関連 → ヤンマとアカネ
859 ◆93FwBoL6s.様

 上半身。下半身。そして、左腕。
 朝、アパートを出る時にはいつも通り繋がっていたはずの彼女が、三分割されて居間の畳に寝かされていた。正視したくなかったが、視線を逸らせなかった。銀色のヘルムは天井を映しているだけで、こちらには向かない。彼女の周囲では、茜が泣いている真夜を支えていて、ヤンマが胡座を掻いて苛立たしげに顎を噛み鳴らしていた。
 こうして目にしても、現実として受け止めるのは難しかった。だが、何度見てもアビゲイルは切断されている。アルバイトの休憩時間に茜からのメールを見たが、その内容が信じがたく、すぐに茜に電話を掛けて確認した。だが、電話でも茜の報告の内容は変わらず、アビゲイルが金色のリビングメイルに斬られた、ということだった。経緯も状況もまるで想像が付かなかったが、茜の声色がひどく動揺していたので、ただごとではないと悟った。そして、適当な言い訳をして仕事を引き上げて帰宅した祐介の目の前には、切断されたアビゲイルが待っていた。祐介は震える膝を動かし、居間に入ったが、上半身と下半身が別れたアビゲイルに近付く前に膝が折れてしまった。

「何が、あったんだ…?」

 祐介が言葉を絞り出すと、ヤンマが言った。

「見ての通りだ。アビーは、真夜が連れてきたリビングメイルにぶった切られたんだよ」
「だから、なんでそうなったんだよ!」

 祐介が噛み付きそうな勢いでヤンマに迫ると、ヤンマは顎を開いて長い腹部を反らした。

「俺が知るか! 知ってたら、こんなところでぐずぐずしてるわけねぇだろ!」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい…」

 涙を吸ったハンカチを外し、真夜は腫れた瞼を上げた。

「私が、アーサーをアビーさんに会わせたせいで、こんな…」
「祐介兄ちゃん。私達にも、なんでこうなったのか全然解らないの。それは、真夜ちゃんも一緒なの」

 茜は目元に滲んだ涙を拭ってから、祐介を見やった。

「だから、真夜ちゃんは責めないで」
「…解ってるよ」

 祐介は浮かせていた腰を落とし、アビゲイルを見つめた。だが、茜に言われなければ、彼女を罵倒していただろう。アビゲイルとアーサーを引き合わせた真夜に対しても、苛立ちを感じていた。しかし、誰にも予測出来なかったのだろう。真夜だけでなく、この場にいる誰もが、当事者であるアビゲイルでさえも二人が敵対関係にあったとは知らなかった。そして、それは今も尚続いていることなど、誰が予測出来ようか。だが、こうなるであろう兆しは既に目に見えていた。
 祐介は立ち上がり、玄関に戻った。数本のビニール傘の詰まった傘立てに刺さった西洋剣が、本物なのは間違いない。なぜ、それを知った時に対処出来なかったのだろうか。自責の念と憎悪に駆られ、祐介は傘立てを蹴り付けて倒した。傘が散らばり、魔剣が落ちる。祐介は魔剣を持ち上げようと柄を握ったが、火に直接手を入れたような熱が肌を舐めた。

「ぐあっ!?」
「止せ、そいつに触るな!」

 ヤンマが声を上げたが、遅かった。右手を下げた祐介は魔剣から後退り、手を見ると、触れた部分が焼け爛れていた。だが、普通の火傷と違って熱は感じず、代わりに燃えるように凄まじい冷たさが皮膚が焦げた肉に染み込んできた。

「だから言わんこっちゃねぇ」

 ヤンマは祐介に近付くと、祐介の肩越しに魔剣を見下ろした。

「だが、これがあるからアビーは」

 額に脂汗を滲ませながら祐介が呻くと、真夜が枯れた声で呟いた。

「何度捨てても、また戻ってきます。それが、魔剣ストームブリンガーなんです」

 真夜は、涙の染みたハンカチをきつく握り締めた。

「御邪魔している間に、その剣を調べてみたんです。私の手では抜けないから、魔法を使って少しだけ抜いてみたんですけど、資料にある通りの漆黒の刀身でした。私などでは到底封じることが出来ない、本物の魔剣です。鞘から一センチぐらい出すだけで精一杯だったんですけど、たったそれだけのことで、大分魔力を吸われてしまいました。さっき、アビーさんがアーサーに斬られた衝撃で、ストームブリンガーは目覚めています。だから、触らない方が…」
「じゃあ、何もせずに放っておけって言うのか!?」
「そうじゃありません。でも、本当に、何も出来ないんです…」

