『信長公記』を色々と調査していた話で、文字量が多くなったので別ページです。
色々と版があるので、どの版を使うべきかと検討しました。

『信長公記』解説

『信長公記』は原本は失われており見つかっていません。
現在あるのは、活字本と写本です(ですので、厳密に言えば一次史料ではなく「一流資料として使える部分がある」と言った方が正しいのでしょうね)。

各版と製作年

色々ありますが、代表的なものは以下になります。
製作年と、何か「国宝だから」とそれを戦国時代の一次資料として使えると思っている人がいましたので、それぞれの文化財を記載しています。
・1598年:信長公記(原本):行方不明
・1615年:信長公記活字本 - 国宝
・1625年:長谷川家本信長公記 - 重要文化財
・1642年:林家本信長公記 - 重要文化財
・1652年:村井家本信長公記 - 重要文化財
・1684年:川村家本信長公記 - 重要文化財
・1684年:東照宮文庫本信長公記 - 重要文化財
・1691年:前田家本信長公記 - 重要文化財
・1691年:尊経閣文庫本信長公記 - 重要文化財
・1694年:陽明文庫本信長公記 - 国宝
・1696年:松平家本信長公記 - 重要文化財
・1697年:黒田家本信長公記 - 国宝・重要文化財
・1698年:神宮文庫本信長公記 - 国宝
・1702年:河合家本信長公記 - 重要文化財
・1704年:戸田家本信長公記 - 重要文化財
・1722年:黒川家本信長公記 - 重要文化財
・16〜18世紀:東坊文庫本信長公記:市指定文化財
・江戸時代後期:池田家信長公記 - 国宝
・1885年:東京大学本信長公記 - 重要文化財
他にもある(確認されるだけでも70版以上ある)のですが、代表的なものがこのようにあります。

信用が低い、としてあまり知られていないので、『甫庵信長公記』というのもあります(実は『信長公記』を基にした創作物で、一般には『甫庵信長記』と言われますが、たまに『甫庵信長公記』と書かれています。初刊年は諸説あり)。この『甫庵信長公記』だと、
・弥助がポルトガルから堺に渡来し、イエズス会宣教師によって信長に紹介された
・信長が弥助の容貌や知性に感銘を受け、家臣として召し抱えた
・弥助が信長の側仕えとして茶道や和歌を学んだ
・本能寺の変後は明智光秀に仕え、その後は行方不明になった
などが記載されています。この内容、見覚えがありませんか?
そう、自称ノンフィクションだと言っている某本で描かれている『弥助像』ですね。ただ、これも太田牛一の『信長記(信長公記)』を基として書かれた書籍であり、この本単体では史実調査には使えませんが、上手く使えば史実を調べるの使える資料になります。

弥助が賜った物

それぞれの版ですが、参照をしている物を辿っていきます。
どこで見分ければ、と思っていたのですが。今回の『弥助』の件はそのヒントになりました。
グループを分けた上で、その写本がどの本を基にしているかを内容比較で調査していきます。
刀一振り
このグループは、「弥助が刀一振りを褒美として与えられたと記述されている」というグループです。
1684年:川村家本信長公記
    活字本を基に長谷川家本の影響を受けている、東照宮文庫本と似ている
1697年:黒田家本信長公記
    川村家本を基に、独自内容を追記
江戸後期:池田家本信長公記
    黒田家本を基に、独自内容を追記
短刀と場所が分からない屋敷
このグループは、「弥助が短刀一振と屋敷を褒美として与えられたと記述されていますが、屋敷の場所は明記されていない」というグループです。
1625年:長谷川家本信長公記
    活字本を基に、独自内容を追記。
1652年:村井家本信長公記
    活字本を基に、長谷川本を参照している。
1653年 雑兵物語
    活字本を基に、長谷川本を参照している。
1672年:信長記
    林家本を基に、村井家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。
1691年:前田家本信長公記
    川村家本を基に、独自内容を追記。
1696年:松平家本信長公記
    前田家本を基に、独自内容を追記。
1691年:尊経閣文庫本信長公記
    川村家本を基に、前田家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。
1694年:陽明文庫本信長公記
    川村家本を基に、前田家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。
1698年:神宮文庫本信長公記
    川村家本を基に、前田家本・陽明文庫本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。
1702年:河合家本信長公記
    川村家本を基に、前田家本・松平家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。
短刀と京都の屋敷
このグループは、「弥助が短刀一振と屋敷を褒美として与えられたと記述されており、屋敷の場所は"京都の町中"とされている」というグループです。
1642年:林家本信長公記
    活字本を基に長谷川家本の影響を受けている
1684年:東照宮文庫本信長公記
    活字本を基に長谷川家本の影響を受けている、川村家本と似ている
1696年:松平家本信長公記
    前田家本を基に、長谷川家本信長公記、東照宮文庫本信長公記を参照しつつ、独自の内容も加えた
1704年:戸田家本信長公記
    長谷川家本と東照宮文庫本を中心に他の信長公記を参考にしている
その他
1615年:信長公記活字本:褒章の中身の記載はない
1885年:東京大学本信長公記:記載があるかどうか読めていない

