2chの「軍人や傭兵でエロ」のまとめwikiです

■第5章 ―― 絶望

 それから数週が経って、私は各種報告書の取りまとめや、「部下」たちからの報告書のチェック、他のチームへの応援といった類のものに忙殺されていた(彼らはマクシム教授の活動資金源を追っていた。マクシム教授は大金持ちだが、さすがに組織的かつ大口の資金援助元があると仮定しなくては、彼の活動すべてを実現はできない)。事務仕事は苦手ではないが、得意でもない。しかしここまで調査が暗礁に乗り上げていると、事務仕事は格好の逃避にはなる。

 状況は、急に動いた。

 私室でノートPCを前に報告書と戦っていた私は、大尉に呼び出された。ニールが、至急報告したいことがあるという。私たちは彼の部屋に向かう。
「何か分かったか」
「いろいろと。全体の関連は見えませんが、共有したほうがいい情報がいくつか出てきましたので、ご報告をと。
 まず、カレン・バリシニコワの件ですが。犯罪データベースにあたってみたところ、カイナール村で活動していたNPOにヒットしました。ただし25年くらい前の話です」
「お隣と戦争してた頃だな」
「ええ。あの頃、この国は親米国家でしたから、人道援助でNPOも相当数が入ってます。大半はまっとうな活動家ですが、なかにはかなり胡散臭いのも。
 カイナール村で活動してたのは、メガトン級に胡散臭い男です。シルヴァン・デュラスを知ってますか?」
「アフリカでNPOを自称して活動してる人身売買マフィアのボスだな。この前、やっと逮捕された」
「デュラスがデビューしたのが、カイナール村です。データベースには、彼がNPO職員としてカイナール村で人道支援の仕事をしていたという記録があります。実際に何をしてたかは不明ですが」
「武器、麻薬、人間。あの頃なら選り取りみどりだったろうな。もちろん、真面目なNPO職員だったのかもしれない。正義を夢見た若者が、現地で夢に破れるってのはよくあるパターンだ。
 デュラスとバリシニコワにどんな関係が?」
「デュラスは、バリシニコワが処刑されるというニュースを、西側のメディアに大々的に流した張本人です。世界中のメジャー紙を無作為検索しましたが、デュラスが直接インタビューに答えている記事がいくつもあります」
「なるほど。なぜだ?」
「不明です。継続して調査しますか?」
「頼む。デュラスが所属していたNPOの活動内容も調べてくれ。他には?」
「イリーヤ・ダヴィドフの件ですが、彼は遺伝学的にはダヴィドフ家の人間ではありません」
「なんですって!?」
 思わず叫んでしまう。そんな馬鹿な。
「そんな。彼はずっと、ダヴィドフの血筋を自慢してました。この国における英雄を幾人も輩出してきた名家の生まれだというのは、彼のアイデンティティそのものです」
「証拠があります。先日、ようやくイリーヤの毛髪のDNA鑑定データが出てきたんで、ふと思い立って彼の両親のものと比較してみたんですよ。99.7%の確率で親子ではないという結果が出ました」
「なんてこと……」
「イリーヤ・ダヴィドフは、29年前にダヴィドフ家の長男として生まれました。しかしイリーヤが幼いころの記録は、一切残っていません。病弱だったイリーヤは、まずは乳母、そして家庭教師をつけられ、ぬくぬくと育てられたことになっています――が、彼の写真が最初に登場するのは、12歳のときです。
 国家の富の数%を独占している家の、長男の写真が一切存在しないなどということが、普通あり得ますか?」
「そうだな、例えば写真に対して原始的な迷信を抱いて――」
「だったらなぜ12歳から突然写真が出てくるんです?」
「クソ、まったくだ」
「ともあれ、イリーヤ・ダヴィドフが、イリーヤ・ダヴィドフではないのは、鉄板です」
「……つまりこれで、身元不明の人間が都合三人になったんですね」
「そうです。この件に関与している『顔のない人物』には、カレン・キリチェンコとマイア・バリシニコワだけでなく、イリーヤ・ダヴィドフまでもが加わりました。そのうちの二人は、イズミ博士と深い関係を持っています」
 また一枚、「わたし」と「世界」の間にあったベールが剥ぎ取られた。自分が冷たい汗をかいているのを意識する。タバコがほしい。
「えーと、大尉。それで今夜あたり、イズミ博士の元職場に聞き取り調査に行ってもいいですかね?」
「いいだろう、許可する。経費はお前もちだが」
「なんてこった」
「当たり前だ阿呆」

