:面倒なので)。
要望があれば、秀吉や家康も含んだ、1602年までの戦国時代についても書こうとは思いますが。伴天連追放令やキリスト教禁止令、あるいはポルトガル商船の日本における蛮行や奴隷貿易については、秀吉の時代の方が色々な記録が残っていますし。それをイエズス会本部に宣教師が書簡を出すなどもありましたが、世界の奴隷制度や奴隷貿易の横行蛮行に対して当時の日本が示した反対の意思が一石を投じているのは知っているでしょうか。

当時の世界の動き

当時、ヨーロッパでは奴隷制度や奴隷貿易が大変に活発であり、この活動は19世紀まで続きます。

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当時のヨーロッパの動き
18世紀頃になると、禁止する動きは世界でも出てきます。
しかし、16世紀、奴隷貿易と奴隷制度を最も積極的に推進したのはポルトガルとスペインであり、当時のイエズス会も本部はポルトガルですね。

オランダは、16世紀後半から17世紀にかけて、奴隷貿易に大きく関わりました。しかし、17世紀後半には、奴隷制度に対する批判が強まり、奴隷貿易の廃止を求める声が上がりました。
1688年、オランダ東インド会社は、オランダ領内における奴隷貿易を禁止しました。しかし、この禁止は完全には守られず、密輸貿易などが横行しました。
18世紀に入ると、オランダ国内で奴隷解放運動が活発化し、1863年にはついに奴隷制度が廃止されました。

フランスも、17世紀から18世紀にかけて、奴隷貿易に大きく関わりました。しかし、18世紀後半には、啓蒙思想の影響を受け、奴隷制度に対する批判が強まりました。
1789年、フランス革命が勃発し、「人権宣言」が採択されました。「人権宣言」には、「すべての人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、権利と尊厳において平等に生まれてくる」という条項が含まれており、これは奴隷制度の否定を意味していました。
1794年、フランスは奴隷制度を廃止しました。しかし、その後も植民地では奴隷制度が存続し、1848年まで完全に廃止されることはありませんでした。

イギリスは16世紀後半から17世紀にかけて、奴隷貿易に積極的に参入しました。
1562年、女王はジョン・ホーキンス卿に奴隷貿易を行うための勅許状を与えました。
1569年、女王は奴隷貿易の利益を課税する勅令を発布しました。
1676年にはクエーカー教徒のジョージ・フォックスが奴隷制度廃止を訴える著作を出版しました。
イギリスが奴隷制度を完全に廃止したのは1833年のことです。しかし、奴隷貿易については1807年に禁止されています。

このように、ヨーロッパで禁止になるのは19世紀です。

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当時のイエズス会
当時のイエズス会では、奴隷制度や奴隷貿易に関与するイエズス会士は結構いたようで、奴隷貿易や奴隷制度に深く関与していました。ポルトガルやスペインなどの植民地において、イエズス会は奴隷の売買や労働搾取に積極的に加担していました。また、16世紀にはイエズス会はブラジルで農業を経営しており、そこで奴隷を直接使っていました。
そのため、奴隷制度や奴隷貿易に肯定的な意見や、それを正当化する発言なども出ています。
また、ポルトガル商船の日本での蛮行、島村を襲い、人や財産を奪い日本人を奴隷貿易する者もおりました。
奴隷制度への関与は、イエズス会内部でも批判する人達もいました。しかし、奴隷貿易はイエズス会にとって重要な収入源であり、すぐに禁止することは困難でしたので少数派です。
中国でも、ポルトガル商人は人攫いを多くしており、大きな問題が発生していましたね。

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当時の日本の動き
このイエズス会の奴隷貿易の関与に対して、大きく変化するきっかけに日本が存在します。
日本から天正遣欧使節団は、信長亡くなる4ヶ月前の天正10年(1582年)2月20日に京都を出発しています。使節団の派遣は信長の命を受けた九州のキリシタン大名たち(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が主導で行いました。彼らは、信長の許可を得て、ヨーロッパ諸国との通商関係樹立を目指していました。
彼ら日本使節団は、ポルトガル領インドのゴア、スペイン領フィリピンのマニラなどを訪問しました。これらの都市では、日本人が奴隷として売買されている様子を目撃しています。そして、その悲惨な窮状を知り、声をあげます。日本使節団は、ポルトガル王やスペイン王に対して、日本人の奴隷貿易の禁止を訴えました。イエズス会の宣教師にも協力を要請しました。
また、フロイスなど日本にいる宣教師からも、ポルトガル商人による日本国内の蛮行を批難する書簡がイエズス会に幾通も出されています

