関連 → ヤンマとアカネ
859 ◆93FwBoL6s.様

 目が覚めたら、彼女はいなかった。
 眠ったつもりはなかったのに意識が落ちていて、腕の中にいた彼女の上半身が残りの部分と共に消えていた。その代わりに毛布が掛けられ、右手の傷が手当てされ、丁寧な字で書かれたメモがテーブルの上に残っていた。
 ごめんなさい、ありがとう。大好きでした。と、広告の裏に書かれ、署名はなかったがアビゲイルの字だと解った。手紙をもらうのは初めてかもしれない、と場違いなことを考えながら、祐介は三行の言葉を何度となく読み返した。寝起きのせいか頭が重たく、思考が働かない。今すぐに部屋を飛び出したいのに、手足がだるく、力が入らない。きっと、アビゲイルは方法は解らないが体を治し、目覚めた魔剣ストームブリンガーを携えて戦いに赴いたのだろう。目的は間違いなく、アーサーなるリビングメイルを倒すためだ。それを止めるべきか否か、祐介は考え込んでしまった。
 魔剣ストームブリンガーは、素人目に見てもおぞましい武器だ。破壊出来るものなら、一刻も早く破壊するべきだ。けれど、同時にアビゲイルが破壊されることも目に見えている。アビゲイルのことだ、己の身を犠牲にしかねない。そうなれば、今度こそ取り返しが付かない。祐介は勢い良く立ち上がったが、頭がふらついて足を踏み外しかけた。ふすまに手を付いて姿勢を直し、祐介が玄関に向かうと、廊下側からドアが開かれて軽薄な挨拶が飛び込んできた。

「ちーっす! 兄貴いるっすかー!」

 水色の外骨格を持つ昆虫人間、シオカラだった。シオカラは祐介に気付くと、あれ、と表札を見直した。

「あ、サーセン、こっちはアビーさんちだったっすか」
「確か、シオカラ、だったっけ」

 祐介がシオカラを見上げると、シオカラはきちきちと顎を鳴らした。

「そうっす、シオカラっす。つか、兄貴どこっすか?」
「ヤンマなら、さっき出ていったんだが。何か用か?」
「俺っち、今日兄貴に草毟りの手伝いしろって呼び出されたんすけど、マジダルいから超シカトしてたんすよー。でも、来ないと後でアイアンクローの刑かなーって思って来てみたんす。なのに兄貴いないなんて、マジ有り得ねーっす」
「そうだ、アビーを見なかったか?」
「アビーさんっすか? あー、それならさっき見たかもしんねーっす。なんすか、ケンカでもしたんすか」
「そうじゃないんだが、とにかく知っているなら教えてくれ!」

 祐介がシオカラに迫ると、シオカラは半歩身を引いた。

「てかなんすか、マジ慌てすぎっすよ。俺っちがさっき見た時は、アビーさん、公園の方に向かってたっすよ。長物持って」
「ありがとう、シオカラ!」

 祐介はスニーカーを突っかけて玄関から飛び出したが、鍵を忘れたことを思い出し、一旦部屋の中に駆け戻った。バッグの中からキーホルダーを引っ張り出し、鍵を掛けてから、シオカラに再度礼を言って階段を駆け下りていった。
 住宅街を息を切らして駆けながら、祐介はアビゲイルを求めていた。会いたくて会いたくて、疲労など吹き飛んでしまう。今を逃したら、二度と会えなくなってしまいそうな気がする。それだけは嫌だ。彼女が傍にいない日々など有り得ない。煩わしい時もあり、鬱陶しく思うこともあったが、それ以上に愛おしい。あそこまで無条件に慕ってくれるのは彼女だけだ。ひどく傷付いた姿を見て、ようやく自覚したのだから遅すぎるぐらいだ。けれど、まだ手遅れではないと思いたかった。
 好きだと言われるのは、気分が良かった。真っ向から好意を注がれるのも嬉しかったが、返すのが照れ臭かった。毎日同じ部屋で暮らして、同じ時間を過ごして、同じ価値観を共有していると、面と向かって話すのが恥ずかしかった。だから、嬉しくてもろくな言葉を返さなかった。好きだと言わなくても、アビゲイルはそれ以上に祐介に好きだと言ってくる。何もかも、アビゲイルに甘えていた。いつまでもそんなことでは、いくらアビゲイルでも愛想を尽かされてしまうだろう。
 アビゲイルを探し出したら、真っ先に何を言おう。好きだと言うのか、部屋に帰ろうと言うのか、それとも他の言葉を。そんなことを考えながら走った祐介は、シオカラの言葉通りに緑地公園に到着したが、目に飛び込んだ光景に息を止めた。急激な運動による負担とは違った意味で、肺と心臓が痛んだ。緑地公園に植えられた木々が枯れ、葉が全て落ちていた。春先なのに、まるで冬の光景だ。汗ばんでいた肌が総毛立ち、血液が冷える。膝が震えたが、振り切って駆け出した。
 きっと、ここに彼女がいる。

