潮騒のさざめきを割いて聞こえる音がある。
太陽は真上に登り、港町を包み込む。
牛が吼えるような汽笛も遠く、浜辺で手を振る見送りの人だかりに加わりもせず、
今日も変わらずいつものカウンターに頬杖を突いて、お客さんの注文を待っている。
椅子から垂れる自分の脚が所在なさげに宙をかき回していることにも、無意識に窓の外を眺めていることにも気付かないまま、私は波と潮風の寄せては引いていく音の中からあの言葉の意味を探すように、ただずっと頭の中で彼の声を反芻していた。
夕焼けが床や壁を色付ける頃。雑誌の切り抜きが終わったところで、入り口の扉に吊り下がった鈴がひと際大きな音を出す。
思わず振り向くと、お店の主人が、普段は優し気に垂れている目を大きく見開いて立っていた。
「どうも見当たらないと思ってたら、なんだってこんな所で座ってるんだ。店番ならいいって言ったろ」
ごつごつとした身体を揺らして、焦った様子でそう問いかけて来たが、私には質問の意図がいまひとつわからない。
一回りも二回りも違う背丈に、自然と見上げる形になりながら、私は聞いてみる。
「えっと、私今日、午後休とかにしてましたっけ?」
「いや、そういうわけじゃないが……。」
言いかけた言葉を飲み込んで、首を傾げた私の顔をじぃっと見つめると、このお店の主人であるクアレンスさんは諦めたような顔をしてから、市場で仕入れた薬草や小瓶が入った紙袋をお店の奥へ運び始めた。
じわりじわりと疑問が胸を埋めていく。洗濯物を溜めてしまっているような、とれかけのボタンをぶらさげているような、不思議な感覚。
「なんだろ、何か忘れてたっけ?今日は特に予定は入れてないと思ったけど…。」壁のカレンダーを指でなぞりながら呟く声は机に吸い込まれて消えてしまう。
クロスワードの前で腕を組めるようなタイプでもないので、疑問は数分もしないうちにボンヤリと薄もやに変わって、頭の隅に追いやられてしまった。そうそう、溜まるといえば午前中の洗い物がシンクのかごに溜ってるんだった。今日はお客さん、ちょっと少なかったから、ついつい後回しにしちゃってる。気合を入れて髪留めのリボンを直すと、お気に入りの制服の袖を捲って流しの方へ足を向けた。
すっかり綺麗になって嬉しそうに透けるコップを布巾で拭き終わったところで、扉の鈴が微かな音を立てる。
手を止めて入り口に視線をやると、小さな目がきょろきょろと店内を見渡していた。最後の食器を引き出しにしまうカチャカチャという音に掻き消されて、私はまた、自分の漏らした溜息に気付けない。
短い腕で沢山の食材を抱える料理人が、私の顔をみつけるとぴっとしっぽを立てる。
「レイカさん、もう帰ってきてたんですか?もっとゆっくりしてくればいいのに。」
む。この子までこんな不思議なことを言う。さっきまで頭の隅っこでうずくまっていた薄もやが、再びお店の空気に広がっていく。
「さっきクアレンスさんも同じようなこと言ってたんだけど、私、なにか言ってたっけ? スズカケちゃんのコンサートはまだ先だし、お買い物も来週だよね。それから……。」
片手の指を回して続けざまに頭に浮かぶ予定を片っ端から引っ張り出してみるけれど、テオくんの怪訝そうにうねるふわふわ眉は尚更しわを増やしていくばかり。このままだと綿菓子が出来ちゃいそう。
私は胸のつっかえに堪えきれなくなって、お願いしてみることにする。
「なにか知ってるなら教えてよ。さっきからなんだかモヤモヤしてきちゃって。」
片耳を寝かして、想定外の問いかけに心底困ったという顔をした彼は、
つま先をうんと伸ばして調理場の作業台に食材をどんと乗せると、遠くで椅子に座って帳簿をめくる主人の顔を、助けを求める生徒のようにのぞき見る。クアレンスさんが小さく肩をすくめると、小さな料理人はちょっと考えた後に、自分の本業に戻ることにしたようだ。
エプロンの紐を後ろ手に締める姿に、さっきまでのような狼狽はなかった。
まな板のトン、トン、トンという歌音が聞こえ始めると、私だけが取り残されたような気がして、なぜだか窓を閉めたくなった。
新鮮な野菜の香りが鼻に抜ける。かまどに火が付いて、じんわりと暖かな湯気が一日の終わりを告げていた。
「なんだか変な二人。」頬を膨らませても、答えてくれる人は誰もいない。すっかり夜に染まった潮風の向こうに答えがあるような気がして、私はまた窓の向こうに視線を向けていた。
おわり
太陽は真上に登り、港町を包み込む。
牛が吼えるような汽笛も遠く、浜辺で手を振る見送りの人だかりに加わりもせず、
