1−3行政裁量

行政裁量

 行政法の基本的原理として「法律による行政の原理」が存在するが、現在の行政は、法律の機械的執行という役割のみを負っているわけではない。立法者はあらゆることを想定し、それに対する具体的処置をあらかじめ定めておくというのが理想ではあるが、それは困難であり、また行政の専門的知識や政治的判断を尊重し、判断を委ねるという場合も存在する。そこで行政には法律を執行する段階で何らかの判断の余地が残されているのであり、それを行政裁量と呼ぶ。

行政裁量の立法による拘束

 行政裁量がなんの拘束もなければ、それは行政の恣意・独断を招く。行政裁量は、法令によって一義的に拘束されない行政機関の判断の余地であるから、まず司法による統制以前に立法による統制が重要である。立法による統制がなければ司法も判断できないのであり、すなわち逆に言えば、立法が法の要件や効果そして特に手続を明示することは、行政裁量に対して立法・司法の二重の統制となるのである。ここに行政手続法(今まで存在しなかった、行政手続に関する一般的な法律)を定めたことの意義がある。

行政裁量と司法審査

 裁判所はどこまで審理しうるか?その限界は統制対象によってもかなり違ってくる。たとえば国家賠償請求における違法判断は、(行政活動の)取り消し訴訟における違法判断よりも一般にゆるい。また、各々の事案によってもかなり変わってくるであろう。
 判断の仕方も問題である。裁判所が違法であると判断した場合、それに変わる判断を出して良いのであろうか。たとえば免許の申請があって、それを行政機関が却下して、その行政の判断が間違っていると裁判所が判断した場合に、裁判所は「判断は誤りだ」といえばすむのか、「申請を認める」といってしまって良いのかである。後者の判断手法を「判断代置」という。しかし「判断代置」は行政権の一次的判断権を侵害することになる。従って裁判所は原則「判断は誤っている、やり直せ」というだけで足りる。
 ここに戦前から「覊束裁量」「自由裁量」の2分論が用いられてきた。
 まず行政活動を「覊束行為」と「裁量行為」にわける。「覊束行為」は法の解釈が一義的にしかできないような場合で、すなわち裁量は認められない。従って「覊束行為」には司法審査は及ぶ上、「判断代置」が可能である。 「裁量行為」はそれ以外、つまり裁量が認められる活動である。これをすべて審理不能としてしまっては、行政の恣意・独断を招きやすいため、これを裁判所の判断が及ぶ「覊束裁量行為」と及ばない「自由裁量行為」の2つに分類した。そこでこの「覊束裁量行為」と「自由裁量行為」をどこで区切るかが問題となってくる。
 戦後、行政訴訟法30条は行政庁の裁量権に「逸脱又はその濫用」があった場合には裁判所が判断できるとした。しかし「覊束裁量行為」と「自由裁量行為」を分けるのは困難である。行政訴訟の多様化もあり、司法判断は個別的に判断をしていくべきである。その(逸脱濫用の)判断基準としては、「目的拘束の法理」「平等原則」「比例原則」「他事考慮」などをもってする。
 さらに、行政活動の複雑化・専門化が進み、裁判所はますます判断しづらくなっている。そこで重要となるのが実体的な統制(上記、逸脱濫用など)よりも手続的統制である。行政の活動が求められている手続きに従ってなされたのかを審理することによって裁判所は統制を及ぼしていくことができる。しかし裁判所は法定手続しか基準にしない(これは裁判所がずっと採り続けている立場である。)ため、「行政手続法」を(不完全ではあるが)一般的に制定したことはこの点で意義のあることである。
2005年09月26日(月) 23:45:50 Modified by kasumi1998




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