5-177様

屈む動作から、手首を返すと同時に銀色の光が閃く。一瞬。
急所へ、的確な衝撃を受けて、残り3人の襲撃者が吹き飛ぶ。
駆け引きも何も存在しない、純然たる火力の差が導き出す結果。
「……」
最早動き無く倒れ伏した異種が2人、心臓の位置に目掛けて魔女の鉤爪が打ち込まれる。彼女に競える血統の異種なら兎も角、襲撃者のレベルではおそらくもう戦うことは叶わないだろう。血統の力には歴然たる序列がある。
「今回は警察の名前を使ってるって、本当?」
少女が問いかけたのは、背後の彼に向けてだった。

「連中がここまでの強硬手段に出るとはね。相当焦っているらしい」
「亜里沙が言ってた、『不審な動き』っていうのはこれの根回し……」
一体どんな論理を用いて警察を動かしているのかは、今は不明だけれど。
「行く気なのか」
彼女の意図を、アラムは正確に悟る。
「どのみち時間はないんだもの」
マリィ・アトキンズの手には、義母に託された一葉のプログラムがある。
『血の塔』のコントロールシステム、その根幹に侵入するための。
この二年間、彼女がアラムと道行きを共にした理由がそれだった。
全ては、このプログラムを実行するに有利な条件を獲得する、そのための道行き。
(『捕縛』ではなく、任意同行されて、機を斥う)
だからこれもまた、以前から二人の間で、ひとつの可能性として浮上していた選択肢では、ある。しかし、だからこそ、その致命的な欠点をマリィも理解していたと思しい。

「連中が異種には人権を認めない。任意同行のアドバンテージは得られない、
 君は知ってる筈だろう」
「だって。此処の人たちに迷惑を掛けるわけには……!」
「兄さんも『ウィリー・ウィリー』の連中も、そう柔じゃない」
小規模ではあるが、名だたる異種と、その協力者の集う組織だ。拙速な一手、小回りのきかない公権力相手であれば尚のこと、立ち回るに不足はない。
「優しくされて、情が移った?……目的を達成することを考えれば、今は焦って
 動くべきじゃない」
「でも」
何かを言い募りかけた少女が、そこで、がくりと膝をついた。
慌てて、駆け寄る。すぐにわかった。
(血、か)
―――こんな状況は、はじめてではなかった。
ポテンシャルから考えれば稚戯に等しい小競り合い。それでも、消耗したまま血を受けていない、今の彼女には、大きな負担であったに違いない。
「血が、欲しい?」
返答は無い。
しかし、身体を支える彼を抵むだけの余力もないのか、少女はぐったりと身体を預けていた。見下ろして、嘆息。ポケットからナイフを取り出して、少女の背に腕を回したまま、手首に刃を立てる。
そして、黙って首を振る少女を上向かせて、呼吸を封じた。
耐え切れずに開かれた唇に、傷口を押し当てる。異種といえども、日常的に肺呼吸を行っている以上、そうそう耐えられるものではない。
原始的な方法だが、それだけに効果的と知っていた。
「みっともない思いをしたくなければ、素直に受け入れた方が賢明だ」
面倒なので、痛覚の遮断は行わない。
「っ、あ」
熱に浮かされたように、少女の瞼が降りた。
長い睫毛が震えるさまを、凝視する。荒い呼吸が、ひとつ、ふたつ、
「ぅ……」
生暖かな感触が、傷口に潜り込む。痺れるような激痛。
同時に、僅かな悦楽。
『精製』を受けたとはいえ、精神構造的には常人の範疇に収まる彼には、少女が彼の血を通して感知しているものを知る術はない。けれど、人形じみて綺麗な少女が、自らの与えるものに息を喘がせる様に、何も感じない男が居よう筈もない。
舌を鳴らして、白い少女が血を舐め啜る。
(そうだ)
ぞくりと這い登る感覚と共に思いだす。
あの時の感情に、よく似ている。腹を裂かれた直後、彼の背を受け止めた少女の、驚いた表情を見上げていた、あのとき。
跪いた少女が、恐る恐るのように、彼の腕に手を伸ばす。精製者たる彼の治癒力が傷口が塞ぐまでの、暫しの間。痛みと悦楽に塗れた静寂が、その場を支配して
―――やがて、血を啜り終えた少女が、ぐったりと彼に身を預けた。
軽い体温。すっぽりと、細い体躯が腕の内に収まる。

