星が降った夜
星が降った夜(後日談)
「私は夜空が好きだが、嫌いだ」
窓辺で夜空を見上げて切なく吐息。
ついでに紫煙を吐いた。飛行前ブリーフィングの貴重な喫煙タイム。飛んでしまうと4時間はこいつを楽しめない。
数百種類の有害物質を含んだシアン色の煙が立ち上る。夕闇の中に消えていく。もう陽は沈みかけている。窓辺はもう夜の色だ。
今日も夜がやってくる。好きだが、嫌いな夜がやってくる。
天草チトセ3等警察士は憂鬱な気分になった。チトセは洗礼を受けた敬虔なクリスチャンだった。キリストの教えと神の愛を信じていた。しかし、神様がこの世作るときに昼と夜を分けたのは失敗だったのではないかと疑っていて、恨めしく思っていた。
なんとも間の悪いことだ。チトセはそう思った。この世に夜があるのは実に間が悪い。
何とかして白夜の国に引っ越したいと思っていたが、白夜の国の平均気温が0より下であることを知って諦めた。
8月生まれのチトセは無類の寒がりで、冬などは冬眠してやり過ごしたいほど嫌いな季節だった。冷え性で眠れないこともある。
つまり、何らかの妥協が必要なのだった。忌々しいことに。
チトセは切なくなるように紫煙を吐息。
ちょうどその時、相棒がやってきた。
「チトセ。ブリーフィングルームは禁煙区よ」
相棒の日下部弥生3等警察士が問答無用でチトセの手からシガレットをもぎ取る。そのまま床に押し付けて消火。もみ消した吸殻をゴミ箱に放る。
「装具もちゃんと身に付けて。もうすぐ小隊長が来るんだから」
弥生は口やかましく言う。まるで学級委員長のように。
チトセは装具を見下ろす。
フライトスーツ、ハーネスに乱れはない。多少、ラフなところがあるが問題のない範囲だった。この程度の自由なら個人の裁量の範囲だ。ベテランなら誰でもやっている手抜きだ。どの道、ヘリパイロットにとってフライトスーツは保命以上の意味がない。戦闘機とは違う。ヘリは大G旋回などしない。低空を飛ぶので電熱服も無用だ。
「もういいから貸して。どうしてあなたはこんな簡単な規則を守れないかしら?」
まるで母親のようなことを言う。チトセの手からハーネスをひったくる。そして、迅速かつ完璧に装着した。
チトセはされるがままだった。
抵抗しても敵わないことを知っているからだ。
相手は柔道3段、剣道2段、実戦空手4段の化け物だ。チトセが10人いても敵わない。それ以上の人数の向こうに回して勝利したこともある。暴走族1個小隊を半殺しにしたことがある。
座右の銘は「正義=パワー」。アメリカ人のような奴だった。同盟国であるだけ、アメリカ人の方がまだマシかもしれない。友人と同盟国は似ているが随分と違う。少なくともアメリカ合衆国は国際紛争に介入しても、チトセの趣味・嗜好に介入してくることはない。
「もう学生じゃないんだから、しっかりしてよね」
弥生は嬉しそうに文句を言った。チトセには理解できない感情の発露。文句を言うのにどうして笑うのか理解できない。文句を言うなら怒るべきだと思った。それが普通だからだ。しかし、それを指摘すると泥沼になる確率が200%だった。理屈ではなく、直感でそれが理解できる。
結果、チトセは礼儀正しく沈黙した。
沈黙しながら、どこか楽しげな弥生の横顔を見た。
日下部弥生との付き合いは長い。しかし、深いというわけではなかった。付き合いは、弥生が本当に学級委員長だったころに遡る。しかし、そこまで遡っても日下部弥生という人間の精神構造は理解不能だった。
理解しようと努力したこともある。しかし、今では殆ど投げ出していた。高校の校則と暴走族1個小隊を壊滅させることに何の関連性があるのか理解できなかった。痴漢の顔面を永久に破壊する理由に社会正義と女性の権利を持ち出すことについて、同意を求められても、困る。
100歩譲ってそれらを認めたとしても、なお理解できないことがある。
例えば、自分を更正させることを人生のライフワークに位置づけていることについて、だ。
高卒の気楽なフリーターが警察予備隊に入った理由はただそれだけだった。
そうでなければ、こんな堅い職場に入るわけがない。
自慢ではないが、天草チトセは軟派なのだ。
「スカーフェイス。今日もラブラブだな。入籍はいつするんだ?」
「そういう関係じゃありません」
チトセは短く答えた。
小隊長がブリーフィングルームに来た。その出し抜けの挨拶。
その種の下種な冷やかしには慣れていた。正直、うんざりしている。小隊長は人がいいけれど、冗談は下種だった。
しかし、こんな時に限って委員長気質の弥生は反論一つしない。その理由がチトセには分からない。セクハラについて何か特殊な見解があるのかもしれなかった。
そこでチトセは弥生の様子がおかしいことに気付いた。
「弥生。どうした?熱があるのか?」
呆けた顔の弥生の肩を揺する。
すぐに覚醒。跳ねるように席を立つ。酸欠の金魚のように口をパクパクさせた。そして、小隊の面々から視線を浴びて席に戻る。
何故か顔面が異様に充血していた。テールランプのように真っ赤だった。
チトセは風邪の可能性を疑う。
「大丈夫か。辛いのなら休んだほうがいい」
パートナーの健康についてはそれなりに把握しているつもりだった。パートナー同士の相互チェックはパートナーシップの基本中の基本だ。それは体調だけではない。経済状態や思想的傾向まで相互チェックする。定期的に報告書も書いて出している。
防諜戦略の一環だった。密告するわけでない。しかし、報告書の内容が悪いと査定に響く場合がある。