 私たちはオペレーションルームに戻り、状況の整理をすることにする。大尉がコーヒーを持ってきてくれた。
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで」
「入れちまった」
「ならそれで」
 何年かぶりに砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーを飲みつつ、考えをまとめようとする。私が知っている人間ではなかったイリーヤ。私が知っている人間ではなかったカレン。
 ――と、唐突に無関係なことが気になった。
「アイク軍曹は、いま何してるんです?」
「オフ。2週につき3日までの休暇が取れる。2ヶ月ごとに1週の国外休暇。2ヶ月に1回のは義務だから気をつけてくれ。管理部から警告されるけどな」
「軍曹は国外?」
「いや、奴は先月出たからあと1ヶ月」
「大尉は次の国外休暇はどこの予定を?」
「部隊長は国外休暇をキャンセルする権利を持ってる」
「ワーカホリックですね」
「ニールには負けるさ。あいつ、長期休暇の希望先にWikipediaトップのURLを書きやがった前科がある」
「それは立派な病気です」
「休暇先は日本でもいいだぜって言ったら3秒くらいで旅支度してすっ飛んでったけどな。次は台湾だって息巻いてる。少尉こそ、どうするんだ。今のうちからちゃんと考えておかないと苦労するぜ」
「ターニャに相談しますよ。なんなら彼女についていっても」
「あー、それは、うん、お勧めしない」
「というと?」
「アイクと一緒に休暇を取るだろうから」
 私は思わず納得して頷いていた。なるほどねえ。
「今日もターニャは午後からオフにしてるから、どこかにシケこんでるんじゃないか。非合法なことをやってるんじゃなきゃあ、オフを誰とどう消化しようが俺の知ったことじゃないけどな」
 ……ん? ん? んんん? なんだかどうでもいい推論エンジンが高速で回転する。それって? つまり? ええと?
「大尉。ターニャと昔、つきあってました?」
「――これだから勘の良すぎる人間は嫌いだ」
「なぜ別れたんです」
 大尉はむすっとした顔になったが、それでも口は閉ざさなかった。
「あいつのほうから、やめにしようってな。上官と部下の間に、必要以上の私情を交えるべきではないってさ。
 ここだけの話だが、あいつがこの国の国軍にいた時代、所属部隊の部隊長と結婚寸前まで進んでたらしい。だが隊長は作戦中にあいつをかばって死んで、部隊長を失った部隊は崩壊」
「大尉が同じ状況に置かれたら、ターニャをかばいますか?」
「状況による。だが客観的事実を積み上げさせてもらえば、俺があいつをかばう確率より、俺があいつにかばわれる確率のほうが高いだろう。俺じゃあ、あいつの婚約者二号にはなれん」
 そのとき、私の脳の右側で何かが閃いた。今度のは、さっきみたいなどうでもいい推論ではない、そんな予感がある。だが一体それが何であるかを左脳が分析し終わる前に、閃きは去っていく。
 思わず眉をひそめ、額に指をあてがう。ええい、あんなどうでもいいことには一瞬で頭がまわったのに。
「――どうした?」
「いえ、何か――仮説の尻尾を、掴み損ねました」
「ブレインストーミングでもするか?」
 大尉が椅子に腰掛け、メモ帳の束を取り出したところで、内線が鳴った。
「あー、はい、こちらハント大尉。ええ。ええ。わかってますよ。わかってます。いや、だからですね。ええ。わかりました、いますぐそちらに行きます。わかってますって」
 彼は軽くため息をつくと、受話器を置く。
「すまん、ちと上から呼び出しだ。午前様コースだから、ブレストするなら明日の夕方からってことになりそうだ。なんとも締まらないな」
「お疲れ様です」
「行ってくる。じゃあな、おやすみ」
 大尉はジャケットを引っ掛けると、壁に吊るしてあったネクタイをポケットに押し込んで小走りで出て行った。この人はいつ寝てるんだろう。