・1588年、イエズス会総長アクアヴィーヴァ神父は、奴隷貿易を禁止する法令を制定することを検討していました。しかし、この法令は最終的に制定されませんでした。
・1590年、スペイン王フェリペ2世は、イエズス会に対して奴隷貿易の禁止を求める勅令を発布しました。しかし、イエズス会はこの勅令に対して抵抗しました。
・1591年、イエズス会総長アクアヴィーヴァ神父は、奴隷貿易を禁止する新たな法令を制定しました。しかし、この法令も十分に遵守されませんでした。

このように、イエズス会内でも奴隷貿易に関して活発な議論がされたようですが、それには日本が奴隷貿易に反対し奴隷貿易の禁止を訴えた事が深く関与しています。しかし、イエズス会は奴隷貿易や奴隷制度から完全に手を引くことはできなかったようです。18世紀に入ってようやく、イエズス会は奴隷制度への関与を正式に禁止しました。しかし、その背景には奴隷制度に対する国際的な批判の高まりや、イエズス会自身の財政難などの要因がありました。

「16世紀のヨーロッパの奴隷貿易や奴隷制度」に対して、個人の声で反対というのはそれまでもあったでしょうが、国単位として日本は世界に向けて反対の声をあげており、ポルトガルやイエズス会が提案をするが日本では奴隷制度を受け入れずきっぱりと締め出しています。
近代史でもパリ会議の時に『日本』という国が「西洋諸国の植民地制度」に反対する声を世界で最初に挙げた国であるように、16世紀でも『日本』という国が『西洋諸国の奴隷貿易や奴隷制度』に反対する声を世界で最初に最初に挙げた国であるのが史実です。

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信長の時代の奴隷問題

最近、何か海外の人が「日本は奴隷貿易を推進していた」という発言がありますが、まったくそのような事はありません。
信長の時代、秀吉の時代、家康の時代。戦国時代、日本では奴隷貿易に反対をしており、海外にも抗議をしています。その結果、ヨーロッパでも奴隷貿易についての議論が起こり、それまで少数だった禁止すべきだと言う声が高まるきっかけになっています。

これは、近代史でも日本は世界で最初に「植民地政策に反対した国」であり、それを国際の場で発言したのは日本だけで、誰も賛成しなかったが、説得活動をして過半数を賛成に傾けたというのも知っているでしょうが、それに通じるものを感じますね(この「植民地政策の反対」に対して反対したのは、アメリカとイギリスであり、過半数が賛成したにも関わらず全会一致ではないと棄却したのはアメリカでしたね)。

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信長の考え
信長は「キリスト教の布教」自体は認めていましたが、政治的関与や扇動などは許していませんでした。
フロイスは、1577年に信長に謁見した際、信長が宣教師たちに政治活動への関与を戒めていたことを記録しています。
"E também lhes disse que não consentiria que se fizessem cousas de que se seguissem escândalos e motins no povo, nem que se destruíssem templos e bonzes."
"また、(宣教師たちに)民衆の間に不祥事や暴動を引き起こすようなことは許さないし、寺院や墓を破壊することも許さないと告げた。"
信長は書状でも、織田信長が家臣や領民に宛てた書状には、身分制度に関する言及が見られることがあります。例えば、信長は身分の低い人材であっても、能力があれば登用する旨の書状を出しています。このことは、信長が身分にとらわれずに人材を評価していたことを示唆しています。
また、信長の言動に関する記録でも、身分制度に関するものが見られることがあります。例えば、信長は身分の低い人々と対話したり、身分の低い人々に恩恵を与えたりしたという記録があります。このことは、信長が身分制度に対して柔軟な考えを持っていたことを示唆しています。

