4式戦

4式戦闘機「疾風」
 4式戦闘機は第二次世界大戦において用いられた帝国空軍の戦闘機である。紀元2604年(1944年)制式採用により4式戦闘機と称した。開発は九州飛行機。製造は九州飛行機、立川飛行機、中島飛行機で転換生産されている。愛称は疾風である。なお、この愛称は一般公募によって定められたものである。不評な愛称ばかりが集まる一般公募の中で唯一パイロットから愛された愛称であり、その後開発された多くの戦闘機にその愛称は受け継がれている。しかし、より単純に「よんしきせん」と呼ばれることの方がやはり多い。
 米軍のコードネームはFrank。日本軍最強戦闘機として非常に恐れられた。
 
開発までの経緯
 1941年7月のシベリア侵攻作戦により日ソは全面戦争に突入し、ソ連は同年6月のドイツ軍のバルバロッサ作戦とあわせて2正面作戦を強いられることとなり、枢軸国は全般としては優位に戦争を展開していた。
 帝国空軍もノモンハン事件以来の雪辱戦を果たしており、100式戦、2式戦と続々と新型戦闘機を前線に送りだし順調にソ連空軍の撃滅していた。
 空軍は当面は2式戦の性能向上で十分に制空権が維持できる自信を深めており、実際にソ連空軍の戦闘機に対して性能面で2式戦は優位に戦っていた。
 しかし、国内のメーカーでは三菱の空軍向け戦闘機のシェアを独占していることに対してある種の焦りが生じていた。戦争がうまくいっていることは喜ばしいが、企業とは利潤を追求する組織であり、このまま2式戦が帝国空軍の戦闘機のシェアを独占し続ける状況は好ましいことはではなかった。
 しかし、2式戦の転換生産を行っている中島飛行機は4発重爆や双発爆撃機、海軍向けの艦上攻撃機を生産している関係から新型戦闘機を開発する余裕はなく、三菱はしばらく主力商品の2式戦の改良と生産で新しい戦闘機を開発する余裕はない。川崎は期せずして大量発注が舞い込んだ3式戦爆の改良と製造で精一杯で、新型戦闘機開発を行う余裕がある大手メーカーは存在していなかった。
 そうした状況下で、他社の下請けメーカーから脱却を狙っていた九州飛行機は空軍からの2式戦の転換生産の要求に対して新型戦闘機の開発を逆提案した。
 この新型戦闘機は空軍の大方針、つまり戦闘機には液冷エンジンを充てるという方針を覆し、純粋な制空戦闘機ながら空冷エンジンを使用していた。これは2式戦向けの生産で精一杯の彗星エンジン(Ju211のライセンス生産版)が使えないという事情があったものの、誰もが困難と考えていた空冷エンジンによる高速戦闘機開発という野心的なプランだった。
 これに対する空軍の反応は冷淡であり、九州飛行機の逆提案は全く無視された。空軍は空冷戦闘機を必要としておらず、空冷エンジンは爆撃機に使うものだと考えていた。
 空冷エンジンでも100式戦や3式戦爆のような戦闘機の開発は可能だったが、それらは全て500km/h台の速力に過ぎず、空軍の求める次世代高速戦闘機にはほど遠かった。そもそも空軍は2式戦の性能に全く満足しており、2式戦に代わる戦闘機の構想など持ち合わせていなかった。
 練習機の製造経験しか持たない九州飛行機に第1線級の戦闘機の開発等不可能だと考えられ、2式戦の転換生産についても立川飛行機で行うことになったので立ち消えとなった。
 しかし、九州飛行機は粘り強く交渉を続け、3日以内に設計図を提出するという無茶を呑むことを条件に新型戦闘機の開発契約を検討するという言質を得ることに成功する。
 ちなみにこの時の九州飛行機の戦闘機設計チームのスタッフはわずかに15名。平均年齢は25歳。しかも戦闘機設計の経験者は1人もいないという凄まじい状況だった。
 しかし、15名の若手エンジニアは3日3晩の徹夜によって設計図(手書きの概念図レベル)を書き表し、空軍航空本部に提出した。
 それに対する回答は9ヶ月以内に試作機完成という過酷な要求だったが、九州飛行機に挑戦権が与えられることになった。
 空軍に大した構想があるわけではなかったが、2式戦の補助戦力として有用ではないかという意見もあり、彗星エンジンの供給を2式戦と競合しないというならば、思考実験的に空冷エンジンの制空戦闘機の可能性を探ってみるのも悪くないと考えていた。
 これが第二次世界大戦における日本軍最強の戦闘機誕生に結びつくとは、当事者であるはずの九州飛行機でさえ思ってもいなかった。この時、昭和17年は終わろうとしており、シベリア戦線では2度目のソ連軍冬季反撃が始まっていた。