査定などどうでもよかった。けれど、相棒の風邪がうつったら面倒だった。用心するに越したことはない。
「大丈夫。大丈夫。なんでもない。平気だから」
「ならいいけど」
チトセはあっさりと追求を打ち切る。
昔、熱を測るために額に手を当てたことがあった。何故かその直後に正拳突きを食らうことになった。実戦空手4段の正拳突きだ。あごの骨が折れた。そうなった理由は今でも分からない。何も悪いことはしていない。しかし、同じ過ちを犯すのはただ馬鹿だ。君子は危うきに近寄ったりしない。
小隊長がプロジェクターのスイッチを入れる。
飛行前ブリーフィングが始まる。
かつて日本には警察予備隊と呼ばれる組織が存在した。
1950年から1952年のわずか2年間のことだ。朝鮮戦争激化により、在日米軍が朝鮮半島に派遣されたことで日本国内の領域警備に不安を感じたGHQは日本の再軍備を許可し、警察予備隊が創設された。そして、警察予備隊はまもなく保安隊に発展解消され、さらに保安隊は自衛隊に発展し、その自衛隊は2001年の省庁再編成により国防軍に改編されている。
半世紀前に2年間だけ存在し、消滅した警察予備隊が21世紀になって唐突に復活したのは、前世期末に起こったある事件がきっかけだった。
天草チトセはその事件を個人的に「星が降った夜」と呼んでいた。
文字通り、その晩は星が降ってきた。
1998年8月31日。北朝鮮東部、大浦洞から発射された人工衛星打ち上げ用2段式液体ロケット「白頭山1号」は工作段階ミスが累積した結果、1段目のロケットエンジンに致命的な故障が発生し、発射から2分後に制御不能に陥った。
ロケットは地上からの自爆信号を受け付けず、マッハ15前後の速度で地上に突き進み、日本国秋田県の沿岸都市に落下し、そこに巨大なクレーターを造ると同時に、1793人の市民を吹き飛ばして、粉々に砕け散った。
政府の対応は後手に回った。恐るべきことに事件が正式に発表されたのはロケットが落下してから9時間後のことだった。しかし、普及が始まっていたインターネット等や地方テレビ局による取材により、事件そのものは政府発表の前から国民の知るところになっていた。
問題は、そうした情報が酷く誇張されるか、或いは完全なデマだったことだ。落下したロケットは1発だけだったが、政府発表の前までにマスコミが発表した、着弾したと推定される弾道ミサイルの数は30発を越えていた。
国内はパニック状態に陥り、日本経済は麻痺した。
それから後に起きた様々な出来事は、その日の後遺症のようなものだ。後始末とも言える。
第二次朝鮮戦争や、憲法改正や、警察予備隊の創設もその1つに過ぎない。
「スカーフェイスより、ワイバーンへ。無灯火で航行中の不審船舶を目視で確認。操業許可と船舶登録の有無を確認されたし」
マイクをのど元に寄せ、チトセは呟いた。
ヘリのターボシャフトエンジンの爆音を拾わないようにマイクは咽頭式を採用していた。民生品のMH−2000をベースに開発されたAH−2000は一般のヘリよりも静かな攻撃ヘリだが、用途は軍用だった。防音は気休めに過ぎない。
暗い海に小船が1隻。波に揉まれて甲板を潮に洗われていた。
肉眼で見るとそこには何もない。光量がまるで足りない。全ては闇の中だ。暗視装置のお陰でかろうじて見える。漁船は無灯火で航行中。自殺願望か、それとも灯火をつけられない理由でもあるのか。密漁船、或いは密輸船の可能性が高い。
つまり当たりを引いたわけだ。
自分の籤運の良さに乾杯したくなる。しかし、どういうわけか肝心な時に当たってくれない。毎年買っているドリームジャンボは300円さえ当たらない。
何が間違っているのか。たまに頭を抱えたくなる。
「ワイバーンより、スカーフェイスへ。そのまま接触を継続されたし。現在、本部に照会中だ。ワイバーンの現場到着まで後20分はかかる」
巡視船の足で20分なら、それほど遠くない。
チトセは燃料計をチャックした。まだ余裕がある。あと1時間は飛んでいられる。基地に帰投する分を入れても、だ。
チトセはサイクリックを僅かに手元に戻す。速度が落ちる。電子ガバナーが自動的に2基のターボシャフトエンジンの出力を調節した。
コクピットライトは灯火管制で使えない。蛍光塗料を塗った航空計算尺で燃費計算する。目と頭が慣れれば難しいことではない。
計算結果が正しく、相手が今の速度で走ってくれれば、15分程度滞空時間を延ばせる。
仮に相手が最高速度を発揮したところその数値はさして変化ない。某国の密漁船はしばしば40ノット以上の高速を発揮するが、それでもヘリコプターの経済巡航速度よりは圧倒的に遅い。
「悪くない」
チトセは独語した。
「何が悪くないの?」
「別に何も」
チトセは気のない返答。
「チトセって独り言が多いよね」
「いけないか?」
「そうじゃないけど、もう少し人と話すようにした方がいいと思う。おしゃべりするだけで気分が軽くなると思う」
「そうしたいのは山々だけど、この顔じゃ、ね」
チトセは眉間にしわを寄せる。
顔面の傷跡もつられて歪む。深い傷跡だった。
空から落ちてきた星の欠片が残した傷痕。他にも無数の破片が体の中に残っている。
生活には支障がない。しかし、定期健診でレントゲン写真を見るといつも憂鬱になる。この傷跡のせいで、随分と暗い子供時代を過ごす羽目になった。今も夜眠ることができない。PTSDという奴だった。
闇の中で目を閉じると、今でもあの日の情景が目に浮かぶ。
