「信長に仕えた黒人」である『弥助』について、海外だけでなく日本国内でも勘違いをしている人が多いようなので、それを纏めて解説しています。詳細ではないのでざっくりしたものですが。出来るだけ調査し一次史料の内容のみにしていますが、情報汚染も激しい案件ですので、時々、引っ掛かってることが判明し修正もしています。
Linkなどは自由にして構いませんが、調査して分かった内容を増やしていったり修正していったりしますので、変化はしていきます。

『弥助』の逸話

アサクリ問題やロックリー問題でのコメントを見るのですが、どうも色々な人が『一次史料に載っている』と勘違いしている逸話が色々とあるようです。そんな勘違い逸話を集めました。
ちなみに、私も調べるまで本当にそうなのだろうと思っていたものが幾つもあります。

メジャー勘違い

よく言われる説ですね。
弥助はモザンビーク人
弥助についての記載で1581〜1582年の書簡では「モザンビークの黒人」という記載があるからですね。
ですが調査すると、この『モザンビーク(Moçambique)』という単語は16世紀中頃だと「東アフリカ」を指しても使います。
この「モザンビーク人」説は、『弥助』の出自や名前などで話しています。
弥助は奴隷だった
これは『『弥助』奴隷説について』を確認してください。
弥助は獣同然
『明智光秀が本能寺の変で弥助を捉えたが、獣同然であり日本人ではないので放免し、南蛮寺に送った』
この逸話を知る人は多いでしょう。最近は「インドの寺院に送った」というのを聞いた事もあります。
中にはこれが『信長公記』の中に書かれている、と主張している人も見掛けました。
――が、これは創作された逸話です。

初出は1973年のNHK大河ドラマ『国盗り物語』です。
「明智光秀に弥助が捕まった」自体は1972年の小説にも見られますし、探せば江戸時代でもあるかもしれません。
ですが、『「獣同然」と弥助の事を言い南蛮寺に送る』という逸話は、この大河ドラマからです。

この大河ドラマ『国盗り物語』は原作小説があり、1963年頃に連載されていた司馬遼太郎の同名小説です。
ただし、弥助の件はドラマとは違い、弥助は別の理由で亡くなります。

「一次史料にはないかもしれないが、もっと昔からある逸話ではないか?」
というのも当然で、それは調べても出てきませんので証明はできません。
ですが代わりに、歌舞伎でどうだったか分かります。この明智と弥助の件は物語映えする逸話ですしね。

ドラマ放映後、この逸話は1975年の浄瑠璃にも盛り込まれ、1980年の歌舞伎『信長』でも盛り込まれて上演されます。
ですが、この1973年以前の歌舞伎『信長』では内容映えする逸話なのに描写はありません。

再演を除いて、その間の歌舞伎を羅列しますと、
・1760年(宝暦10年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1772年(安永元年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1781年(天明元年): 弥助は信長の小姓として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1828年(文政11年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1852年(嘉永5年): 弥助は信長に仕える中級武士として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1862年(文久2年): 弥助は信長に仕える中級武士として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1879年(明治12年): 弥助は信長の側室として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1897年(明治30年): 弥助は信長の側室として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃します。
・1898年(明治31年): 弥助は信長の娘婿となる忍びとして登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1911年(明治44年): 弥助は信長の隠し子で武将として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
と、色々ありますが、光秀の件はドラマ『国盗り物語』の前にはないんですよね。

余談ですが、この歌舞伎での弥助を調べてみると面白いですよ。
18歳色白美青年や、女忍者で信長の子供を身ごもり生んだパターンはありましたが。
昭和でも1935年・1942年・1979年でも再演されていますが、内容は上記のどれかです。

他の読み物などを見ても、江戸時代でも中期や後期でペリー来航をするまでは、『黒人』と言われても分からない人がほとんどです。ですので「異人」として肌の色がよく分からない描写で、南蛮人やインド人など様々な異国出身である設定とされていたりしますので、中には色白にしたりしています。また、「架空の人物」とする描写も少なくありません。
江戸時代も中期から後期だと侍の弥助もいますが、忍者の弥助もいますし、悪役として書かれたり、女性になったりと。今の日本サブカルチャーに通じるキャラクター扱いとなっています。

最近、それらしい文章が創作されて、「一次資料にある」と出している物をよく見掛けますが、偽文なので注意してください(私は『信長公記にある』や『1582年イエズス会日本年次報告』にある、というのを見掛けた事がありますが、一次史料で書いてあるのを見た事はありません)。

一次資料でというと、『家忠日記』では、
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、光秀に捕まってもいないし、罵られてもいない。本能寺の変の次の日も生きている事が分かっています(この「御供申候由ニ候」という記述は、従来は「信長のお供」と考えられていましたが、弥助が濃の方の付き人もしていましたので最近は「濃の方のお供」とも考えられています)。

また、間違った認識を唱える方もいますので、注意ですね。
例えば村上直次郎著『耶蘇会の日本年報』というのに書いてある、と画像をだして主張する人がいます。

ところが、第1版(1943年版)で同じページ(258ページ)は、こういうページです。

実は、最初の物は1973年版か1984年版に記載されている内容(両方とも258ページ)で、ここに「明智光秀が弥助を動物だ言う」記載が出てくる内容です。初版にはない記載が増えているのですね。この版違いの内容は、国会図書館のアーカイブで確認できます(もっと言えば、1943年版は国会図書館でも複数が確認き、記載がある本と記載がない本の両方が存在します。両方を確認し比較すると、記載があるのは1973年版の内容が入っているので、記載がある1943年版は本当に1943年版なのか怪しい、となります)。1943年の同日の書簡には本能寺の変に関する記述が含まれていますが、主にイエズス会士の価値銅や日本の政治状況についての報告が記されています。これが、1973年版には光秀と弥助の逸話が追加されている形です。