 祐介に怒鳴られ、真夜は首を縮めた。

「ごめん」

 ぼろぼろと涙を落とした真夜に、祐介は罪悪感に苛まれて謝った。茜の言葉を、僅かばかり失念してしまった。何かしたくても出来ないのも、皆、同じなのだ。真夜は腫れた目を拭ってから、立ち上がり、祐介に頭を下げた。

「私はこれで失礼します。アーサーが、家に帰っているかもしれないから」
「大丈夫、真夜ちゃん?」

 茜は真夜を覗き込むと、真夜は頷いた。

「大丈夫。一人で帰れる」
「途中まで一緒に行こう。その方が、気も楽だろうし」
「でも、そんなの悪いわ」
「友達じゃない、気にしないの。いいよね、ヤンマ?」

 茜がヤンマに声を掛けると、ヤンマは頷いた。

「その方がいい。真夜、アーサーが外に出たのは今日が初めてなんだよな?」
「ええ、そうです。一人で出歩かせるのは心配だったから」

 真夜が力なく答えると、ヤンマは窓の外を仰ぎ見た。昼下がりなので、まだ日は高い。

「俺も野暮用が出来た」
「まさか、ヤンマ、アーサーさんと戦う気なの?」

 茜が戸惑うと、ヤンマは顎を鳴らした。

「あんなに派手な野郎は、空から探せば一発で見つかるはずだ。殺し合う気はねぇが、一発殴らねぇと収まらねぇ」
「…俺も行く」

 祐介が重たく呟くと、ヤンマは首を横に振った。

「行くだけ無駄だ」
「このままじゃ俺も気が済まないんだよ、だから連れて行け!」

 祐介がヤンマに叫ぶと、ヤンマは爪先で祐介の襟元をぐっと持ち上げ、額を突き合わせた。

「お前に何が出来る。悪いことは言わねぇ、ここで大人しくしていろ。それが一番だ」
「でも、ヤンマ…」

 不安げな茜に、祐介を放したヤンマは一笑した。

「日が暮れる前に帰ってくるさ」

 じゃあな、とヤンマは玄関のドアを開けて外に出ると、すぐさま羽ばたいて午後の空へと飛び去ってしまった。茜は玄関を出てヤンマを見送り、その背が街並みに消えるまで見つめていたが、振り返って真夜に向いた。

「行こう、真夜ちゃん」
「…うん」

 真夜は小さく頷くと、祐介とアビゲイルに深々と頭を下げて謝ってから、茜と連れ立って祐介の部屋を後にした。二人が階段を下りる足音が遠のき、狭い部屋には静けさが戻った。祐介はひどい焦燥に駆られたが、踏み止まった。ヤンマの言う通りだ。たとえ、ヤンマと共にアーサーなるリビングメイルを探し当てたとしても、何が出来るのだろう。戦えるわけでもなければ、魔法を使えるわけでもない。だが、アビゲイルを直してやれるわけでもないことも事実だ。じくじくと痛む右手の傷よりも、胸の方が余程痛かった。何も出来ないからと、何もしないままでいるつもりなのか。
 アビゲイルの上半身の傍に座った祐介は、傷のない左手でアビゲイルのヘルムに触れてみたが、反応はなかった。言葉を発することもなければ、動くこともなく、笑うこともない。リビングメイルとは言い難い、単なる金属塊だった。

「アビー」

 祐介は唇を歪め、アビゲイルを抱き寄せた。

「ごめんな」

 動かなくなった彼女は、冷たく、硬い、無機質な物体だった。今朝、部屋を出るまではいつも通りだったというのに。ほんの十数時間前の出来事なのに、遠い過去のように感じる。なんでもないことが、特別なことなのだと身に染みる。アビゲイルの優しい声が、無性に聞きたくなる。だが、アビゲイルは祐介の腕の中で沈黙し、指先すらも動かさない。死んでしまったのでは、と疑いそうになるが、人間ではないのだから斬られたぐらいでは簡単に死なないと思い直す。きっと大丈夫、なんとかなる、ならないわけがない。根拠のないことを切に願いながら、祐介は無力さを痛感していた。喉に熱い異物が迫り上がり、視界がぼやけ、目元から体液が滴る。悔しくて、やるせなくて、気が狂ってしまいそうだ。
 玄関に散らばる傘が崩れ、落ちた。