「やっぱり、夜は嫌いだ」
自分がどうしたあの日死ななかったのか。今でも疑問がある。死んでおけばよかったと思うこともある。
「まだ夜眠れないの?」
「夜眠ることができなければ、起きていればいいだけの話だ」
無駄口を叩く程度の余裕がある。悪くないことだった。
もしも、夜間洋上飛行中に全く余裕がないとしたら、ヘリを降りるべきだった。そうでなければ、地獄へ垂直降下することになりかねない。
AH−2000の信頼性はカテゴリーAだが、地獄への垂直降下には対応していない。
M社が開発したMH−2000を改造、発展させたAH−2000は一種の武装ヘリコプターだった。攻撃ヘリではない。攻撃ヘリほどの火力はない。対戦車攻撃力もない。あくまで用途は歩兵の空中機動とその火力支援だ。
その種の任務は多くの場合、汎用ヘリに武装を施すことで賄われる。UH−1やUH−60にはその為の武装ラックまで存在する。
警察予備隊がその種の武装ヘリコプターを採用しなかった理由は不明。
MH−2000の商業的な失敗で窮地に立たされたM社の仕事作りだったのかもしれない。
しかし、そのことでAH−2000の価値が損なわれるわけではなかった。
10人の歩兵を乗せ、固定武装のM134で地上を掃射するAH−2000は空飛ぶ歩兵戦闘ヴィークルだった。スタブウィングにはロケットランチャーを最大4基まで装備可能。OH−1から移植した索敵装備は夜を真昼に変える。
海外での評価はミニ・ハインドで完全に一致を見ていた。実際にコクピットのレイアウトはハインドDの完全なコピーだ。M社の技術者が狙ってそうしたかは不明。しかし、機首から突き出したミニガンとコクピットレイアウトは無機的な昆虫に似た印象を覚えさせる。それはストレートで原初な恐怖感だ。
大抵の密漁船はAH−2000に捕捉されると逃走を諦める。何をどうしたところで逃げられるものではない。
それに、昔ほど日本人は甘くなくなった。警告はする。しかし、それと同じ程度確実に発砲する。その発砲は多くの場合、威嚇を意味しない。最初から当てていく。
「不審船が増速中。気付かれたかも」
「そりゃ、ナンバーテンだ」
AH−2000はMH−2000やOH−1で開発された騒音抑制技術を流用している。今もエンジンはマナーモードで駆動している。しかし、それでも限界はある。ヘリコプターである以上、回転翼が撒き散らす騒音を無くすことはできない。しかし、雑音の放射分布をコントロールすることはできる。
実際に、AH−2000の真下に立つと普通のヘリよりも騒音が酷い。しかし、一定距離をとれば殆ど無音に近いレベルまで騒音は減る。M社の騒音抑制技術の成果だ。
さらにチトセは自機を風下につけていた。音は空気中を伝播する波だ。風下に占位するだけ驚くほど音はその広がりを失う。これに不審船が自ら発するディーゼルエンジンの駆動音が加わる。その結果、音だけでAH−2000の接近を感づくことはほぼ不可能に近くなる
対空レーダーでも使えば話は別だが。
そこまで考えてチトセはあることに気付いた。
「巡視船がレーダーで探知されたかもしれない」
今では大抵の漁船に対水上レーダーが積んである。
性能は様々だ。軍用品に近い性能のものもある。巡視船のレーダーも探知距離は漁船のそれと大して変わらない。探知距離が同じなら、足の速い方が勝つ。
それでもヘリよりは圧倒的に遅いけれど。
「私達だけやれるか?」
「チトセの判断に任せるよ」
チトセは弥生の信頼を感じる。
少し考えて、チトセは言った。
「ファイアコントールON。あの船の足を止める」
弥生はマスターアームスイッチを入れる。全兵装が甦る。
サーチライト、ON。闇の中から不審船を引きずりだす。
海上に靄が出ていた。サーチライトが乱反射する。視界はあまりよくない。真っ白な壁ができたように見える。しかし、まるで見えないわけではない。
チトセは軽い目の痛みを覚える。闇に慣れた目には少し光が強い。
不審船は一見して普通の漁船のように見えた。しかし、漁具が見当たらない。底引き網を巻くリールが見当たらない。他に網や籠も確認できない。
密漁船ではなかった。密輸船かもしれない。シナ海にはそうした船が多い。積荷は様々だ。現金、有価証券、武器、弾薬、人間も商取引の対象になる。
「こちらは日本国海上保安庁所属機である。これより立ち入り検査を行う。ただちに停船せよ。繰り返す。ただちに停船せよ」
無線での停船命令。これは弥生の仕事。
日本語、英語、中国語、朝鮮語。同じ停船命令を3度繰り返す。全て応答なし。無線の故障か。或いは意図的な無視か。確かめる術はない。
不審船の速度に変化なし。明確な逃走の意思を認める。交戦規定が満たされる。
警告射撃に係る規定は数度の法改正で大幅に簡略化された。2001年の九州南西海域工作事件では警告から発砲まで2時間以上かかっている。今は10分で済む。
手続きが簡単なのは結構なことだ。チトセはそう思った。やりすぎという意見がないわけでもないが。
それでも現政権は今の方針を撤回する気はないらしい。
星が降った夜からこの方、時の政権の支持率は不審船に向かって発砲した弾の数で決まるようになっている。
「警告に従わない場合は、発砲する」
最後通牒を突きつける。
弥生はヘルメットキューイングシステムで照準。機首ミニガンが旋回する。砲身が45度旋回。不審船に狙いを定める。ミニガンの射撃速度は毎分3000発。7.62mm弾の弾幕射撃。人間を一瞬でミンチに変える。相手が死や痛みを意識するよりも速やかに魂をあの世に送る。人道的な無痛兵器だ。情けも容赦もないけれど。
