859 ◆93FwBoL6s.様

 思わず、耳を疑った。
 まさか、こいつの胸郭からそんな言葉が発声されるとは。ヤンマは心底驚きながら、背後に振り向いた。シオカラはいつものようにへらへらと笑っていて、ヤンマが殴り倒した五匹の羽アリ人間を片付けていた。街の上空を飛び回っていたヤンマに絡んできた連中で、路地裏に連れ込んで十秒と立たずに倒したのだ。そして、事を終えたヤンマが飛び去ろうとすると、どこからともなくシオカラが現れた、というわけである。
 シオカラが家族ごと上京して以降、シオカラは何はなくともヤンマを追いかけてきてはまとわりついている。地元時代は中学高校と後輩でもあったので、会う機会は多かったが、ぞんざいにあしらってばかりいた。だが、ヤンマが高校を卒業し、シオカラが茜と同じ高校に転校してからは、馴れ馴れしさが増長してきた。正直鬱陶しいが、茜以外でそこまで慕ってくれるのはシオカラぐらいなものなので、はねつけられずにいた。
 駅前の大通りから外れた裏路地の、更に奥まった袋小路の中で、ヤンマは黒い爪を振って汚れを払った。そして、再度シオカラに振り返ると、シオカラは人間で言うところの笑みを見せるかのように顎を広げていた。

「…でえと?」

 ヤンマがシオカラの言葉を反芻すると、シオカラは透き通った羽を細かく揺らした。

「そうっすそうなんす、俺っち、デートするんすよ! つか、マジヤバくないっすかパネェっすよね!?」
「ああ、そうだな。ヤバすぎてどうしようもねぇや」

 ヤンマは羽アリ人間を小突き、昏倒していることを確かめてから、薄汚れた壁に背を預けた。

「相手は虫か、獣か、それとも人か?」
「人間っすけど!」
「じゃ、尚更ヤバいじゃねぇかよ。お前なんかがデートなんて、百年早ぇ」

 ヤンマは爪に張り付いた羽アリ人間の体液を刮げ取り、足元に投げ捨てた。

「んで、俺にその話を聞かせてどうしろってんだよ」
「解り切った話じゃないっすか、兄貴! つか、兄貴は茜をどこに連れていくっすか!?」

 シオカラに詰め寄られたので、ヤンマは下右足を上げてシオカラを阻んだ。

「そんなもん、自分の脳みそで考えろ!」
「考えても解らなかったから聞いてんじゃないっすかあ、兄貴ぃ!」
「だっ、大体、俺のなんて参考にするんじゃねぇよ!」

 シオカラを蹴り倒したヤンマは、長い腹部を反らした。

「茜は良い奴だから、俺があいつをどこに連れて行こうが基本的には喜んでくれるが、俺に気を遣ってんだよ!
後から聞いたら、楽しんでたのは俺だけだって場所も多かったし、ていうか俺はああいうのは苦手なんだよ!
で、でも、たまにはそれらしいことしねぇと彼氏の立場がねぇし、茜が喜ぶ顔も見たい、っていうか何言ってんだ!」

 うぁ゛ー、と頭を抱えたヤンマは、自分で言った言葉に恥じ入った。ヘタレぶりを暴露してどうする。

「ていうか、俺よりも当てになりそうなのがいるだろうが。まずはそっちに聞けよ」
「心当たりは聞いてみたんすよ、マジでマジで」

 砂埃を外骨格に付けながら起き上がったシオカラは、ヤンマを見上げた。
「最初に祐介兄さんに聞いてみたんすけど、あっちも兄貴と似たようなリアクションっつーか、むしろ兄貴より根が深い感じがしたっす。ほら、アビーさんってあれじゃないっすか、ヨロイ。だから、普通の女性が喜ぶような場所に連れて行こうと思っても、色々と引っ掛かっちゃうじゃないっすか。服が着られないだとか化粧が出来ないだとか、モノが食べられないだとか、まあ色々と。祐介兄さんはマジ悩みしてたっぽくて、最後の方は俺っちが愚痴を聞かされちゃったっす。マジ長かったっす」