『信長公記』利用の注意

『信長公記』を「戦国時代の史実の一次史料」として持ち出す場合は、それがいつ書かれた何版であるか、そして記載内容の中で使える部分はどこなのだろうかというのを、他の版や別の史料と突き合わせながら確認して使わないといけない資料だという事は忘れてはいけません。
1615年『信長公記活字本』
『信長公記』の中で一番古くからあるのが『信長公記活字本(1615年)』で、これは国会図書館の他、幾つもの場所で確認できます(活字本ならではですね)。史料としてはこれが一番信頼性が高いのですが、一級資料として使う場合は他の『信長公記』などを確認する必要があります。

この『信長公記活字本』を見る場合でも、幾つかを並行して参考資料として使う必要があります。
・1582年『信長記』(『信長公記』の元になっているものです。断片だけあります)
・1614年『信長記(信長公記をベースにして作られた創作本)』国会図書館所蔵
・1615年『信長記』国会図書館所蔵
・1663年『家忠日記 増補追加』国立公文書館所蔵(『家忠日記』の内容は利用に注意が必要です
・1691年『尊経閣文庫信長公記』
も並行して調査する必要があります。
本当は1691年『尊経閣文庫信長公記』よりも1625年『長谷川家本信長公記』の方がいいのでしょうが、調査し易さが『尊経閣文庫信長公記』の方が上(色々と研究に取り上げられている)だからですね。

内容を検討する時、例えば弥助が信長から賜った物があります。
・1615年『信長公記活字本』:「褒章を賜る」
・1582年『信長記』:「刀一振を賜る」
・1614年『信長記』:「御扶持を賜る」
・1615年『信長記』:「御扶持を賜る」
・1663年『家忠日記 増補追加』:「御扶持を賜る」
・1691年『尊経閣文庫信長公記』:「鞘巻き(短刀一振)と屋敷を賜る」
人によって意見が違うのは、参照した資料の違いがあるからです。
これは『信長公記』であっても、その版によって違います
ついでに、
・1581年『フロイス書簡』:「刀と御扶持」「刀と銅銭」「鞘巻きの刀」などに訳せる
『日本通信』の1581年10月15日に書かれたもので、書簡の原文はポルトガル語で書かれています。
"hum negro que o Padre Valignano trouxe consigo da India, chamado Lasù, o qual o Xogum tanto estimou, que lhe deu espada e renda, e o fez servir de moco de camara a Dona Oeno, sua principal mullher, e ainda de seu proprio aposento."
"ヴァリニャーノ神父に同行していたインドから来た弥助と呼ばれる黒人を、将軍(信長)はとても高く評価し、刀と御扶持を与え、お濃の方の付き人と、また自分の部屋付きとして仕えさせた"
という一文です。細かく書かれていませんが、「刀」を貰っている事は確かです。
1582年『信長記』と1663年『家忠日記』・1614年『信長記』・1615年『信長記』を合わせた「刀と御扶持」ではないかな?と思うのですが、確証はありません。「屋敷」はどこから記載があるものかと辿っていくと、1625年『長谷川家本信長公記』から出てきています。他にはないので創作の可能性が大きいです。また、「刀」も「短刀」に変わります。