 彼は、書き置きを読んでくれただろうか。
 手にした刃は数百年前と変わらず重たく、冷たい。アビゲイルに触れてきてくれる彼の手とは、正反対の温度だった。目の前に立つ金色の聖騎士は、怯えを隠し切れていない。眩く輝く剣先が僅かに震え、かすかに装甲が鳴っている。彼もまた、愛する者を守りたいだけなのだと解っている。中世時代も現代も、アーサーは愚かしいほど誠実な男だ。けれど、ここで剣を引くわけにはいかない。アビゲイルの手中に魔剣ストームブリンガーがある以上、彼は敵なのだ。守りたいものが近しくても、聖剣と魔剣は交わらない。そして、その使い手同士も、憎しみ合うことしか許されない。

「私はね」

 枯れ葉を掻き乱し、アビゲイルは踏み出した。

「好きな人が出来たのよ」

 魔剣を横たえて乾いた地面を蹴り、身を躍らせた。

「記憶も力も封じた私は、私が私でいられる場所に行きたいと願ったの。そしたら、私はこの街に倒れていて、そして」

 ぎちっ、と黒い切っ先でアーサーの首を押さえたアビゲイルは、静かに述べた。

「祐介さんに出会ったのよ」
「ぐぁあっ!」

 刃が接した部分が黒く焼け、アーサーは首を押さえて後退った。金色の指の下ですぐに傷が塞がり、元に戻った。

「だが、貴様は魔女! どれほど人を愛そうと、我が祖国を滅ぼした罪は消えない!」
「私だって馬鹿じゃないわ、それぐらい解っているわ。それでも、祐介さんを好きになってしまったんだもの」

 悠長な足取りでアーサーに近付きながら、アビゲイルは漆黒の剣を構えた。

「私はずっと、女の子になりたかったの。王子なんかじゃなくて、どこにでもいる女の子に。男の人を好きになって、
その人のことをお世話して、一緒に暮らしていたかっただけなのよ。祐介さんは私のことを邪険にする時もあるけど、
私のことを女の子として扱ってくれたわ。それが、どんなに嬉しかったか!」

 枯れ葉を巻き上げながら振られた漆黒の魔剣を、アーサーは白く輝く聖剣で受けた。

「それは私とて同じこと! 真夜は私を聖騎士としてではなく、一人の男として受け入れてくれたのだから!」
「それが解っているなら、なぜあなたは私を斬ったの? あなたさえ私を斬らなければ、私は!」

 聖剣を弾き飛ばしたアビゲイルは、悲痛な叫びを上げて魔剣を振り抜いた。

「祐介さんの傍にいられたのにぃいいいいっ!」

 アビゲイルを中心に、黒い衝撃波が重たく放たれた。アーサーは素早く聖剣を横たえてそれを防ぐが、押された。土と葉を散らしながら後退ったアーサーは、息を呑んだ。アーサーの背後以外の枯れた木は、皆、倒されていた。アビゲイルが剣を下げると、円形に斬られた木々は次々に地面に転がり、鈍い震動を立てて枯れ葉を吹き飛ばした。

「だから、あなたは命を懸けて償わなければならないのよ」

 倒れた木々の表皮が乾き、ひび割れていく。死者の匂いが充満した風が緩く吹き付けると、ぴしり、と木々が砕けた。大地に根付いた切り株にもひびが走り、砕け、割れる。地面に触れると砂と化し、木々で出来た砂山が出来上がった。生命を吸うどころか、その姿さえも奪っている。数百年の眠りの間に、ストームブリンガーは飢えに飢えているようだった。