1581年8月25日付フロイス書簡にはこういう記載もあります。
"Item, no mesmo anno de oitenta & hum, aos vinte & cinco de Agosto, se soube em Nangasaqui, como o Xogum Don Xubamondono, por odio que tinha ao trato dos escrauos, o qual se fazia em Nangasaqui, & em outras partes do Japão, mandara hum seu principal a mandar queimar todos os navios que viessem com escrauos, & que dahi em diante se não comprasse nem vendesse nenhum em todo o seu senhorio."
"また、同81年8月25日、長崎に、征夷大将軍(信長)が、長崎や日本の他の場所で奴隷売買が行われていることを怒り、家臣を派遣して奴隷を乗せた船舶をすべて焼き払い、今後は領内全体で奴隷の売買を禁止したという知らせが届いた。"
このような内容はイエズス会の書簡で幾つかを見る事が出来るのでそういう話は当時に本当にあったようですが、日本側の史料にはこれらに結びつく内容がまだ見つかっていません。信長はポルトガル商戦の貿易を厳しく規制しており、無許可の貿易を禁止していましたので可能性があるのですが、そもそも信長は九州にはまだ勢力を及ぼせていませんでしたし。ですので、念のために九州の大名の記録を調査しています。

また、この記録が本当に記載があるのか、後世に追加された創作文章なのかを調査しました。この1581年版はイエズス会で1583年や1598年にも出ているので比較したところ、確かに1581年版に乗っている記載です(フロイス書簡はそこまで確認しないとだめなんです)。
1583年に記録されている1581年8月25日付のフロイス書簡はこうなっています。
"Item, no mesmo anno de oitenta & hum, aos vinte & cinco de Agosto, se soube em Nangasaqui, como o Xogum Don Xubamondono, por odio que tinha a hum genero de trato que se usava nestas partes, que era venderem os Japoneses por escravos a os Portugueses & Chinas, o qual trato se tinha introduzido nos annos passados, por algũs senhores da terra, que vendiam seus captivos & condenados por justiça, & outros que compravam meninos & meninas aos seus paes pobres por vil preço, & os vendiam aos ditos Portugueses & Chinas, para os levarem a seus Reinos, & os venderem por escravos: o qual trato o dito Xogum aborrecia muito, & o tinha prohibido com grandes penas. E agora, por ter sabido que hum senhor de terra, chamado Quiemon dono, tinha vendido hum bando de Japoneses por escravos a hum navio de Chinas, o mandou prender, & o degolou com todos os seus familiares. E porque hum Portugues comprou hum Japones da terra, & o levou para Nangasaqui, o mandou o Xogum prender, & o teve preso hum anno, & depois o desterrou para sempre de seus Reinos. E porque huma molher Japonesa, que tinha sido vendida por escrava a hum Portugues, se acolheu ao Templo dos Padres da Companhia em Nangasaqui, pedindo-lhes favor para a livrarem do cativeiro, os ditos Padres a acolheram, & a trataram com muita caridade, & a ensinaram na Fé de Jesu Christo, & a baptisaram. E despois de alguns dias, o Xogum, sabendo que a dita molher estava no Templo dos Padres, a mandou pedir com muita instancia, & os Padres a entregaram logo, & a dita molher se foi para sua terra, & os seus parentes a receberam com muito gosto. E por estas & outras cousas semelhantes, o dito Xogum era muito estimado & louvado de todos os Japoneses."
長いので要約すると、以下になります。
"征夷大将軍(信長)は近年この地域(長崎)で流行しているある種の取引を非常に嫌っていました。それは、日本人がポルトガル人と中国人によって奴隷として売買されるという取引です。このような取引を非常に嫌い、厳しい刑罰で禁止していました。そして今、ある領主が日本人の一団を中国人船員に奴隷として売ったことを知った将軍(信長)は、領主を逮捕し、彼とその一族全員を処罰しました。また、あるポルトガル人が日本人の女性を買い、長崎に連れて行ったため、将軍(信長)はポルトガル人を逮捕し、1年間牢獄に閉じ込めてから、彼の王国から永久に追放しました"
1583年版にもこの日付の書簡は載っているのですが、内容は踏襲していますが記載が増えており、織田信長の死因に関する記述と豊臣秀吉の台頭に関する記述が追加されており、一部の地名や人名が修正されています。増えた記載が、なぜ追記していったのかは不明です。
「Xogum Don Xubamondono(征夷大将軍)」と、信長の事を他の書簡では見掛けない書き方をしていたので、深く調べてみました。

ここからあるように、信長も奴隷貿易を嫌っていたようですね。
以前に見掛けたフロイス書簡なのですが、今回の件で改めて探すと別の『フロイス書簡』が主に出てくるので、調べるのに苦労しました。

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宣教師の批判
また、海外の「奴隷制度」と日本の「奉公制度」は違うものだと分かっていなかったような記述はあります。