個人的にはそれぞれの記載内容とその記載内容がある資料の製作年を比較すると、
・信長から直接に賜ったのは『刀(鞘巻きの刀)』
・『御扶持』は主従契約の契約金と給与を指す
・『褒章』は紹介した宣教師への紹介料も含んだ話
なのかなと思います。
鞘巻きの刀は信長は茶人や商人、芸能者、宣教師などの人達にも渡している物ですから、『家忠日記』ではあえて日記の記録として書き入れるような物ではなく、『御扶持』と「信長が異人を雇い入れた」事を記載したかったのかもしれません。

また、地縁もなく、知り合いもまだおらず、スムーズなコミュニケーションもまで出来ない1人としての身の上なのに屋敷を与えられても、正直困りますよね?と思います。これが日本人の武士であったら一族郎党もいたりするので、屋敷は喜ぶところなのかもしれませんが。

また、『「荷物持ち」なのかどうか』も比較調査ができます。
1615年『信長公記活字本』・1614年版『信長記(信長公記を基にした創作本)』・1663年『家忠日記 増補追加』では、刀持ちや荷物持ちは『成田弥六』という武士が書かれていますが、1615年版『信長記(1614年版の改定版)』・1691年『尊経閣文庫信長公記』では、刀持ちや荷物持ちをしていたのが『弥助』に変更されています。他、様々な本で「弥六」と「弥助」は文献によって混ざります。また、1582年『信長記』には記載がありません(というより、断片しかないので当該部分が見つかっていない)。
誤字ではないとはっきり分かるのであれば、1622年の京都で発刊された『武勇夜話』で出てきた創作逸話で、ここで「弥助は荷物持ち」という描写がありますが、これは1615年版『信長記』の影響と見れそうですね。
この『成田弥六』という人物は、信長19歳の頃には既に仕えている人物で古参の武士で、槍の名手だったそうです。

ちなみにですが、『弥助』という人物が荷物持ちをしたという記載は確かにあります。ただしこの記載があるのは1560年代の事の記述ですので、「荷物持ちをした弥助」は黒人の弥助とは別人です(文章だけ見て、それが何時の時代の事を書いたものかを確認していない人が勘違いしたのかもしれませんね。また、この『荷物持ちをした弥助』と『黒坊』(両方とも黒人の弥助とは別人)の存在が『甲陽軍鑑』1626年黒坂本のトンデモ逸話に繋がるのかもしれません)。
武家モンGET
これは、『戦国時代の調査を行う一次資料』としては問題があるのですが、『信長公記』には各武家本があります。
・1625年:長谷川家本信長公記 - 重要文化財
・1642年:林家本信長公記 - 重要文化財
・1652年:村井家本信長公記 - 重要文化財
・1684年:川村家本信長公記 - 重要文化財
・1691年:前田家本信長公記 - 重要文化財
・1696年:松平家本信長公記 - 重要文化財
・1697年:黒田家本信長公記 - 国宝・重要文化財
・1702年:河合家本信長公記 - 重要文化財
・1704年:戸田家本信長公記 - 重要文化財
・1722年:黒川家本信長公記 - 重要文化財
・江戸時代後期:池田家信長公記 - 国宝
などですね。

この武家本(武家モン)は調べてみると面白く、それぞれが自分の家門の事を追記し、既存の文でも自分の家門の記載をちょっとよく改竄したりと言う事があります。これを並べていくと、どの本がどう繋がっているかが分かります。大体、武家モンは川村家本に繋がり、その川村家本は長谷川家本に繋がります。

川村家本からは前田家本と黒田家本が大体のルートになります。この黒田家本とそのルートの先にある池田家本は、やはりそれぞれの家門についての追記があり、ちょっとよくする文の変更があります。池田家本ではその黒田家本の記載からなので、他の武家モンには書かれていない黒田家の事も少しよく載っています。また、戦国時代にはない地名や、江戸時代になってから分かった事などが記載されており、また数値が他の一次史料と大幅にずれている記載などが見つかります。