設計
 九州飛行機の設計は半ばやっつけ仕事に近いものだったが、その構想は極めて堅実な、常識的で、それでいながら本質を突いた先進的なものといえた。
 九州飛行機が目指したのは武人の蛮用に耐える戦闘機だった。この大方針の設定には設計スタッフの中にノモンハン事件で負傷し、現役を退いた元空軍パイロットがいたことが大きく影響していた。
 東大で航空力学を学びながら、それを実践する場として空軍パイロットという特異な舞台を選んだエンジニア・パイロットは97式戦闘機で理論を実証し、無数の敵機を撃墜したが最後には対空砲火によって撃墜され、左目を失って現役を退いていた。
 実戦経験を持ち、自ら操縦桿を握って、図面まで引けるエンジニアは世界広しといえども九州飛行機にしかいなかった。
 彼の理論は明快で、実戦経験を最大限に盛り込んだものだった。戦闘機はまず武人の蛮用に耐えなければならない。敵との戦闘よりも先に自軍のパイロットと整備員と戦わなければならない。それに耐えられない戦闘機は敵との戦闘にも耐えられない。それが彼の哲学だった。
 また、同時に戦闘機は高速でなければならなかった。可能な限り高速であることが何よりも望まれた。速度はエネルギーであり、高速であれば高速であるほど戦闘機が取れる行動の自由は広くなる。速度は高度に変換され、また高度は速度に変換される。速度は高度と共に戦闘機の機動に必要な貯金だった。貯金できるだけ多く溜め込める必要がある。そして、同時にできるだけ入金の額も多くしなければならない。余剰馬力が大きければ大きいほど、入金の額が大きくなる。空戦で消耗した貯金はなるだけ早く回復させなければならない。速度は空中で戦闘機の安全を保障する。
 エンジンの選定は簡単に決まった。というよりも選択肢は最初から殆どなかった。液冷エンジンは最初から選択肢にない。空冷エンジンで高出力のものとなると爆撃機用の大直径のものしかなかったが、その中でも最も重く馬力のあるエンジンが選定された。三菱が開発していた18気筒版火星エンジンである土星エンジンがそれで、排気量54L、1900馬力を発生する高出力エンジンだった。
 機体は可能な限り小型化、単純化された。小型化は軽量化と摩擦抵抗を生む表面積を減らすことにつながる。これは100式戦を同じ発想である。
 胴体は大直径の土星エンジンに合わせた天地幅の大きなもので、風防は水滴型を採用している。操縦席はかさ上げされ、360度の全周の視界を確保している。それまでパイロットは殆ど胴体の中に隠れて、胴体から上に出ていたのは首ぐらいだったのに対して、4式戦は腰から上のかなりの部分が空中にあることになり、多くのパイロットが不安を感じるほどだった。しかし、これは大直径エンジンよる視界不良を回避するための措置であり、カウリングよりも風防が高い位置にあることから前方視界は見えすぎるほど見えるという微妙な高評価を得ている。
 また、前方の下方視界を良くするために胴体の左右は切り落とされており、胴体は上下に広く、左右に狭いものとなっている。結果として胴体の左右はカウリングに食い込む形になり、カウリングと胴体との段差が生まれる。しかし、これを推力排気管を配置するスペースとして利用し、高速の排気ガスにより胴体表面に発生する有害抵抗を吹き飛ばすことで、かなりの高速化(推定30km/h)を可能としていた。
 こうしたパイロットから見た視界を優先しているのは元戦闘機パイロットが設計チームにいたことが多く影響しており、パイロットの負担とできるだけ少なくすることに注意が払われている。
 燃料タンクを単一とした理由の一つがそれで、燃料タンクの切り替えなど煩わしい仕事からパイロットは開放されている。また、機体を小型に纏めたために主翼内に燃料タンクを配置できなかったという理由も存在する。そのためにエンジンと操縦席にある単一タンクとなり、結果として操縦席が後ろに押し出される形となり、そのために悪化する前方視界を回復するために操縦席の大幅な嵩上げをしたというのが正しい。そのために4式戦を横からみた場合、胴体は「山」の字型に見える。
 主翼は高速発揮と翼内スペースの確保を狙って層流翼を採用し、主翼内搭載は不可能と考えられていた99式20mm機関砲を翼内に4門搭載することに成功している。主翼は3式戦爆と同じ左右一体型構造で、強度を稼ぎながら軽量化を果たしている。
 主翼は小さな機体にあせた小型の主翼であるため、大重量のエンジンや防弾装備を搭載していたことから自然と高翼面荷重の機体となっている。そのため2重ファウラー式フラップを装備して離着陸時の低速飛行性能を確保することとされた。
 オイルクーラーは2式戦と同様に左右の主翼付け根に開口部を設けて配置し、空気抵抗を増やすことなく効果的な冷却が可能となっている。
 なお、降着装置や主脚には通常の2倍の強度が与えられており、パイロットが多少ラフな着陸をしても問題ないようにされている。
 高出力エンジンのトルクを受け止めるプロペラは3.6mの4翅のVDM電動式可変ピッチプロペラを採用している。プロペラブレードも排気量54Lのトルクを受け止めるように剛性を強化したものを用いた。
 