ちなみに、この同様の記載は『日本教会史』(岩波書店刊)にも出てきます。
ただし、こちらも1970年版までは記載がなく、1984年版から入ってきています。
海外の版でも1984年版以降にならなければ記載がなく、例えば1705年英語版や1722年イタリア版には含まれていません(もしかしたら、この書簡内容は今回の話と同じような話なのかもしれません)。
これの場合は、どの原文の訳かと探そうとしても、その年以前の海外の言語版には出てこない、というのが疑問に思うところですね。一番古いのが日本語でした。もしかしてあるかもと海外の図書館アーカイブも探してはいますが。

で、日本ではあまり聞かないのですが。
海外ではこのフロイス書簡について、真偽についての議論を以前からされています。古い書籍には載っていないからですね。
フロイス書簡の他の記載内容に比べても、これはなんで書くの?と不思議ですし。
あっさりと「弥助は明智光秀に捕らえられ南蛮寺に送られたと聞いた」と数行だけで書かれていたら、もう少し信憑性もあったのでしょうけれど(言ってはなんですが、宣教師の記録でも日本の史料でも弥助は重要度はあまりない存在です。ですからこそ史料が少ないのですが)。
弥助は荷物持ちだった
これは2つあります。

1つは、『刀持ち』の件と同じ、本来は「成田弥六」の記載が「弥助」に誤記あるいは意図的に変更されているという事です。
1615年『信長公記活字本』・1614年版『信長記(信長公記を基にした創作本)』・1663年『家忠日記 増補追加』では、刀持ちや荷物持ちは『成田弥六』という武士が書かれていますが、1615年版『信長記(1614年版の改定版)』・1691年『尊経閣文庫信長公記』では、刀持ちや荷物持ちをしていたのが『弥助』に変更されています。他、弥六と弥助は文献によって様々に混ざります。

もう1つは、『信長公記』でも1560年代の記載にあるのですが「荷物持ちをした弥助」が記録にあります。この弥助は、その後で亡くなっていますのでそれほど登場がありませんが、黒人の『弥助』とは別人です。この「荷物持ちをした弥助」の記載の部分だけを見て、黒人の弥助と勘違いした人がいる可能性もあります。まぁ、別の弥助は一次史料に記録がある。黒人の弥助は一次史料にそのような記録がない、という事です。

この勘違いは「黒坊主」こと「甘楽忠貞」も合わさり、面白い創作に繋がります。
・1610年依田本(山梨県立博物館所蔵)には記載がありません。
・1615年林本から 黒坊が信玄に仕えたという記述はあります。
・1616年松井本から黒坊に関する詳細な記述が初めて見られます(そして黒坊が信玄に仕えています)。
・1626年黒坂本で甲州征伐後に黒坊が随行する記載が出てきます(そして、黒坊は1562年に信玄に仕えた後に信長に仕えた事になっています)。
・1643年春浦本では活躍が詳細に書かれますが、黒坊が信玄に仕えたのは1560年に変わっています。
この『黒坊』を「黒人」と勘違いし、「黒人の弥助」という説が出てきます。
(ただし、忠貞の記録自体、色々あって怪しい所もあるものが多いですが。まったく違う記載がある一次資料もあります。ただ太田牛一や家忠は、今の内容に沿うものですね)
弥助は刀持ち(小姓)だった
この逸話も一次史料にはありません。
この逸話は、元々は弥六(成田弥六)の事で書かれており、この人物が刀持ちもしていた事は他の記録でも出てきます。

1615年『信長公記活字本』・1614年版『信長記(信長公記を基にした創作本)』・1663年『家忠日記 増補追加』では、刀持ちや荷物持ちは『成田弥六』という武士が書かれていますが、1615年版『信長記(1614年版の改定版)』・1691年『尊経閣文庫信長公記』では、刀持ちや荷物持ちをしていたのが『弥助』に変更されています。他、弥六と弥助は文献によって様々に混ざります。

この中で、例えば『信長公記の中に書いてある』事から、弥助を刀持ちしていたという人がいるのですが。
その『信長公記』が何年製作の版かを確認しなければなりません――というか、現存で一番古い『信長公記』である活字本で『弥六』なのですけどね。活字本ですので、この版は複数が現存しています。

この弥六こと『成田弥六』は、信長がかなり若い時から仕えている武将です。
『信長公記』でも1553年の記録に記載がある人物で、槍の名手だったそうです。
「三の山赤塚合戦の事」
 天文弐年癸丑四月十七日、織田上総介信長公、十九の御年の事に候。
 鳴海の城主山口左馬助、子息九郎二郎、廿年、父子、織田備後守殿、御目を懸げられ候ところ、御遷化候へば、程なく謀叛を企て、駿河衆を引き入れ、尾州の内へ乱入。沙汰の限りの次第なり。
一、鳴海の城には子息・山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺に取出要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所を拵え、父山口左馬助楯籠る。
か様に候ところ、四月十七日、
一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あかり候のところ、
一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候。先手あし軽、清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、萩原助十郎、成田弥六、成田助四郎、芝山甚太郎、中島叉二郎、祖父江久介、横江孫八、あら川叉蔵、是れらを先として、赤塚へ移り候。
弥助を洗って確認した
この逸話も、一次史料にはない創作された逸話です。
「肌を洗った」という逸話は、明治5年の『信長記』が初出の逸話で、これは『信長の好奇心旺盛な性格』を端的に表現するものとして作られています。確かに、信長の性格だと、入浴などをさせて肌色を確かめてもおかしくありませんから、してないとは限らないのですが。しかし、一次史料にこの記録はありません。

実際に記録としてあるのは、『多聞院日記』に書かれたもので、「弥助という黒人、信長公の手を握り、肌の色を確かめさせられた」という記述です。つまり、「握手をした」というのは史料としてあり、「洗った」というのは創作逸話です。
囲まれ石投げられる
「町人に囲まれる」「子供に石を投げられる」ですが、これは一次史料には特に書かれていません。
当時ですが、宣教師の列や、信長の傍にいるのを見る事はあるでしょうが。町人に囲まれ石を投げられたら、たぶん、した方が処罰を受けるでしょうね。