チトセは機を不審船に寄せた。ダウンウオッシュで派手に海面が波立つ。飛沫がコクピットに跡を残す。ミニガンの砲身はほぼ水平に近い。その程度の高度、距離を保つ。
怖いはずだ。チトセはそう思った。
ミニ・ハインドに寄せられて恐怖を感じない人間は存在しない。はずだ。
不審船のリアクションはただちに現れた。
甲板の上に人影が現れる。何かを構える。
チトセはそれが何なのか確認するより早く叫んでいた。
「撃て!」
天草チトセはその日の朝刊を読むことができたのは夜更け過ぎだった。
いつものことだ。別段珍しいことはではない。夜働いて、昼間眠る。勤務シフトは常に夜勤だ。完全な夜型人間。ネコ日課。天草チトセは夜限定の不眠症患者だ。しかし、そうしたパイロットの存在を警察予備隊航空集団は高く買っていた。警察予備隊航空集団は24時間眠らないからだ。
フライトの後は非番になる。
随分と遅い朝食(夜食)を採って、チトセは隊舎のロビーで朝刊を広げる。
深夜の1時を回っているので人気はない。しかし、照明だけはついている。夜勤の人間はチトセだけではないからだ。
「昨日は随分と派手にやったそうじゃないか?」
その一人、佐藤章輔1等警察士が呼んでもいないのに来た。
「昨日じゃない。おとついだ」
「似たようなもんだ」
佐藤はソファに腰を下ろす。安いスプリングが軋みをあげる。
佐藤章輔は巨漢のヘリパイロットだった。岩を削りだしたような体躯だが、操縦は繊細の一言だった。ベテラン中のベテラン。飛行教官を務めたこともある。
二人は歳の離れた友人だった。付き合いはそれなりに長い。星が降った夜を共にした仲だった。あの夜、天草チトセが死ななかった理由の一つでもある。
所謂、命の恩人という奴だった。
「夜勤が続くと日付の区別がつかなくなることがある。お前はどうだ?」
「そんなのはあんただけだ」
チトセはにべもない。
佐藤は気にした様子も見せない。親友のそうした態度には慣れているからだ。天草チトセという人間は、親しくなるほど扱いがぞんざいになる傾向がある。
「さすがプロの夜型人間は違うな」
「どんなプロだよ」
チトセは小さく言い捨てる。紙面に視線を落とす。おとついの事件の記事がないか、くまなく探す。自分の足跡を探す。
記事を見つけるとチトセは記事を鋏で切り抜き、スクラップブックに貼り付けた。アナログを好むチトセはそうしたスクラップブックを他にいくつも持っている。
「随分と小さな記事だな」
小さな扱いにチトセは不満を覚える。
「しょうがないさ。不審船なんて今時珍しくもない。それよりも酷い話は星の数ほどある」
「爆弾テロか」
新聞一面は爆弾テロを報じていた。
死者50人超。渋谷の繁華街で誰かがボンベ爆弾を起爆させた。10時間前のことだ。夕刊の記事になっている。
チトセは渋谷の繁華街の喧騒を思い出した。中学の修学旅行は東京だった。渋谷109で買い物もしたことがある。今は遠い昔だ。首都機能が分散されてから随分と立つ。渋谷も随分と変わっているはずだ。今はどうなっているか見当もつかない。
前の戦争で東京が弾道弾の釣瓶撃ちを食らってから5年が経つ。東京の人口は随分と減った。核ではないが効果は十分に破滅的だった。東京は人口密度が世界1高い都市だからだ。皇居を狙って打てば、人口密集地のどこかに落ちる。化学弾頭ならさらに確実だ。もちろん、皇居にもきちんと落ちている。平成が15年で終わった理由だ。
東京は半島からの難民が増えている地域だ。治安はあまりよくないらしい。
「非合法の半島系団体の仕事だ。公安部は今日も徹夜だな」
「素直に旧朝鮮総連って言ったら?」
「そうとも言う」
佐藤は缶コーヒーを啜った。
チトセは新聞を読んでいる。
「なんでテロなんだろうな。何がそんなに不満なんだ?」
「そりゃ、朝鮮学校に放火したり、女子学生を輪姦したら、報復の一つもあるでしょう」
「それでいきなりボンベ爆弾か?火病か?」
「病院が受け入れ拒否してダース単位で子供が衰弱死したり、女子学生が輪姦されたあげく惨殺されて、つかまった犯人が全員執行猶予無罪なら、そういうこともありえる」
チトセは深いため息をつく。
最近、新聞を読むと鬱病になりそうになる。気持ちのいい話はどこにもない。新聞があるからこの手の事件が起きるような気さえする。
「半島人は健康保険の加入率が低いからな。病院も商売だろうよ。例の強姦殺人事件だって、証拠不十分だっただろう」
「病院も、警察も世論が怖いだけでしょう。無理にごまかす必要はない」
「お前は反動的だな。マスコミに叩かれるぞ」
「正しいことを正しいと言い、間違っていることを間違っていると言う。それが人間らしく生きるということだ」
チトセは飲みかけの缶コーヒーをかっぱらう。一息に飲み干す。
天草チトセには人の食べ物を勝手に食べるという悪癖がある。
「何はともあれ、世にとんでもの種は尽きじ、か」
「おかげで私たちが失業しないで済んでいる。感謝しないとね」
チトセは軽く失笑して言った。空缶をダストシュートに放り込む。安ソファから腰を上げて伸びをした。
「もう行くのか?」
「あなたも来る?」
佐藤は頭を振った。
「星を見て喜ぶような歳でもない」
「天体観測に年齢制限はないよ。気が向いたらいつでもどうぞ」
チトセは望遠鏡を片手に夜空を見上げる。
呟くように言った。
「私は夜空が好きだが、嫌いだ」
続く?