 どこをどう逃げたのか、解らない。
 湿っぽく埃っぽい空気が充満している林を当てもなく歩きながら、アーサーはひたすら自問自答を繰り返していた。正しいことをしたのに、なぜ真夜は拒絶する。間違ったことをしていないのに、なぜ他の者達はアーサーを責める。そして、なぜ誰も魔女の敗北を喜ばない。魔剣ストームブリンガーを操る魔女は、誰しもが恐れる生きた悪魔だった。
 アーサーが存命していた時代。現代ではアビゲイルと名を変えた女は、侵略と破壊を繰り返す国家の王族だった。世継ぎが生まれなかったためにエルリックと名付けられて男として育てられ、魔剣を与えられて戦場に駆り出された。それから間もなく、エルリックはその手で王族を皆殺しにし、国の実権を掌握したばかりか近隣諸国を次々に侵略した。中でも最も激しい戦火に見舞われたのがアーサーの祖国であり、一年も経たないうちに国土の大半が焦土と化した。
 若き聖騎士であったアーサーは、元王子の魔女と何度も剣を交えたが、殺すどころか殺されそうになってしまった。聖剣エクスカリバーの力で辛くも生き長らえたが、戦いを繰り返すうちに祖国の軍勢は消耗し、アーサーも疲弊した。だが、魔剣ストームブリンガーを携えた魔女の猛攻は止まらず、戦火は祖国の首都にまで及び、首都は滅ぼされた。アーサーが忠誠を誓った王族の血に濡れた黒い刃を振るいながら、魔女は笑っていた。そして、アーサーを斬った。ストームブリンガーの刃が腹部に差し込まれた瞬間、アーサーもまたエクスカリバーを振るい、魔女の首を刎ねた。兜を被った魔女の頭部が転げ落ち、首の根元から噴き出す鮮血を浴びながら、アーサーも己の血溜まりに沈んだ。
 そして、再び目を覚ました時に出会ったのが真夜だった。その美しさに一瞬にして心を奪われ、魂が奮い立った。だから、真夜を守ると聖剣に誓った。魔女を殺さなければ真夜が殺されてしまうから、アーサーはアビゲイルを斬った。けれど、真夜は喜ぶどころかアーサーを責めた。聖騎士としての役割を果たしただけなのに、なぜこんなことになる。

「おお、神よ」

 湿った土に膝を埋め、アーサーは頭を抱えた。

「どうかお答え下さい、私は何を誤ったのでしょうか」
「全部だな」

 アーサーの言葉を遮るように、声が降ってきた。素早く顔を上げると、一際太い枝の上に昆虫人間が立っていた。黒と黄色の外骨格、エメラルドグリーンの複眼、透き通った四枚の羽。確か、ヤンマと呼ばれていた昆虫人間だ。

「貴様が神の言葉を騙るな!」

 アーサーがエクスカリバーの柄を握ると、ヤンマは枝から飛び降り、右肩に担いでいた鉄パイプを下ろした。

「生憎、俺は神様なんてもんは信じねぇタチでな。祈るぐらいでどうにかなったら、俺はとっくの昔に人間になってる」
「おのれ、貴様も魔女に操られているのか!」

 アーサーは抜刀すると、腰を落として剣を構えた。ヤンマは少し錆の浮いた鉄パイプを引き摺り、土を削る。

「さあて、どうだかな!」

 ヤンマの爪先が地面を噛み、しなやかに長身が跳ねた。アーサーはすかさず剣を起こすが、間合いを詰められた。鉄パイプが荒々しく振り下ろされて頭部に迫るが、エクスカリバーで受けた。金属が鬩ぎ合い、高音と低音が響く。アーサーは剣を振って鉄パイプを弾き飛ばすが、ヤンマは即座に身を引いて鉄パイプを下げ、間合いを取った。動きは雑だが、場慣れしている。アーサーは強く踏み込んで腰を回し、エクスカリバーに光を纏わせて振り抜いた。