 私はいったん自室に戻ってベッドに横になると、自分が何に反応したのかを思い出そうとする。何か、破片のような一言が、たまらない違和感を生んだのだけれど。
 何度も何度も、大尉との問答を脳内で繰り返す。どうも集中できない。ターニャとアイク軍曹かあ。ううん。いいなあ。いや、違う。そこじゃない。そこじゃないよ、イズミ、何考えてんの。
 しっかしあの二人のデートって、想像しにくいなあ。レストラン……は、まあ、なんとか……それから映画? クラブ? いや、ないね。ない。それはない。第一普通に公衆の迷惑っぽくない? それくらいなら射撃訓練所で並んで標的射撃してるほうがずっと似合ってる。となると、やっぱり食べたらホテルに直行? それともいっそホテルのベッドの上で食事とか。
 いや、待って、イズミ、なんかあなた変だよ。
 ……ああ、でもハント大尉とターニャって組み合わせだったら、ショットバーで夜更かしってのも絵になるよね。ターニャもお酒は飲んでそうな気がする。

 私は自分でも何だかよくわからない唸り声を上げて立ち上がる。くそう。なんだろう、これ。熱いシャワーでも浴びれば少しはすっきりするだろうか。いや、もしかするとスッキリしたくなってまた暴走しちゃうかも。いや、いや、いや、あれはほら、初任務直後の緊張のせいであって。あれ以降は、辛抱たまらなくなったらターニャがいない隙にベッドで、ほら。

 ――うーん。

 とりあえず、ひとつ、分かった。今の私は、ダメダメだ。
 おっかしいな。なんでこんなに集中できないんだろう。いや、うん、可能性としてはいろいろ考えられるけれど、それはない。それはないなあ。ないと思う。だってさ。ねえ。

 モヤモヤしたまま、とりあえず部屋を出る。オペレーションルームに戻って、ハント大尉が使っていたブースに入り込んだ。混沌の中からキーボードとマウスを掘り起こし、イヤフォンジャックにヘッドセットの末端をねじこんでから、お気に入りのネットラジオにつないでボリュームをMAXにする。ややポップスによったトランスの専門局だ。
 音に意識を集中させているうちに、だんだん色恋沙汰が心から離れていくのが分かった。指先とつま先でリズムを追う。と、曲が変わって懐かしいメロディが入ってきた。1年前に流行ったボーカル入りのアレンジで、カレンと私は飽きずにこれをBGMにしていたものだ。

 ……ああ、やっぱり私は、情報軍の人たちに惚れているのかもしれない。シャワールームでのアレはただの暴走という確信があるが、冷静さを取り戻してもなお、彼らに感情的に惹かれる部分を否定できない。
 情報軍の人々は、実直で、誠実で、高いスキルを持ったプロだ。そして私は、相手の男女を問わず(同性愛が全面的に否定されているこの社会においては、とても危険なことなのだが)、高い能力というものに無条件で情緒的な執着を示す傾向がある。そしてしばしばにしてその執着は、もうちょっと分かりやすい感情、つまり恋慕や愛情へと転化されていく。
 この「才能に対する一目惚れ」に対して、私の本能に書き込まれた「惚れるな」という警告が、理性に向かって警報を発している、まあ、おおかたそういうところ……

 私は黙ってネットラジオを切り、ヘッドセットを外す。

 それだ。なぜこの端緒を掴みそこなったんだ、私は。「俺じゃあ、あいつの婚約者二号にはなれん」。そうだ。その言葉が、すべてを語っている。

 カレンなのだ。カレンという名前は、一定のグループのなかで、『カレン的なる何か』を体現する人物が名乗る、いってみれば勲章、あるいは役職みたいなものなのかもしれない。彼女たちは庇い庇われあいながら、二人目、三人目と『カレン』を引きついでいったのだ。
 私設の難民キャンプや孤児院といったものは、組織的な人身売買および児童買春のベースキャンプになりやすい。先進国においては商品が互いに顔をあわせることをリスクと考えるため組織の地理的拠点は分散しがちだが、商品の供給数が決定的に多い地域においては自ずから話が異なる。
 商品たちが一箇所で集中管理されている状況であれば、彼ら「顔のない子供たち」に一種の連帯が生まれる可能性は否定できない。仕事に関係しない情報の交換も行われるだろう。だがそれでも、そうやって出来上がった一種の組織が、「雇い主」に叛旗を翻すことはまずない――なぜなら、彼らは自分たちが幸運であることを理解しているからだ。仮に反乱が成功したとして、彼らの未来に何があるというのだろう?
 何もない。何も、ないのだ。状況は悪化こそすれ、改善はされない。
 麻薬に溺れた売春婦が、ただ麻薬を手に入れるためだけのために自ら率先して煉獄に留まろうとするように、彼ら「顔のない子供たち」もまた、煉獄を脱した先には地獄しかないことを知っているから、その煉獄の看守に向かってクーデターを仕掛けようなどとはしない。自分たちの無力なる「後輩」たちを煉獄から地獄に叩き落すような選択もまた、取れない。

