裏試合を含めると都合13試合。
長かったトーナメントもついに決勝を迎えた。
大方の下馬評を覆し勝ち上がったのは、桜月乃と綾小路聖子という、一見格闘技のイメージとは全く結びつかない可憐な少女達だ。
しかし双方とも並々ならぬ実力者であることは、既にこの場に集った者全員が理解していた。
医務室で目覚めた百が選手入場を促すアナウンスを聞き駆けつけると、丁度月乃がリングへ上がった直後のようだった。
激戦続きだからだろうか、インターバルがあったとはいえ疲労の色が見て取れる。
しかし些か頬が紅潮しているように見えるのは何かあったのだろうか。百が思案していると、試合開始のゴングが鳴り響いた。
最後の試合に観客たちの熱狂も最高潮に達しようとしている。
「ようやく来ましたわね。二高生の分際で私を待たせるなんていい度胸ですわ。立場もわきまえられない子にはお仕置きが必要みたいですわね。」
「遅れたことは謝るわ、ごめんなさい。…でも、二高生にも誇りがあるの。簡単に負けるわけにはいかないわ。」
様々な思惑が渦巻く大会に巻き込まれいつの間にか失念していたが、そもそも大会参加のきっかけも麗奈との高校同士の確執だったか。
まさかそれがこの大会の発端となっているとは露知らぬ月乃だが、奇妙な因縁を感じていた。
兎も角相手はここまでほぼ無傷で勝ち上がってきた強豪だ。構えを緩めず出方を伺う。
(……がんばれ)
遠巻きから我知らず月乃を応援してしまう百。
裏3回戦、りおなとの試合は決して勝てないものではなかった。
勝敗を分けた衆目に晒されてのスパンキングも、極め技をかけられていたわけでもなく、返す手段はあったはずだ。
だが全く予想だにしなかった攻撃に、羞恥、屈辱…そういった今までの戦いでは未知の感情が押し寄せ、百自身の心が敗北を受け入れてしまったのだ。
思い返すだけでも心がざわめき、思わずブルマの上からお尻を押さえてしまう。
(…あの人ならどんな状況でも絶対にあきらめなかった)
ただ一度きりの手合わせと、数度の試合を観戦しただけの百だが、何故かそんな確信があった。
だからこそもう1度、間近で月乃の試合を見たいと思ったのだ。
ゴングから暫くは双方動かず互いに睨み合っていた。
これまでの試合、共に自分から仕掛けたことはないが、その意味するところは全く異なる。
自身の力のみでは破壊力に劣るため相手の力をを利用しようと待つ月乃に対し、聖子はただ余裕から相手の力量を測ることを楽しんでいただけだ。
故に相手の力が守勢でこそ最も発揮されるのであれば、彼女は躊躇いなく―――
「―――それでは、いきますわよ?」
「っ!?」
両者の間合いを一足で詰めると、月乃の腹部目掛けて掌底を繰り出す。これは1回戦で麗奈に止めを刺した技だ。
一瞬反応が遅れたのは敵の予想を超えた速さもあるが、先ほどの体の火照りが完全には収まっていないのも一因だろう。
心のどこかで自分の状況を冷静に判断しつつ、咄嗟に両手で受け止めることに成功する。
が、正しく防いだ筈の月乃の体はこともあろうにふわりと宙に浮き、そのまま一間ほども弾き飛ばされていた。
思わずたたらを踏んで何とか体勢を立て直すものの、両腕に残る痺れに信じられないという表情で相手を凝視する月乃。
対する聖子は挨拶代わりとばかりに涼しげな風貌だ。
「…ふふ、どうやら本調子ではないようですがしっかりと威力を殺していましたわね。お上手ですわ」
何か魔性の類でも身に宿しているのではと疑いたくもなる威力だが、兎も角どんな一撃も必殺の威力だということは理解できた。
月乃の頬を冷や汗が伝う。
だがあれ程の威力ならば上手く返した時の相手へのダメージも跳ね上がる。
美咲の攻撃は避けていたことからも、耐久力まで人間離れしているということは無い筈だ。
次の攻撃の起点を絶対に見逃さないよう、感覚を研ぎ澄ます。
そんな月乃の心情を知ってか知らずか、聖子は悠々と近付くと鋭い回し蹴りを繰り出そうとした。
ここぞとばかりに捌こうと構えるが、聖子は膝を折り畳んだまままるでバレエのようにくるりと回転すると、勢いそのまま姿勢を屈め水面蹴りを繰り出す。
「きゃっ!?」
完全にフェイントに嵌まった形となった月乃。足元を払われ盛大に倒れ込む。