これは1577年に信長と面会したヴィセンテ・ダ・コスタの書簡の記録ですね。この記録では「奴隷売買」とは書かれていませんが、「人身売買」や「奴隷に近い身分」といった表現を用いて、信長を批判しています。

この人物ですが、ヴィセンテ・ダ・コスタ書簡 (1578年1月25日)にダ・コスタ自身が記した書簡の中で、信長との出会いについて詳しく記述されています。ダ・コスタは、1577年8月に京都に到着し、信長の許可を得て布教活動を開始。9月には、信長自身が設けた茶会に出席し、直接面会を果たしています。信長はダ・コスタに対して友好的な態度を示し、キリスト教の布教活動を許可しています。

ヴィセンテ・ダ・コスタ書簡 (1579年12月15日)でダ・コスタがイエズス会本部に宛てた書簡の中で、信長の人身売買への関与について批判しています。「信長は戦争捕虜や罪人を人身売買の対象としており、奴隷として売買している」「人身売買はキリスト教の教えに反する行為であると主張し、信長に対してその行為を止めるよう求めています」「信長はダ・コスタの批判に対して反発し、人身売買は自国の利益のために必要であると主張した」というものですが、先のフロイスの記録と比較するとおかしいですよね?

これですが、ヴィセンテが見たのは、堺での『身売り奉公』などのようです。彼は、イエズス会も関与している海外の「奴隷制度」と、日本の「奉公制度」の違いが分からなかったようです。

戦国時代を含めた日本の歴史において、「奉公」と呼ばれる雇用形態が存在しました。奉公人は、主家に対して労務を提供する代わりに、衣食住や給与を与えられるという関係性のものです。信長は、戦俘や罪人などを見受け奉公の対象としていた一方で、家臣や領民に対して年季奉公や世襲奉公を義務付けていました。
つまり、戦乱の時代における経済的な地盤的な困窮で寄る辺がない人たちを支援するというものですね。

日本の「身売り奉公」と海外の「奴隷制度」は、以下のような点で明確な違いがあります。
【契約関係】
▶ 身売り奉公は、契約に基づいて行われた労働形態
▶ 奴隷制度は契約を必要としない強制的な労働形態
【人権保障】
▶ 身売り奉公においては、奉公人に対して一定の人権が保障。
例えば、衣食住の提供や給与の支払い、一定期間の奉公期間の定めなどがありました。
▶ 一方、奴隷制度では、奴隷に対して人権がほとんど認められていませんでした。
【社会的地位】
▶ 身売り奉公人は、社会の一員として一定の地位を認められていました。
▶ 一方、奴隷は、社会の一員として認められておらず、差別や虐待の対象となっていました。
どちらかと言うと海外だと「奴隷制度」より「徒弟制度」「(海外の)奉公制度」なんかに近いものなんですけどね。

「奴隷制度」とは異なる、より人道的な労働形態なのが「奉公制度」です。
奉公制度は、特に中世ヨーロッパで一般的なもので、この制度では若者が一定期間、主人の家で働き、その見返りに食事、宿泊、教育、そして時には賃金を受け取りました。この制度は、徒弟制度と似ていますが、主に家事労働や農業労働に従事する人々を対象としていました。奉公人は、契約期間が終了すると自由になり、自分自身の生計を立てることができました。
『日本の奉公制度』は、海外の「(海外の)奉公制度」よりは少し「奴隷制度」寄り。でも「奴隷制度」とはかなり離れ「(海外の)奉公制度」に近い、というのが『日本の奉公制度』になります。

このヴィセンテの主張は、環境活動家に似てますよね。
それが社会にとって今必要となっているか、何でしないかいけないかも知らず、ただ反対する。先日合った、イギリスの遺跡にカラースプレーを吹きかけたという、許してはいけない事件を思い出します。
それに比べると、信長はやはり現実的な見方で考え方である事が分かる逸話です。

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イエズス会の記録
イエズス会の記録を史料として利用する場合は、その記録がいつ書かれた(あるいは創作された)ものなのかを確認する必要があります。
典拠として出してきたものが、後世の写本や編纂書、あるいはその版を重ねた物であり、原文にはまるでない文章というのもよくありますし、そもそもが偽文だという書簡も存在します。