「私は貴様に殺されるわけにはいかん!」

 畏怖を勇気で塗り潰し、アーサーは己を奮い立てた。

「私は真夜に謝っていない! 私が償うべきは貴様ではなく、真夜なのだ! 聖騎士たる者、愛する聖女に義を尽くさずに
死ねるものか!」
「あら、そう。御立派ね」

 少しも褒めていない口調で吐き捨てたアビゲイルは、死した砂粒の付着した切っ先を掲げた。

「けれど、勝つのは私よ!」

 魔剣が質量を増し、柄が伸び、アビゲイルの右腕に溶けていく。銀色の装甲が黒に侵され、魔女と化した。

「さあ…行きましょう、ストームブリンガー」
「目覚めよ、エクスカリバー!」

 アーサーは聖剣と鞘を重ね合わせ、声を張った。聖剣の柄が右腕を柔らかく包み込み、巻き付き、切っ先が手と化す。聖剣の柄が開いて左腕を覆い、馴染むと、左腕全体が一回り以上大きくなり、分厚い盾を備えた強化武装と化した。それまでは聖剣にしか現れなかった白い光が、アーサーの金色の体から溢れ出し、死した木々の砂すらも煌めかせた。

「うふふふふふ」

 漆黒の魔女は笑みを零し、駆け出した。アーサーは懐に飛び込もうとした彼女を受け止め、弾き、激しく斬り結んだ。光と闇、白と黒の火花が散る。漆黒の刃が光を纏った装甲を削り、潔白な刃が闇を吸った装甲を斬り、傷付け合った。双方の力は拮抗し、押したところで押し返され、攻めたところで攻め返される。このままでは、持久戦にしかならない。だが、あまり戦いが長引けばどちらの体も持たない。死者でもなければ生者でもない両者では、負担に耐えられない。

「神よ! 今こそ、魔を退ける力を!」

 アーサーは右腕の聖剣でアビゲイルの右肩を貫くが、潔白な刃が真逆の力によって焼かれ、灰色の煙が立ち上った。激しい痛みが右半身を駆け抜けたが、引き抜きたい衝動を堪えてアビゲイルを地面に押し倒し、左腕の盾を上げた。込められるだけの力を込めた盾を、漆黒の刃に押し付ける。鉄板に水を浴びせたような音が弾け、アビゲイルが跳ねた。

「いや、いや、祐介さあんっ!」

 潔白な刃に切断されかけた右腕を押さえ、アビゲイルは頭を激しく振った。

「魔女の分際で誰かを愛せただけでも幸福だと思え! だが、貴様は誰にも愛されることはない!」

 アーサーは光り輝く盾を漆黒の刃に抉り込ませ、刀身が歪むほど体重を掛けた。

「そんなこと、解っているわよ!」

 聖なる盾と鬩ぎ合う魔剣を睨み、アビゲイルは引きつった声を上げた。

「だから、私はあなたと戦うのよ!」

 アビゲイルの左腕が白く光る盾を掴み、女とは思えぬ腕力で魔剣と盾を引き離していった。

「私は祐介さんを幸せにしたいのよ! だけど、あなたと聖剣が在る限り、あなたは何度でも私を襲うわ! だから、
私はあなたを殺さなければならないのよっ!」

 じゅうじゅうと左手が溶けるのも厭わずに聖なる盾を外させたアビゲイルは、溶解した左腕を下げ、立ち上がった。

「愛されるだけが、女の幸せじゃないのよ」

 乾いた砂に黒い雫が垂れ落ち、煙の筋が昇った。ぐにゅりと左腕が膨らみ、溶け落ちた左手と下腕が再生した。アーサーは聖なる盾を突き出すが、アビゲイルの左手に握られた部分が黒く変色し、そこだけは白い光も及ばない。触れられた時に力を吸収されたばかりか、穢れに浸食されている。その部分が増えれば、アーサーとて命が危うい。一瞬にも永遠にも思える緊張が張り詰めていたが、乾いた砂を蹴り上げる足音が聞こえ、アビゲイルは剣を下げた。