 この仮説は、カレン問題の構造的矛盾に対する回答にもなり得る。
 イリーヤと、自爆したカレンは、同じ場所で管理されていた商品であり、カレンがイリーヤに自爆テロの準備を強要した。イリーヤは今現在自分が仕えている政治集団よりも、かつて自分が所属していた集団への紐帯を優先し、カレンに対して必要な機材を供給した――イリーヤは、カレンが自分たちの住む煉獄を吹き飛ばすようなことはしないと信じたか、さもなくば彼らしい無謀な理想主義を掲げてカレンを後押ししたということになる。
 仮説としては、あまり強いものではない。証拠が圧倒的に不足している。だが二つの不可能が一つの仮説で説明可能になるというのは普通ではないし、全体の状況証拠に対して目だった矛盾を発生させてもいない。となると、必要なのは検証だ。

 私は大尉の携帯を鳴らしてみたが、電源が切られているらしく諦める。急いでニールの部屋に向かったが、彼も出かけてしまったようだ。アイクとターニャは、連絡すればできるだろうが、さすがに私もそこまで野暮ではない。
 それに、考えてみればこの仮説を検証するには、普通の調査では追いつかない。一歩、深淵の方向に足を踏み出す必要がある。
 私は自分の部屋に飛んで戻って荷物をスポーツバッグに詰め込むと、基地を出て最寄の公衆電話にコインを入れた。若干震える指で、記憶に残っていた番号をダイヤルする。この時間なら、あの子はまだ客をとっていないはずだ。
 3回のコール音が無限にも思える時間を紡いだが、予想通り彼女は4回目のコール音と同時に電話口に出てきた。
「ハーイ、こちらナタリア。御用は何かしら?」
 懐かしい、ハスキーな声。
「ナターシャ、私なんだけど」
「誰よ?」
 まだ、彼女の声に緊張はない。仲間内の悪戯電話だと思っているのだろう。
「カレンの恋人」
「……イズミ? そんな。そんな、だって」
 ナタリアの声がぐっと硬くなった。
「詳しいことは話せない。でも、カレンのことでどうしても聞きたいことがあるの。30分後、ラズロの店で会える?」
「本当にイズミなの? 無事なのね?」
「カレンの本当のことを知るまでは、死ねないわ」
「わかった。でも、ラズロの店は無理。ラズロは強盗に殺されたわ。それから私まだお化粧してないから、30分ってのは無理。1時間頂戴。あなたが本当にイズミなら、ソニーって言えばわかるよね? そっちで待ってる」
「いいわ。1時間ね」
 私は受話器を下ろし、タクシーに乗り込む。運転手に相場の3倍くらいの料金を掴ませると、彼は後部座席で情報軍の制服を脱いでホットパンツとノースリーブに着替える私をきっちりと無視して目的地へと飛ばし始めた。もう、着替えがどうこうなど言ってはいられない。

 1時間後、私は首都の歓楽街入り口に立っていた。連合軍の兵士と、今の私のような格好をした女たちが、嬌声を上げながら道一杯に広がっている。
 私は制服を詰めたスポーツバッグを片手に、ソニーに向かう。ソニーというのは、私たちが通っていた場末のハードロック・カフェを指す符丁だ。店主が二言目には「やっぱりソニーのアンプは違うだろ」と言うので、私たちは店自体のことをソニーと呼び習わしていたのだ。ちなみに、その店で使っていたアンプはビクター製だったが。
 雑居ビルの地下1階に入ったその店は、昔と何も変わらない風情を漂わせていた。黄金期のハードロックが、ビルの入り口にまで響く大音量で流れている。よくもまあテロの嵐を生き延びているものだ。
 薄暗い階段を降り、錆だらけの鉄の扉を開けると、カウンターにナタリアが座っていた。腰まで伸ばした薄いブロンドの髪と、凹凸のはっきりしたボディラインは、相変わらず見事なものだ。が、客は彼女しかいない。