 確かに、祐介はその手の苦労が多そうだ。隣人の青年の苦悩を思い、ヤンマは嘆息した。

「あいつも大変だなぁ…。てぇことは、アーサーの野郎にも聞いてみたのか?」

 シオカラはヤンマに近付き、頷いた。

「もちろんっすよ、真夜の旦那っすから。でも、アーサーの旦那の方が役に立たなかったっすねー、マジで。てか、あの人は真夜に連れて行ってもらう立場っすから。マジ過去の人間っすから、現代のことなんてまるで解らないっすからね。だから、結局は真夜の惚気を聞かされただけっす。マジでマジで」
「つくづく役に立たねぇなー、俺ら…」

 ヤンマが肩を落とすと、シオカラは触覚を揺らした。

「でも、俺っち、他に聞く当てなんてないっすから。んで、どこに連れて行けば喜んでくれるっすかね?」
「相手の年代とか、趣味にも寄るだろ。俺の経験上、俺が楽しいところは茜は楽しくなかったからなぁ…」

 過去のデートの失敗を思い出したヤンマが項垂れると、シオカラはけらけらと笑った。

「あー、それ、茜から聞いたことあるっすー。兄貴が一人で楽しみすぎちゃって、茜を置いてけぼりにしたんすよねー」
「人の古傷を抉るな! ま、まあ、俺が全面的に悪かったんだが!」

 ヤンマはぱかりとシオカラを一発殴ってから、顎を軋ませた。

「そういやぁ、ここんとこデートなんてしてねぇな。茜もバイトやら何やらで忙しいし、俺も仕事があるが、だからって何もしねぇのはまずいよなぁ…。休みを合わせて、適当な場所に連れていかねぇと、拗ねられちまう」
「だから、兄貴、どこに行けばいいっすかね?」
「最初に言っておく! 自分が楽しもうとするな!」

 ヤンマは自戒を込めて吐き捨ててから、四枚の羽を広げた。

「後は自分で考えろ! 俺も考えることが出来たからな!」

 日没までには帰れよ、とヤンマは釘を刺してから、澄んだ羽を震わせて上昇し、茜色の空へと飛び去っていった。シオカラは滑らかに飛ぶヤンマを見送ってから、足元を蹴り付けて飛び上がり、四枚の羽を震わせて急上昇した。裏路地を成す古びたビルの間を擦り抜けると、鮮烈な西日が全身を焼き、藍色の複眼が朱色に染められてしまった。一瞬、視界を奪われたが、しばらくすると慣れた。夕暮れに染まる町並みは、昼間とは打って変わって幻想的だった。
 淀んだ空気が詰まったビル街を取り囲んでいる民家の屋根が朱色に輝いていて、荒く波打つ海面のようだった。東側の空には夜の気配が広がり始めているので、この美しく刹那的な光景が見られるのは、十数分しかないだろう。ヤンマからは早く帰れと言われたが、見逃してしまうのがなんとなく惜しい気がしたので、シオカラは高度を上げた。
 初夏の湿っぽい空気が巻き上げられたビル風を羽で切り裂きながら、風を掴んで上昇し、あらゆる建物を超える。街全体を見下ろせる位置に至ったシオカラは、ホバリングして高度を安定させ、無数の生命が蠢く世界を見下ろした。
 この中に、ほづみがいるのだろうか。そう思っただけで、無数の複眼に映る景色が、新たな色を帯びた気がした。ほづみにアドレスを伝えたが、あれからほづみから電話もメールも来ることはなく、膨張した期待を持て余していた。連絡もないのに舞い上がり、空回りしている自分に呆れてしまうが、そうでもしなければ身も心も落ち着かなかった。じっとしていると体の芯から焦げてしまいそうで、ほづみに再会した夜に感じた訳の解らない衝動に煽られてしまう。
 会えるものなら、今すぐにでも会いたい。けれど、何を話せばいいのか解らないし、会うべきではないとも思った。再会した夜は舞い上がり、ほづみに誘われるまま、再び彼女を抱いてしまったが、それで良かったのかどうか。良くないことだと何度となく思うが、なけなしの理性と自制は青臭い衝動に塗り潰され、結局は流されるままだった。
 恋を、しているのだろうか。