「私は夜空が好きだが、嫌いだ」
窓辺で夜空を見上げて切なく吐息。
ついでに紫煙を吐いた。飛行前ブリーフィングの貴重な喫煙タイム。飛んでしまうと4時間はこいつを楽しめない。
数百種類の有害物質を含んだシアン色の煙が立ち上る。夕闇の中に消えていく。もう陽は沈みかけている。窓辺はもう夜の色だ。
今日も夜がやってくる。好きだが、嫌いな夜がやってくる。
天草チトセ3等警察士は憂鬱な気分になった。チトセは洗礼を受けた敬虔なクリスチャンだった。キリストの教えと神の愛を信じていた。しかし、神様がこの世作るときに昼と夜を分けたのは失敗だったのではないかと疑っていて、恨めしく思っていた。
なんとも間の悪いことだ。チトセはそう思った。この世に夜があるのは実に間が悪い。
何とかして白夜の国に引っ越したいと思っていたが、白夜の国の平均気温が0より下であることを知って諦めた。
8月生まれのチトセは無類の寒がりで、冬などは冬眠してやり過ごしたいほど嫌いな季節だった。冷え性で眠れないこともある。
つまり、何らかの妥協が必要なのだった。忌々しいことに。
チトセは切なくなるように紫煙を吐息。
ちょうどその時、相棒がやってきた。
「チトセ。ブリーフィングルームは禁煙区よ」
相棒の日下部弥生3等警察士が問答無用でチトセの手からシガレットをもぎ取る。そのまま床に押し付けて消火。もみ消した吸殻をゴミ箱に放る。
「装具もちゃんと身に付けて。もうすぐ小隊長が来るんだから」
弥生は口やかましく言う。まるで学級委員長のように。
チトセは装具を見下ろす。
フライトスーツ、ハーネスに乱れはない。多少、ラフなところがあるが問題のない範囲だった。この程度の自由なら個人の裁量の範囲だ。ベテランなら誰でもやっている手抜きだ。どの道、ヘリパイロットにとってフライトスーツは保命以上の意味がない。戦闘機とは違う。ヘリは大G旋回などしない。低空を飛ぶので電熱服も無用だ。
「もういいから貸して。どうしてあなたはこんな簡単な規則を守れないかしら?」
まるで母親のようなことを言う。チトセの手からハーネスをひったくる。そして、迅速かつ完璧に装着した。
チトセはされるがままだった。
抵抗しても敵わないことを知っているからだ。
相手は柔道3段、剣道2段、実戦空手4段の化け物だ。チトセが10人いても敵わない。それ以上の人数の向こうに回して勝利したこともある。暴走族1個小隊を半殺しにしたことがある。
座右の銘は「正義=パワー」。アメリカ人のような奴だった。同盟国であるだけ、アメリカ人の方がまだマシかもしれない。友人と同盟国は似ているが随分と違う。少なくともアメリカ合衆国は国際紛争に介入しても、チトセの趣味・嗜好に介入してくることはない。
「もう学生じゃないんだから、しっかりしてよね」
弥生は嬉しそうに文句を言った。チトセには理解できない感情の発露。文句を言うのにどうして笑うのか理解できない。文句を言うなら怒るべきだと思った。それが普通だからだ。しかし、それを指摘すると泥沼になる確率が200%だった。理屈ではなく、直感でそれが理解できる。
結果、チトセは礼儀正しく沈黙した。
沈黙しながら、どこか楽しげな弥生の横顔を見た。
日下部弥生との付き合いは長い。しかし、深いというわけではなかった。付き合いは、弥生が本当に学級委員長だったころに遡る。しかし、そこまで遡っても日下部弥生という人間の精神構造は理解不能だった。
理解しようと努力したこともある。しかし、今では殆ど投げ出していた。高校の校則と暴走族1個小隊を壊滅させることに何の関連性があるのか理解できなかった。痴漢の顔面を永久に破壊する理由に社会正義と女性の権利を持ち出すことについて、同意を求められても、困る。
100歩譲ってそれらを認めたとしても、なお理解できないことがある。
例えば、自分を更正させることを人生のライフワークに位置づけていることについて、だ。
高卒の気楽なフリーターが警察予備隊に入った理由はただそれだけだった。
そうでなければ、こんな堅い職場に入るわけがない。
自慢ではないが、天草チトセは軟派なのだ。
「スカーフェイス。今日もラブラブだな。入籍はいつするんだ?」
「そういう関係じゃありません」
チトセは短く答えた。
小隊長がブリーフィングルームに来た。その出し抜けの挨拶。
その種の下種な冷やかしには慣れていた。正直、うんざりしている。小隊長は人がいいけれど、冗談は下種だった。
しかし、こんな時に限って委員長気質の弥生は反論一つしない。その理由がチトセには分からない。セクハラについて何か特殊な見解があるのかもしれなかった。
そこでチトセは弥生の様子がおかしいことに気付いた。
「弥生。どうした?熱があるのか?」
呆けた顔の弥生の肩を揺する。
すぐに覚醒。跳ねるように席を立つ。酸欠の金魚のように口をパクパクさせた。そして、小隊の面々から視線を浴びて席に戻る。
何故か顔面が異様に充血していた。テールランプのように真っ赤だった。
チトセは風邪の可能性を疑う。
「大丈夫か。辛いのなら休んだほうがいい」
パートナーの健康についてはそれなりに把握しているつもりだった。パートナー同士の相互チェックはパートナーシップの基本中の基本だ。それは体調だけではない。経済状態や思想的傾向まで相互チェックする。定期的に報告書も書いて出している。
防諜戦略の一環だった。密告するわけでない。しかし、報告書の内容が悪いと査定に響く場合がある。