「あ…」

 アビゲイルはアーサーに躊躇いもなく背を向け、声を張った。

「来ないで、祐介さん!」
「アビー!」

 死した林を駆けてきた祐介は、息を切らしながら歩調を緩め、笑った。

「良かった、体、直ったんだな」
「近付かないで、祐介さん! 私を見ないで!」

 アビゲイルは魔剣の生えた右腕を背に隠し、顔を左手で覆った。

「そうか、貴様がこの女の妄執の主か」

 アーサーは右腕の聖剣を翳し、祐介を遮った。

「我らの戦いは、古より定められしもの。貴様がこの女の何であろうと、妨げられるものでもなければ収められるもの
でもない。早々に立ち去るがいい。それが最良だ」
「俺はアビーを迎えに来たんだ」

 祐介が歩み出すと、アーサーはアビゲイルの前に立ちはだかった。

「ならん! この女は今ここで倒さねばならぬのだ! それこそが聖騎士の」

 使命、と言い切る前に、アーサーの胸が黒い刃に貫かれた。金色の装甲を包んでいた光が途切れ、瞬き、失せる。生身の人間の血液に良く似た溶けた金属の糸を引きながら、漆黒の刃が引き抜かれ、アーサーが前のめりに倒れた。

「祐介さん…」

 金色の筋が絡む魔剣を下ろし、アビゲイルは祐介を見定めた。

「どうして、私なんかを迎えに来たのよ?」
「アビー。ごめんな」

 祐介は畏怖で外れそうになる視線を彼女に据え、汗ばんだ拳をきつく固めた。

「お前のこと、今まで蔑ろにしてた」
「そんなことないわ、祐介さんは私を女の子にしてくれたわ!」
「都合良く利用してたってだけだ」
「家事だって、私がやりたかったからしていただけよ! 祐介さんが気に病むことはないわ!」
「ていうか、俺も気付くのが遅いんだよ」

 祐介は状況に見合わない照れ混じりの笑みを浮かべ、言った。

「アビー。好きだ」

 アビゲイルの中で、魔剣が叫ぶ。戦え。殺せ。命を喰らえ。だが、その声が聞こえなくなるほど、その声は良く聞こえた。彼の発した声が風に乱されて消えてしまうのが、悲しいほど辛かった。祐介の目は揺るぎなく、黒い魔女を見据えていた。アビゲイルは両腕をだらりと下げ、漆黒の剣先を灰色の砂に埋めた。埋めた部分からまた色が失せ、黒ずんでいった。
 私もあなたが好きよ。愛しているわ。そう言ってしまえば、彼を抱き締めてしまいたくなる。だが、この体では触れられない。聖剣の力に守護されたアーサーでさえも、今のアビゲイルに触れれば命が吸い取られるのだから、祐介など一瞬で死ぬ。血の一滴も残さずに、祐介は死ぬだろう。アビゲイルは首を横に振りながら身を引くが、祐介は迷わずに近付いてきた。

「アビー」
「来ないでぇえっ!」

 アビゲイルは頭を抱え、ずしゃりと灰色の砂に座り込んだ。体が触れた砂が、全て黒ずみ、穢れていく。

「私に触ったら、祐介さんは死ぬわ! だから、来ないで!」
「アビー。今日の夕飯、何にする?」
「今はそんなこと、どうでもいいじゃない!」
「どうでもよくない。それで、何にするつもりだったんだ?」
「え、っと…」

 アビゲイルは冷蔵庫の中身を思い出し、手早くメニューを考えた。

「昨日特売だったお魚の煮付けと、菜の花のお浸しと、春キャベツの御味噌汁、かしら。あ、浅漬けも作れるかも」
「じゃ、そろそろ帰って準備しないとまずいんじゃないのか? もう五時前だぞ」
「でも、今はそんなことを言っている場合じゃ」