 そして、日曜日。
 ほづみから電話を受け、デートの日程を伝えられたシオカラは、持てる知識を総動員してデートの計画を立てた。ヤンマを始めとした男達の意見は参考にならなかったので、考えるだけ考えて、どちらも楽しめそうな場所を選んだ。けれど、いざ現地に来てみると、何か間違っているような気がした。いや、気でなく、本当に間違えたようだった。

「十何年振りかしらねぇ、こんな場所に来るのは」

 長い髪を巻いて後頭部でまとめ、ビスチェの上にジャケットを羽織り、ミニスカートを履いたほづみは呟いた。

「なんか、マジすんません…」

 平謝りしたシオカラの背後を、きゃあきゃあと歓声を上げる幼児と若い両親が通り過ぎ、ゲートに入っていった。その上には、可愛らしくデフォルメされた動物に挟まれた看板があり、丸文字の平仮名で、どうぶつえん、とあった。ほづみは大きなサングラスを掛けているが、明らかに怪訝な顔をしていて、シオカラとその看板を見比べている。受付で入場チケットを買っている客層は、親子連れや小中学生のグループが多く、ほづみのような女性はいない。
 考えすぎた挙げ句、ヤンマの忠告を生かせなかったらしい。動物園に来たかったのは、シオカラだったのだから。シオカラの地元には動物園はなく、水族館には何度も行ったことはあったが動物園は一度も行ったことがなかった。だから、一度は行ってみたいと心の片隅で思っていたが、だからといって何もこんな時に果たす願いではない。

「まあ、いいわ。最初から期待してなかったし」

 ほづみはサングラスを外すと、シオカラを見上げた。

「行きましょ」
「え、あ、いいんすか?」
「せっかく来たんだから、せめて見ていきましょうよ」
「あざーっす!」

 シオカラはほづみの心の広さに心底感謝し、彼女に続いて親子連れが連なる受付に並び、入場チケットを買った。それを持って入場ゲートから園内に入った二人は、とりあえず、真っ当に順路を辿って動物を見ていくことにした。ほづみを喜ばせるために来たのだから、とシオカラは自制しようとしたが、入場してすぐの動物を見た途端に切れた。

「ふおおお!」

 早速当初の目的を忘れたシオカラは、キリンが悠然と歩いている檻に駆け寄った。

「お姉さんお姉さん、キリンっすよキリン! マジキリンっす!」
「見りゃ解るわよ」
「うおおおお…。すっげぇー、つかマジでけぇー…。マジキリンすぎだし」

 顎を全開にして感嘆するシオカラに、ほづみは呆れながらも笑ってしまった。

「今時、キリンなんて珍しくないじゃん」
「や、だって、マジ長いっすよ、首とか足とか」

 シオカラは隣に立ったほづみを見下ろし、爪先でキリンを示した。

「そりゃそうだけど」

 ほづみは、もしゃもしゃと草を咀嚼するキリンを仰ぎ見た。

「そういえば、前々から思っていたことがあるんだけど」
「なんすか?」
「あんたって、人間じゃないのよね?」
「そうっすよ。俺っちや兄貴は、生まれも育ちも池のトンボっす、マジトンボ」
「だから、あんたは厳密に言えば動物なのよね。なのに、檻に入っている動物を見てもなんとも思わないの?動物園っていう概念、嫌だって思ったりはしないの?」

