【定義】
この法語には定まった題名はなく、例えば大久保道舟博士の筑摩書房版『道元禅師全集』では「参禅学道妙術」と呼ばれているし、鴻盟社の本山版縮刷『正法眼蔵』では「永平高祖法語」となっている。今は春秋社版『道元禅師全集』の呼称にしたがって、「参禅学道法語」として立項する。
【内容】
この法語は、元々泉福寺所蔵の『正法眼蔵御抄』の末尾に収録された「法語 開山御詞」であり、嘉禎4年(1238)10月に書かれたものであり、興聖寺時代である。内容は、人として生まれた者の最大の幸運は、仏法に遇うことであるとしながら、仏道に遇うための方法は、修行こそが親切であるとする。
そして、修行の方法としては、自らの吾我を投げ捨てることが肝心としながら、そのためには正師に会って仏道を聞き、その指導にしたがって、修行を進めていくことだとされるのである。
この法語には定まった題名はなく、例えば大久保道舟博士の筑摩書房版『道元禅師全集』では「参禅学道妙術」と呼ばれているし、鴻盟社の本山版縮刷『正法眼蔵』では「永平高祖法語」となっている。今は春秋社版『道元禅師全集』の呼称にしたがって、「参禅学道法語」として立項する。
【内容】
この法語は、元々泉福寺所蔵の『正法眼蔵御抄』の末尾に収録された「法語 開山御詞」であり、嘉禎4年(1238)10月に書かれたものであり、興聖寺時代である。内容は、人として生まれた者の最大の幸運は、仏法に遇うことであるとしながら、仏道に遇うための方法は、修行こそが親切であるとする。
そして、修行の方法としては、自らの吾我を投げ捨てることが肝心としながら、そのためには正師に会って仏道を聞き、その指導にしたがって、修行を進めていくことだとされるのである。
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