2式重戦車

2式重戦車
 2式重戦車は帝国陸軍が開発し、第二次世界大戦に実戦投入した戦車である。制式採用は紀元2902年(1942年)であることから、2式重戦車と命名された。開発・製造は三菱。
 日本陸軍の基準では重戦車に分類されるが、車体重量は35tであり、M4シャーマンやT−34と同等程度の重量に過ぎず、停戦後は分類を中戦車に直している。

開発の経緯
 ノモンハン事件において、帝国陸軍は最新鋭と疑わなかった97式中戦車が全くソ連製戦車に歯が立たないことを思い知らされた。また、対戦車火器の不足が認識され、主要な対戦車攻撃兵器が火炎瓶程度しかなく、速射砲も十分な数がないことが判明した。
 満州の大慶油田をめぐる日ソの軋轢はノモンハン事件以後も強まるばかりであり、日本の生命線ともいえる大慶油田の防衛、そして対ソ戦への準備が進められる中でソ連戦車に対抗できる新型戦車の開発が急ピッチで進められることになった。
 そうした対ソ戦用戦車は当面の間は97式戦車の改良型で凌ぎ、その間により抜本的な対策、つまり新型戦車の開発が行われることになった。
 当面の主力は、短砲身の57mm砲を90式75mm野砲に乗せ変えた97式中戦車改である。当初は高初速の47mm砲搭載案があったものの、榴弾威力が乏しく歩兵支援に不利という判断から砲身寿命が短く砲兵科で持て余していた90式野砲を大型砲塔に収め、97式中戦車の車体に載せ、97式中戦車改が開発された。
 しかし、この戦車はもともと歩兵支援用の97式戦車に重い90式野砲を無理やり載せただけなので路上速度は低下、さらに重量過大であるため足回りに無理があり、射撃速度も遅く、換気装置もないので連続射撃を行うと一酸化炭素中毒になるという兵器以前に機械的な信頼性が壊滅的な代物だった。
 これならば同じ97式中戦車の車体にオープントップで90式野砲を搭載した1式砲戦車の方が遥かにましという状態で、新型戦車開発は急務となっていた。
 
設計
 当面は97式中戦車の改良で凌ぐという方針のもと、新型戦車開発はソ連がいずれ開発するだろうBT−7の後継戦車を対抗することを念頭に昭和16年に設計が開始された。
 また、その設計の参考としてノモンハン事件で鹵獲したBT−7や中華民国がドイツから購入した2号戦車の横流し品が日本に持ち込まれ、最終的には出所不明ながらもドイツの3号戦車まで持ち込まれた。
 そうした関係から設計は国産の伝統を一旦全て忘れて、独ソの良いところ(と思われる部分)を抽出したものとなった。
 車体設計はドイツの3号戦車の生産性に優れた溶接箱型車体が採用された。車内の乗員の配置も全て3号戦車を模範とした、大きさ以外は全て3号戦車の拡大コピーという代物だった。箱形車体の装甲は全て垂直装甲で、車体正面の装甲は80mmとした。
 97式中戦車に採用された傾斜装甲は工作の手間がかかる割にあまり効果がないことがこの時点で判明しており、生産の容易な垂直装甲=箱型車体の採用となった。もっとも97式中戦車の傾斜装甲に効果がないのは装甲板の材質が悪く、根本的に装甲板が薄いためであって、傾斜装甲そのものに意味がないと考えたのは全くの早計だった。しかし、垂直装甲で構成される箱型車体は生産性が良いのも確かな話であり、車内スペースを広く取れるという利点があるので一概に間違いとはいえなかった。
 装甲は97式中戦車改の90式野砲の砲撃に耐えることを目標として前面装甲は80mmとされた。ノモンハンで対戦したBT−7の後継戦車は75mm級の戦車砲を備えていることは確実だと考えられていたのである。実際に、トルコや中央アジアに開設した諜報機関では、そうしたソ連製の次期主力戦車に関する噂が集まってきており、ソ連軍の新型戦車の目撃情報も集まるようになっていた。
 特にソ連軍がフィンランドに侵攻した冬戦争において、日本軍はいくつかの貴重な情報を集めることができた。フィンランドに装備更新で余った中国向けに輸出されるはずだった多数の38式歩兵銃を無料同然の価格で売却する条件として、フィンランドは貴重な戦訓を日本に提供したのである。その中には新型重戦車(KV−1)に関する情報もあった。