では、この逸話はいつ生まれたのか?
18世紀初期、佐賀藩士が書いた『武教童子訓』というのもあります。これは元は山本常朝が書いた『葉隠聞書』を基にした子供向けの教訓書なのですが、ここに弥助が出てきて、この弥助が「町人に囲まれた」「子供に石を投げられた」「刀を抜いて威嚇した」などの逸話が創作されます(『葉隠聞書』には出てこない話です)。『武教童子訓』は著者が分かりませんが、山本常朝の関係者が書いたと考えられています。
この逸話が広がり、歌舞伎や浮世絵で「町人に囲まれる弥助」「子供に石を投げられる弥助」など見た事がある人もいるであろうものが描かれ有名になっていきます。

しかし、現実にもありました。記録が残っています――弥助ではありませんが。
アメリカン・ボード宣教師団文書があり、1872年(明治5年)に日本に派遣されたアメリカン・ボード宣教師団の宣教師、ルイス・インマンが、東京や横浜で経験した出来事について記した書簡です。インマンは、東京や横浜の街を歩いていると、人々から好奇心の目で見られ、子供たちから石を投げられたり、悪口を言われたりしたと記しています。また、一部の大人からも、差別的な言葉でからかわれたり、道を塞がれたりしたこともあったと述べています。
また、当時の日本の新聞記事にも残っています。当時の新聞記事には、黒人宣教師が街を歩いている様子を報じた記事がいくつか掲載されています。これらの記事の中には、黒人宣教師が人々から好奇心の目で見られたり、子供たちから石を投げられたりしたという内容のものもあります。

1581年にはなく、150年弱後の18世紀初期に逸話が作られ、そのまた150年弱後の1872年に本当に逸話通りな事が起こった。
という面白い話です。

また、記録はイエズス会に実はあります。
ただし、ラテン語で書かれており翻訳されたもので色々と記載が変えられている版ですね。
"Ce anno in Meaco aduenit quidam negro ex India, quem Dux Nobunaga adduxerat, ut ostenderet populo suo, & homines ex ipso caperent admirari, & Deum laudare, qui creavit homines tam diuersorum colorum. Et quia erat res noua & insolita, multos homines ad se attraxit, & nonnulli lapides in eum iactabant, & cum alijs pugnabant, adeo vt quidam grauius laesi fuerint. Dux Nobunaga, vt hominem a tantis molestijs liberaret, & simul vt fidem Christianam commendaret, eum in suam familiam recepit, & ei stipendium & habitationem assignauit. Hic homo, vt postea cognitum est, Christianus erat, & a quodam Rege in India missus fuerat, vt in Iaponia fidem Christianam propagaret. Sed quia nihil scire videbatur de rebus fidei, & Portugallenses eum non admiserant ad societatem nostram, Dux Nobunaga eum ad nos misit, vt eum instrueremus in rebus fidei. Nos vero, cum eum vidissemus, & cognouissemus nihil scire de rebus fidei, nec velle Christianum fieri, cum licentia Ducis Nobunaga, eum remisimus ad Regem, qui eum miserat."
この内容がまたおかしく、分かりやすくするために日本語訳で書くと、
"この年、黒人が一人、インドから京にやってきた。織田殿が連れてきたもので、人々にその姿を見せ、神の偉大さを讃えさせようとしたのである。黒人は人々の目を引き、中には石を投げつけたり、仲間同士で争ったりする者もあった。中には重傷を負った者もいた。織田殿は黒人をこのような苦しみから救い、同時にキリスト教を推奨するために、彼を家来として迎え入れ、俸給と住居を与えた。この黒人は、後にわかったことだが、キリスト教徒であり、インドの某王から日本に派遣されてきたものであった。しかし、信仰のことについて何も知らないようであり、ポルトガル人たちも彼を仲間として受け入れなかったため、織田殿は彼を我々に送り、信仰について教え諭すように頼んだ。しかし、我々はその黒人に会い、信仰のことについて何も知らないだけでなく、キリスト教徒になることを望んでいないことも知ると、織田殿の許可を得て、彼を送り出した王のもとへ送り届けた。"
と言うようなものです。これと似たようなのは1581年4月14日のイエズス会年報にもあるようなのですが、その文章も中に「cafre」と使っているようなので、後世に付けたされた文章のようですね。
ただ、これは――フロイスは弥助を「敬虔な黒人キリスト教徒」と言っている記録はあるのに、おかしな話です。
また、弥助が日本に来たのは1577年(ヴァリニャーノが連れてきた場合)あるいは1580年(オルガンティーノが連れてきた場合)ですから合っておらず、内容もイエズス会を賛美するような内容になっていますね(ヴァリニャーノが日本に来たのは1579年7月ですが、ゴアを出発したのは1577年9月です。同年10月にマラッカ、1578年9月にマカオに到着しています。1579年7月にマカオを出発して日本に向かいます)。
調査していくと、この文は偽文と分かりますが、この版が他の言語に翻訳されています。
今、海外で広がっている説は、かなりの部分がラテン語の意訳版案を基にしたものが広がっているからです。

この元になった、宣教師の記述を出来るだけ原本を探し確認して見ると、日本通信(1581年)の4/11には1583年写本版にはこのような記載があります。
"E por ser negro, o agarraram, e o mostraram por toda a cidade, como se fosse algum monstro."
"そして、彼が黒人であったため、周囲は彼を捕まえ、ある種の怪物のように街中を連れ回した"
という文です。
なぜこれをこの項に載せたかと言うと、これがなぜかネット上では「そして、彼が黒人であったため、周囲は彼を捕まえ、ある種の怪物のように街中を連れ回し、石を投げつけた」と、原文にもない「石を投げつける」という日本語訳が付いているのもあるようです(どこから出てきた、その石。不思議です)。