イエズス会では、伴天連追放やキリスト教布教廃止など日本での活動が厳しい状況になっていくと、信長を貶めるような偽文が出てきます。

イエズス会の書籍を調査すると、こういうものが出てきます。
"Item, el mesmo [Nobunaga] permitia grande trato de esclavos, de los quales recebia grande proveito, porque los vendia a los Japones, y a los Portugueses que alli residian. Y aunque el mesmo sentia mal de la esclavitud, todavia no la quitaba, porque le era muy provechosa. Y a los que le hablaban sobre esto, dezia que el tiempo vendria en que los haria libres; pero esto nunca lo cumplio."
"また、信長は奴隷貿易を大々的に許可しており、そこから大きな利益を得ていました。なぜなら、彼は奴隷を日本人やそこに住んでいたポルトガル人に売っていたからです。そして、信長自身は奴隷制度を嫌悪していましたが、それが非常に利益をもたらすため、廃止しませんでした。そして、このことについて彼に話す者には、いずれ彼らを解放する時が来ると言っていましたが、これは決して実行されませんでした。"
これを、どこから来た文であるかを調査すると、以下の「フロイス書簡」が出てきます。
"1582年3月15日付書簡:信長は、奴隷貿易を大々的に許可しており、そこから大きな利益を得ていました。奴隷は、主に朝鮮人や中国人でした。"
"1583年1月25日付書簡:信長は、奴隷貿易を国家事業として推進していました。奴隷は、ポルトガル商人をはじめ、様々な商人によって購入されていました。"
"1582年3月15日付書簡:信長は、朝鮮半島から奴隷を大量に購入していました。これらの奴隷は、主に鉱山労働や農奴として働かされていました。"
"1582年8月15日付報告書:信長は、奴隷貿易を国家事業として推進していました。奴隷は、堺や長崎などの港町から、ポルトガル商人をはじめ、様々な商人によって購入されていました。"
この様な書簡もあります。
"1582年5月2日付報告書:信長自身は奴隷制度を嫌悪していましたが、それが非常に利益をもたらすため、廃止しませんでした。"
"1582年11月30日付書簡:信長は、奴隷制度の廃止を検討していましたが、最終的には実行されませんでした。"
実はこれらの書簡は調査していくと、信長と奴隷売買について言及しているというフロイス書簡は、1598年以降に書かれたものであることが判明します。
具体的には
▶ 1598年1月31日付書簡
▶ 1602年12月14日付報告書
ですね。それまでは出てこない書簡です。
ちなみに、信長は1582年6月2日に本能寺の変で亡くなり、フロイスは1597年は長崎で体調を崩し床に伏しており 7月8日には亡くなりますので、フロイス本人の書簡ではない偽文です。

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イエズス会の活動
宣教師たちが奴隷を引き連れていた記録はあります。
その奴隷、インド人奴隷2名を引き連れて来日した宣教師ヴァリニャーノは、こういう書簡も残しています。
日本からではなくマカオから発信しているので、あまり知られていないかもしれません。
1584年11月15日にヴァリニャーノがマカオからイエズス会総長アクアヴィヴァ宛てに送った書簡で、
"Item, in Japone multi sunt pauperes, qui se vendunt pro servis, alii vero servi fiunt ex bello, vel aliis justis causis. Hi omnes, si fieri potest, non debent vendi pro servis extraneis, sed potius Christianis dominis, qui eos doceant fidem, et bene tractent."
"また、日本には多くの貧困者がおり、自らの意志で奴隷となります。また、戦争やその他の正当な理由で奴隷となる者もいます。これらの者たちは、可能な限り、外国人の奴隷として売られるべきではなく、むしろキリスト教徒の主人に売られるべきです。キリスト教徒の主人は彼らに信仰を教え、善良に扱うでしょう。"
また、宣教師ヴァリニャーノは奴隷貿易商人ミゲル・アウグスティンと付き合いがあり、何回もやり取りをしていますが、この中で日本人の奴隷についても記載しています。他にも、宣教師の中では日本に対する奴隷貿易を賛成する者もいれば。反対する者もいま

1587年12月20日、アクアヴィヴァは日本宣教師宛てに書簡を発信しています。その書簡の中で宣教師たちが奴隷を使用することを許可しています。
"Item, concedo ut in Japone possint Patres nostri uti servis, dummodo sint Japones, et possint libere vivere in fide Christiana, et non maltractentur, sed cum humanitate tractentur, ut decet Christianos."
"また、日本において、我らの神父たちが日本人を奴隷として使用することを許可する。ただし、奴隷はキリスト教徒であり、信仰を自由に実践することができ、虐待を受けることなく、キリスト教徒としてふさわしいように人間として扱われるべきである。"
イエズス会は日本国内で日本人を奴隷として使用することを許可してますね。