カメラマンの執念か桃色の下着が大スクリーンに映し出され、男たちから歓声が上がった。
一瞬痛みに顔をしかめる月乃だが、背筋を走る寒気から咄嗟に横に転がる。
果たして、今しがた倒れていた場所へ聖子の全体重を乗せた飛び蹴りが突き刺さっていた。
急ぎその隙に体勢を立て直す。
(あんなのをまともに受けたら骨がバラバラになっちゃうわね…)
ふとそんなことを考え、まだそんな精神的余裕があったのかと苦笑する月乃。
ここまでの強敵たちとの戦いは無駄になってはいないということか。
「少し、驚きましたわ。これまでの貴方なら今の攻防で終わりと思っていたのですけれど。…えぇ、では次のダンスはアレグロで参りましょう」
変わらず穏やかに微笑む少女。
来る、と身構えた時には深々と鳩尾に拳がめり込んでいた。
一瞬胃液が逆流しそうになる。しかしそんな間も無く次の掌打が叩き込まれ、よろめいたところへ今度こそ渾身の回し蹴りが月乃を吹き飛ばした。
ふわりと制服のスカートを翻らせてターンを決める聖子。
「―――」
そのままロープに体を沈めた月乃は、声も上げずに前のめりに倒れ込む。
あまりの展開の速さに一瞬静まり返ってしまう観衆。
口の端から涎を垂らしビクビクと痙攣を繰り返す姿は、誰が見ようと戦闘続行不能だろう。
「まぁ、なんてはしたない表情なのかしら。これでは二高生の誇りとやらも地に堕ちましたわね。
やはり、二高生には地べたを這いずる姿がお似合いですわ」
未だ鳴らぬゴングに最後のトドメを刺そうと近付いていく聖子。
これは優勝者決定かと皆が沸き立つ中、すんでのところで彼女は歩みを止めた。
「…ふぅ。あまり見苦しく足掻くのも淑女として如何なものかと思いますけれど。でもそういうの、私は嫌いではありませんわ」
衆目の中、月乃の手がロープを掴んだ。
あっけにとられる観客達を余所に震える足でゆっくりと、しかし確かに立ち上がろうとする彼女の目には、まだ消えぬ闘志が宿っていた。
冷静、理知的な立ち回りを旨とする月乃だが、彼女の心の奥底には燃え盛る焔が滾っている。
それは或いは自身を窮地へ陥れる諸刃の剣だが、今この瞬間に限っては確かに両の足を支える力となっていた。
とはいえ、その鋼の意志もあと一突きで潰えるであろうことは明白。
元より無残な敗北を晒してもらう予定であった彼女だ。そろそろ楽にしてあげるべきだろう。
聖子はあくまで優雅な身のこなしで月乃に歩み寄る。
ロープに背を預け、震える足で立っている月乃。意識だけは刈り取られまいと頭部をガードし、こちらを待ち構えている。
打撃にせよ締め技にせよ、月乃の最後の勝ち筋はいつもカウンターだ。
であれば勢いを付けた攻撃ほど彼女にチャンスを与えてしまうことになる。
それを重々承知している聖子は互いの吐息が聞こえるほどの距離まで近づくと、ゆっくりと自然な動きで月乃の胸に拳を添えた。
「では、おやすみなさいませ」
零距離から放たれる寸勁。
ロープが軋む程に仰け反った月乃の体は、やがて糸の切れた人形のようにこちらへ倒れてくる。
もたれかかってきた月乃の体に終わりを確信し体を引こうとした聖子の耳元で、捻り出すような月乃の声が響いた。
「…つか、まえた、わ…!」
刹那、月乃の両腕が抱き締めるように聖子の頭部を掴むと、華奢な胴体へ膝蹴りがめり込んでいた。
月乃はカウンターなど狙っていなかった。
万全の状態でもフェイントで手玉に取られるようでは、満身創痍のこの状態で決まるはずが無い。
だからせめて、重心を低く持ち、顔の守りを固め、打たせる部位を限定させることで耐えることに専念したのだ。
そこに来ると分かっている打撃であるならば、本来の威力よりもダメージを軽減することができる。
あと一撃で決まるという大前提を覆す「耐える」という選択肢は、分の悪すぎる賭けであったが故に聖子にとっては予想だにしないものだった。
この機を逃せば勝ちの目は無い月乃は2度、3度と重ねて膝を叩き込む。
「…かはっ!」
聖子が苦悶の表情を浮かべる。限界の近い体であってもこの状況ならば外すこともない。
しかしここまで動けたことが奇跡だったのか、ついに月乃の体がふらつき拘束を解いてしまう。
崩れ落ちようとする体。
(これが最後の…一撃…!)
