武田泰淳『審判』

2006/06/15 研究ゼミ1

武 田 泰 淳 『 審 判 』

1.あらすじ
戦後の上海で、杉は「黙示録」を読みながら、多少底の深い、おちついた絶望感にひたっていた。その頃に同じ洋館に住む老教師の息子の二郎が復員してきて杉と出会った。二郎は真面目で立派な模範的な息子で婚約者と青春を楽しんでいるようであった。しかし二郎の表情はしだいに憂鬱の色が濃くなっていき、とうとう婚約も解消してしまった。
杉はある日、二郎からの手紙を受け取る。二郎は兵士だった時に命令で農夫を殺し、理由なく老夫婦を殺した罪を自覚して、その罪と共に生活するために中国にとどまる決心をしたのであった。(作品:書かれたのは1947年、作品の舞台は1945年8月〜1946年2月の上海)

2.武田泰淳
明治45(1912)年2月12日〜昭和51(1976)年10月5日。東京都文京区本郷にある浄土宗の寺に大島家の次男として生まれる。幼名、さとる覚。父の死後、遺言により父の師の武田姓を名乗り武田泰淳と名乗る。
浦和高校時代から左翼運動に参加。東京大学支那哲学支那文学科入学後竹内好と知り合う。左翼活動を繰り返し中退。昭和9年、魯迅の弟、周作人来日歓迎会を機に竹内好らと〈中国文学研究会〉をおこす。昭和12年より2年間、軽重補充兵として中支で従軍。昭和19年、再び中国に渡り、その地で敗戦を迎える。評論『司馬遷』(昭18)により文壇に認められ、戦後『審判』(昭22)や『まむし蝮のすゑ』(昭22)などを発表することにより、作家としての道を歩み始める。昭和26年、鈴木百合子と結婚。作品は他に『ひかりごけ』(昭29)、『森と湖のまつり』(昭30〜33)、『けらく快楽』(昭35〜39)など。また自伝風のエッセイを集めた『心身快楽 自伝』(昭52)がある。評伝『秋風秋雨人を愁殺す』(昭42)により昭和44年芸術選奨を受けたが固辞する。

3.語句はコチラ

4.作品解析
『審判』に登場する日本人
杉や友人たち:敗戦による悲しみで切望間を感じ苦悩している。
杉の友人の1人:外国人の仲間入りをして上海に残ろうとする。国が滅びるのは歴史の中では微動な事にすぎないと、開き直っている。
中国を去り日本で生きる道を選ぶ人
二郎:罪の意識から中国と共に生きようと留まる事を決意。

手紙によって心の秘密を打ち明ける形式は夏目漱石の『こころ』に似ている。作品が書かれたのは1914年、作品の舞台は1894年〜1912年と思われる。
『こころ』では物語の中心になっているのは、わたしと先生とKである。先生は手紙を送った後に自殺をするような事が手紙からは伺える。先生が自殺をするきかっけになったのはKへの贖罪意識、自我の破産・孤絶への極み、乃木大将の殉死からくる明治精神への殉死、若いわたしに血の出るような人生への教訓をしめすため等があげられる。

参考資料
文献
作家研究大事典編纂会『明治・大正・昭和 作家研究大事典』桜楓社、1992
兵藤正之助ほか『武田泰淳』冬樹社、1972
立石伯『武田泰淳論』講談社、1977
蒲生芳郎『漱石を読む 自我の孤立と愛への渇き』洋々社、1984
夏目漱石『こころ 第186版』角川文庫、1999
井上謙『評伝横光利一』桜楓社、1975
全国歴史教育研究協議会『世界史B用語集 改定新版』山川出版、2002
木之内誠『上海歴史ガイドマップ』大修館書店、1999
『まっぷるマガジン上海』昭文社、2006
地球の歩き方編集室『地球の歩き方 中国 2002-2003年版』ダイヤモンド・ビッグ社、2002
地球の歩き方編集部『地球の歩き方 上海 杭州・蘇州 2005-2006年版』ダイヤモンド・ビッグ社、2005
堀田雄康『新約聖書 共同訳・全注』講談社、1981
大貫隆ほか『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002
泉田昭ほか『新聖書辞典』いのちのことば出版部、1985
Webサイト
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租界と租借地 〈http://ww.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu...
サルヴァスタイル美術館〜西洋絵画と主題解説〜
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2006年06月16日(金) 00:59:24 Modified by rudoman2005




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