「とあっ!」

 だが、刃が届くよりも前にヤンマは後退し、エクスカリバーを戻すための隙を突いて鉄パイプを突き出した。

「調子こいてんじゃねぇぞ!」
「人に劣る虫の分際で、この私と刃を交えるとは! それだけは賞賛に値する!」

 鉄パイプを左腕で受け止めたアーサーは、それを掴み、捻った。

「お前に褒められたって嬉しくねぇな!」

 上右足ごと捻られた鉄パイプを上左足に持ち替えたヤンマは、反対方向に力を込めた。

「うっ!?」

 鉄パイプがアーサーの手中から外れ、側頭部に衝突した。視界が揺さぶられたアーサーは、僅かに注意が逸れた。その間に、ヤンマは鉄パイプを突き上げてアーサーの顎を真下から叩き、仰け反らせてから胸部に蹴りを放った。たたらを踏んだアーサーに追撃を加えるべく、ヤンマが跳躍すると、アーサーはエクスカリバーを横たえて腰を据えた。

「貴様こそ、調子に乗るな!」
「おわっ!」

 反射的に羽ばたいて制止したヤンマの目の前に、エクスカリバーの白く輝く切っ先が迫った。

「ふん!」

 アーサーが剣を僅かに引いたので、ヤンマは上体を反らした。直後に白い刃が突き出され、顎を掠めて上に抜けた。複眼の下が白い光に染まり、視界がぼやけた。羽ばたいてアーサーとの距離を取ったヤンマは、顎を鳴らしていた。簡単に勝てる相手ではないと思っていたが、これほどとは。こりゃガチで本物だな、とヤンマは鉄パイプを握り締めた。
 生温い風が吹き抜け、木々を掻き乱した。枝と葉が擦れ合い、水気混じりの土の匂いが木々の間から立ち上った。白い刃を突き出した格好のまま、アーサーはヤンマを見据えていた。彼を殺すのは容易いが、それではまた真夜が。しばらく迷った末、アーサーはエクスカリバーを鞘に収めた。ヤンマは警戒心を緩めた様子はなく、顎を軋ませている。

「貴様は、茜と申す少女のために戦っているのか?」
「まあ、な」

 ヤンマは鉄パイプを上左足の爪に打ち付けながら、顎を開いた。

「俺は茜を守りたい。それだけだ」
「そうか」
「お前も似たようなもんだろ?」
「なぜ解る」
「あれだけべらべら喋ってたんだ、解らねぇ方が変だろ」

 言葉こそ軽いが、ヤンマの口調は強張っていた。

「だが、あのやり方はねぇな。アビーがお前の言う魔女だったとしても、あの時、アビーは丸腰だったんだぜ?丸腰の女に斬り掛かるのは、聖騎士どころか男のやることじゃねぇよ。あれは真夜じゃなくても怒るぜ」
「そう、だな」

 アーサーはヤンマからは視線は外さなかったが、声色を落とした。

「だが、魔女を殺さねば、いずれ真夜は危険に曝される」
「…らしいな」

 意外にも、ヤンマが同意した。アーサーが訝ると、ヤンマは上右足の爪を一本挙げた。

「あの剣はマジでヤバいぜ。魔法使いじゃなくても、それぐらいは解る」
「だから、一刻も早く、魔女と共に魔剣を滅ぼさねばならないのだ!」
「そうなんだよ、そうなんだがよ! 俺はお前を殴らなきゃ気が済まねぇ!」
「なぜだ、やはり貴様は魔女に操られているからか!」
「そんなわけねぇだろ! アビーはな、俺達の最高の隣人なんだよ!」

 ヤンマは枝の上から飛び降り、鉄パイプをアーサーに向けた。

「料理も上手けりゃ掃除も得意、洗濯だってお手の物だ! 脳内ピンク色だがそこもまた愛嬌、馬鹿みたいなお人好しでいつか誰かに騙されるんじゃないかって思っちまうぐらいのいい女だ! お前は、そんな女を真っ二つにしたんだ!」
「だが、あの女は魔女だ! 魔剣ストームブリンガーの恐ろしさを知るならば、なぜあの女を恐れない!」
「包丁は包丁、料理人は料理人ってぇことだ!」