透けてしまいそうに、儚い存在感。紛れもなく腕の中に在るのに、掴めた実感はまるでなかった。手を離せば彼女が消えてしまいそうな、所在のない焦燥感ばかりが高まる。血を啜らせている最中のほんの少しの充足感さえ遠いほど。
「与えた」あとは、いつもこうだった。血を啜る過程にどれだけ浅ましい姿を見せようとも、その行為によって活力を取り戻したとは思えない程に、少女は憔悴する。

以前、何故、血を呑むことを拒むのか、問うたことがある。
同じ問いを無視されること数度、4回目にして、彼女はぽつりと答えた。
『異種の力の源が、"接続"にあるって事は知ってる?』
聞いたことはあるよ。アリスから、だったか―――もう覚えてないけど。
『あの感じが、嫌いなの。それだけ。それだけよ』
嫌い、の意味するところを悟ることは叶わなかった。これまでずっと。

離して、と、細く少女が囁いた。
「……断る」
応じながらも、勿論、気付いていた。
(違う、今、しがみついているのは)
言葉にはしない。既に傷の塞がった彼の右腕に、冷たい指先の感触。
「離したら、階下へ行くんだろう、君は」
返答はない。
「だって、また。居なくなってしまう」
小さく震える上体。
「みんな、居なくなってしまう」
泣いているのかもしれない。
「言っただろう、ここの連中はそう柔じゃない」
気休めではなく単純な事実として、目の前の少女に告げられる事に、ほんの少しだけ兄たちに感謝する。
「明日の朝には綺麗に片付いてる」「でも」
「君を保護することを決めたのは、彼ら。相応の利害を鑑みての判断だし、この
 襲撃だって責任は向こう持ち。だから、居候が気を回す必要はない」
後髪に指先を絡めながら、繰り返す。この手の論理が理解できない少女ではない。
こんな状況で、理性的に諭すことに意味がある自信もなかったけれど。
「忘れないで。私たちは、ただ、目的を果たすためにここに来たんだよ」
噛み締めるように呟く声は、何所へ向けられているのか。
「目的。……君の、目的は?」
ふと問うたのは、滅多に弱みを見せない少女が取り乱す様子に、普段と違う答えが聞けるかもしれないと期待してのことだった。
何故、そんな意識が働いたのか、自分にもわからない。
彼は、過去の自分の過ちを償う為に。彼女は、義母の遺志を継ぐために。
自分を、互いを、そしてほかの他者を、たえず傷付けながら、その為だけに、ここまで来た、そのはずで、

「守りたい、の」

―――毎度と違う答え。
義母の遺志を継ぐことだと、いつもの彼女なら答えたはずなのに何故か胸がずきりと痛んだ。
みんないってしまう、と少女が繰り返す。胸元を震えながらかきむしっているのは今、彼女の指先。
縋りつくように、刳りとるように、シャツ越しの細い指に力が込められる。

「貴方も、……!」

嗚咽。一言二言、ことばにならない吐息が漏れる。
泣き出しそうな、一対の琥珀。今きっと同じものが腕の中にある。
掴み取れた筈だというのに、少女の存在感は、抱きかかえてなお希薄だった。
それはつめたい体温故か、華奢な体躯ゆえか、否。
―――おそらくは違う。もっと、どうしようもない、何か。
とっさに腕に力を込めたのは、ひどく不吉な直感に突き動かされてのこと。
(違う。そんなはずはない)
この少女の能力を考えれば、今しがたのそれは、遊戯にひとしい戦闘だ。
血は、与えた。これ以上、消耗する理由がない。

「マリィ?」
返答は、ない。ただ、荒い呼吸がひとつ。
「へ……き。立てる」
少女を引き剥がして、その表情を観察してしまったのは、どちらかといえば不随意の所作だった。かがやきを失くした金色の瞳が、覚束無く揺れている。
(―――糞)
歯噛みひとつ、力ない肢体を抱えあげる。
この部屋は、今しばらくは使えないなと、そんなことを冷静に考えながら。


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