無様だろうと構わない。
よろめく聖子の顔面へ倒れ込むように、残りの力と全体重を込めた拳を打ち込んだ。
折り重なり倒れ込む二人。
華やかさなど微塵もない。共にボロボロで下着丸出しの姿で倒れ伏す二人は、聖子からすれば「はしたない」ものだろう。
しかしどんな戦いだろうと、勝者と敗者は存在する。
―――果たして固唾を飲んで観衆が見守る中、震えながらも上体を起こしたのは、月乃だった。
鳴り響くゴング。気を失った聖子へ担架が駆け寄る。
最後の勝者へ盛大な歓声と拍手が送られるも、当の月乃は尻餅をついたまま呆然としている。
ややあって漸く理解が追いついたのか、ゆっくりと胸に手を当てると大きく安堵の溜息をついた。
勝利の喜びよりも戦いの終わった安心感が勝るとは、心優しいあの人らしいと百は思う。
「…おめでとう」
僅かではあるが口元に笑みが浮かんでいたことに、果たして百自身気付いていたのだろうか。
未だ歓声が止まぬリングと勝者の姿を今一度目に焼き付けると、彼女はもう一つの気がかりの元へ足早に駆けていった。
「あら、貴女は確か例の組織の…。ふふ、どうやらバレてしまっていましたかしら?
少しはひやりとしましたけれど、やはり月乃さんの膂力では決定打にはなりえませんわね」
聖子が担架で運び込まれた先を追いかけると、まるで何事も無かったかのように佇む彼女の姿があった。
「ここに来たのはなんとなく。偶然。でも…どうして、負けたふりなんかするの?」
楽しそうに笑う聖子。
「あの方はまだまだ強くなりますわ。ですので『収穫』はまたの機会の楽しみに取っておこうと思いましたの。
今日のところは―――そうですわね、月並みですが『月乃さんの心の強さが私を打ち破った』ということにしておきましょう」
なんだかよく分からない顔をしている百を面白そうに一瞥すると、踵を返す。
「それではごきげんよう。…はぁ、愛娘の顔に傷がついたと激昂するお父様をどうやって宥めたものかしら…」
憂鬱な声色とは裏腹に、彼女の足取りはとても楽しそうに軽やかだった。
長かったトーナメントもついに決勝を迎えた。
大方の下馬評を覆し勝ち上がったのは、桜月乃と綾小路聖子という、一見格闘技のイメージとは全く結びつかない可憐な少女達だ。
しかし双方とも並々ならぬ実力者であることは、既にこの場に集った者全員が理解していた。
医務室で目覚めた百が選手入場を促すアナウンスを聞き駆けつけると、丁度月乃がリングへ上がった直後のようだった。
激戦続きだからだろうか、インターバルがあったとはいえ疲労の色が見て取れる。
しかし些か頬が紅潮しているように見えるのは何かあったのだろうか。百が思案していると、試合開始のゴングが鳴り響いた。
最後の試合に観客たちの熱狂も最高潮に達しようとしている。
「ようやく来ましたわね。二高生の分際で私を待たせるなんていい度胸ですわ。立場もわきまえられない子にはお仕置きが必要みたいですわね。」
「遅れたことは謝るわ、ごめんなさい。…でも、二高生にも誇りがあるの。簡単に負けるわけにはいかないわ。」
様々な思惑が渦巻く大会に巻き込まれいつの間にか失念していたが、そもそも大会参加のきっかけも麗奈との高校同士の確執だったか。
まさかそれがこの大会の発端となっているとは露知らぬ月乃だが、奇妙な因縁を感じていた。
兎も角相手はここまでほぼ無傷で勝ち上がってきた強豪だ。構えを緩めず出方を伺う。
(……がんばれ)
遠巻きから我知らず月乃を応援してしまう百。
裏3回戦、りおなとの試合は決して勝てないものではなかった。
勝敗を分けた衆目に晒されてのスパンキングも、極め技をかけられていたわけでもなく、返す手段はあったはずだ。
だが全く予想だにしなかった攻撃に、羞恥、屈辱…そういった今までの戦いでは未知の感情が押し寄せ、百自身の心が敗北を受け入れてしまったのだ。
思い返すだけでも心がざわめき、思わずブルマの上からお尻を押さえてしまう。
(…あの人ならどんな状況でも絶対にあきらめなかった)
ただ一度きりの手合わせと、数度の試合を観戦しただけの百だが、何故かそんな確信があった。
だからこそもう1度、間近で月乃の試合を見たいと思ったのだ。
ゴングから暫くは双方動かず互いに睨み合っていた。