 そうした新型戦車が備える75mm砲に耐えるぎりぎりのラインが80mmの装甲といえた。側面は30mm、背面は20mmと虚弱であるが、敵の戦車砲には正面装甲で対抗することとされ、重量軽減のために側面装甲の強化は行われなかった。なお、車体の幅は3mに抑えられたが、これは国内の鉄道輸送を考慮したものである。
 さらに冬戦争の戦訓から、ディーゼルエンジンの戦車でも火炎瓶の攻撃で容易に炎上させられることが判明し、それまで陸軍が目指してきた燃えにくい戦車というコンセプトは基本的に不可能であることが了解された。陸軍は貴重な戦車が炎上して全損することを恐れて97式中戦車に空冷ディーゼルエンジンを使用していたが、フィンランド軍が大量使用したモロトフ・カクテルはディーゼルエンジンのソ連戦車にも有効であることが確認され、燃えにくい戦車は絵に描いたもちでしかなかったことが判明したのである。
 そのために2式重戦車は馬力を稼ぎやすいガソリンエンジンを採用している。不用になったBMWの旧型水冷エンジンを改造したもので、500馬力を発揮するものが用いられた。また、BT−7をモデルにエンジンとトランスミッションを車体後部にまとめたRR駆動を日本製戦車で初めて採用している。これによって車内を縦断するドライブシャフトがなくなり、車内スペースの有効活用が可能になっている。しかし、RR駆動は癖が強く、トランスミッションはドイツのものを参考にしたシンクロメッシュ式を採用していたが、レバー類は非常に重く、操縦手は苦労をさせることになる。後に電動補助装置が装備されて操縦は格段に楽なものになった。
 なお、サスペンションは3号戦車のトーションバー式でも、BT−7のクリスティー式でもなく、97式中戦車と同じリンクアームとコイルスプリングを併用した日本独自のサスペンションである。3号戦車やBT−7のような高速発揮には不向きな形式だが、97式中戦車における実績を重視したものである。サスペンションとしてはあまり優秀ではないものの、35tという重量からいけば十分に間に合うものだった。ただし、車外に剥き出しになっているコイルスプリングは被弾に弱いという欠点がある。
 2式重戦車で最大の問題になったのは火砲の搭載だった。2式重戦車の搭載砲は最初から決定しており、ドイツ製のFLAK36をライセンス生産した98式8糎高射砲を転用することが決まっていた。この砲は既にスペイン内戦においてソ連戦車を相手に対戦車戦闘を経験し、大きな威力があることが判明していた。ノモンハン事件でも急遽、生産されたばかりの2門が送られて後方の師団司令部付近まで進出したBT−7を撃退する大活躍していた。98式8糎高射砲用の砲弾も既にドイツから輸入、ライセンス生産されており、対戦車戦闘用の徹甲弾(バッツ39)もその中に含まれていたので、新規に開発する必要がないのも大きな利点である。
 しかし、巨大な88mm砲を戦車砲に転用することは容易ではなく、こればかりは全く1からの研究が必要になった。3号戦車の37mm砲やBT−7の45mm砲とアハトアハトは重量、寸法、反動等の全ての次元が異なっていた。アハトアハトの設計に手を加えなければ砲塔に収めることはできないので、新型戦車の開発は一重にアハトアハトをいかにして小型化し、砲塔に収めるかという一点にかかっていたといっても過言ではなかった。また、88mm砲を収める砲塔も巨大なものになることが予想され、その製造も至難の業といえた。
 結局、砲塔は3号戦車の砲塔を拡大したようなものになったが、後部にバルジを設けて長大な砲身とバランスがとることにした。バルジの中には砲弾ラックが設けられ、即応砲弾が収められていた。ラックにはローラーが取り付けられ、迅速に砲弾が取り出せるように工夫されている。しかし、それ以外の砲塔設計は全て3号戦車の拡大したものに過ぎず、砲塔前面の装甲防盾だけが日本オリジナルの設計と言えた。しかし、当初の砲塔正面装甲は80mmでは不足であり、後に3号戦車のそれをまねた20mmの増加装甲をボルト止めした際に防盾は撤去され、日本オリジナルの設計は後部のバルジだけになった。砲塔リングの直径は1,850mmでこれはドイツの6号戦車と同じ値である。また、2式中戦車は日本戦車で初めて砲塔バスケットが採用された。なお、3号戦車、4号戦車の砲塔前面に見られる切り欠きがないのは車体に十分な広さがあり、砲塔旋回時に干渉する物がないためである。