査定などどうでもよかった。けれど、相棒の風邪がうつったら面倒だった。用心するに越したことはない。
「大丈夫。大丈夫。なんでもない。平気だから」
「ならいいけど」
チトセはあっさりと追求を打ち切る。
昔、熱を測るために額に手を当てたことがあった。何故かその直後に正拳突きを食らうことになった。実戦空手4段の正拳突きだ。あごの骨が折れた。そうなった理由は今でも分からない。何も悪いことはしていない。しかし、同じ過ちを犯すのはただ馬鹿だ。君子は危うきに近寄ったりしない。
小隊長がプロジェクターのスイッチを入れる。
飛行前ブリーフィングが始まる。
かつて日本には警察予備隊と呼ばれる組織が存在した。
1950年から1952年のわずか2年間のことだ。朝鮮戦争激化により、在日米軍が朝鮮半島に派遣されたことで日本国内の領域警備に不安を感じたGHQは日本の再軍備を許可し、警察予備隊が創設された。そして、警察予備隊はまもなく保安隊に発展解消され、さらに保安隊は自衛隊に発展し、その自衛隊は2001年の省庁再編成により国防軍に改編されている。
半世紀前に2年間だけ存在し、消滅した警察予備隊が21世紀になって唐突に復活したのは、前世期末に起こったある事件がきっかけだった。
天草チトセはその事件を個人的に「星が降った夜」と呼んでいた。
文字通り、その晩は星が降ってきた。
1998年8月31日。北朝鮮東部、大浦洞から発射された人工衛星打ち上げ用2段式液体ロケット「白頭山1号」は工作段階ミスが累積した結果、1段目のロケットエンジンに致命的な故障が発生し、発射から2分後に制御不能に陥った。
ロケットは地上からの自爆信号を受け付けず、マッハ15前後の速度で地上に突き進み、日本国秋田県の沿岸都市に落下し、そこに巨大なクレーターを造ると同時に、1793人の市民を吹き飛ばして、粉々に砕け散った。
政府の対応は後手に回った。恐るべきことに事件が正式に発表されたのはロケットが落下してから9時間後のことだった。しかし、普及が始まっていたインターネット等や地方テレビ局による取材により、事件そのものは政府発表の前から国民の知るところになっていた。
問題は、そうした情報が酷く誇張されるか、或いは完全なデマだったことだ。落下したロケットは1発だけだったが、政府発表の前までにマスコミが発表した、着弾したと推定される弾道ミサイルの数は30発を越えていた。
国内はパニック状態に陥り、日本経済は麻痺した。
それから後に起きた様々な出来事は、その日の後遺症のようなものだ。後始末とも言える。
第二次朝鮮戦争や、憲法改正や、警察予備隊の創設もその1つに過ぎない。
「スカーフェイスより、ワイバーンへ。無灯火で航行中の不審船舶を目視で確認。操業許可と船舶登録の有無を確認されたし」
マイクをのど元に寄せ、チトセは呟いた。
ヘリのターボシャフトエンジンの爆音を拾わないようにマイクは咽頭式を採用していた。民生品のMH−2000をベースに開発されたAH−2000は一般のヘリよりも静かな攻撃ヘリだが、用途は軍用だった。防音は気休めに過ぎない。
暗い海に小船が1隻。波に揉まれて甲板を潮に洗われていた。
肉眼で見るとそこには何もない。光量がまるで足りない。全ては闇の中だ。暗視装置のお陰でかろうじて見える。漁船は無灯火で航行中。自殺願望か、それとも灯火をつけられない理由でもあるのか。密漁船、或いは密輸船の可能性が高い。
つまり当たりを引いたわけだ。
自分の籤運の良さに乾杯したくなる。しかし、どういうわけか肝心な時に当たってくれない。毎年買っているドリームジャンボは300円さえ当たらない。
何が間違っているのか。たまに頭を抱えたくなる。
「ワイバーンより、スカーフェイスへ。そのまま接触を継続されたし。現在、本部に照会中だ。ワイバーンの現場到着まで後20分はかかる」
巡視船の足で20分なら、それほど遠くない。
チトセは燃料計をチャックした。まだ余裕がある。あと1時間は飛んでいられる。基地に帰投する分を入れても、だ。
チトセはサイクリックを僅かに手元に戻す。速度が落ちる。電子ガバナーが自動的に2基のターボシャフトエンジンの出力を調節した。
コクピットライトは灯火管制で使えない。蛍光塗料を塗った航空計算尺で燃費計算する。目と頭が慣れれば難しいことではない。
計算結果が正しく、相手が今の速度で走ってくれれば、15分程度滞空時間を延ばせる。
仮に相手が最高速度を発揮したところその数値はさして変化ない。某国の密漁船はしばしば40ノット以上の高速を発揮するが、それでもヘリコプターの経済巡航速度よりは圧倒的に遅い。
「悪くない」
チトセは独語した。
「何が悪くないの?」
「別に何も」
チトセは気のない返答。
「チトセって独り言が多いよね」
「いけないか?」
「そうじゃないけど、もう少し人と話すようにした方がいいと思う。おしゃべりするだけで気分が軽くなると思う」
「そうしたいのは山々だけど、この顔じゃ、ね」
チトセは眉間にしわを寄せる。
顔面の傷跡もつられて歪む。深い傷跡だった。
空から落ちてきた星の欠片が残した傷痕。他にも無数の破片が体の中に残っている。
生活には支障がない。しかし、定期健診でレントゲン写真を見るといつも憂鬱になる。この傷跡のせいで、随分と暗い子供時代を過ごす羽目になった。今も夜眠ることができない。PTSDという奴だった。
闇の中で目を閉じると、今でもあの日の情景が目に浮かぶ。
「やっぱり、夜は嫌いだ」
自分がどうしたあの日死ななかったのか。今でも疑問がある。死んでおけばよかったと思うこともある。