これまでの試合、共に自分から仕掛けたことはないが、その意味するところは全く異なる。
自身の力のみでは破壊力に劣るため相手の力をを利用しようと待つ月乃に対し、聖子はただ余裕から相手の力量を測ることを楽しんでいただけだ。
故に相手の力が守勢でこそ最も発揮されるのであれば、彼女は躊躇いなく―――
「―――それでは、いきますわよ?」
「っ!?」
両者の間合いを一足で詰めると、月乃の腹部目掛けて掌底を繰り出す。これは1回戦で麗奈に止めを刺した技だ。
一瞬反応が遅れたのは敵の予想を超えた速さもあるが、先ほどの体の火照りが完全には収まっていないのも一因だろう。
心のどこかで自分の状況を冷静に判断しつつ、咄嗟に両手で受け止めることに成功する。
が、正しく防いだ筈の月乃の体はこともあろうにふわりと宙に浮き、そのまま一間ほども弾き飛ばされていた。
思わずたたらを踏んで何とか体勢を立て直すものの、両腕に残る痺れに信じられないという表情で相手を凝視する月乃。
対する聖子は挨拶代わりとばかりに涼しげな風貌だ。
「…ふふ、どうやら本調子ではないようですがしっかりと威力を殺していましたわね。お上手ですわ」
何か魔性の類でも身に宿しているのではと疑いたくもなる威力だが、兎も角どんな一撃も必殺の威力だということは理解できた。
月乃の頬を冷や汗が伝う。
だがあれ程の威力ならば上手く返した時の相手へのダメージも跳ね上がる。
美咲の攻撃は避けていたことからも、耐久力まで人間離れしているということは無い筈だ。
次の攻撃の起点を絶対に見逃さないよう、感覚を研ぎ澄ます。
そんな月乃の心情を知ってか知らずか、聖子は悠々と近付くと鋭い回し蹴りを繰り出そうとした。
ここぞとばかりに捌こうと構えるが、聖子は膝を折り畳んだまままるでバレエのようにくるりと回転すると、勢いそのまま姿勢を屈め水面蹴りを繰り出す。
「きゃっ!?」
完全にフェイントに嵌まった形となった月乃。足元を払われ盛大に倒れ込む。
カメラマンの執念か桃色の下着が大スクリーンに映し出され、男たちから歓声が上がった。
一瞬痛みに顔をしかめる月乃だが、背筋を走る寒気から咄嗟に横に転がる。
果たして、今しがた倒れていた場所へ聖子の全体重を乗せた飛び蹴りが突き刺さっていた。
急ぎその隙に体勢を立て直す。
(あんなのをまともに受けたら骨がバラバラになっちゃうわね…)
ふとそんなことを考え、まだそんな精神的余裕があったのかと苦笑する月乃。
ここまでの強敵たちとの戦いは無駄になってはいないということか。
「少し、驚きましたわ。これまでの貴方なら今の攻防で終わりと思っていたのですけれど。…えぇ、では次のダンスはアレグロで参りましょう」
変わらず穏やかに微笑む少女。
来る、と身構えた時には深々と鳩尾に拳がめり込んでいた。
一瞬胃液が逆流しそうになる。しかしそんな間も無く次の掌打が叩き込まれ、よろめいたところへ今度こそ渾身の回し蹴りが月乃を吹き飛ばした。
ふわりと制服のスカートを翻らせてターンを決める聖子。
「―――」
そのままロープに体を沈めた月乃は、声も上げずに前のめりに倒れ込む。
あまりの展開の速さに一瞬静まり返ってしまう観衆。
口の端から涎を垂らしビクビクと痙攣を繰り返す姿は、誰が見ようと戦闘続行不能だろう。
「まぁ、なんてはしたない表情なのかしら。これでは二高生の誇りとやらも地に堕ちましたわね。
やはり、二高生には地べたを這いずる姿がお似合いですわ」
未だ鳴らぬゴングに最後のトドメを刺そうと近付いていく聖子。
これは優勝者決定かと皆が沸き立つ中、すんでのところで彼女は歩みを止めた。
「…ふぅ。あまり見苦しく足掻くのも淑女として如何なものかと思いますけれど。でもそういうの、私は嫌いではありませんわ」
衆目の中、月乃の手がロープを掴んだ。
あっけにとられる観客達を余所に震える足でゆっくりと、しかし確かに立ち上がろうとする彼女の目には、まだ消えぬ闘志が宿っていた。
冷静、理知的な立ち回りを旨とする月乃だが、彼女の心の奥底には燃え盛る焔が滾っている。
それは或いは自身を窮地へ陥れる諸刃の剣だが、今この瞬間に限っては確かに両の足を支える力となっていた。