 ほづみにまじまじと見つめられ、シオカラはその視線に戸惑いながらも答えた。
「嫌、っつーか、動物は動物で、俺っち達は俺っち達っすから。たぶん、他の獣人もそう思ってんじゃないっすか?」
「もうちょっと具体的に言ってくれないと、解るものも解らないんだけど」
「んーと、そうっすねー…」

 シオカラは驚くほど睫の長いキリンを見つめながら、言いたいことを整理した。

「俺っちみたいなのは人間じゃないっすけど、動物ともその辺の虫とも違うっすから。人間じゃないけど、人間みたいに喋ることも出来るし、俺っちは頭悪いっすけど考えることも出来るし、本能はあるけど理性である程度押さえられるし。だから、人間じゃないけど動物でもないっすから、檻に入った動物を見ても変だとは思わないし、嫌だなんて思うこともないっすね。ほら、人間だっているじゃないっすか、サルをペットにする人。でも、普通の人はそれを見たところで嫌だなんてこと、そもそも考えないじゃないっすか。だから、まあ、つまりはそういうことっすよ」

 ほづみはシオカラの言葉を聞き終えてから、少し考え、言った。

「あんたは虫だけど、価値観は動物よりも人間に近い、ってことね」
「そうっすそうっす、マジそうっす」
「でも、やっぱり虫は虫なのよね」
「けど、だからって何をどう思うってこともないっすよ。俺っちはトンボだから俺っちなんすから」
「ついでにもう一つ聞いてもいい?」
「あ、はいっす」
「あんたって常に全裸だけど、そういうことは気にならないの?」

 ほづみの問い掛けに、シオカラは閉じかけた顎を開いた。

「ふへ」

 考えてみたら、そんなことを気にしたことはなかった。人に近い獣人は服は着るが、昆虫人間は何も着ない。そもそも、着る必要がないからだ。外骨格は下手な武装よりも強固で、種族によっては弾丸をも跳ね返せる。体温維持が難しい冬場は冬眠を防ぐために防寒着を着ることもあるが、それでも着ている期間はごく僅かだ。服を着ると、トンボの命とも言える羽が引っ掛かってしまうし、傷付いてしまっては飛行能力が低下してしまう。だから、昆虫人間には日常的に服を着るという概念自体がないので、何も着ていないことを気にするわけがない。
 けれど、改めて考えてみると、妙な気もする。様々な種族に混じって社会生活を営むのに、全裸というのは。だが、やはり、服を着た虫は変では。シオカラはいつになく真剣に考え込んでいると、ほづみが覗き込んできた。

「そこまで考え込むようなこと?」
「つか、今の今まで、そんなこと考えたことなかったっすから、いやマジで」
「でも、あんたは服を着ない方がいいかもね」
「え、あ、そうっすか?」
「だって、結構良い色してるから」

 ほづみは、シオカラの水色の外骨格を小突いた。

「隠しちゃうのは勿体ないじゃない」

 ほら、次行くわよ、とほづみに上左足を引っ張られ、シオカラはキリンの檻の前から通路へと移動させられた。子供や家族連れの間を擦り抜けて歩きながら、シオカラは上左足を掴むほづみの白い手を見下ろしていた。爪は綺麗に磨かれていて、指は白く細長い。外骨格を握る力は強く、虫に対する力加減が解らないようだった。彼女の表情を窺おうとしたが、歩調に合わせて揺れる髪に隠れてよく見えず、化粧の匂いが触覚をくすぐった。
 女の匂いに、頭の芯からくらくらした。
 思いの外、動物園を楽しんでしまった。
 ちらほらと街灯が灯り始めた歩道をシオカラと共に歩きながら、ほづみは心地良い疲労感を味わっていた。あの動物園を訪れたのは小学生時代以来だったが、久々に見た動物達の姿は新鮮で、純粋に面白かった。
 ほづみの少し後ろを歩くシオカラは、人間で言うところの満面の笑みであるらしく、きちきちと顎を鳴らしていた。最初の頃は音の聞き分けなど出来なかったが、しばらく付き合っていると、その時々で微妙に力加減が異なる。喜んでいる時は音が高く、苛立ったり怒っている時は音が低く、微妙な感情を表す時は間延びした音を出す。昆虫人間は顔が顔だけに表情が出せないかもしれないが、注意深く見ていれば、おのずと感情は伝わってくる。
 だから、今のシオカラは物凄く喜んでいた。動物園のお土産が詰まった紙袋を下げ、顎を細かく擦らせている。ほづみもブランドのハンドバッグと一緒にお土産の入った紙袋を下げ、ヒールを鳴らしながら、帰路を辿っていた。