 祐介はアビゲイルの前に屈み、包帯の巻かれた右手を差し伸べた。

「俺はお前の作った夕飯が食べたい。だから、一緒に帰ろう」
「祐介さん…」

 アビゲイルはその手を見つめていたが、顔を伏せ、肩を震わせた。

「今時、そんな口説き文句で落とされるのって、私ぐらいしかいないわよ?」

 今すぐに、祐介の手を取ってあの部屋に帰りたい。狭くて古い部屋だが、その空間に詰め切れないほどの幸福がある。けれど、彼の手を取ったら、アビゲイルは命を奪う。魔剣ストームブリンガーが暴れ出し、祐介の心臓を貫くことだろう。帰りたい。けれど、帰れない。アビゲイルは身が裂かれそうな気持ちで祐介を見つめていたが、アーサーに振り返った。

「あなた、まだ生きているわよね?」
「無論だ」

 聖剣を支えにして起き上がったアーサーは、穴を開けられた胸を押さえ、再生させた。

「ストームブリンガーを殺して」

 アビゲイルは右腕と一体化した魔剣を横たえ、滑らかな刃に金色の聖騎士を映した。

「私はあなたを殺したかったけど、祐介さんの前で誰かを殺すわけにはいかないわ。けれど、今、この場から逃げても
何も始まらないし終わらないのよ。だから、あなたのエクスカリバーでストームブリンガーを貫いて」
「言われるまでもない!」

 アーサーは聖剣に白い光を纏わせ、祐介を一瞥した。

「…許せ」

 金色のつま先が砂を抉り、巨体が躍り出た。身動ぎもせずに直立しているアビゲイルの右腕に、潔白な刃が迫る。白と黒の電流が跳ねて弾け、漆黒の刀身に純白の剣先が埋まり、貫き、その奥にある魔女の胸も易々と貫いた。厚みのある胸が破れ、背中から切っ先が現れた。双方の力が混じり合い、溶かし合い、ぼたぼたと金属が滴り落ちる。雨の滴よりも大きく、血よりも重たい雫を散らしながら、聖剣を引き抜かれたアビゲイルは魔剣を失った右腕を下げた。

「うふふふ…。ちょっと、痛かったわね…」

 右腕自体がずるりと溶けて柄が外れ、刀身が全て砕けた魔剣が足元に転がり落ちた。

「好きよ、大好きよ、祐介さん…」
「アビー…」

 祐介が近寄ると、装甲の色が元に戻ったアビゲイルは、祐介に左手を伸ばしたが、その手が取られる前に倒れた。腰に下げていた魔剣の鞘が外れて転げ、溶けた魔剣の海にヘルムが沈む。膝を折った祐介に、アーサーは言った。

「その女は、私と同じように魔剣の力で長らえていた。だが、その魔剣が滅びた今、その女を生かす術はない」
「なんとかならないのか?」

 アビゲイルの横顔を見つめながら祐介が呟くと、アーサーは両腕の融合を解き、鞘を掲げた。

「この鞘は、あらゆる傷を癒す力を持っている。しかし、この女は魔剣に穢れすぎている。使ったところで、反発し合う
かもしれん。剣が潰えても鞘と柄は残っている、もしもこの女と共に魔剣自体も蘇りでもしたら」
「その時は、またあんたがアビーと戦えばいい。そのための聖騎士と聖剣なんだろうが!」
「だが…」

 アーサーは鞘と祐介を見比べ、語気を強めた。

「ならば、奇跡は求めるな。所詮、聖と魔は相容れぬもの、穢れが浄めを上回ることも少なくない」
「その時は、喜んで魔剣に喰われてやるよ。俺は、それぐらいしか出来ることがないんだ」
「酔狂な男だな」
「そんなこと、とっくに自覚してる。何せ、相手はリビングメイルだからな」

 祐介はアーサーに向き直り、言い切った。

「頼む。アビーを助けてやってくれ」
「魔剣の操り手を癒すことなど、聖騎士には許されぬ愚行だが、これもまた騎士道だ」

 アーサーはアビゲイルの傍に膝を付き、その身の上に鞘を置いた。

「聖剣エクスカリバーよ。どうか、今ばかりは魔女の罪を許し、その身を癒してくれたまえ」

 鞘はアビゲイルに触れた部分から薄く煙を昇らせたが、アーサーの願いを聞き入れたのか、白い光を放ち始めた。貫かれた背と胸の傷が金属に埋められ、溶け落ちた右腕が再生していくが、アビゲイルの意識は戻ってこなかった。戦闘による細かな傷も全て埋まり、新品のような輝きを得たが、アビゲイルは声を発することも動くこともなかった。祐介は彼女の肩に触れるが、やはり反応はない。アーサーは彼女の上から鞘を外すと、エクスカリバーを収めた。

