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            【 俳句を読む 】

俳句を詠むのは「ムズカシイ」とお思いの人は多いかも知れません。

あなたでなくても、私もやっぱり、俳句を詠むのはとても苦手です。

けど、俳句を詠むのは苦手な人も、他人の俳句を読むのは自由です。


俳句を自由に読んではならないと思わせたのは、俳人かも知れない。

そして俳句を自由に読めない空気が俳句の元気を奪っていると思う。

読んで元気が出ないようなモノは、詰らない文字の羅列でしかない。


そんな値打ちのない俳句でも、読み方が正しければ元気が出るかも。

今、俳句の教室は大流行、だが読み方は好い加減になっていないか。

そんなの可笑しい、ぜったい可笑しい。あなたはそう思いませんか?


読み方を教えないで作り方を教えるなど、どこの世界にありますか?

その好い加減さが俳句を読めなくし・ひいては詠めなくさせている。

それが俳句の世界だというのなら、そんなのは絶対に間違っている。


俳句の解説を堂々と出来ない半端者が師匠なら絶対に間違っている。

お互いに懐を開いて俳句の自由な論評をしていくのが詩人であろう。

鼻糞ほどの詰らない知識を後生大事に仕舞い込むなど器が貧弱です。


私は有名人の俳句でも、自由な感覚で堂々と読んで、解説している。

俳句は受売りの知識でなく・宇宙の知恵であり、生命の詩なのです。



句意が分からん・理解できん・ムズカシイと愚痴っても解決しません。
そんな時、疑問を真正面からぶつけていって語り合ったら解決します。
自分はこう思う、わたしはこのように感じましたと語り合うのが良い。
自由に感じたままを述べ合うことでお互いが磨かれていくと思います。
これまでは自由に述べる場が皆無に近かったというのが実情でしょう。
質問することで、俳句を語る能力がある相手かどうか具体的になるし、
自分の考えがなく・受売りの言葉の人と同席する無駄は避けられます。

詩は即ち・自然であり、自然は即ち・詩であると捉えて良いでしょう。
俳句は自分の感覚で自由に読んで良いし・楽しみ味わって好いと思う。
転んだ・躓いた・滑ったと必要以上に騒がれると臆病になるものです。
即ち、自由に遊ばせて・自然に馴れさせることが学習の基本でしょう。
そういった意味から、俳句の読み方をうるさく言う意味はありません。
この世界のことや・自然が解るまで触れたり歩くことを禁じられては、
それは結局、過保護になってしまい・才能の芽を摘む行為になります。

漢詩には哲学があり・道理があり・浪漫があり・人間が感じられます。
私は哲学・道理・浪漫、つまり、心・勇気・希望・生活が欠かせない。
とは言っても、考え方は各人で異なるし・好みの問題かも知れません。
高浜虚子は花鳥諷詠の提唱者ですが、私は花鳥諷詠に満足出来ません。

高浜虚子とか、誰かの思想に傾倒することは悪いこととは申せません。
但し、誰かに傾倒することと誰かを理解し同化することとは違います。
傾倒した対象者の権威・文言を無責任に使って好いことにはならない。
仏に集ったところで仏になれる訳ではなく、糞バエは糞バエなのです。

これは何を言いたいのかというと、人の権威で喋らないことでしょう。
己の正当性を認めさせる目的で、誰かの権威を担保にしてはいけない。
己の失敗・未熟の責任を誰かに肩代りさせられるものではありません。
責任を持って己の考えを堂々と語るべきで、それが一人前の俳人です。
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このページへのコメント

なんか、文学で威張ろうとしているのが見え見えですね。
偉そうな事言わずにただ書いていればいいものを、プロになれないみっともない素人。

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Posted by 無題 2012年05月30日(水) 02:12:39 返信

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