「パンダ、可愛かったっすねーマジで!」
「そうねー」
「つか、クマだって解ってんのに普通のクマとはマジ違うっすよね! 超白黒だし!」
「パンダだもの、当然でしょ」
「てか、マジで尻尾白かったんすね! つか、俺っち、なんかマジ感動したっす!」
「パンダの尻尾ぐらいで?」
「尻尾は大事っすよ、マジでマジで。ああ、俺っちのは尻尾じゃなくて腹っすけどね、腹」
「解っているわよ、それぐらい」

 ほづみは横目にシオカラを見てから、頬も声色も自然と緩んでいることに気付き、そんな自分に安堵していた。同僚の男に浮気された挙げ句に一方的に別れを告げられてからというもの、笑顔は無理に作ってばかりだった。仕事の最中は無理にでも笑っていないと、挫けてしまいそうだったからだ。だが、やはり、辛いものは辛かった。けれど、シオカラの前ではいくら虚勢を張っても意味がない。年上の見栄や意地はあるが、彼は単なる知り合いだ。だから、自分でも気付かないところで心が緩んでいた。シオカラの年相応の振る舞いも、見ていて微笑ましい。
 もっと甘えてしまいたくなる。けれど、それはいけない。ほづみはシオカラの横顔に視線を向けたが、伏せた。これきりにしてしまおう、と強く思うのに、これで終わってしまいたくない、と弱り切った自分が胸中で喚いている。捨てられて参っていたところに丁度良く現れ、丁度良く気を紛らわせた相手だから、丁度良い場所に収めたいのだ。
 だが、そんなものは恋ではない。ほづみの見苦しいエゴであり、好意を示してくれるシオカラに対する侮辱だ。好かれているから傍に置きたい、などと少しでも考えてしまった自分が心底嫌になり、ほづみは目線を落とした。

「…どうしたんすか?」

 シオカラは立ち止まると、ほづみを覗き込んできた。藍色の複眼には、見た目だけ綺麗に着飾った女が映った。だが、その中身は泥臭くて意地汚くてどうしようもない。そんな女だから捨てられたのだ、と今更ながら痛感した。それに比べて、シオカラは気が良すぎる。夕暮れの空から零れる茜色の日光が、四枚の透き通った羽を光らせた。

「ねえ、あんた」

 ほづみは手を伸ばし、シオカラの顎に触れた。

「私のこと、好き?」
「そりゃ…」

 シオカラは顎から染み渡るほづみの体温を意識しつつ、答えた。

「好きっす、大好きっす」
「ヤらせてくれたから?」
「えっと、それもあるっすけど、なんていうか、まあ…」

 シオカラは言葉を濁していたが、語気を強めた。

「好きだから好きっす!」
「そう」

 ほづみはシオカラの顎からするりと手を外すと、シオカラの長く伸びた影に目線を投げた。
「私は、あんたのこと好きじゃないわ」
「虫だから、っすか?」
「そんなんじゃないわ。私が悪いの、最初からね」

 ほづみはシオカラに背を向け、ことん、とヒールでアスファルトを小突いた。

「自棄になっていたからって、あんなことしていいはずない。しかも二度も。今日のデートだって、結局のところ、あんたをダシにして遊んだだけだし。だから、もう、これっきりにした方がいいのよ。どっちにとってもね」
「俺っちは、ダシにされたとか、そんな」
「あんたがそう思っていなくても、私はそう思うのよ。だから、お願い」