 砲塔の旋回は人力では不可能なので、電動サーボ機構が装備された。また、人力で加速させることができるように旋回ハンドルも備え付けられている。ただし、砲塔が重く巨大なために旋回速度は遅く、近接戦闘は苦手だった。また、電動サーボは大味で微調整が難しく、最後の微調整は人力のハンドルで行わなければならなかった。この点でティーガーの砲塔旋回装置は非常に優れており、優れた調速能力をもつティーガーのような迅速な照準、射撃は2式重戦車では困難だった。
 なお、2式重戦車の車体、砲塔は全て溶接によって構成されるが、これに使われている技術は全て海軍から提供されたものである。
 第二次ロンドン条約によって主力艦と補助艦を削減した海軍では海軍工廠の設備が一部遊休化しており、戦艦用の装甲板を製造する大型プレス機や次世代駆逐艦用に開発した溶接用装甲板等の新素材、海軍砲の製造設備の維持に苦労するようになっていた。そこに目をつけた陸軍は海軍と協定を結び、海軍の日常業務に必要な部分を侵さないことを条件に海軍工廠の設備を使うことができるようになっていた。
 実際問題、陸軍には80mmの装甲版を製造する技術も経験もなく、装甲板の溶接の技術もなかったことから海軍の協力がなければ2式重戦車は成立しなかった。97式中戦車に使われた装甲板は列強各国の同業者が見たら眉をひそめるほどのひどいもので、重機関銃の連射を浴びると割れてしまうほどだった。表面に焼きいれを行うことで硬度を高めたが、粘りがないために簡単に割れてしまうのである。
 それに比して、海軍は戦艦用の装甲板の製造に経験を有し、電気溶接でも強度の落ちない均質圧延装甲板を実用化しており、その海軍工廠の設備を用いて戦車用の装甲板を増産することは簡単なことだった。
 第1次世界大戦においてイギリスの海軍大臣が塹壕突破兵器として戦車の開発を推進した歴史があり、そうした故事を引き出して帝国海軍が遊休化していた設備を使って陸軍の戦車生産に協力するのは無理のある話ではなかった。
 シベリア戦役勃発後は艦艇の建造計画は殆どが白紙に戻る中、海軍工廠がフル稼働し続けたのは、陸軍用の戦車装甲を生産するためである。
 
試作、実戦配備
 砲塔を搭載しない試験車両は昭和17年4月に完成していた。しかし、砲塔の設計と砲の改修作業は遅延しており、とりあえず車両試験だけが先に進められた。
 前年度に戦端が開かれたシベリア戦役は日本軍の奇襲攻撃によってソ連空軍が殲滅され、制空権を完全に掌握した日本軍が開戦3ヶ月でハバフロスクとウラジオストックを陥落させるという大戦果を挙げていたが、ソ連軍の冬季反撃で大損害を蒙っていた。
 日本軍が予想したとおりにソ連軍はBT−7の後継戦車として、T−34やKV−1を完成させていた。そして、日本軍の期待していた97式中戦車改はT−34に全く歯が立たず、勝ち戦の中で戦車隊だけが壊滅的な打撃を受けるという異常事態になっていた。
 陸軍の兵器でT−34やKV−1に対抗できるのは98式8糎高射砲の水平射撃だけで、後は歩兵の火炎瓶や梱包爆薬、破甲爆雷、対戦車地雷や馬乗り攻撃といった血まみれの対戦車肉弾攻撃しか残されておらず、勝ち戦の中で地上戦では苦闘を重ねていた。
 そうした戦況において新型戦車の要求は大きなものがあり、なかなか完成しない砲塔を待ちながら車両試験は続けられ、8糎戦車砲の代わりに木製のダミーを乗せた砲塔が完成するとすぐにそれを載せて試験が行われた。
 やはり、前例のない35tの大型重戦車というだけあって、試験においてはトラブルが頻発したが、死人が出るほどの関係者の努力によって8糎戦車砲が完成するまでにほぼ初期故障は解消されていた。試験終了前から車両の生産ラインが立ち上げられ、海軍工廠から届けられた装甲板を組み立てる作業が始まっていた。
 そして、やっと2式8糎戦車砲が完成し、既に完成して砲の到着を待っていた最初の量産車両12両にまだ熱い戦車砲が届けられたのは昭和17年9月だった。
 大連で荷揚げされ、鉄道でハイラルに送られた12両の2式重戦車は直ちに前線に投入され、T−34に対して明らかに砲火力において優位と判定され、初陣においてアウトレンジ戦法によって多数のT−34を撃破して、日本軍戦車兵の溜飲を下げさせた。ほぼ同時期に現れたティーガー重戦車と同じ88mm砲を持つ新型日本戦車の存在はすぐにソ連にも知れ渡り、日本がティーガーを生産していると誤解させた。