「まだ夜眠れないの?」
「夜眠ることができなければ、起きていればいいだけの話だ」
無駄口を叩く程度の余裕がある。悪くないことだった。
もしも、夜間洋上飛行中に全く余裕がないとしたら、ヘリを降りるべきだった。そうでなければ、地獄へ垂直降下することになりかねない。
AH−2000の信頼性はカテゴリーAだが、地獄への垂直降下には対応していない。
M社が開発したMH−2000を改造、発展させたAH−2000は一種の武装ヘリコプターだった。攻撃ヘリではない。攻撃ヘリほどの火力はない。対戦車攻撃力もない。あくまで用途は歩兵の空中機動とその火力支援だ。
その種の任務は多くの場合、汎用ヘリに武装を施すことで賄われる。UH−1やUH−60にはその為の武装ラックまで存在する。
警察予備隊がその種の武装ヘリコプターを採用しなかった理由は不明。
MH−2000の商業的な失敗で窮地に立たされたM社の仕事作りだったのかもしれない。
しかし、そのことでAH−2000の価値が損なわれるわけではなかった。
10人の歩兵を乗せ、固定武装のM134で地上を掃射するAH−2000は空飛ぶ歩兵戦闘ヴィークルだった。スタブウィングにはロケットランチャーを最大4基まで装備可能。OH−1から移植した索敵装備は夜を真昼に変える。
海外での評価はミニ・ハインドで完全に一致を見ていた。実際にコクピットのレイアウトはハインドDの完全なコピーだ。M社の技術者が狙ってそうしたかは不明。しかし、機首から突き出したミニガンとコクピットレイアウトは無機的な昆虫に似た印象を覚えさせる。それはストレートで原初な恐怖感だ。
大抵の密漁船はAH−2000に捕捉されると逃走を諦める。何をどうしたところで逃げられるものではない。
それに、昔ほど日本人は甘くなくなった。警告はする。しかし、それと同じ程度確実に発砲する。その発砲は多くの場合、威嚇を意味しない。最初から当てていく。
「不審船が増速中。気付かれたかも」
「そりゃ、ナンバーテンだ」
AH−2000はMH−2000やOH−1で開発された騒音抑制技術を流用している。今もエンジンはマナーモードで駆動している。しかし、それでも限界はある。ヘリコプターである以上、回転翼が撒き散らす騒音を無くすことはできない。しかし、雑音の放射分布をコントロールすることはできる。
実際に、AH−2000の真下に立つと普通のヘリよりも騒音が酷い。しかし、一定距離をとれば殆ど無音に近いレベルまで騒音は減る。M社の騒音抑制技術の成果だ。
さらにチトセは自機を風下につけていた。音は空気中を伝播する波だ。風下に占位するだけ驚くほど音はその広がりを失う。これに不審船が自ら発するディーゼルエンジンの駆動音が加わる。その結果、音だけでAH−2000の接近を感づくことはほぼ不可能に近くなる
対空レーダーでも使えば話は別だが。
そこまで考えてチトセはあることに気付いた。
「巡視船がレーダーで探知されたかもしれない」
今では大抵の漁船に対水上レーダーが積んである。
性能は様々だ。軍用品に近い性能のものもある。巡視船のレーダーも探知距離は漁船のそれと大して変わらない。探知距離が同じなら、足の速い方が勝つ。
それでもヘリよりは圧倒的に遅いけれど。
「私達だけやれるか?」
「チトセの判断に任せるよ」
チトセは弥生の信頼を感じる。
少し考えて、チトセは言った。
「ファイアコントールON。あの船の足を止める」
弥生はマスターアームスイッチを入れる。全兵装が甦る。
サーチライト、ON。闇の中から不審船を引きずりだす。
海上に靄が出ていた。サーチライトが乱反射する。視界はあまりよくない。真っ白な壁ができたように見える。しかし、まるで見えないわけではない。
チトセは軽い目の痛みを覚える。闇に慣れた目には少し光が強い。
不審船は一見して普通の漁船のように見えた。しかし、漁具が見当たらない。底引き網を巻くリールが見当たらない。他に網や籠も確認できない。
密漁船ではなかった。密輸船かもしれない。シナ海にはそうした船が多い。積荷は様々だ。現金、有価証券、武器、弾薬、人間も商取引の対象になる。
「こちらは日本国海上保安庁所属機である。これより立ち入り検査を行う。ただちに停船せよ。繰り返す。ただちに停船せよ」
無線での停船命令。これは弥生の仕事。
日本語、英語、中国語、朝鮮語。同じ停船命令を3度繰り返す。全て応答なし。無線の故障か。或いは意図的な無視か。確かめる術はない。
不審船の速度に変化なし。明確な逃走の意思を認める。交戦規定が満たされる。
警告射撃に係る規定は数度の法改正で大幅に簡略化された。2001年の九州南西海域工作事件では警告から発砲まで2時間以上かかっている。今は10分で済む。
手続きが簡単なのは結構なことだ。チトセはそう思った。やりすぎという意見がないわけでもないが。
それでも現政権は今の方針を撤回する気はないらしい。
星が降った夜からこの方、時の政権の支持率は不審船に向かって発砲した弾の数で決まるようになっている。
「警告に従わない場合は、発砲する」
最後通牒を突きつける。
弥生はヘルメットキューイングシステムで照準。機首ミニガンが旋回する。砲身が45度旋回。不審船に狙いを定める。ミニガンの射撃速度は毎分3000発。7.62mm弾の弾幕射撃。人間を一瞬でミンチに変える。相手が死や痛みを意識するよりも速やかに魂をあの世に送る。人道的な無痛兵器だ。情けも容赦もないけれど。
