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【定義】

昭和3年(1928)8月1日に刊行された、曹洞教会の機関誌『星華』の巻頭論文、忽滑谷快天?正信」について、発心寺?師家であった原田祖岳?が「須く獅虫を駆除すべし」を『公正』誌上(昭和3年9月号)で論じ火蓋を切った論争のこと。名称については、「正信論争・正信問題・安心問題」などあるが、一般的には「正信論争」。なお、論争の期間については、森大器編『曹洞宗安心問題論纂?』が、昭和4年3月に刊行されるまでの約半年とする見方(佐橋『曹洞宗学研究序説』参照)もあり、或いは論争の当事者であった、忽滑谷の遷化した年(昭和9年)をもって一区切りと見る見方もある(伊吹敦『禅の歴史』参照)。なお、安谷白雲著『宗門人の邪解と邪信』(1971年)が最後の問題提起であるという(竹林『曹洞宗正信論争』1163〜1164頁参照)。

【内容】

この論争の背景には、様々なものが考えられる。まずは、明治時代以降、学林ではなく、近代的な大学の中で、学生の育成を行いたいと考えていた曹洞宗当局と大学関係者について、それを面白く思っていなかった各僧堂指導者の不満があった可能性もあるし、或いは当事者である忽滑谷と原田(原田は一時期、曹洞宗大学の教授であった)の不仲である可能性もある。

また、『星華』という雑誌の位置付けを考える必要もある。同誌は、当時の曹洞宗の教化組織であった曹洞教会が、昭和天皇即位を機に、新たな集団に生まれ変わるための、フラッグシップ的機関誌であった(同年7〜8月に関連法案が整備される)。その巻頭言に学者の立場である忽滑谷快天(当時は駒澤大学学長)が論文を寄せたことに対して、僧堂師家であった原田祖岳が嫉妬めいた批判を寄せたという見方もある(佐橋『曹洞宗学研究序説』参照)。

その後は、忽滑谷派(主に大学同僚や教え子)と原田派(主に弟子)、中立派(反忽滑谷・反原田も含む)などが入り乱れて、多くの者が私見を各雑誌に寄せる論争となったが、最終的には当時の曹洞宗当局が何の見解も出さなかったこともあり、論争は自然消滅した格好である。ただし、その後は大学と僧堂とが鋭く対立してしまったことや、未だに、一部の学者が僧堂を毛嫌いし、一部の師家が学者を毛嫌いするという傾向がある所に、その影響が残る。

【先行研究】

・森大器編『曹洞宗安心問題論纂?』(1929年)
⇒昭和4年3月までの正信論争関連論文の一部を収めたもの。後々同書は、正信論争の基礎文献として用いられたが、発刊当時から編集態度に偏向があると批判があったことが明らかとなり(竹林『曹洞宗正信論争』参照)、昨今では用いられない。
・佐橋法龍著『曹洞宗学研究序説(第一巻)』(私家版、1960年)
⇒曹洞宗宗学研究所などに在籍し、後には長野松代長国寺の堂頭となった佐橋法龍が、曹洞宗学の研究方法などについて、その歴史的進展の経緯や、目指すべき方向を示したもの。「序章―第四節 宗学と伝燈」にて、正信論争を詳しく採り上げる。なお、佐橋は角川選書『禅』でも、同じく論争と大学・僧堂との関わりを指摘する。
・駒澤大学編『駒澤大学八十年史』(1962年刊)
⇒阿部肇一や櫻井秀雄などによって本文が執筆された同著も『論纂』に依拠して論じられ、正信論争については、その後の曹洞宗学発展の基礎となったことを位置付けるように評価している。
・永井政之編『曹洞宗選書?』第八巻(同朋舎、1981年)
⇒同著は、近代の曹洞宗関係文献を集めたものだが、特に同巻は教義関連を集めたもので、忽滑谷『正信問答』(大正15年)、森『論纂』などを収め、竹林『曹洞宗正信論争』が出るまでは、論争に関する基礎文献であった。
・竹林史博編『曹洞宗正信論争(全)』(青山社、2004年)
⇒従来、『論纂』が主な史料であった「正信論争」について、当時の関連論文掲載雑誌等を丹念に収集して、そのほぼ全貌を明らかにした労作。今後、論争を扱うには、本書を基礎文献とする必要がある。

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