で、肝心なのが原本。
日本通信(1581年)の4/11の書簡の原本、1581年初版ではこのような記載です。
"E por ser negro, o agarraram, e o mostraram por toda a cidade."
"そして、彼が黒人だったので、周囲は彼を連れ回し街を案内した"
という文章で、「怪物」というのもありません。そしてかなりフレンドリーですね。言葉もろくに通じない(この時点で弥助は少しは話せたようですので)のに、なんか案内してやろうという感じ。今の日本でも通じる感じです。

また、後世で編纂され付け足された版の訳文しかまだ確認していませんが、イエズス会年報の付録6にある1581年10月8日付の宣教師ロレンソの書簡では「人を付けて市内を巡らせた」という話がありますが、この部分なのでしょうね。この時期に『馬揃え』というパレードを信長はしているので、そこに加わっていたのでは?という話もあります。この書簡には「彼(弥助)を将来は殿にするのではと噂していた」は、多分、町の人ではなく宣教師の中での噂なのでしょう。
宣教師も加われないパレードに黒人が入るからですね。
また、この書簡では「少し日本語を解した」「力強く」「少しの芸ができた」と、『弥助』の出自や名前などでの調査内容とも一致する内容ですね。そして、石を投げつけられた事はこちらのロレンソの書簡は記載がありません

1583年版は原文に「, como se fosse algum monstro」を追記しています。ここから、石投げなどの話が盛られていっています。

 1581年原本
  ⇓
 1581年:1583年版改定(「, como se fosse algum monstro」を追記し日本人堕とし)
  ⇓
 1581年:1598年版(1583年版そのまま)
  ⇓
 1598年:ラテン語訳版(大幅追記改竄、イエズス会賛美で黒人落とし)

という感じに変わっていきます。
かなり作為的というか、黒人蔑視が写本した人やラテン語訳した人にありそうですね。実は16世沖末頃から17世紀末頃まで、このような改竄歪曲はイエズス会の書籍でも大量にあります。ですので、確認はあくまで一次資料を求め続ける必要があります。

日本の史料でもそうですが、イエズス会の資料もそれが何版でどうやって書かれたものかまで追求していく必要があります。
海外の文献も情報汚染が激しいので。
ラテン語で出てくる、イエズス会やキリスト教を賛美する様な記載になってる、というのは疑うポイントです。
また、1581年の書簡だと、それが写本された1583年版の内容だと記載が増えていたりします。1598年版以降は、かなり内容が膨らまされている物が多いです。ですので、しつこいほど原本を探す方がいいです(1581年の1581年版は、全部がある訳でないので探しても出てこない事があります。その場合は、1583年版を少し疑いつつ内容を読む事になります)。また、何年版から増えているかというのを探したり比較していくと、それが後で追加された物かどうかが分かります。

特に、17世紀に入ってから複数の宣教師により編纂されたもの、ラテン語訳されたものは、大抵、装飾や追記がされている『二次創作本と言われても仕方がない内容』が入ってきています(これは日本の資料も同じですが)ので、必ず、原本の原文や、原本の原文に近い年代のものまで探し出し調査する必要があります。また、版毎の比較調査をして追加されている部分を明らかにし、それが二次創作なのかどうかを、それとも新規の文献が見つかり加わった物なのか、そのような事をしながら二次創作部分をそぎ落としていく事が必要になります。

例えば、またイエズス会の『日本教会史』や『日本史(通称フロイス日本史)』『日本西教史』『日本戦国史』などは、17世紀になって書かれたり、編纂されたり、翻案されたり、それ以降の版で改定しているものは基本的に『全て二次資料』です。よく出てくるもので村上氏の日本語訳など『日本語翻訳本から』の内容も出して来る人もいますが、それはやはり『全て二次資料』でしかありません
よく、日本語訳のそれらの本では『フロイス著』となっていますが、フロイスが書いた著を翻訳したものではなく、フロイスの書簡を基に他の人物たちが作った書籍の、版案がするんだものの翻訳本、と史料としてはかなり離れた位置にある書籍だと思えばいいものです。言うなれば……『フロイスが書いた書簡、それが編纂や写本や翻案されたり改定された内容を基に自身の考えも入れて作った書籍、それを日本語訳した書籍』を「一次史料だ」として出している、とあまり変わらないですよね。これ、話題の某イギリス人の書いた「信長と弥助」の書籍の事ですが。、
これらをよく勘違いして『一次史料を確認した』と出している人がいますので、情報には注意しましょう。
本能寺の変で信長の傍で戦った
日本で具体的に出てくるのを探しているのですが、『絵本太閤記』1643年版からでしょうか。ですが、ここでは一緒に亡くなっているだけですね。
1684年版の絵本太閤記に「弥助は信長の傍で戦い、討ち死にした」という記載がありますね。

初出はフロイス書簡で「弥助は本能寺の変で信長の傍におり、勇敢に戦い亡くなった」と記録しているものですね。
ただし、これは伝聞を記録したものです。実際、1585年・1598年・1599年のイエズス会の記録で弥助が生きているのは分かっていますが。
この「勇敢に戦った」のは誤解で、たぶん、1615年信長公記活字本にある「弥六ハ御刀ヲ持テ戦ヒケルガ、敵ニ囲マレテ討死セリ」という記述にある(中間の)弥六を聞き間違えたのかと思います。