その他技術的な特徴
 4式戦は武人の蛮用に耐えることを目標に、実用性に力点を置いた設計が行われていた。
 パイロットの負担軽減のために様々な工夫が凝らされており、燃料タンクを大容量の単一タンクとし、細かなタンクの切り替えをしないで済むようにしたり、操縦席の計器板の配置は輸入したFw190を参考(殆どコピー)に人間工学的な配慮を行っている。機器の作動状態の確認もランプ式からスイッチ式として確認作業が容易にできるように配慮されていた。また、操縦感覚をあらゆる速度域で同一のもとするために、腕比変更装置が導入されている。
 整備性への配慮も多岐にわたるが、電気ケーブルの被服に色づけして何がどのケーブルか一瞬で分かるようにしたり、ケーブルそのものをアルミパイプの中に通すことですっきりと整頓した形にするなどしていた。ケーブルのソケットも個別に形を変えて、適合するソケットでなければ結合できないようにする人間工学的な配慮がなされている。
 機体はモジュール化し、機体が破損した場合は即座に破損した部分を丸ごと交換できるようにしてあるので前線での整備、修理はきわめて容易だった。また、整備方式は時間整備の概念を取り入れ、部品交換に必要な時間を極力抑えるように調整されていた。
 機体のモジュール化は会社の規模の小さい九州飛行機では機体の生産を下請けに依存する部分が大きく、そうした下請けの能力を活用するために採用されたもので、自社工場では組み立てだけを行い、部品の製造は下請けに任せていた。そうした下請けは技術レベルが低いところが少なくないので、部品は可能な限り工作の容易な円筒形を用いて、工作の難しい球形部品は極力省いている。
 ほかにも圧板構造の採用によりリベットの数は2式戦の50%まで減少し、その圧板もプレス機による一発成形となっている。スポット溶接一部に取り入れ、工数削減を実現していた。
 部品点数の削減にも注意が払われており、パーツの一体化、簡素化により2式戦を比較した場合、2万5千点も部品点数を削減していた。
 このために「2式戦3機をつくる手間で4式戦は5機つくれる」という高い生産性を実現していた。

