芥川龍之介『上海遊記』

2006/6/22 研究ゼミ1 D班 

『上海游記』芥川龍之介

上海まで2昼夜かけて移動。
現代の支那は詩文の中の支那ではない。今は猥褻な残酷な、食い地のはった、小説にあるような支那だ。豪傑はいそうだが、知識人・風流人はいなさそうな町だ。
《街について》日本の車屋は良いが、支那の車屋は不潔で、皆怪しげな人相。そして何やら大声でわめきたてている。結局馬車に乗ることにしたが、馬車も馬が暴れるなど安心して乗れるものではない。着いたホテルもよくない。こじきや城隍廟は昔読んだ支那の小説を想起でき、大いに敬服する。いかに支那の小説が荒唐無稽とはいえ、その想像の生まれた因縁はうなずける。
売淫が盛ん。娼婦が日本語で誘う。日露戦争中に日本の軍人が売春していたからだ。女が淫戯を見せる店(魔境党)や、男が女に媚を売る店(男堂子)もある。
とはいえ、女自体はなかなか良い。妓女であっても支那の詩を想い出させる。

城内の店構えはおもしろい。裕福、貧乏、様々な店がひしめき合っている。そして煩雑。支那人のハイカラと、纏足のおかみさん。待ち行く人には新旧支那が入り混じる。
新旧支那というと芝居(席を取った後場代を払う。軽便。1等席は2円から1円50銭。) もそうだ。当世流行の西洋風を意識か、中はまあまあキレイ。西洋式フットライトなどがある。幕は下等な広告幕で、背景の種類は極少だ。以上、西洋を真似した部分は下等だが旧劇の良い特色も残る。極端に道具を使わない象徴主義に意外な美しさがあり、演技はアクロバティックでありながら独特の気品が漂う。鳴り物の騒々しさは慣れない人には苦痛だが慣れると病みつきに。鳴り物のおかげか、しゃべってもいいのは至極便利だ。
芝居小屋はキレイだが楽屋はやはり汚い。役者は美しい着物を翻し手鼻をかんでいた。

料理屋は薄汚い店がたくさんある。しかし日本より料理はうまく、安い。ただ店内の居心地はよくなく無風流だ。有名な店でも実際は荒廃した茶館で、その池には男がゆうゆうと小便しているし、敷石に小便の小川もある。他の有名な店もトイレは料理場の流しだったりと似たような事情があった。
食べ物屋に『母忘国恥(国恥を忘れるなかれ)』排日の気炎が見られた。

新旧支那を政治家・章炳麟がいうには、上海は単なる支那でなく、一面では西洋で、日本より進歩している。西洋人の多いところは感じがよい、というようにかなり西洋化し、西洋への憧れが強い。
カフェに行く。オーケストラの巧拙はさすが西洋の舞踏場。派手なフィリピン女性、背広のアメリカ人男性、イギリス人夫婦など踊っている。夫婦にジョーンズ※1は吹き出すが、芥川は「年をとった男女も美しい」と感じる。別のカフェでは、中ではイギリス水兵と厚化粧の女がだらしなく踊っている。そこへ水兵がさらに来て、入り口にいた薔薇売りのおばあさんにぶつかった。持っていた薔薇かごは落ち、踏み潰された。可哀想に思いおばあさんに銀貨を与えて去ったが、彼女は手を出してついてきた。工部局が風紀を改めるため、街中央部はいかがわしいカフェはなくなったが郊外のカフェは未だ改善がない。
治安面では、上海は支那一の「悪の都会」だそうだ。人力車夫が追いはぎに変わったり、耳輪を盗るため耳ごと取るなどの事件が起こったりと物騒だ。他地域に比べ屍姦※2が多いそう。さらに、シベリア辺りから怪しい西洋人が大勢来ていたり、身なりの悪いロシア人が金をせびったりと、各国の人間が集まっているからだろうか風儀は確かに悪い。