実際を言うと、弥助が本能寺に居たかは不明です。
『家忠日記』では、
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、本能寺の変の次の日も生きている事が分かっています。
ただ、『御所』が何処を指すかは確定まではされていませんが、二条新御所の可能性が高いそうです。
本能寺の変と信長の頭
これは、創作話である『絵本太閤記』に出てきます。
ただし、初版本(1643年版)には記載はありません。
2代目: 1797年刊行から、弥助奉仕記述: 初出。信長の死後、秀吉に仕えたと簡潔に記述されます。
3代目:1804年刊行からは、それまでになかった逸話「弥助が信長の首を持って脱出」が追記され、秀吉に仕えたと改変されます。
4代目以降: 1863年観光では、弥助が信長と秀吉の仲を取り持った、秀吉の命で信長の首を届けたなど、物語性が加えられる。
と、2代目以降の版では、弥助奉仕の経緯や逸話が追加・装飾されていきます。

ただ、初版と2代目にある1643年改訂版だと、弥助は亡くなった後に、秀吉の夢に現れ朝鮮出兵を勧め、秀吉に仕えた描写はありませんが朝鮮で活躍しています。ちなみに、初版本は1643年版ですが、1607年説もあります。
本能寺の変で生き残った
これは、『信長公記』をベースにした創作物『信長記』の1610年版から弥助が本能寺の変で生き延びたことが記されているようです。創作ですが。

イエズス会の記録(1598年・1599年)でも、宣教師ヴァリニャーノが京都で会ったという記録を書簡に残していますので、生きていた事は事実です(本能寺に居たかは不明です)。1585年の書簡もありますが、これは別の宣教師の書簡です。
本能寺の変で亡くなった
初出はフロイス書簡で「弥助は本能寺の変で信長の傍におり、勇敢に戦い亡くなった」と記録しているものですね。
ただし、これは伝聞を記録したものです。実際、1585年・1598年・1599年のイエズス会の記録で弥助が生きているのは分かっていますが。
この「勇敢に戦った」のは誤解で、たぶん、1615年信長公記活字本にある「弥六ハ御刀ヲ持テ戦ヒケルガ、敵ニ囲マレテ討死セリ」という記述にある(中間の)弥六を聞き間違えたのかと思います。
1590年にはオルガンティーノ書簡でも本能寺の変の顛末が簡潔に記されてされており、弥助が亡くなったと記載していますね。

また、創作本になりますが1614年版「信長記」では、亡くなったという記載はありませんし本能寺の変で戦ったという記載は具体的にはありませんが「本能寺の変の直前に、信長から密命を受け、京都へ派遣された」という記載があります。具体的には「弥六は信長の側近として仕え、槍の使い手として知られていた」とも記載されています(この槍の使い手の記述が、司馬遼太郎の『信長公記』研究本で弥助が槍の名手としたのかもしれません)。
1615年「信長記」では弥六が本能寺の変の後に亡くなったという記述に変更されています。具体的な記述としては、「弥六は本能寺の変から数年後に病死した」とあります。

実際を言うと、弥助が本能寺に居たかは不明です。
『家忠日記』では、
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、本能寺の変の次の日も生きている事が分かっています(ただし、『家忠日記』の内容は利用に注意が必要ですが)。

他にも1585年に記録があり、宣教師ジョアン・バプティスタ・デ・ロドリゲスが書いたもので、書簡『日本の教会に関する報告(Relación de las cosas de la Iglesia en Japón)』にあったのですが。
"Item, de un negro de Moçambique, llamado lasù, que vino con el Padre Visitador al Japon, y ha servido mucho a los Padres en sus viajes y ministerios."
"また、訪問使節と共に日本に来日した東アフリカ出身の黒人、弥助について述べたいと思います。弥助は宣教師たちの旅や宣教活動に非常に役立っています。"
とあります。
また、宣教師ヴァリニャーノの書簡でも1598年に京都で会ったとあり「元気で、宣教師の布教を手伝っていた」と記載されています。1599年には「少し老けていた」という記載があります。1577年12月21日で25歳でしたから、46〜47歳という年齢という事になります(これはイエズス会の書簡で確認できます)。

「妙心寺塔頭妙高院文書」と「妙心寺塔頭龍安寺文書」という記録があります。
妙高院文書: 天正18年(1590年)に弥助が妙高院に寄進を行った旨が記されています。寄進の内容や詳細は不明です。
龍安寺文書: 慶長5年(1600年)に弥助が龍安寺に寄進を行った旨が記されています。寄進の内容は「金弐拾両」とされており、用途は不明です。
この妙高院文書と龍安寺文書に記載されている弥助の寄進記録は、信憑性の高い史料と考えられます。
本能寺の変で伝令に出た
これはルイス・コエリョが日本研究で『日本教会史』 (1649年)に紹介されたものですね。リスボンで発刊されたポルトガル語の本で、本能寺の変に関する様々な説が紹介されています。この記述では、『弥助が信長の伝令として信忠に救援を求めた』という説も紹介されています。しかし、コエリョ自身はこの説を信じていないと表明もしています。
最近はこの本の内容から引用されて、一次史料のように言っている人も見掛けます、この『日本教会史』は二次史料です。他、『日本耶蘇教史』(1663年)にも記載されている内容ですが、こちらも二次史料です。

では、史実ではこれは誰か?というのを日本側の史料を見ると、1615年信長公記活字本には、伝令として派遣されたのは「羽柴秀勝(織田信長の四男)」とあります(ちなみに尊経閣文庫本では、これは「羽柴秀吉」になっています)。
つまり、ここでも弥助が本能寺に居た記録はありません。

ヨーロッパで、どこから「羽柴秀勝」が「弥助」に変わったかは不明です。
弥助は武士だった
こちらは『『弥助』武士説について』を見てください。

マイナー勘違い

屋敷を与えられた
この記載を辿っていくと、1625年の『長谷川家本信長公記』に辿り着きます
この『長谷川家本信長公記』は1615年の『信長公記活字本』を基に、独自内容を追記されている内容です。
その『信長公記活字本』にはそのような記載がなく、その他の一次史料になる本にもありませんので、創作のようですね。
槍の名手
『絵本太閤記』は初版から「弥助が槍の使い手として知られていた」とありますね。
『信長記』(1672年)に弥助が槍試合で勝利した逸話があります。