 ほづみは鮮烈な西日を背にして、シオカラに振り向いた。

「私のこと、嫌いになってよ」

 複眼と単眼を焦がすような目映い逆光に包まれた彼女は、やはり表情が窺えなかったが、語気は弱かった。平坦に言い切ったつもりなのだろうが、僅かに上擦っている。寂しい人なのだ、とシオカラは悟ってしまった。
 一人でいることが耐えきれないくせにプライドが高く、大人だから、縋り付ける相手をはねつけようとしている。どう見ても、無理に無理を重ねている。再会した夜に吐露した苦しみも、まだ振り切れていないのだろう。振り切れていたら、シオカラとデートなどしないはずだ。それなのに、彼女は痛々しく意地を張ろうとしている。

「マジ無理っす、それ」

 シオカラはほづみに歩み寄ると、上左足から紙袋を落とし、力任せに抱き締めた。

「…馬鹿よ、あんた」

 ほづみはシオカラを押し返そうとしたが、力では勝てず、青空に似た水色の外骨格に身を預けた。

「どうしようもないぐらい」

 出来ることなら、体を締め付ける足を振り払ってしまいたい。二度と顔を合わせたくなくなるほど、罵倒したい。思い切り嫌われて、避けられて、疎まれた方が良い。けれど、冷たい外骨格はそんな感情を吸い込んでいった。シオカラの紙袋から転げ落ちたパンダのぬいぐるみは二個あり、恐らくその片方はほづみのためのものだろう。
 これでは、尚のこと、彼を家に帰せない。



 二人は、言葉少なに帰宅した。
 あれから、お互いに様子を探り合ってしまって、上手く言葉が出てこなくなってしまった挙げ句に黙り込んだ。結局、安普請のアパートに到着するまではまともな会話も出来ず、帰宅してからもシオカラはぎこちなかった。初めて部屋に連れ込んだ時とは違った意味で緊張しているらしく、居間の片隅で正座して固まってしまった。
 ほづみは寝室にしている六畳間に入り、髪を解いて派手な化粧を落とし、気合いの入った服を脱いでいった。案の定、パンダのぬいぐるみの片方はほづみにプレゼントされ、乱雑なドレッサーの脇にちょこんと座っていた。部屋着にしているTシャツとハーフパンツを着てから居間に戻ると、シオカラは正座したまま動いていなかった。

「そんなに畏まることないでしょうが」

 ほづみがシオカラの傍に腰を下ろすと、シオカラは俯いた。

「いや、そうなんすけど、この流れだと、やっぱりアレっすか…?」
「嫌なの?」
「いや、嫌ってんじゃないっすけど、なんていうか、その」
「だったら、止めておく?」
 ほづみが言うと、シオカラは顔を上げて顎を開いた。

「うへ?」
「あんたがどうしても嫌だって言うんなら、無理にしようなんて思わないわよ」
「あ、いや、俺っちはそういうことを言いたいんじゃなくて、あーもうっ!」

 シオカラはぎりぎりと顎を噛み合わせていたが、ほづみに向き直った。

「本当にそれでいいんすかっ! つか、マジ俺っちでいいんすか!」
「私のこと、好きなんでしょ?」
「そりゃマジ好きっすけど!」
「じゃあ、問題ないじゃない」
「そりゃまあないっすけど、でも、なんか、ああ、なんてーかなぁこういうの!」

 シオカラは上手く言葉に出来ないのがもどかしいのか、虚空を掻き毟ってから、ほづみに迫った。

「なんかもうマジすんません! 無理っぽいっす!」
「ちょっ」

 ほづみが身を引くよりも早く、シオカラは顎を大きく開いて細長い舌を伸ばし、ほづみの唇をぬるりと舐めた。口紅の味がほんの少し付いていて、首筋から立ち上る香水の残り香が触覚を惑わし、感覚が狂いそうになる。
 上両足で柔らかな体を押さえ付け、中両足で引き寄せ、下両足で囲む。トンボの足は、捕らえるためのものだ。カゴのように捕らえた獲物を抱え込み、そして、喰らう。顎を広げるだけ広げ、伸ばした舌を首筋へと滑らせた。