 ヤンマは振りかぶり、アーサーの頭部を狙って投擲した。二人の距離は数メートルもないため、ほんの一瞬で到達した。アーサーは剣を抜くことが出来ず、腕で頭部を庇った。腕に激突した鉄パイプが跳ね飛んだ直後、別の衝撃が訪れた。頭部を守っていたために狭まっていた視界の死角から、ヤンマの拳が滑り込み、アーサーのマスクに叩き付けられた。

「もういっちょ!」

 よろけたアーサーの頭部にもう一発拳を放ったヤンマは、アーサーの頭部を掴み、ぎりぎりと爪で絞った。

「このまま首だけ引っこ抜く、ってのも悪くねぇな?」
「貴様っ…」

 アーサーは頭部を握り締めるヤンマの足を掴むが、ヤンマはぎちっと爪を捻ってアーサーの首の根元を曲げた。

「俺達はな、普通に暮らしていただけなんだ。お前はそれをぶっ壊したんだ、首ぐらいじゃ埋め合わせにもならねぇ」
「だが、魔女は!」
「だぁから、それとこれとは別だっつってんだろうが!」

 ヤンマはアーサーを放り投げて転がすと、その分厚い胸を踏み躙った。

「見た目通り、頭の硬い野郎だな。そんなんじゃ、一生掛かっても真夜には許してもらえねぇぞ」
「真夜は…」

 首を起こしたアーサーは、ヤンマを見上げた。

「私を、憎んでいるのか?」
「さあな。俺は茜だけで手一杯だから、他の女に気を掛ける余裕なんてねぇよ。そんなもん、自分で確かめろ」

 アーサーの頭部を蹴り飛ばしたヤンマは、地面に転がっている鉄パイプを拾った。

「これで俺の気は済んだ。だが、二度とツラを見せるな」
「待て、ヤンマ」
「うっせぇな、馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇよ!」
「ここはどこなんだ?」
「はあ?」

 話の流れにそぐわない質問にヤンマが声を裏返すと、アーサーは起き上がり、土を払った。

「本当に、ここがどこなのか解らないのだ。真夜の家の位置も、朧気にしか覚えていない。だから、どこをどう行けば真夜の家に戻れるのか…。方向感覚はあるのだが、地理感覚がなくてな」
「お前さぁ、一見賢そうだけど実は物凄い馬鹿だろ?」

 ヤンマが呆れると、アーサーは強く反論した。

「何を言う! 私は聖騎士だ! 貴様などとは違う!」
「大体なら教えてやるけど、案内はしねぇぞ。でも、真夜の家に帰ってどうするつもりだよ? 追い返されるぞ?」
「だが、真夜の気持ちを確かめろと言ったのは貴様自身ではないか」
「そりゃまぁな」
「早急に教えてくれ、ヤンマ。私は真夜の家に帰りたいのだ」
「なんか、気ぃ抜けるなぁ…」

 ヤンマはぼやきながらも屈み、爪先で地面を削って簡単な地図を描いた。

「今、俺達がいるのは大通りから西側に外れた緑地公園で、南側に行けば私鉄の駅がある。んで、その私鉄の駅から線路沿いに十分ぐらい歩いたところにあるのが俺達のアパートで、真夜んちは…あー、俺、知らねぇや。今気付いた」
「役に立たない男だな」
「図体でかい迷子には言われたくねぇよ」

 ヤンマはアーサーの言い草に腹が立ったが、気を取り直した。ここで挫けては、真夜の家まで送る羽目になる。

「真夜の家は一駅先だって茜から聞いたことがあるから、少なくともこの近所じゃねぇな。なんだったら、交番で聞け」
「コウバン、ああ、真夜から聞いたことがあるぞ。市民生活の安全を脅かす犯罪を取り締まる公僕が駐在しているのだな」
「それが解ってんなら俺に帰り道を聞くな。お巡りさんに聞け、迷子」
「迷子迷子と言わないでくれ、何か情けなくなってくる」
「つうか、もう充分情けねぇぞ?」