 しかし、砲塔形状からしてティーガーというよりは3、4号戦車の方が近く、6号重戦車との類似点は88mm砲ぐらいしかない。2式重戦車に似た車両を探すとなると、RR配置のために砲塔を車両前部に寄せた配置を取っていることから、不採用になった電動式ティーガー、ポルシェ・ティーガーに似ていると強弁できなくもない。

火力
 2式重戦車の主砲(2式8糎戦車砲)は56口径88mm砲である。これはドイツのFLAK36、88mm高射砲を戦車砲に改造したもので、当然ながら対空攻撃能力はない。
 2式8糎戦車砲の開発は2式重戦車に搭載することを前提として、2式重戦車の開発と平行して行われており、どちらかが失敗しても2式重戦車の成功はおぼつかないという非常にハイリスクな賭けといえた。
 結果としてこのハイリスクな平行開発は成功し、2式重戦車は車体と砲塔の完成と同時に完成した砲を受け取ることができたが、もしもそのいずれかが失敗していた場合、目もあてらないこと(ほかに適当な戦車砲は90式野砲しかなかった)になっていたことは間違いない。
 なお、ドイツのFLAK36を原型とする2式8糎戦車砲はドイツの6号戦車と同一の砲(KwK36)とされている場合が多いが、実際はかなり異なり、高射砲から戦車砲へ改造において日本側が苦心した様子が見て取れる。そもそもFLAK36そのものが日本の冶金技術の限界に近いものだったのだから、それも当然といえた。
 なお、日本版88mm砲の装甲貫徹能力は冶金技術の低さからオリジナルの88mmに比べて劣り、1000mでの装甲貫徹は100mm(オリジナルは122mm)に留まっている。オリジナルよりも10〜15%ほど能力は低い。
 さらに命中精度は光学照準器の性能の低さからかなり低いレベルに留まっている。遠距離砲撃戦での命中率は悪く、火力の優位を生かしきることができていたかは疑わしい。
 しかし、2000m以内ならばどこに命中させても確実にT−34を撃破できる火力は90式野砲にはないものである。

防御
 2式重戦車は平面で構成された箱型車体を採用しているために車体の前面、側面、背面の装甲は全て垂直装甲である。車体前面装甲は80mm、車体側面装甲は30mm、車体背面装甲は20mmであり、側面に攻撃を受けた場合、37mm砲にかろうじて耐える程度の防御しかない。背面装甲にいたっては重機関銃に抜かれかねない。砲塔は前面80mmだったが、すぐに3号戦車を真似て20mmの装甲板をボルト止めしているので合計100mの装甲であるが、ティーガーのそれに比べれば相当に劣る。
 2式重戦車と比較されるのはドイツの4号戦車であるが、おおむね同程度の防御、砲塔に限れば2式重戦車のほうがやや良好といった評価が多い。
 傾斜装甲を効果なしと考えたのは完全な早計だったものの、生産性や車内容積の有効活用といった観点からすれば垂直装甲の採用は間違っていたと言い切るのは難しい。鉄道輸送のために車幅を3m(T−34と同じ)に抑えた2式重戦車が巨大な88mm砲塔を搭載しながらも車内容積に余裕があったのは、RR駆動及びコイルスプリングサスペンション、そして箱型車体(垂直装甲)によるものといえる。3号戦車のそれを真似た乗員配置に加え、車内スペースの余裕は2式重戦車の戦闘力発揮に効果的だったのはいうまでもなく、傾斜装甲の不採用は必ずしも失敗とは言い切れないと考えられる。
 
戦歴
 2式重戦車が本格的に実戦投入されたのは1942年の冬だった。
 この時点でソ連にとって戦況は全く絶望的なものとなっていた。1942年の夏季攻勢(ブラウ作戦)により、バクーの油田を失い、前年のタイフーン作戦によるモスクワ失陥とあわせて継戦能力は崩壊寸前だった。レーニングラードも陥落は時間の問題であり、ロンメルに導かれたDAKがスエズを渡り、中東になだれこんだことでイラン経由の援助物資も届かなくなった。英国からの援助物資はアルハンゲリスクに届いていたが、モスクワが陥落したことで鉄道網が大混乱で輸送は遅々として進まず、港に野積みされて氷つくばかりだった。
 スターリンは徹底抗戦を指示し、冬季反撃でバクーの油田地帯の奪回を図ったが、燃料事情の悪化と戦力の消耗、そして反撃に必要な予備兵力の大半がシベリア防衛に投入しなければならない戦況となっていては効果的な反撃など不可能だった。