ですが、一次史料にはそのような記録はありませんね。
「槍の名手」と『信長公記』にあるのは「成田弥六」です。「弥助は槍持ちかも」という話が出てきたのも、この『槍の名手の弥六』の事を弥助にした事から来ているのかもしれませんね。

ちなみに、司馬遼太郎の『信長公記』研究本では、弥助が槍の名手なのはこのせいですね。
弓の名手
これは、また人物間違い。
『信長公記』の神宮文庫本・陽明文庫本に「信長は弥助に弓射を披露させる。弥助は百発百中の弓射を披露し、信長を驚嘆させる」という記載が確かにあります。ただし、信長公記活字本や尊経閣文庫信長公記には記載がありません。これは『家忠日記』『多聞院日記』でも確認できますが、まったくの別人であり、元々は「弥助」とは書かれていません。

「永禄11年(1568年)6月25日、信長は岐阜を出発し、越前へ向かう。弥助は弓を携えて信長に随行する」というのがその前にあります。
弥助が信長に仕えるのは1581年3月からで、1568年にはまだ日本に来ていません。この『弥助』は『黒人の弥助』の事ではなく、荷物持ちをしていた『弥助』ですね。この人物は、この少し後に亡くなりますが。
まぁ、分かりやすく『人違い』です。
「弥助」だけという文字だけで勘違いした人がいるようです。

また、もう1人、勘違いを助長させた人がいます。
「信長は弥助に弓射を披露させる。弥助は百発百中の弓射を披露し、信長を驚嘆させる」
と最初に言った記載ですが、これは1568年の記載で『多聞院日記』『家忠日記』にも記録が残っています。
そこでは「弥助」ではなく「黒坊」「くろ男」と書かれています。
この「黒坊」は1553年には出てきて、1560〜1562年で信玄に仕え、1568年は信玄を裏切り信長に付いた『黒坊』こと「甘楽忠貞」の事です。この人物は弓の名手としても知られていますね。『黒坊』を『黒人』の事だと勘違いした事から『信長公記』の神宮文庫本・陽明文庫本に改竄され書かれたものです。
この人物と、上記の越前に向かう際に弓を携えた弥助が別人物というのも分かっています。『黒坊』が信玄を裏切って信長に付いのが、6月25日より後の9月29日だからです(ただし、忠貞の記録自体、色々あって怪しい所もあるものが多いですが。まったく違う記載がある一次資料もあります)。

この「荷物持ちをした弥助」と「『黒坊主』こと忠貞」の存在から、勘違いは面白い創作に繋がります。
『甲陽軍鑑』で、『黒坊』が版を重ねると徐々に出てきます。
・1610年依田本(山梨県立博物館所蔵)には記載がありません。
・1615年林本から 黒坊が信玄に仕えたという記述はあります。
・1616年松井本から黒坊に関する詳細な記述が初めて見られます(そして黒坊が信玄に仕えています)。
・1626年黒坂本で甲州征伐後に黒坊が随行する記載が出てきます(そして、黒坊は1562年に信玄に仕えた後に信長に仕えた事になっています)。
・1643年春浦本では活躍が詳細に書かれますが、黒坊が信玄に仕えたのは1560年に変わっています。
この『黒坊』を「黒人」と勘違いし、「黒人の弥助」という説が出てきます。
弥助はインド人
これは、2つのイエズス会の書簡内容が関係しています。
1つは「宣教師ヴァリニャーノがインドから来た弥助を信長に紹介した」
1つは「宣教師ヴァリニャーノは来日時に護衛と2人のインド人奴隷を連れていた」
ここから「弥助はインド人」説が出てきているようですね。
司馬遼太郎も『信長公記』研究本で「弥助はインドの僧の息子」としています。

ですが、『弥助はエチオピア人』であり『ヴァリニャーノと来たわけではなく、信長と合う時に紹介しただけ』と確認できますからから、まぁ、勘違いですね。

また、それによらず日本国内で「弥助がインド人」であるという説は、江戸時代後期に書かれた書籍に初めて登場します。1829年に出版された『絵本太閤記評判記』が初出であると考えられており、この書籍では弥助がインドのゴア出身であると記されています。
2016年にNHKで放送されたドラマ『信長燃ゆ』で弥助がインド人として描かれましたね。
明智光秀に捕まった
本能寺の変で弥助は捕まった――創作です。
1972年の小説で、弥助が本能寺の変で捕まる描写がありますが、広まったのは翌年のテレビドラマ『国盗り物語』からですね。

一次史料ではどうかというと『家忠日記』にはこうあります。
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、本能寺の変(6月2日)の事件があった時間には、二条新御所で生きている事が分かっています。
"天正10年6月4日条:弥助ハ、明知日向守方へ罷越候由申候"
更に6月4日でもまだ弥助は生きており、光秀の元にお伺いをたてに行こうとしています(6/4のこちらは、一部の写本などにしかない記述なので、真偽で偽文と疑われていますが)。
つまり、弥助は本能寺の変で明智光秀に捕まったわけではないのですね。
明智光秀に仕えた
弥助が明智光秀に仕えたという説話は、江戸時代の後期から明治時代にかけて成立したと考えられます。
以下の読み物や演劇で、弥助が明智光秀に仕える描写が見られます。

浄瑠璃
1741年に上演された人形浄瑠璃「義経千本桜」では、弥助が明智光秀に仕える武将として登場する
これは義経が中心ですが、パラレルワールドで光秀や弥助が存在します。