 彼女は、私のことが分からないようだ。私は彼女の隣に座ると、「久しぶり、ナターシャ」と声をかける。
「イズミ? なんだか顔が違う……でも、うん、声はイズミね」
「事情があって」
「聞かないことにするし、忘れることにする。マスターも席を外してる」
「じゃあこれ、後で彼に払っておいて」
 私はバッグからしわくちゃになった1ドル紙幣を取り出し、カウンターの上に置く。
「変わらないのね、イズミ。とっ散らかった人生を歩いてるわりに、妙なところで律儀なのは、やっぱりイズミだわ」
 私は苦笑しながら、単刀直入に本題へと切り込む。
「ねえ、ナターシャ。あなたは、カレンが死んだ理由を知ってるんでしょ?」
「なぜそう思うの?」
「隠さないのね、ナターシャ。いいわ、私の推測は、こう。
 最初に違和感を持ったのは、お店の営業中にゴキブリ騒ぎがあったときよ。あなたはカレンと同郷で南部出身だって言ってたけど、あのときあなたが叫んだゴキブリを指す卑語は、北西山岳部の少数民族にしか見られない方言なの」
「よくそんなのに気がついたわね」
「本で読んだことがあったから。それであの後、カレンにもあなたにも、何度か故郷の話を振ってみた。あなたたちは、同郷だって繰り返したわ。
 カレンは、私には嘘をつかない。同郷だっていうのは嘘じゃないってこと。だからあの頃の私は、カレンが遠まわしに、あなたと昔は恋人関係にあったって言ってるんだと思ってた。あの頃はね」
「私たちは『同郷』だったわ。シルヴァン・デュラスが私たちの『父親』」
「イリーヤもそうね?」
「――そうよ。2人目の『カレン』だったマイアは、ずっと前に死んだわ。
 変態野郎に器具でお尻を犯されて、腸が裂けたの。カレンは、都合、3人目のカレンよ」
「どうして? なぜカレンはあんな死を選んだの?」
「惨めね、イズミ。恋人がなぜ死んだか――いえ、恋人が何に苦しんでいたのか、何を望んでいたのか、何を心の奥に隠していたのか、あなたはほんのわずかたりと気がつかなかった。いえ、気がつかなかったんじゃない。気がつこうとしなかったのよ」
 私は下唇を噛んだ。反論できない。
「あなたには分かるはずがない。あなたは零落したとはいえ、お嬢様よ。あなたには才能がある。教育も受けている。身体を売る以外に本当に何もできない、何かをできる可能性すらない、私たちとは違う。
 あなたには、私の絶望は分からない。カレンの絶望はわからない。この国の、いえこの世界の本当の最底辺で喘いでいる人たちの苦しみを、正しく想像することはできない。あなたたちの学問や教養が、私たちを救うことは決してない。
 イズミ、帰りなさい。あなたのいるべきところに。
 いいの。私たちのことは、放っておいて。あなたのような人間が――あなたほどの人間が最善の努力をしても、この世から悲惨はなくならない。
 だから、いいの。
 もう一度言うわ。帰りなさい。せめて、あなたの幸せを掴んで。あなた、いい顔をしてる。新しい恋を見つけたんでしょ?」
 私は、立ち上がって、その場を去るべきだった。軍人としての任務は、果たされていた。私は必要な証言を得ていて、これを元に裏づけ調査を進めれば、より真相へと近づいていけるはずだ。
 でも私は、動けなかった。ナターシャの優しさと誠実さに、私の心身は麻痺していた。
 この社会において何一つ持たない彼女は、私がかつて同僚だったというだけの理由で、彼女自身を危険に晒す情報を包み隠さず教えてくれた。
 それにひきかえ、私は何をしているのだろう? 結局のところは私的な欲求を満たすために侵略者の手先になった私は、いったい何を賢しげに動き回っているのだろう?

 私は、何がしたいのだろう?