今日も変わらずいつものカウンターに頬杖を突いて、お客さんの注文を待っている。
椅子から垂れる自分の脚が所在なさげに宙をかき回していることにも、無意識に窓の外を眺めていることにも気付かないまま、私は波と潮風の寄せては引いていく音の中からあの言葉の意味を探すように、ただずっと頭の中で彼の声を反芻していた。
夕焼けが床や壁を色付ける頃。雑誌の切り抜きが終わったところで、入り口の扉に吊り下がった鈴がひと際大きな音を出す。
思わず振り向くと、お店の主人が、普段は優し気に垂れている目を大きく見開いて立っていた。
「どうも見当たらないと思ってたら、なんだってこんな所で座ってるんだ。店番ならいいって言ったろ」
ごつごつとした身体を揺らして、焦った様子でそう問いかけて来たが、私には質問の意図がいまひとつわからない。
一回りも二回りも違う背丈に、自然と見上げる形になりながら、私は聞いてみる。
「えっと、私今日、午後休とかにしてましたっけ?」
「いや、そういうわけじゃないが……。」
言いかけた言葉を飲み込んで、首を傾げた私の顔をじぃっと見つめると、このお店の主人であるクアレンスさんは諦めたような顔をしてから、市場で仕入れた薬草や小瓶が入った紙袋をお店の奥へ運び始めた。
じわりじわりと疑問が胸を埋めていく。洗濯物を溜めてしまっているような、とれかけのボタンをぶらさげているような、不思議な感覚。
「なんだろ、何か忘れてたっけ?今日は特に予定は入れてないと思ったけど…。」壁のカレンダーを指でなぞりながら呟く声は机に吸い込まれて消えてしまう。
クロスワードの前で腕を組めるようなタイプでもないので、疑問は数分もしないうちにボンヤリと薄もやに変わって、頭の隅に追いやられてしまった。そうそう、溜まるといえば午前中の洗い物がシンクのかごに溜ってるんだった。今日はお客さん、ちょっと少なかったから、ついつい後回しにしちゃってる。気合を入れて髪留めのリボンを直すと、お気に入りの制服の袖を捲って流しの方へ足を向けた。
すっかり綺麗になって嬉しそうに透けるコップを布巾で拭き終わったところで、扉の鈴が微かな音を立てる。
手を止めて入り口に視線をやると、小さな目がきょろきょろと店内を見渡していた。最後の食器を引き出しにしまうカチャカチャという音に掻き消されて、私はまた、自分の漏らした溜息に気付けない。
短い腕で沢山の食材を抱える料理人が、私の顔をみつけるとぴっとしっぽを立てる。
「レイカさん、もう帰ってきてたんですか?もっとゆっくりしてくればいいのに。」
む。この子までこんな不思議なことを言う。さっきまで頭の隅っこでうずくまっていた薄もやが、再びお店の空気に広がっていく。
「さっきクアレンスさんも同じようなこと言ってたんだけど、私、なにか言ってたっけ? スズカケちゃんのコンサートはまだ先だし、お買い物も来週だよね。それから……。」
片手の指を回して続けざまに頭に浮かぶ予定を片っ端から引っ張り出してみるけれど、テオくんの怪訝そうにうねるふわふわ眉は尚更しわを増やしていくばかり。このままだと綿菓子が出来ちゃいそう。
私は胸のつっかえに堪えきれなくなって、お願いしてみることにする。
「なにか知ってるなら教えてよ。さっきからなんだかモヤモヤしてきちゃって。」
片耳を寝かして、想定外の問いかけに心底困ったという顔をした彼は、
つま先をうんと伸ばして調理場の作業台に食材をどんと乗せると、遠くで椅子に座って帳簿をめくる主人の顔を、助けを求める生徒のようにのぞき見る。クアレンスさんが小さく肩をすくめると、小さな料理人はちょっと考えた後に、自分の本業に戻ることにしたようだ。
エプロンの紐を後ろ手に締める姿に、さっきまでのような狼狽はなかった。
まな板のトン、トン、トンという歌音が聞こえ始めると、私だけが取り残されたような気がして、なぜだか窓を閉めたくなった。
新鮮な野菜の香りが鼻に抜ける。かまどに火が付いて、じんわりと暖かな湯気が一日の終わりを告げていた。
「なんだか変な二人。」頬を膨らませても、答えてくれる人は誰もいない。すっかり夜に染まった潮風の向こうに答えがあるような気がして、私はまた窓の向こうに視線を向けていた。
おわり
このページへのコメント
ジュンには是非、出立前日の夜とかにあいさつに行って、いつも通り過ごしてきてほしい。そこに恋心の有無は問わない。
あぁぁぁあ、、、
レイカ見送りにいってあげてーー
ありがとーございまつ涙涙