試作、試験飛行
 約束どおりにわずか9ヶ月で完成した試作機は社内での最終調整もそこそこに1943年の9月に空軍飛行試験センターに持ち込まれ、テストが行われることになった。
 この時の空軍の担当者はわずかに3名で、いかにこの試作機が期待されていなかったが分かる。この時既に枢軸国の最終攻勢により東部戦線は崩壊、スターリンは失脚し、実質的にソ連は崩壊していた。後任の無名の書記長がドイツと日本に講和(実質的には条件つき降伏)の交渉を行っているところであり、新型戦闘機の必要性は殆どなくなっていた。
 しかし、試験飛行を行ったテストパイロットは即座にこの無名の試作機により本格的な試験を受けさせるように意見具申していた。
 航空本部は試験で得たデータについて半身半疑ながらも追加試験を受けさせることにした。テストパイロットの証言が本当だとするならば、この試作機は戦慄の戦闘機だったからだ。
 追加試験を行ったパイロットは前回のテストパイロットとは別の人物で、その評価は前回と正反対のものとなった。
 あまりにも安定性が乏しく、操縦桿のわずかな操作にも機体が過敏に反応にして空中で安定した姿勢が全く保てなかった。特にロール性能は過剰で、わずかに操縦桿を傾けただけで高速ロールに入ってしまい、水平に戻すことは容易ではなかった。各舵の効きは効果的すぎて、意図しないほどの急旋回を入ってしまい高速失速に入ることがしばしばだった。
 機体の安定性不足で実用に耐えないというのがテストパイロットの所見だったが、九州飛行機は真っ向からそれに対抗した
 なぜならば、この試作機はそういう戦闘機だったからだ。
 機体の安定を意図的に崩し、1900馬力の大排気量発動機のトルクを大直径プロペラによって圧倒的な加速性能に変換し、低速から高速までのあらゆる速度域での優位を確保する。従来の水平面での運動性とは全く異なる、機動性能ともいうべき概念を追及した戦闘機だったのだ。
 さらに最高速度も完全武装状態で時速640kmをマークし、土星エンジンの改良型2200馬力(彗星エンジンで培ったフルカン流体継手と燃料噴射ポンプを適用し、100オクタンガソリン使用を前提としてブースト強化、高回転化を行った)に換装した試作2号機は高度5000mで時速680kmを達成し、燃料を3分の2消費した状態でのテストでは時速718kmを発揮した。
 2式戦との模擬戦では、高度6000m以下の戦闘では全く2式戦を寄せ付けなかった。2式戦に勝ち目があるとしたら水平旋回を多用したドッグファイトだったが、そうした水平旋回の途中で切り替えして急降下、離脱すれば2式戦はそれを捕捉することは不可能だった。しかし、何よりも圧倒的な加速性能により、どのような状態からでも加速して離脱すること、あるいは加速して相手を捕捉することが可能だった。
 こうした事態を受けて、空軍もこの試作機を無視することはできなくなっていた。
 ソ連との戦争は終わったが、米国は露骨な戦争準備を進めており、戦端が開かれるのは時間の問題となっていた。ソ連空軍とは比較にもならない強力な米陸海軍航空隊との戦いにそなえなければならなかった。なによりも、液冷エンジンの生産性の低さから2式戦の増産に限界が見えており、全ての戦闘機部隊を2式戦に改編することができそうになかったことから、いまだ運用が続く100式戦を更新するためにも空冷エンジンの戦闘機を容認するしかなかった。
 試作機はヨーの安定性があまりにも低いので、垂直尾翼の増積と風防直後から垂直尾翼まで伸びる背びれの追加を行い、過敏すぎた舵の効きも若干弱められている。また、プロペラも吸収馬力を高めるために効率低下を忍んで幅の広いものに変更している。しかし、機体の安定性が低いのは相変わらずで長距離飛行時のパイロットの疲労は無視できるものではなかったが、最終的には自動操縦装置を搭載することで解決している。
 戦闘機に自動操縦装置が搭載されたのは4式戦が初めてで、高度と進路を設定すれば直線飛行するだけという簡易な装置だったが、4式戦を戦力化するためには重量増加を忍んででも絶対必要不可欠とされていた。
 増加試作機を使った独立飛行隊が編成され、実戦運用に向けたマニュアル造りが行われ、それと平行して制式化前に九州飛行機では生産を開始、制式化後は中島飛行機と立川飛行機でも転換生産が行われ速やかに大量生産ラインに載っていた。
 