 膝の上で硬く握り締められた拳の上に、ナターシャの暖かな手が乗せられる。自分の中で、何かが崩れたのを感じた。驚きは、ほとんどなかった。むしろ、私はそれを望んでいたと言ってもいい。
 自分が不道徳であるという点において、弁解するつもりはない。いくら性的サービスを職業としていた時期があったからといって、いやむしろそれだからこそ、守られるべき一線はある。
 でも私は、プロでありきれなかった。
 カレンはもちろん、ナターシャにせよ誰にせよ、私とある程度まで親しく付き合っていた同僚(ごくわずかだが)にとって、私は文字通り厄介者だった。一言で「身体を売る」と言っても、そこにはルールもあればタブーもある。微妙に語義矛盾を起こすが、モラルだってあるのだ。
 私はそのいずれをも知らなかったし、そもそも私はただ緩慢な死への道を歩むついでに娼婦という世界に片足を突っ込んだにすぎない。生きるために身体を張って働く彼女たちとは、決定的な差があった。
「――大丈夫よ、イズミ。あなたは間違ってなんかいない」
 ナターシャが優しく囁く。
「死んだほうがましだ、これくらいなら死んでやるとどんなに思っても。この先、生きていても何一つ良いことなんてありはしないと分かっていても。それでも、生きていたい。死にたくない。それでいいのよ。
 そうやってどん底を這いずり回って、互いの首を絞めながらのた打ち回るように生きる、そんな人生でしかないにしても。それでもやっぱり、手当たり次第に他人の首を絞めてでも、生きたい。それで――それで、いいのよ」
 私はただただ、彼女の囁きに頷く。
「だからせめて、ほんの少しでも――楽しみましょう、今を」

 きゅっと肩を抱き寄せられる。彼女の体温に、心のこわばりがじんわりとほぐれるのを感じた。反面、心臓は高鳴っている。これは、浮気なのだろうか? それとも?
 ナターシャが私の喉元に顔をうずめる。ラメの入った青紫の唇からちらりとのぞいた舌が、私の鎖骨をたどり、首筋へと這い上がっていく。私は目を閉じ、快楽の予兆に身を任せる。

 カレンを失ったのは、私だけじゃ、ない。
 ナターシャもまた、カレンを失ったのだ。

 私は彼女の身体を抱きしめ、背中を愛撫する。ナターシャの舌は私の喉を思うがままに愛し、服越しに感じる豊かな胸は私の官能を支配していく。せいぜいが半端なバイである私ですらこれなんだから、男どもがあっという間に骨抜きになるのも納得だ。
 ナターシャの指が、ノースリーブの上からチューブブラのホックを外す。器用なものだ。彼女の手が背中に滑り込み、ブラジャーが抜き取られた。私もおかえしとばかりに、ナターシャの黒いブラジャーを外す。彼女のドレスは背中が大きく開いていて、ほとんど何の苦労もなかった。
 乳房を拘束していた布が取り払われると、柔らかな快感はいっそう強まった。性的な悦楽というよりは、どちらかといえば、遠い日の暖かな記憶が刺激される。女から生まれなかった人間は、現時点では公式には確認されてはいない。ほとんどの人間が最初に安堵と安心を覚えた温度が、そこにはあった。

 しばらくのあいだ、そうやって私たちは互いの体温に甘えあい、委ねあった。ナターシャの手が私のシャツを首もとまでたくしあげ、貧相な乳房をたっぷり舐めまわす。私はなされるがままになりながらも、彼女の長い髪を指で梳いていった。
 小さな口が私の乳首を咥え、きゅっと吸い上げる。ちょっと痛い。だがそれよりも、押し寄せてくる充足感と愛おしさ、そして刺すような喪失感に翻弄されている自分を感じる。
 私はただ、死ぬために生きていたはずだった。
 私はただ、漫然と世界に存在していただけ、そのはずだった。
 でも、違う。違った。
 あのどうしようもない毎日には、細かな破片のような喜怒哀楽が敷き詰められていて、なんだかんだで私はその毎日を楽しんでいた。そうだ。楽しかった。楽しかったのだ。
 あらゆる社会学の理論を総動員してなお、豊かさからも安全からも幸福からも遠い世界にいると定義せざるを得なかった私は、それでも、その毎日を楽しんでいた。小さな欠片を拾い集めながら。小さな破片を敷き詰めながら。

 今となっては、その日々すら、失われてしまった。

 ナターシャが私の乳首から口を離し、視線をあげる。私には、彼女が何を望んでいるのか、よく分かった。
「ナターシャ……」
「イズミ、ここのルール、まだ覚えてる?」
「ええ。『セックスしても構わないが、キスは禁止』」
「馬鹿馬鹿しいルールよね」
「でも、なぜかみんな守ってた」
「そうね」