とはいえ、その鋼の意志もあと一突きで潰えるであろうことは明白。
元より無残な敗北を晒してもらう予定であった彼女だ。そろそろ楽にしてあげるべきだろう。
聖子はあくまで優雅な身のこなしで月乃に歩み寄る。
ロープに背を預け、震える足で立っている月乃。意識だけは刈り取られまいと頭部をガードし、こちらを待ち構えている。
打撃にせよ締め技にせよ、月乃の最後の勝ち筋はいつもカウンターだ。
であれば勢いを付けた攻撃ほど彼女にチャンスを与えてしまうことになる。
それを重々承知している聖子は互いの吐息が聞こえるほどの距離まで近づくと、ゆっくりと自然な動きで月乃の胸に拳を添えた。
「では、おやすみなさいませ」
零距離から放たれる寸勁。
ロープが軋む程に仰け反った月乃の体は、やがて糸の切れた人形のようにこちらへ倒れてくる。
もたれかかってきた月乃の体に終わりを確信し体を引こうとした聖子の耳元で、捻り出すような月乃の声が響いた。
「…つか、まえた、わ…!」
刹那、月乃の両腕が抱き締めるように聖子の頭部を掴むと、華奢な胴体へ膝蹴りがめり込んでいた。
月乃はカウンターなど狙っていなかった。
万全の状態でもフェイントで手玉に取られるようでは、満身創痍のこの状態で決まるはずが無い。
だからせめて、重心を低く持ち、顔の守りを固め、打たせる部位を限定させることで耐えることに専念したのだ。
そこに来ると分かっている打撃であるならば、本来の威力よりもダメージを軽減することができる。
あと一撃で決まるという大前提を覆す「耐える」という選択肢は、分の悪すぎる賭けであったが故に聖子にとっては予想だにしないものだった。
この機を逃せば勝ちの目は無い月乃は2度、3度と重ねて膝を叩き込む。
「…かはっ!」
聖子が苦悶の表情を浮かべる。限界の近い体であってもこの状況ならば外すこともない。
しかしここまで動けたことが奇跡だったのか、ついに月乃の体がふらつき拘束を解いてしまう。
崩れ落ちようとする体。
(これが最後の…一撃…!)
無様だろうと構わない。
よろめく聖子の顔面へ倒れ込むように、残りの力と全体重を込めた拳を打ち込んだ。
折り重なり倒れ込む二人。
華やかさなど微塵もない。共にボロボロで下着丸出しの姿で倒れ伏す二人は、聖子からすれば「はしたない」ものだろう。
しかしどんな戦いだろうと、勝者と敗者は存在する。
―――果たして固唾を飲んで観衆が見守る中、震えながらも上体を起こしたのは、月乃だった。
鳴り響くゴング。気を失った聖子へ担架が駆け寄る。
最後の勝者へ盛大な歓声と拍手が送られるも、当の月乃は尻餅をついたまま呆然としている。
ややあって漸く理解が追いついたのか、ゆっくりと胸に手を当てると大きく安堵の溜息をついた。
勝利の喜びよりも戦いの終わった安心感が勝るとは、心優しいあの人らしいと百は思う。
「…おめでとう」
僅かではあるが口元に笑みが浮かんでいたことに、果たして百自身気付いていたのだろうか。
未だ歓声が止まぬリングと勝者の姿を今一度目に焼き付けると、彼女はもう一つの気がかりの元へ足早に駆けていった。
「あら、貴女は確か例の組織の…。ふふ、どうやらバレてしまっていましたかしら?
少しはひやりとしましたけれど、やはり月乃さんの膂力では決定打にはなりえませんわね」
聖子が担架で運び込まれた先を追いかけると、まるで何事も無かったかのように佇む彼女の姿があった。
「ここに来たのはなんとなく。偶然。でも…どうして、負けたふりなんかするの?」
楽しそうに笑う聖子。
「あの方はまだまだ強くなりますわ。ですので『収穫』はまたの機会の楽しみに取っておこうと思いましたの。
今日のところは―――そうですわね、月並みですが『月乃さんの心の強さが私を打ち破った』ということにしておきましょう」
なんだかよく分からない顔をしている百を面白そうに一瞥すると、踵を返す。
「それではごきげんよう。…はぁ、愛娘の顔に傷がついたと激昂するお父様をどうやって宥めたものかしら…」
憂鬱な声色とは裏腹に、彼女の足取りはとても楽しそうに軽やかだった。
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