 ヤンマは心底呆れ、立ち上がった。

「俺は今度こそ帰る。日も暮れてきちまったしな」

 羽を広げたヤンマは、複眼の端に金色の全身鎧を捉えた。

「お前のことは嫌いだが、真夜は好きだ。大事にしてやれ」

 びいいいいいいんっ、と薄い羽が空気を震わせ、長身が浮かび上がった。木々を乱し、黒と黄色の姿が空に消える。ヤンマを見送ってから、アーサーは歩き出した。この場に留まり続けていても、事態は進展するどころか後退してしまう。真夜に会い、真夜の気持ちを確かめよう。そして、本当に正しいと思えることを見出し、その上でエクスカリバーを振るおう。魔剣ストームブリンガーへの恐怖に囚われ、過去に縛られすぎていたのだと、ヤンマのおかげで気付くことが出来た。聖剣エクスカリバーの鞘の力があれば、アビゲイルの傷は癒せる。その上で話し合い、刃を交えずに戦いを終わらせよう。アーサーが存命していた時代とは、何もかもが違う。アビゲイルも記憶を失っているから、魔女とは懸け離れた人格だ。だから、血と肉片の海を作らずとも事態は収拾出来る。いや、しなければならない。決意を固め、アーサーは踏み出した。
 吹き付ける風の温度が、急激に冷え込んだ。違和感を感じたアーサーが足を止めると、木々の葉がはらはらと落ちた。青々と茂っていた葉が茶色く変色し、縮み、草が萎れていく。風に混じる匂いも、春先のものではなく墓場に近しかった。枯れた枝の隙間から覗く空だけが青く、鮮烈だ。生命を宿していたものは、皆、息吹を止め、干涸らびた死骸と化した。

「うふふふふ」

 枯れ葉を踏み荒らしながら、銀色の影が歩み寄ってくる。

「あなたのせいで、あの人が泣いてしまった。あの人だけは傷付けまいと思っていたのに、どうしてあなたは私を見つけ出してしまうのかしら。どうしてあなたは、私を戦いに駆り出すのかしら」

 しゅるりと鞘から刃が引き抜かれ、闇を吸い込んだ剣が現れる。

「二度と戦いたくなかったから、私はストームブリンガーに全てを与えたわ。記憶も、力も、全部食べさせたわ。そうしたら、彼は少しだけ満足して眠ってくれたわ。けれど、あなたが私を斬ったから、彼はまた目覚めてしまった。戦え、殺せ、喰え、ってうるさいのよ。このままじゃ、彼は私の大切な人を食べちゃうわ。だから、あなたの命を食べさせてあげて」

 枯れた枝を擦り抜けた光が黒い刃を煌めかせ、銀色の魔女、アビゲイルを照らした。

「聖騎士の命なら、きっとストームブリンガーは満足してくれるわ」

 切断されたはずの上半身と下半身と左腕が繋がり、元の姿を取り戻していた。アーサーは剣を抜いたが、手が震えた。魔剣にもまた、聖剣と同等の能力が備わっている。操り手の肉体を強化するばかりか、どんな傷でもたちまちに癒すのだ。だが、先程、アビゲイルを斬った時にはそんなことはなかった。恐らく、その時はまだ魔剣は目覚めていなかったのだろう。アビゲイルの口振りからして、魔剣が目覚めたのはアーサーがアビゲイルを斬り、ダメージを与えてしまったからに違いない。先制攻撃をして魔女を滅ぼすつもりが、反対に魔女を目覚めさせてしまった。激しい後悔に襲われ、畏怖が魂を冷やす。魔剣ストームブリンガーを携えているアビゲイルは、アーサーの記憶にこびり付いた魔女の姿となんら変わらなかった。アーサーの刃に怯えた姿とは正反対の、血に飢えた戦士。心優しい隣人の面影が失せたアビゲイルは、笑みを零した。

「うふふふふ。お腹、空いちゃった」

 一陣の風が抜け、季節外れの枯れ葉を巻き上げる。銀色の魔女と金色の聖騎士の間を過ぎるのは、生命の抜け殻だ。それらは全て、魔剣に喰われたのだ。アーサーの同胞と同じように魔剣の飢えを潤し、大地で虚しく朽ち果てていった。枯れ葉だと解っているのに、それが血飛沫のように思えた。ここで魔女を殺さなければ、間違いなく命が狩られてしまう。真夜や彼女の友人達だけでなく、この街の全ての命が。アーサーはエクスカリバーの切っ先を、銀色の魔女に据えた。
 戦わなければ、皆、殺される。


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