私が『信長公記』で注目するのは、長谷川本と川村家本ですね。
長谷川本自体が活字本を基にしていますが現存の中では比較的古いというのもありますので、比較対象としてどう変化させているかの注目的な部分になります。それに対して川村家本は長谷川家本を基にしていますが、それ以降の武家が持つ『信長公記』のほとんどのルーツになるからです。その後に続く1691〜1722年と短い期間で多くの武家モンが製作されているので、ある種、自家版『信長公記』を持つ事が武家社会で流行していたのでは?と思わせます。
????年『池田家本信長公記』
弥助に関す資料のる話で、たまに出てくるのが『池田家本』です。
この本は江戸時代から1960年台までは「太田牛一(信長公記の作者)の直筆」説がありました。ですが、1970年代からは別の説が出てきており、研究が進んでいます。ですが民間では今だに根強く「太田牛一直筆説」が残っており、それで主張される事が多いようです。

最新の研究であれば、『池田家本』は江戸後期(19世紀初期)に、九州で製作された本と言う説が主流です。
学説として2023年時点では江戸後期説が50%、直筆本説は5〜10%程度でしたが、現在は江戸後期説が過半数であり、直筆本説や1704年説などは5%以下になっています。2020年頃であれば江戸後期説が45%で、直筆本説が10〜20%程度があったのですが、研究により江戸後期説が確実に主流というのが大きくなってきており、自筆本説は準主流説から傍流説にとなっていっています。2000年頃であれば江戸後期説は35%、直筆本説が30%ぐらいあったのですけど。

また、武家本らしく池田家の事が他の本に比べて多いと追記されているのは分かるのですが、プラスして中の記載には黒田家の事が載っており、他の信市公記版では見られない上に黒田家本の内容と一致する部分が多く、黒田家本を基にしているのが分かります。また、戦国時代には無かった地名・人名や、他の一次史料での数値と大きく外れた数値が記載されていたりしますので、『戦国時代を知る資料』としては価値はもうあまり認められていません。
特に池田家本については奥書があり、それをもって「太田牛一の自筆本」説が出ていますが、現在は偽書である事が分かっています。『奥書は偽書』である、という結論は、「紙質が江戸中期〜後期」「筆跡が江戸後期の九州」また「筆跡が太田牛一の物とは違う」など、紙質学や筆跡学から出ています。

このような研究結果から『戦国時代の史料』としては薄れましたが、その代わり『江戸時代後期の人々の信長像を知る資料』としての価値が出てきています。
原本の信長公記の表記が残っている部分はあります。が、同時に追記や改竄された部分が大変に多く、奥書は偽書であるというのも分かっています。ですので、もし使う場合でも「どこの部分は戦国時代の史料として使える部分か?」を研究しておく必要があります。
それとは別に、「江戸時代後期の人々の信長像」を知る為の一次史料としての価値が今は出ているわけです。

現在の、この『池田家本信長公記』は

◆年代測定データの比較
複数の年代測定手法(放射性炭素年代測定、樹木年輪年代学、インクの成分分析など)を用いた結果、得られた年代データには一定のばらつきが見られました。しかし、多くの測定結果が江戸時代後期を示唆しており、この書物が江戸時代後期に作成された可能性が高いことが示唆されます。ただし、年代測定には、サンプルの採取方法や測定誤差など、様々な要因による誤差がつきものなので、他の分析結果との総合的な判断が必要です。

◆紙質学分析の詳細
紙質学的な分析では、用いられている紙の繊維構造、インクの成分、製造方法などから、以下の点が明らかになっています。
・繊維構造: 用いられている紙の繊維構造は、江戸時代後期に一般的に用いられていた紙の繊維構造と類似している。
・インクの成分: 使用されているインクの成分分析の結果、江戸時代後期に一般的に用いられていたインクの成分と一致する成分が検出された。
・製造方法: 紙の製造方法についても、江戸時代後期に一般的な製紙技術と一致する特徴が見られる。
これらの結果から、この書物が江戸時代後期に製造された可能性が高いことが示唆されます。

◆筆跡鑑定の専門家による意見
筆跡鑑定の専門家によると、この書物の筆跡は、太田牛一の他の書跡と比較して、いくつかの特徴が異なっていることが確認されました。特に、筆圧や筆線の太さ、文字の形状などに違いが見られ、同一人物が書いたものとは考えにくいとの意見が得られました。