「私には、これが限界だ」
「充分だよ。ありがとう、アーサー」

 祐介はアビゲイルの傍らに膝を付くと、滑らかなヘルムを撫でた。いつもと変わらないはずなのに、ひどく冷たかった。祐介は身を屈めてアビゲイルの顔を起こさせ、そのマスクに唇を当てた。砂と灰が入り混じった、切なく苦い味がした。抱き起こそうとしても、アビゲイルの方が体重があるので上半身を起こすだけで一苦労で、支えるだけでも大変だった。見かねたアーサーが手を貸そうとするが、それを遮り、祐介は渾身の力を込めて腰を上げ、アビゲイルを立ち上がらせた。
 銀色の全身鎧を引き摺る青年と、彼らに距離を置いて歩く金色の聖騎士が死んだ林から出ると、見慣れた顔が待っていた。祐介がアパートを飛び出した後にシオカラが連絡して回ったらしく、シオカラ、ヤンマ、茜、真夜が公園の出口に揃っていた。

「おう、生きてたか」

 ヤンマは祐介が肩に担いでいるアビゲイルを見、アーサーを見、祐介に尋ねた。 

「んで、何がどうなったんだよ」
「まあ、色々とな」

 祐介はアビゲイルを一旦下ろし、縁石に座らせた。

「私は聖騎士の使命を果たし、魔剣を滅ぼし、魔女を討った。それが罪だと言うのなら、私を裁いてくれ」

 アーサーは泣き腫らした真夜の前に膝を付き、エクスカリバーを彼女の前に置いた。

「我が聖女よ。君の美しさを曇らせてしまった私は、万死に値する。葬られるのならば、せめて君の手で」
「いいのよ、アーサー。私もいけなかったのよ。あなたの気持ち、全然考えてなかった。私の方こそ、ごめんなさい」
「だが、君は私を嫌いだと」
「そんなわけない。あの時は訳が解らなかったから、言い過ぎちゃったのよ。ごめんね、アーサー」

 真夜はぐしゃりと顔を歪めてアーサーの前に跪き、アーサーの首に腕を回して抱き付いた。

「ああ、真夜…。愛している」

 アーサーは真夜を抱き寄せ、声を殺して泣く彼女を宥めた。

「祐介兄ちゃん。アビーさん、どうなったの?」

 茜が不安げに尋ねてきたので、祐介はアビゲイルを撫でた。

「今は少し眠っているだけだ。すぐに目を覚ますよ」
「そっか。うん、そうだよね」

 茜は内心の不安を払拭するように笑み、アビゲイルの肩に触れた。

「アビーさん、お疲れ様。今はゆっくり休んでね」
「祐介。アビー、俺がアパートまで運んでやろうか?」

 ヤンマが歩み寄ってきたが、祐介は首を横に振った。

「いや、俺が連れて帰る。俺の彼女だからな」
「つか、やっぱそうなんすか。てかマジっすか、マジパネェっす」

 シオカラは状況が把握出来ていないのか、けたけたと笑った。ヤンマはシオカラを小突いてから、祐介に向いた。

「頑張れよな」

 何するんすか兄貴、つかマジ痛っ、と喚くシオカラの頭を掴んで引き摺りながら、ヤンマは茜と連れ立って行った。アーサーは祐介とアビゲイルに別れの言葉を丁重に述べてから、真夜に伴われて、真夜の自宅へと戻っていった。その場に残されたのは祐介とアビゲイルだけとなり、祐介は彼女の隣の縁石に腰を下ろして、その肩を抱き寄せた。がしゃり、と装甲を鳴らしながら頭を預けてきたアビゲイルを支えながら、祐介は西日に染まった街並みを眺めた。
 考えてみたら、二人で一緒に外に出たのは数えるほどしかない。それも、近所の店で買い物をしたぐらいだった。一緒に出掛けたこともなければ、連れ出したこともない。アビゲイルが目覚めたら、好きなところに連れて行こう。明るいことを考えていても、目の奥が熱くなる。死んだわけではないのだ、と思っても、顎が震えて変な声が漏れる。
 好きだ。好きだ。大好きだ。それなのに、アビゲイルは動かない。すぐにでも起きてほしいのに、起こす術がない。堪えきれない嗚咽を漏らしながら、祐介はアビゲイルを力一杯抱き締め、愛おしいリビングメイルの名を呼び続けた。
 だが、彼女は起きなかった。