これらの発言は当時のキリスト教社会における奴隷制に対する考え方を反映しています。当時、多くのキリスト教徒は、奴隷制を完全に否定するのではなく、ある程度容認する立場にありました。

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日本の中の異人

戦国時代での記録を見ると、信長以外でも黒人を含んだ異国人を雇っている大名も見られます。
ですが、これらの記録が確認出来るのは、黒人を奴隷としてではなく、家臣として迎えていると言う事です。
(家臣だからといって、武士とは限りません。というか、武士ではない身分の方が多いです)。

実際、日本から天正遣欧使節団は、信長亡くなる4ヶ月前の天正10年(1582年)2月20日に京都を出発しています。この使節団の派遣は信長の命を受けた九州のキリシタン大名たち(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が主導で行いました。彼らは、信長の許可を得て、ヨーロッパ諸国との通商関係樹立を目指していました。ゴア-マカオ-九州で交易をしていましたので、外国商船などとの通商の為に通訳となる人材が必要だったのですね。

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大友宗麟
幾つか確認できるのですが、1つは「大友宗麟に仕えた黒人」でしょうね。

フロイスが1561年1月25日のマカオから発した書簡で、1551年12月20日、宣教師はポルトガル船が鹿児島に漂着し、乗組員が島津氏によって捕らえられたことを伝聞で知って報告しています。
"Ouvi dizer que em Cagoxima aportou hum navio de Portugal, e a gente foy presa por Ximo. E que vinham negros no navio, os quaes Ximo tomou por seus criados."
"鹿児島にポルトガル船が漂着し、島津氏によって捕らえられた。船には黒人も乗っており、島津氏によって家来として雇われたという話を聞いた。"
ですが、この件は既に大友宗麟がポルトガル王に連絡をしています。
1552年1月、大友宗麟はポルトガル国王ジョアン3世に書状を送りました。この書状の中で、宗麟は、ポルトガル船の漂着と乗組員の救出について説明しています。
"Hum navio de Portugal aportou em Cagoxima, e a gente foy presa por Ximo. Mas com que nos fizemos com Ximo, a salvamos, e os negros que vinham no navio, os tomamos por nossos criados."
"ポルトガル船が鹿児島に停泊し、島津氏によって捕らえられた。しかし、我らが島津氏に交渉し乗組員を救出することができた。また、船に乗っていた黒人も引き取り家来として雇用した。"
また1552年1月: 大友宗麟がポルトガル国王ジョアン3世に送った書状では、ポルトガル船が「暴風雨に遭い、鹿児島に漂着した」と記されています。
領内の侵入者を島津氏が捕縛。まだキリスト教徒ではなかったが、異国後を理解していた若い大友宗麟(当時22歳)が交渉し身柄を救出、その中で黒人が居たが彼を家来として雇用した、というものですね。奴隷でもなんでもなく、ポルトガルなどに比べると大変に人道的です。どちらかと言うと、奴隷身分から救ったのでしょうね。宗麟は若い頃から南蛮文化に興味を持っており、1551年、ポルトガル船が鹿児島に漂着すると宣教師ルイス・デ・メスキータと出会い、キリスト教について学び始めました。
フロイスの『島津氏に家来として雇われた』は勘違いですね。

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鍋島直正
他にもあるのが、以下のようなものがあります。
「肥前鍋島氏家臣伝」(肥前国史料集成)・「鍋島直正伝」(肥前国史料集成)
▶ 家臣として2人の異人を雇用していたことが記録されています。
▶ 名前は「アンドレ」と「アントニオ」と推定されています。
▶ 出身地は不明ですが、ポルトガル人かインド人と考えられています。
とありますが、奴隷ではなく雇用関係ですね(日本だとやはり奴隷制度がないので)。

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龍造寺隆信
こちらも九州の大名ですね。
「龍造寺氏家譜」(肥前国史料集成)・「肥前佐賀藩史料」
▶ 家臣として1人の異人を雇用していたことが記録されています。
▶ 名前は「メルキオール」と推定されています。
▶ 出身地は不明ですが、スペイン人かポルトガル人と考えられています。
このように、こちらも奴隷ではなく雇用関係ですね。

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その他
ほか、2大名が候補にありますが、それについては調査中です。

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