 しかし、機械化率の低く、まともな装甲戦力および対装甲兵力をもっていない日本軍にとってソ連軍のシベリア方面での冬季反攻作戦『ヴォストーク』は戦争開始以来、最大のピンチとなった。
 このころになるとソ連もT−34を集中運用することが効果的であることを学び、日本軍がろくな対戦車兵器を持っていないことを知るところになっていた。
 120万の大軍でシベリアに攻めこんだ日本軍の機械化率はおよそ10%に過ぎず、火砲や戦車は全てソ連軍の方が質でも量でも勝っていた。日本軍が勝っているのは航空戦力のみで、あとは精神力ぐらいしかないとされるほど酷い有様だったのだ。
 T−34の5個戦車旅団の波状攻勢によってハイラル共々6個師団(第15軍)がソ連軍の包囲下に陥り、さらにチチハルに迫ったときの絶望感は当時、そこにいた日本人の全てが様々な方法で記録している。
 しかし、戦線崩壊の危機にあって、山下奉文大将(シベリア総軍司令官)は冷静を保っており、可能な限りの偵察機を飛ばし、無線傍受等で戦況の把握に努めていた。そして、スターリンの参謀と名高い堀栄三情報参謀はソ連軍が燃料不足で行き足が鈍っていることを掴み、それが反撃の端緒となった。
 山下大将は包囲下に陥ってパニック状態に陥っていた第15軍の指揮系統と士気を回復させるために飛行機で敵前逃亡を図った第15軍司令官、牟田口廉也中将を銃殺刑に処し、宮崎繁三郎少将を野戦昇進させて中将とし、第15軍司令官に任じている。
 第15軍の運命を委ねられた宮崎中将はソ連軍の包囲下という極限の状況下でありながらも素早く部隊の掌握に成功し、日本軍の反撃開始までハイラルを守りとおした。
 ハイラルが落ちないことから補給線を延ばせないソ連軍は、もともとバクーの油田を失っていたことから十分な作戦用燃料を確保することができておらず、チチハルで日本軍の防衛線に接触すると進撃が止まってしまった。
 この時の戦闘で1個連隊の2式重戦車が投入され、車体を地中に埋めるダックイン戦術でT−34の波状攻撃を凌ぎきっている。ソ連軍は貴重な弾薬をつぎこんで砲兵支援を行ったが、予備の陣地を複数用意して速やかな陣地転換を行う2式重戦車を捕捉することができなかった。
 そして、天候回復と同時に攻撃を開始した帝国空軍の戦術攻撃機がソ連軍の補給線をずたずたにしていった。補給の欠乏から優勢なはずの火砲や戦車がただの鉄の塊に変わる中、日本軍の反撃が開始され、春の泥濘の季節が到来するまでにハイラルの包囲は解かれ、戦線をソ連軍の攻勢開始時のラインまで押し返すことに成功する。
 そうした戦いの中には常に2式重戦車の姿があったことは言うまでもない。
 なお、2式重戦車は従来の97式中戦車、97式中戦車改を置き換えるために開発された戦車であり、ティーガーのような戦線突破用の重戦車とは根本的に用法が異なる。設計の基本的に歩兵支援用戦車に対戦車戦闘能力を付与した程度に過ぎず、ドイツ流の電撃戦等は最初から考慮されていない。
 しかし、1943年の枢軸国最終攻勢の際にはそれまでの戦闘によって帝国陸軍の戦車戦術はかなりのレベルに達しており、独自の電撃戦を編み出してソ連軍の戦線を突破、バイカル湖まで進出を果たしている。
 帝国陸軍が編み出した電撃戦は、ドイツ軍のような装甲兵員輸送車を持たないソ連軍が多用したタンクデサントを真似て歩兵を鈴なりにさせた戦車ごと戦線に殴りこみ、数次の波状攻撃によって戦線を突破し、機動力の低く、戦車隊の前進に追随できない砲兵火力の不足は空軍の近接航空支援によって補うというドイツ流とソ連流の折衷案的な手法である。
 なお、タンクデサントする歩兵の寿命は2週間程度とされ、当時の帝国陸軍における人命軽視の最たるものとして現在では批判の的にされることが多いが、タンクデサントは装甲兵員輸送車が普及する以前はどこの軍隊でも行われていたことであり、1950年代に十分な数の装甲兵員輸送車が確保されるようになると帝国陸軍でもタンクデサントは行われなくなった。
2007年10月27日(土) 23:10:55 Modified by suzukitomio2001




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