 私はナターシャの両頬を手で捕らえ、素早くその唇を奪った。
 私たちは何度も、飽くことなくキスを繰り返した。

 ひとしきり禁忌を堪能したところで、互いになんとなく我に返った。私にはなすべき仕事があるし、彼女は遅刻も遅刻、大遅刻だ。同伴する予定でしたが相手が急用で、とか言い訳できる程度のチップを彼女に預けることはできるから、マネージャーから叱責を受ける心配はないだろうけれど。
 で、それはそうとして、私は別種の生理的欲求を感じていた。ありていにいえばお手洗いというやつだ。何もこんなときにねぇ。ここのお手洗いは致命的に汚いことで有名だから、もうちょっと我慢してもいいんだけど。帰りのタクシーの中は、できる限り思考を集中させたいし。ああ、もう、折角の再会だったのに、どうにも締まらない感じ。
 苦笑交じりに席を立った私を見て、ナターシャもピンときたようだ。
「ねぇイズミ、ここの化粧室だけは、どうなの」
「――う、うん、まぁ、そうなんだけど」
「やめときなよ。何ならそこに新しいカフェが開いてるから、そことかさ」
「んー、でもちょっと、急ぐから。ありがとう」
 ナターシャは何か言いたげだったが、思いなおしたように口を閉ざした。右手の腕時計をちらりと確認する。

 そのとき私は、気がつくべきだった。
 彼女には、時間を気にする理由などない。
 既に、気にしなくてはならないレベルでの遅刻では、ない。

 化粧室の扉を開け、悪臭の立ち込めるスペースに足を踏み入れた私の目の前には、ぎょっとするものが横たわっていた――頭の上半分を床に撒き散らした、マスターの死体だ。
 悲鳴を上げるより早く、脳の中にアドレナリンが噴出する。

 やばい。やばい。やばい!

 私はとっさに扉を閉め、手洗いの隣にしつらえられた「STAFFONLY」の扉を蹴破るように開ける。小さな倉庫の先に、裏口があるはずだ。
 けれど、そこには野戦服を着た男が待ち伏せていた。半分壊れかけた蛍光灯がちらちらと光る下で、男の手に鈍く光るナイフが握られているのを確認する。
 まずい。まずい。でもこれって。

 私はパニックを振り払いつつ、すっ転ぶように180度方向転換して、必死の思いで店内に駆け戻る。そこにはナターシャと――完全武装の男たちが数人、立っていた。

「ごめんね、イズミ。万が一、あなたから連絡があったら、ボスに通報しろって命令されていたの」
「――で、でも、デュラスはもう逮捕されて」
 ナターシャは鼻で笑った。
「何をピンボケなこと言ってるの? 二代目よ、二代目。もっと辣腕で、もっと陰湿で、圧倒的に悪趣味な男」
「ナターシャ……ああ、ナターシャ、今更言っても仕方ないかもしれない。私があなたに電話をしなければ、あなたをこんなことに巻き込むことにはならなかったのも、本当のこと。けれど、これじゃあ、あなただって」
「分かってる。そんなこと、あなたみたいに賢くなくても分かってる。でも、それしかないのよ。私には、それしかない。たとえここで口封じのために殺されると分かっていても、それでも、もしかしたらそうならないかもしれない、そちらに賭けるしかなかった。
 あなたが責任を感じることじゃないわ。たとえあなたからの電話がなかったとしても、いずれ私はあなたをおびき寄せる餌に使われてた。早いか、遅いか、それだけの違い」
「――だったら。そこまで分かっていたなら――」
「言ったでしょう。私の絶望は、あなたには分からない。カレンにも、わからない。私の絶望は、私だけのもの。
 そうやって、私は生きる。そうやって、あの遠い山に沈む夕日の向こうに、私だけの絶望が一緒に沈んでいくの」
 ナターシャはとても綺麗な微笑みを浮かべた。精緻かつシンプルな数式のような、この世のものではない綺麗さ。

 でも、彼女が導いた解は――

 男の一人がサイレンサーつきの拳銃を抜き、ナターシャの後頭部に押し当てる。彼は一瞬の躊躇いもなく引き金を引いた。彼女が床に倒れた音は、咆えたける音楽の中に消えていった。

(第6章「イリーヤ」に続く)

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