歌舞伎
1840年に上演された歌舞伎「勧進帳」では、弥助が明智光秀に仕える武将として登場する
これもパラレルワールドですね。

講談
1879年に出版された講談「明智光秀」では、弥助が明智光秀の側室の兄として登場する
黒人の弥助の事?と思いますが、その弥助の事です。

小説
1903年に出版された小説「新修義経千本桜」では、弥助が明智光秀に仕える武将として登場する
やはりパラレルワールドです。

ここら辺は『家忠日記』で、
"天正10年6月4日条:弥助ハ、明知日向守方へ罷越候由申候"
つまり、弥助は明智光秀に捕まったわけではなく、お伺いをたてに行くとあります(ただ、一部の写本などにしかないので真偽は不明です)。
この事から、「弥助は明智に付いた」説が出てきています。

また、『甫庵信長公記』にも「本能寺の変後は明智光秀に仕えた」と記載があります(『信長公記』の中でも記述に信用はあまりない本ですが)。
豊臣秀吉に仕えた
江戸時代の儒学者・林道春が編纂した『武功雑記』に記載されており、戦国時代の武将たちの逸話を集めた書物です。寛永9年(1632年)に刊行されたものと言われており、弥助が本能寺の変で生き延び、秀吉に仕えたと記されています。
『絵本太閤記』も初版には記載がありませんが、1643年版では秀吉の夢枕に立ち、朝鮮で活躍する記載が追記されます(ただし、仕える描写はありません)。

ですが、海外を見るとマカオで宣教師ジョアンが1626年に書き記した本が最初になります。『弥助は信長の死後、秀吉に仕え、朝鮮戦争で活躍した』というのを記載していますので、そういう噂が日本ではあったのではないかと思います。

ジョアン自身は1610年あるいは1611年に日本を出国しています。ですので、それ以前に記載された物がないかは探しています。
二条城で戦った
これの初出は難しく、今、確認できているのは『二条城の血戦』という歴史小説です。
これは1872年(明治5年)頃に刊行された村雨庵主人著のものであり、明治維新を舞台にしたものですが、そこの中に戦国時代が書かれている場面があります。
あらすじは、「本能寺の変で織田信長が討たれた後、明智光秀は二条城を攻め、織田信忠を包囲。圧倒的な兵力差にもかかわらず、信忠は城に籠城し、光秀軍に抵抗する。弥助は信忠の命を受け、城外へ脱出し、援軍を呼びに行く。激しい戦いの末、信忠は自刃し、二条城は落城する」といったものです。

17世紀後半にヨーロッパで書かれた『日本戦国史』だと、弥助は「信長は光秀の謀反を察知し、弥助を嫡男信忠の元へ救援要請に出した。危急存亡の事態だと、兵を連れて本能寺に来るよう伝えるようにと出した」とあるので、創作の中での弥助は、本能寺の変の前に妙覚寺に行き二条城に行き、二条城からまたどっかに行きつつ、本能寺の変で亡くなり、光秀に捕まり南蛮寺に送られるようです。忙しい人生です。

他、それより新しい歴史小説の中だと「弥助が二条城に乗り込み、信忠と一緒になって光秀を倒す」「弥助が二条城に乗り込むが信忠に捕まる」といった内容のものもあります。

でも、根本的な話で。
「二条城」と「二条新御所」は違うのですよね。
朝鮮戦争に同行した
これは、1643年の『絵本太閤記』改訂版から入ってきます。これらの改訂版の内容や、それ以降の記載では弥助は朝鮮戦争で活躍している描写になっています。ただし、秀吉に仕えた描写はありませんし、本能寺の変で亡くなっている描写があります。1797年版からは、重症になりながら生き延び秀吉に仕え、朝鮮で活躍します。

ですが、海外を見るとマカオで宣教師ジョアンが1626年に書き記した本が最初になります。『弥助は信長の死後、秀吉に仕え、朝鮮戦争で活躍した』というのを記載していますので、そういう噂が日本ではあったのではないかと思います。
朝鮮で病死した
これは、1643年の『絵本太閤記』改訂版から入ってきます。これらの改訂版の内容や、それ以降の記載では弥助は朝鮮戦争で病死する描写になっています。
いや、同じ本で本能寺の変でも亡くなっている描写があるのですが。
「弥助は二度死ぬ」です。
甲州を視察した
この説は『甲陽軍鑑』を確認してください。
この説だと、1560年には弥助が日本に居た事になります。

これの勘違いは、「黒坊主」や「黒坊」という記載にあります。
これを『黒人の弥助』と勘違いして起こった事ですね。

この『黒坊主』、名は「甘楽忠貞」という人物です。
"天文22年(1553年)"廿五日、黒坊主、京へ上る"( 25日、黒坊主が京へ上った)
などの記録が残っている人物で、1560〜1562年に武田信玄の元に参上しています。
永禄11年(1568年)、武田信玄が上杉謙信と川中島で戦っている最中に、忠貞は織田信長に寝返りました。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が討たれた後、忠貞は柴田勝家に仕えます。しかし、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北すると、忠貞は捕らえられ、処刑された、という人物です(という説があるという話で、本能寺で戦った説などもあります)。
この「甘楽忠貞」すなわち『黒坊主』のいくつかが弥助の逸話になっているものがありますね。
(ただし、忠貞の記録自体、色々あって怪しい所もあるものが多いですが。まったく違う記載がある一次資料もあります)
逸話盗用
一次史料になる記録に、「黒坊主」「黒坊」「くろ男」という記載があります。
私もこの記載を知った時には、『黒人の弥助』の事かと思いましたが。
記載を見ていくと違う人物が出てきます。
"黒坊、御前ニテ弓ヲ射ル、百発百中ス。"
"黒坊、信長公の御前で弓を射る。百発百中。"
などの記載がある『黒坊』、これは「甘楽忠貞」という人物です。
この人物の表記ですが、書かれている本で変わっており『黒坊主』『黒坊』『くろ男』という表記で出てきます。