滞在中は支那の政治家とも会う。全員、支那の政治に絶望を感じている。
芥川も新借款団※3の成立以後、日本に対する支那の世論とか盛んに論じた。支那はひと月もいれば政治を論じたい気になる国だ。空気が20年来の政治問題をはらむ。
李人傑氏は28歳の社会主義者で『若き支那』の代表となる1人。日本留学経験より日本語は上手できびきびとした話しぶりだ。才気があり、態度は真摯。鋭敏な神経の持ち主だろう、印象は悪くない。
鄭孝胥氏※5は清貧と称するが、実際は豪華な家に住み、息子は日本留学の経験がある。
前朝の遺臣、詩宗のようで好印象を持つ。
章炳麟氏※6も、豪華な家に住む。支那中心の政治・社会問題を話す。  
支那復興について、3人の意見は以下のとおり。
李氏が「支那の状況を解決できるのは、共和※7や復辟※8でなく社会革命のみ。(『若き支那』に従う。) 社会革命はプロパガンダで起こすのではない。覚醒した支那の士人は知識に飢えている。刻下の急務は著述だ。」「今の芸術にも失望。プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕は今はない。」
「現代支那に民意なし。民意なければ革命もなく成功もなし。」
「今、注目すべきは支那銀行団。北京政府が、銀行団に左右されている。」と言ったのが私(芥川)の蕪雑な記録に残っている。鄭氏も「共和に執する限り、永久に混乱は続く」と説く。章氏は「学問芸術はなおさら沈滞。支那復興は無数の事実から帰納する。」という主張だが、その時私(芥川)はただ寒かった。

《上海に居る日本人について》(物書き、俳人が多くいる。)海外へ出ると、日本のコイや桜など些細な日本の姿をみるだけで幸せになれるようだ。上海に来たばかりのカフェの給士(日本人女性)は日本へ帰りたいと涙ぐむ。長く住んで、全ての面で上海は西洋同等かつ日本より上、といっていた人も、遺書には「なにがあっても骨は日本に。」と書くほどだ。
《キリスト教について》明代、キリストの力強かった。清の雍正 (1722〜 1735) の年間、十字架を持っていると死刑。中華民国10年、同文書院※9の学生(日本人学生)たち、十字架を背に記念写真。
《語句・人名》※1 ジョーンズ…英国人。国際通信社社員。日本で芥川と親しく交流。支那で芥川を出迎えた一人。
※2 屍姦…死体を姦淫すること。または強姦により殺すこと
※3 新借款団…1919年5月アメリカが提唱した日英米仏新借款団。
※4 鄭孝胥(1860〜1938)清末の官僚・満州国の政治家・書家。上海商務印書館(官営の出版機構)の支配人。ラストエンペラー溥儀の忠臣で、溥儀に従い日本軍の庇護下に入っていた。満州国建国後、総理大臣、文部大臣相当の職に就く。
※5 章炳麟(1869〜1936)学者・革命家。辛亥革命の三尊の一人。伝統的な郷紳知識層の民族主義の見地から,いわゆる滅満興漢、光復という伝統的な種族革命論を堤唱。数度にわたる日本亡命では,孫文と提携し、中国人留日学生に古典学を講義しつつ民族主義をも鼓吹するなど多大の影響力を与えた。中国同盟会の結成にも積極的に参加。しかし西欧的な民権の確立を第一とする孫文と次第に疎遠となった。辛亥革命後は,南京臨時政府の枢密顧問など要職に就任。第二革命後は,志を得ないまま政界から引退,上海で学問に没頭し、著作で「小学」の概念を樹立した。
※6 借款…政府または公的機関の国際的な長期資金の貸借。
※7 共和…二人以上の人が共同し和合して事に当たること。
※8 復辟…一度退位した君主が再び位に就くこと。復位。重祚(ちようそ)。
※9 同文書院…第二次世界大戦以前、東亜同文会により中国に設立された高等教育機関。日本人が海外に設立した学校の中で最も古いものの1つ。興学要旨「中外の実学を講じ、中日の英才を教え、一つはもって中国富強の本を立て、一つはもって中日揖協の根を固む。⇒中国を保全し、東アジア安定を目指す。」学生は卒論のため、数名のチームを組み各地へ3ヶ月〜半年の中国調査旅行をする。1945年、日本敗戦とともに閉学。
2006年06月18日(日) 17:37:41 Modified by rudoman2005




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