 今日もまた、良い天気だ。
 目の端に染み入る朝日が眩しく、生温い眠気が退いていく。布団から離れるのが名残惜しかったが、起き上がった。薄手の掛け布団をめくり、窓を開ける。昼間の暑さが想像出来るような暖かな風が舞い込み、カーテンを揺らした。祐介は鳴る寸前だった目覚まし時計を止めてから、剥がれた掛け布団にしがみついている銀色の全身鎧を見下ろした。滑らかな装甲に朝日が跳ね、天井や薄い壁や畳に光の粒が散り、新鮮な光が彼女の輪郭を柔らかく縁取っていた。

「起きろ、アビー」

 祐介が声を掛けると、女性型の全身鎧は小さく呻きながら顔を起こし、ヘルムを擦った。

「あら、もう朝…?」
「にしても、良く寝てたなぁ。いつもなら、俺より早く起きるのにな」
「だって、祐介さんたら、私の弱いところを全部知っているんだもの」

 恥じらってヘルムを伏せたアビゲイルに、祐介は目覚まし時計を指した。

「アビー、もう六時半だぞ」
「え、あ、きゃあ!」

 朝ご飯用意しなきゃ、とアビゲイルは慌てて立ち上がり、寝室から出ようとしたがふすまを開け損ねて顔を打った。もういやぁん、と拗ねたように呟きながら、アビゲイルは寝室兼勉強部屋を出ていき、居間を抜けて台所に入った。祐介はにやにやしながら寝間着のジャージから普段着に着替え、居間に入ると、ベランダに派手な虫が立っていた。

「おーす」
「なんで朝っぱらから人んちのベランダにいるんだ」

 祐介がヤンマを睨むと、ヤンマはがちがちと顎を鳴らした。

「細かいことは気にするな」
「むしろお前が気にしてくれ」
「朝刊の配達が終わったから帰ってきたんだよ、それ以外の理由があるか」

 ヤンマはベランダに腰掛けて下両足を組み、台所で忙しく働くエプロン姿のリビングメイルを見やった。

「んで、アビーはどうだ?」
「変わりはしない。何がどうなったって、アビーはやっぱりアビーなんだ」

 祐介はヤンマと同じようにアビゲイルの背を見つめ、頬を緩めた。

「俺の自慢の彼女だ」

 魔剣ストームブリンガーを操る魔女アビゲイルと、聖剣エクスカリバーに選ばれし聖騎士アーサーの戦いから一ヶ月が過ぎた。アーサーとの死闘の末に魔剣を破壊させたアビゲイルは、自身もひどく負傷し、聖剣の鞘の力で傷は再生したが目覚めなかった。
 それから一週間、祐介はアビゲイルを愛した。声を掛け、キスをして、抱き締めて、時には彼女が求めてきたようなこともした。効果があるとは思えなかったが、何もしないよりは気が楽だったのだ。そして、一週間目の朝、アビゲイルは目を覚ました。しかし、アビゲイルは祐介を見ても名を思い出せず、名を呼ばれても反応が鈍く、ヤンマと茜に会わせてもぼんやりしていた。アーサーと真夜にも会わせてみたが、やはり反応は同じだった。聖剣エクスカリバーを見せても、立派ねぇ、としか言わなかった。新婚臭いエプロンを見ても、首を傾げるばかりだった。よくよく確かめてみると、アビゲイルはまたも一切の記憶を失っていた。魔剣を操っていたことも、祐介と共に暮らしていた半年間のことも、過去のことも、魔剣が滅ぶと同時に吹き飛んだようだった。
 過去のない空っぽの鎧と化したアビゲイルは、家事のやり方もさっぱり忘れていて、とんちんかんな行動ばかり取っていた。祐介や茜が教えてやれば上手く行くのだが、教えなければ当てずっぽうでとんでもないことをするので、子供も同然だった。けれど、積み重ねていけばなんとかなるもので、三週間もすればアビゲイルは以前のアビゲイルのように勘を取り戻していた。料理の才能も蘇ったらしく、手付きは危なっかしいが味は確かな料理を振る舞ってくれ、茜らとも以前のように仲良くしている。