「ん…」

 唇を解放されたほづみは小さく声を漏らし、冷たい感触に身を捩った。

「あ、ちょっと、や…」

 首筋をぬるぬると舐められながら、ほづみはTシャツの裾を捲り上げようとしてきた中右足を阻もうとした。だが、その手は上右足に捕まれてしまい、ほづみのTシャツは一気に胸の上まで引き上げられてしまった。ブラジャーも押し上げられ、少し汗の浮いた乳房が零れ出た。シオカラは首筋から顔を上げ、舌を引いた。

「次、下、いいっすか」
「触るの? それとも、舐めるの?」
「舐めた方が楽っすよね、お姉さんは」
「ダメ、だって今日は外にいたし、暑かったし、自分でも解るくらい汚れてるし!」

 ほづみは首を横に振るが、シオカラはほづみの両腕を上両足で押さえたまま、畳の上に押し倒した。

「あぅ…」

 だが、シオカラの中両足は一息でハーフパンツと下着を引き上げ、脱がされ、足を思い切り広げられた。ほづみは今までで一番恥ずかしくなり、唇を噛んだ。一度目と二度目は、何も感じなかったというのに。見られても気にするような相手だと思っていなかったし、恥ずかしいとすら思わなかったが、急に変わった。

「あ、ふぁ、ぁ…」

 シオカラの舌が陰部を割って入り、滑り込んできた。人のそれよりも冷たいが、心地良かった。

「くぁ、ぅ、うぁ」
 ぐじゅぐじゅと粘っこい音が立てられ、細長い舌が前後し、ほづみの胎内から掻き出しているかのようだった。奥にまで至るが、触れるだけだ。粘膜と粘膜が擦れ合って互いの体液が分泌され、混じりながら滴り落ちる。いつのまにか、彼の黒い顎は光沢を帯びるほど濡れていた。それが無性に恥ずかしく、ほづみは目を閉じた。だが、目を閉じると、一心不乱にほづみの陰部を舌で抉る音だけが聞こえてきて、皮膚の感覚も鋭敏になる。
 舐められている間に尖ってきたクリトリスが、時折シオカラの外骨格に触れるが、触れるだけでその先がない。押し付けてしまいたい、と思っても、シオカラとの距離が狭まらないどころか、舌が抜かれると遠のいてしまう。それが何度も続くと堪えきれなくなって、ほづみはシオカラの首に足を巻き付け、彼の硬い顎に押し付けた。

「あはあぁあっ」

 喉を反らして声を上げたほづみに、シオカラは白濁した体液に濡れた舌を引き抜いた。

「あ、やっぱりそっちの方がいいんすか?」
「だ、だってぇ…」

 ほづみが恥じらうと、シオカラはほづみの汗と体液に濡れた顎をがちがちと鳴らした。

「んじゃ、こうしてみるっすか?」
「え…」

 ほづみが少々戸惑うと、シオカラはほづみを押さえていた足を全て外し、ほづみを抱えて膝の上に座らせた。胡座を掻いた足の上に置かれたほづみは、中両足で太股を持ち上げられ、上両足で乳房を無造作に掴まれた。

「ちょ、ちょっと、何これ」
「見ての通り、俺っちなら出来る態勢かなぁーと。虫っすから」
「そりゃそうかもしれないけ、どぉ…」

 ほづみは言葉が継げなくなり、弛緩した。乳房から外された上右足が、硬く充血したクリトリスを擦ってきた。爪は使わず、人間で言うところの手首に当たる外骨格でぐりぐりと押さえ付けるが、陰部には触ってこない。