武装
 100式戦、2式戦に主用火器である99式20mm機関砲4門が翼内搭載されている。給弾は全てベルト給弾である。発射速度はプロペラ同調発射が必要ないので2式戦のそれよりも向上しており毎分400発である。単純計算でも2式戦の2倍、発射速度の向上を考えればさらに差は開く。B17のような大型爆撃機には撃墜までに20発の20mm機関砲弾を必要だと考えられていたので、1連射で撃墜できる計算だった。当然ながら、単発戦闘機や攻撃機等は一撃で粉々である。
 機体を小型化と安定性の低さから対地攻撃はあまり考えられていないので対地攻撃兵装は250kg爆弾1発ないし3式8センチ噴進弾のみである。実際には殆ど対地攻撃には用いられていない。
 4式戦は整備性に注意された戦闘機であり、機関砲弾の搭載や機関砲の交換はクイックリリース化されており、2式戦と比べて50%の作業効率向上が認められている。

防御
 燃料タンクは大型の胴体内単一タンクとされ、防弾防漏装備を施されている。主翼は完全なドライウイングであり、被弾時の生存性は高い。操縦席後部の防弾鋼板は12.7mmの正撃に耐える堅牢なもので、防弾鋼板は機体構造の一体化されているので機体強度を稼ぎつつ防御力を稼いでいる。

戦歴
 4式戦の配備は対ソ戦終了後で、ソ連軍機との交戦はなかった。
 配備先は100式戦の部隊から始まり、3式戦爆の戦闘機型を配備されていた飛行隊にも中古機材を襲撃機部隊に引き渡す形で4式戦を供給された。
 実戦部隊では安定性の低さから訓練時に事故が多発したが、100式戦装備の飛行隊はベテランパイロットが多かったのであまり多くの問題は発生しなかった。対ソ戦も終結していたことから訓練に使える時間的な余裕があり、4式戦配備と同時に飛行、実戦向けマニュアルも配布されたことから事故は徐々に減少していった。
 4式戦の配備時期は対ソ戦と対米戦の合間に重なったことが幸いして、訓練にとれる時間的な余裕があったことから戦力化は順調に進んでおり、対米開戦時には200機前後の4式戦が配備済みだった。
 米国の対独、対日宣戦布告と同時に行われたマーシャル諸島攻略戦、続くトラック環礁空襲、マリアナ侵攻作戦において帝国空軍は戦力温存のために抗戦していない。
 米航空部隊と4式戦の戦闘は沖縄航空戦が初めてで、対戦相手はF6Fだったが同数の戦闘ではF6Fを練度と実戦経験、そして機体の性能差によって圧倒している。鹿児島市上空の12対12の迎撃戦において、6機撃墜、3機撃破に対して損害は大破不時着1でパイロットは無傷で生還という大戦果を上げている。
 4式戦はフルカン流体継手1段2速過給器の性能限界により、高度6000m以上では顕著に性能が低下するが高高度性能に優れたP−51やP−47は沖縄に展開する余地はなく、また同程度の高高度性能しか持たないF6F相手なら完全に優位だった。
 しかし、高高度性能の低さは大きな問題であり、フィリピンから飛来したB−29を相手にした迎撃戦では苦戦を強いられている。
 このことから停戦後にフルカン流体継手1段3速式過給器が開発され、4式戦の全開高度を高める措置がとられている。
2007年11月04日(日) 16:58:05 Modified by suzukitomio2001




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