資料の中でも写本や側索物で、この人物の事が、『黒人の弥助』の逸話に変わっている事が時々見かけます。
「中間の弥助」「成田弥六」「中間の弥六」「黒人ジョアン」などと一緒で、後世の写本や創作物で『黒人の弥助』の逸話に変わっていたりする人物の一人です。

ただし、「牛の様に黒かった」という記載は確かに『黒人の弥助』にはあります。
黒坊
『黒人の弥助』を指す描写には、「黒坊」というのは実は使われていません。
一次史料の中に出てくる「黒坊」は、実は2種類存在します。

1つめの『黒坊』ですが、これは1560〜1562年から信玄に仕え、1568年は信玄を裏切り信長に付いた『黒坊』こと「甘楽忠貞」です。弓の名手とも知られており、本能寺の変では信長を救援に行こうと赴きますが既に信長は自刃をしており、光秀を追いかけますが破れ捕まり、斬首される人物です。「忠貞」は「黒坊」「黒坊主」「くろ男」とも資料の中で書かれている事があります。
基本的に「黒坊」「黒坊主」「くろ男」と一次資料に書いてあったら、この人物を疑い、その前後や、書籍にそれより古い版が無いかと探すといいと思います。
ただ、忠貞も資料自体、一次史料でも別の事が書かれているものもあるので、どれが真実かが分かりませんけどね。

もう少し調べていくと、「黒坊」「黒ぼう」というのは『弓の名手』を指す言葉として使われていたのではないか?というのもあります。

もう1つの『黒坊』ですが、「練り香」です。
人ですらありません。まぁ、日本のサブカル文化なら擬人化してもおかしくないですが。
日本の古典で出てくるもので、平安時代から伝わる六種の薫物の一つです。
「黒方」は、沈香や白檀をベースとした重厚で甘い香りが特徴で、冬場の香として好まれました。茶道では炉の季節(11月〜4月)によく用いられ、風雅な香りとともに冬の寒さを和らげる効果があるとされています。古典文学作品では、例えば紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などに「黒坊」が登場します。これらの作品では、「黒坊」が焚かれる様子や、その香りがもたらす情景などが描写されており、当時の貴族たちの生活や文化を垣間見ることができます。
参考:鳩居堂の練香 六種の薫物 御香 黒方
https://www.kohgen.com/i/5850100000000?srsltid=Afm...
戦国時代にも「黒坊」は使用されていました。当時の文献や記録にも「黒坊」に関する記述が残されています。
例えば、織田信長の伝記である『信長公記』には、イエズス会宣教師ヴァリニャーノが信長に献上した「黒坊」についての記述があります。また、上杉謙信の家臣である直江兼続の書状には、戦場での「黒坊」の使用について記されています。これらの記述から、戦国時代においても「黒坊」は貴重な香料として珍重されていたことが伺えます。特に、信長のような権力者にとって、「黒坊」は外交や儀礼の場において重要な役割を果たしたと考えられます。
また、戦国時代の武将の中には、自ら「黒坊」を調合する者もいたようです。
上杉謙信は自ら「黒坊」を調合し、戦前に兵士に焚かせて士気を高めたという逸話が残されています。このように、戦国時代における「黒坊」の使用は、単なる嗜好品にとどまらず、戦場における士気高揚や外交手段としても活用されていたものです。

加藤清正やその他の武将の残した記述の中に『黒坊』という単語が出てきます。これを『黒人の弥助』や「黒人を使っていた証拠だ」という暴論も出ているようですが、まったくの勘違いです。『清正の書状』という朝鮮出兵中に家臣に宛てた書状の中で、「黒坊」を朝鮮から持ち帰ったことを記しています。加藤清正は所持する茶道具の中に「黒坊」を題材としたものがあり、茶会において「黒坊」を焚いていた事が記録されているように、「黒坊」を好んで使って居、増した。
このように、当時の武将の中には練り香「黒坊」を愛好し、権力の象徴、精神的な支え、美意識の表れとして使用していた人たちが結構いました。

当時の事を記載している史料の中にある「黒坊」「黒坊主」「くろ男」は、別に『黒人の弥助』を指していなかった、ということですね。
ところが、海外の史料はもとより、日本でも「黒坊主、名前は弥助」という感じで書かれている史料があります。甲州征伐の部分で「信長に従い現れた黒坊主事弥助の大きさに驚く」という内容なのですが――私はこの話を聞いて、なんで?と思いました。何故なら、それ以前にも同じ資料内で会って見ている記載がありますよね……?と、この資料のこの記載は原本に確かにあるのかどうかを確認する必要があると思います。
これが、黒坊こと甘楽を連れてきていた、というなら甘楽は元々の地縁もある人物なので連れてくるのも分かるのですが。

その他

メモ書きですけど、これからもやっていこうと思っているのです。
頑張って英語化
日本独特な概念が多いので。
海外の人にも言う為に、用語集みたいなのも作った方がいいかもしれませんね。
資料調査
『家忠日記』や『多聞院日記』などもより深く調査
版を調べて比較すると意外な発見がありますので。
『信長公記』みたいに深く調べてみようかと思います。

また、イエズス会の記録も、再調査すると元がラテン語版からの翻訳本であったり、写本からであったりも分かってきていますので、それらは文献の再調査をしていく事になります。
九州大名ののこり2つを調査
とりあえず物理な国、島津ホグワーズのは見掛けただけでインド人とは確証がないみたいですけど。
なんとなく、「それ、ただの農民じゃね?」とか思います。
――なんというか、「日本の労働」と「その他の労働」って、どうも感覚が違うのですよね。
近代戦争中でも、日本人は一緒にというか率先して働いているのに、その他の国から「虐待された」というのを見掛けますので。
『弥助』おもしろ創作物
調査していく中で、江戸時代から弥助は創作にいい素材でした……というのが分かります。
というので、結構、面白い創作物もあります。
例えばそう、江戸時代から弥助を女体化させたり、不倫三角関係な物語を作ったり。
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