「どうっすか、これなら痛くないっすよね、爪じゃないっすから」
「いたく、ない、けどぉっ…」

 最も弱い部分を責められ、ほづみは浅い呼吸を繰り返した。頬と同じく紅潮した首筋には、舌が這い回る。左の乳房は柔らかく絞られ、下と同じく硬く尖った乳首を爪の腹で潰され、至る所から快感が襲ってくる。今し方まで責め抜かれていたのに異物を失った陰部は、寂しげに疼き、体の奥底からじわりと滲んできた。

「あーもう、どこもかしこもマジ最高っすよ、お姉さん」

 ほづみの首筋を甘噛みしながら、シオカラは感嘆した。

「おっぱい大きいし、全部柔らかいし、俺っちが何しても感じてくれるし、マジエロ過ぎだし」
「一気にやられたら、誰だって、感じるわよ」

 ほづみが力なく返すと、シオカラは左の乳房が歪むほど握り締めた。

「そうっすか?」
「ひゃうあん!」

 思いがけず強い刺激にほづみが嬌声を放つと、シオカラはきちきちと顎を擦らせて笑った。
「マジ可愛すぎだし、お姉さん」
「ね、もう、いい、でしょぉ…? おねがいぃ…」

 ほづみが切なく漏らすと、シオカラは腰を上げて、生殖器官が露出した腹部を前に出した。

「俺っちも、もうなんかヤバげっす」
「ふぅ、あ、はぁ、あっ…」

 圧倒的な質量を誇る異物を押し込まれ、ほづみは涙を滲ませた。

「俺っちなんかで良かったら、いくらでも好きになってやるっすよ、お姉さん」

 か細い泣き声のような声を漏らすほづみを責め立てながら、シオカラが言うと、ほづみはシオカラの足を掴んだ。

「ほんとうに? わたし、なんかでいいの?」
「それを言うのは俺っちの方なんすけど」
「だ、だって、私、あんたのこと、ずっと、利用して…」
「そんなの、とっくに知ってるっす。でも、俺っちは、たまんないんすよもう!」

 ぐん、と熱い胎内の中心を突き上げると、ほづみは仰け反った。

「あぁ、あぁあんっ!」

 外骨格越しにでも解るほど、強く締め付けられた後、ほづみはだらりと脱力してシオカラに寄りかかってきた。

「好きっす、お姉さん」

 ほづみを見下ろしながらシオカラが呟くと、ほづみはシオカラに体重を預け、涙を拭った。

「うん。私も、もう、無理…」

 好きになってはいけないと思えば思うほど、意識してしまう。けれど、真っ向から認めることに躊躇いがある。だから、今はまだ言えない。体を繋げるだけの浅はかな関係のままではいたくないが、勇気が足りなかった。だが、いずれちゃんと言おう。そうでなければ、迷いなく好意を示してくるシオカラに対して申し訳ないからだ。

「だから、俺っちと付き合って下さいっす、マジ彼女になって下さいっす」

 と、背を当てている胸郭から聞こえた声に、ほづみは途端に興醒めしてシオカラを張り飛ばした。

「突っ込んだまま言うんじゃないわよ!」
「あおっ!」

 張り飛ばされた勢いで頭を逸らしたシオカラは、首を捻って元に戻し、不可解そうにしつつ生殖器官を抜いた。ほづみは足と腰に力が入らなかったので、シオカラの傍に座り、なぜ殴られたのか解っていない彼を睨んだ。せめて、抜いてから言って欲しかった。だが、今、それを強調するのは多少気恥ずかしかったので飲み下した。
 乱れた服と髪を整えてから、ほづみは双方の体液に汚れたシオカラの顎を拭ってやってから、キスをした。シオカラはきょとんとしていたが、意味が解ると照れてしまい、だらしなく笑いながら四枚の羽を揺らしていた。浮かれ切っているシオカラの様を見ていると、ぐだぐだと悩んでいたことが馬鹿らしくなって、ほづみは笑った。
 落ち込んでいるのは、もううんざりだ。

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