◆内容分析では、以下の点が明らかになっています。
・歴史的事実との整合性: 書物に記述されている歴史的事実の中には、当時の史料と矛盾する部分が見られる。
・文体分析: 文体には、江戸時代後期に特徴的な表現が見られる一方で、太田牛一の他の著作とは異なる特徴も確認された。
・思想背景: 書物に反映されている思想背景は、江戸時代後期の思想動向と一致する部分がある一方で、太田牛一の思想とは異なる部分も確認された。
これらの結果から、この書物が太田牛一によって書かれたものではなく、江戸時代後期に他の誰かによって書かれた可能性が高いことが示唆されます。

変わらず『自筆説』もよく言われますが、最近の科学的な分析では学術的に江戸後期の作品の可能性が高いとなっています。
年々自筆説の支持率が下がっているのは、科学的分析は発展して行われるのですが自筆説を裏付けるような事があまり出てこないからです。

個人的には、実際、奥付にある1704年に1度作られているが。なんらかで紛失し、19世紀初頭に黒川家本を参考にして製作したのでは?という仮説を建てました。そう思う理由が、1704年の前ぐらいはちょうど、色々な武家で写本を製作されているようだ、と思ったからですが。
流行でもあったのでしょうかね?
1691年『尊経閣文庫信長公記』
この『信長公記』も、原本に近い写本だと言われていますが、内容を見ると17世紀の他の書物の影響が見れるところもありますし、加筆がありますので、何処までが一次史料として仕える部分かは見極める必要があります。尊経閣本に加筆されている部分は、信長の英雄像を強調したり、ドラマ性を加えたりするような内容を含んでいますので、注意が必要です。
内容を確認すると1691年『尊経閣文庫本信長公記』の記載内容は「川村家本を基に、前田家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照している。」という整合性があります。
また、よく「首巻がきちんとある」と言われますが、それより以前にある
・1615年『信長公記活字版』
・1625年『長谷川家本信長公記』
・1642年『林家本信長公記』
・1652年『村井家本信長公記』
・1684年『川村家本信長公記』
・1684年『東照宮文庫本信長公記』
・1691年『前田家本信長公記』
これらの「首巻」がだいたい記述内容が一致していますので、1691年『尊経閣文庫本信長公記』だけ首巻に追記されているようです。また、この『尊経閣文庫本信長公記』の首巻は最初はなく後世に付けたされた物である可能性が高いと考えられています。
こちらも自筆本説が元々あったのですが、2020年時点でその説の指示は10%ほど。現在は5%という程度です。17世紀後期説が2020年時点で80%ほどと主流になっています。

この『尊経閣文庫本信長公記』が原本に近いだろう、と言われるのは、太田牛一の子孫が書いているからですが。内容からすると、なんらかの理由で川村家本を基に、前田家本を主に参照しつつ、他の信長公記も参照して書いており。川村家本は活字本を基に長谷川家本の影響を受けているようですから。現在の所はやはり1615年『信長公記活字本』が一番原本に近い内容の可能性が高いですね。

ですが、複数の信長公記を折衷して作成されたため、他の信長公記にはない独自の情報が含まれ内容に差異が見られる点や、詳細な構成となっている点など、太田牛一の子孫による創作性がうかがえる要素も存在します。近年では、このような『尊経閣文庫信長公記』の独自性や価値について、活発な研究が進められています。もしかして、太田牛一が残したなんらかのメモ書きみたいなのがあり、それを盛り込んだ部分もあるかもしれませんね。

『家忠日記』

一次資料として『家忠日記』に記載がある、とするのも注意が必要です。
その注意を持たずに利用すると、それは一次資料になりません。
それはいつの『家忠日記』?
よく言われる『家忠日記』は原本ではなく、一般的に知る一番古いものも1663年『家忠日記 増補追加』という改訂版の版を重ねたものから来ています。

この『家忠日記 増補追加』は江戸時代前期の幕臣である松平忠冬1624年〜1702年)が編纂したもので、『家忠日記』を根本として、文禄3年以前を増補し、慶長1年(1596年)以降を追加して家康の死んだ元和2年(1616年)までを記載したものとされています。

原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主・松平忠房が修補したものが保管され現存するそうですが、原本の内容と1897年に出た史誌業書本及びそれをもとにした本の内容(一般的に知られている『家忠日記』の内容)は相違があると指摘されています。ですので原本を確認しないと、実際は分かりません

ですので、『家忠日記』も、他の史料と比較しながら見ていく必要がある資料です。
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