チトセは機を不審船に寄せた。ダウンウオッシュで派手に海面が波立つ。飛沫がコクピットに跡を残す。ミニガンの砲身はほぼ水平に近い。その程度の高度、距離を保つ。
怖いはずだ。チトセはそう思った。
ミニ・ハインドに寄せられて恐怖を感じない人間は存在しない。はずだ。
不審船のリアクションはただちに現れた。
甲板の上に人影が現れる。何かを構える。
チトセはそれが何なのか確認するより早く叫んでいた。
「撃て!」
天草チトセはその日の朝刊を読むことができたのは夜更け過ぎだった。
いつものことだ。別段珍しいことはではない。夜働いて、昼間眠る。勤務シフトは常に夜勤だ。完全な夜型人間。ネコ日課。天草チトセは夜限定の不眠症患者だ。しかし、そうしたパイロットの存在を警察予備隊航空集団は高く買っていた。警察予備隊航空集団は24時間眠らないからだ。
フライトの後は非番になる。
随分と遅い朝食(夜食)を採って、チトセは隊舎のロビーで朝刊を広げる。
深夜の1時を回っているので人気はない。しかし、照明だけはついている。夜勤の人間はチトセだけではないからだ。
「昨日は随分と派手にやったそうじゃないか?」
その一人、佐藤章輔1等警察士が呼んでもいないのに来た。
「昨日じゃない。おとついだ」
「似たようなもんだ」
佐藤はソファに腰を下ろす。安いスプリングが軋みをあげる。
佐藤章輔は巨漢のヘリパイロットだった。岩を削りだしたような体躯だが、操縦は繊細の一言だった。ベテラン中のベテラン。飛行教官を務めたこともある。
二人は歳の離れた友人だった。付き合いはそれなりに長い。星が降った夜を共にした仲だった。あの夜、天草チトセが死ななかった理由の一つでもある。
所謂、命の恩人という奴だった。
「夜勤が続くと日付の区別がつかなくなることがある。お前はどうだ?」
「そんなのはあんただけだ」
チトセはにべもない。
佐藤は気にした様子も見せない。親友のそうした態度には慣れているからだ。天草チトセという人間は、親しくなるほど扱いがぞんざいになる傾向がある。
「さすがプロの夜型人間は違うな」
「どんなプロだよ」
チトセは小さく言い捨てる。紙面に視線を落とす。おとついの事件の記事がないか、くまなく探す。自分の足跡を探す。
記事を見つけるとチトセは記事を鋏で切り抜き、スクラップブックに貼り付けた。アナログを好むチトセはそうしたスクラップブックを他にいくつも持っている。
「随分と小さな記事だな」
小さな扱いにチトセは不満を覚える。
「しょうがないさ。不審船なんて今時珍しくもない。それよりも酷い話は星の数ほどある」
「爆弾テロか」
新聞一面は爆弾テロを報じていた。
死者50人超。渋谷の繁華街で誰かがボンベ爆弾を起爆させた。10時間前のことだ。夕刊の記事になっている。
チトセは渋谷の繁華街の喧騒を思い出した。中学の修学旅行は東京だった。渋谷109で買い物もしたことがある。今は遠い昔だ。首都機能が分散されてから随分と立つ。渋谷も随分と変わっているはずだ。今はどうなっているか見当もつかない。
前の戦争で東京が弾道弾の釣瓶撃ちを食らってから5年が経つ。東京の人口は随分と減った。核ではないが効果は十分に破滅的だった。東京は人口密度が世界1高い都市だからだ。皇居を狙って打てば、人口密集地のどこかに落ちる。化学弾頭ならさらに確実だ。もちろん、皇居にもきちんと落ちている。平成が15年で終わった理由だ。
東京は半島からの難民が増えている地域だ。治安はあまりよくないらしい。
「非合法の半島系団体の仕事だ。公安部は今日も徹夜だな」
「素直に旧朝鮮総連って言ったら?」
「そうとも言う」
佐藤は缶コーヒーを啜った。
チトセは新聞を読んでいる。
「なんでテロなんだろうな。何がそんなに不満なんだ?」
「そりゃ、朝鮮学校に放火したり、女子学生を輪姦したら、報復の一つもあるでしょう」
「それでいきなりボンベ爆弾か?火病か?」
「病院が受け入れ拒否してダース単位で子供が衰弱死したり、女子学生が輪姦されたあげく惨殺されて、つかまった犯人が全員執行猶予無罪なら、そういうこともありえる」
チトセは深いため息をつく。
最近、新聞を読むと鬱病になりそうになる。気持ちのいい話はどこにもない。新聞があるからこの手の事件が起きるような気さえする。
「半島人は健康保険の加入率が低いからな。病院も商売だろうよ。例の強姦殺人事件だって、証拠不十分だっただろう」
「病院も、警察も世論が怖いだけでしょう。無理にごまかす必要はない」
「お前は反動的だな。マスコミに叩かれるぞ」
「正しいことを正しいと言い、間違っていることを間違っていると言う。それが人間らしく生きるということだ」
チトセは飲みかけの缶コーヒーをかっぱらう。一息に飲み干す。
天草チトセには人の食べ物を勝手に食べるという悪癖がある。
「何はともあれ、世にとんでもの種は尽きじ、か」
「おかげで私たちが失業しないで済んでいる。感謝しないとね」
チトセは軽く失笑して言った。空缶をダストシュートに放り込む。安ソファから腰を上げて伸びをした。
「もう行くのか?」
「あなたも来る?」
佐藤は頭を振った。
「星を見て喜ぶような歳でもない」
「天体観測に年齢制限はないよ。気が向いたらいつでもどうぞ」
チトセは望遠鏡を片手に夜空を見上げる。
呟くように言った。
「私は夜空が好きだが、嫌いだ」
続く?
2008年03月29日(土) 19:40:12 Modified by suzukitomio2001