「あら、ヤンマさん、おはよう」

 アビゲイルはヤンマに気付くと手を止め、ベランダにやってきた。

「おーす」

 ヤンマは上右足を挙げてから、顎を広げた。

「昨日もきっちり可愛がってもらったみたいだな?」
「そうなのよぉ、祐介さんったらもう凄いんだからぁ」

 うふふふふふっ、と悩ましげに身を捩ったアビゲイルを、祐介は小突いた。

「そういうことは話すなってこの前言っただろうが」
「でも、なんだか勿体ないわ」
「朝っぱらから暴露するようなことじゃない。それと、このままだとまた味噌汁が焦げるぞ」

 祐介がガスコンロの上で煮立っている鍋を指すと、アビゲイルは台所に駆け戻った。

「いやぁんっ」
「んじゃな、祐介。色々と頑張れよ」

 ヤンマはにやにやしながら自室のベランダに戻り、待ち受けていた茜と甘ったるい会話を交わしていた。

「言われなくても頑張るさ」

 祐介は小さく呟き、具材が煮えた鍋の中で味噌を溶いているアビゲイルの背を見つめていたが、玄関に視線を投げた。玄関の傘立てには、本数の増えた安っぽいビニール傘に混じって、鞘だけを残した魔剣ストームブリンガーが刺さっていた。その鞘と共に魔剣の破片が付いている柄をアーサーの手を借りて回収したのだが、その後の処分に困り果ててしまった。ただ捨てたのでは、また戻ってくる。だが、このままアビゲイルの手元に置いておくのは危険だ、と関係者全員で考え込んだ。
 そんな時に現れたのが、バイオノイド、多田ショウゴだった。彼にも経緯を一通り話したのだが、まるで信じてもらえなかった。アビゲイルの記憶が吹っ飛んだことだけは信用してもらえたが、聖剣やら魔剣やら何やらは、それ二次元ですか、と一蹴された。ストームブリンガーの柄を捨てる方法を探していると言ったら、多田は自分の仕事先がゴミ処理場で、柄は粗大ゴミだと言った。とにかく危険だから徹底的に処分してくれ、と全員で力説すると、多田は気圧される形でストームブリンガーの柄を引き取った。その後、多田から放射性廃棄物コンテナに混ぜて恒星投棄用ミサイルに載せてやった、との、本当に徹底された報告を受けた。
 鞘だけを手元に残したのは、鞘には魔剣の主を癒す力があるためと、それがなければアビゲイルが活動出来ないからだ。アーサーとエクスカリバーが一つであるように、アビゲイルとストームブリンガーも一つだ。だから、捨てることは出来ない。

「祐介さぁん、準備出来たわよ」

 アビゲイルは味噌汁を入れた汁椀と白飯を盛った茶碗を並べ、食卓に付いた。

「さあ、冷めないうちにどうぞ」
「食べるのは、アビーが先だ」

 祐介はアビゲイルを引き寄せ、そのマスクにキスをした。祐介が離れると、アビゲイルはマスクを押さえて俯いた。

「うふふふふ」

 アビゲイルは顔を上げ、可愛らしく小首を傾げた。

「私、幸せよ」

 表情が見えなくても、アビゲイルの言葉には喜びが滲んでいた。祐介も自然と顔が緩み、訳もなく笑い出したくなった。せっかくの朝食が冷めてしまっては台無しなので、祐介は幸せを噛み締めながら、彼女の作った朝食を食べ始めた。アビゲイルは祐介が食べる様をじっと眺めてくるので、少し気恥ずかしくなったが、それを邪険にするのは惜しかった。愛情の籠もった真摯な視線を注がれながら、祐介は熱い味噌汁と炊き立ての白飯と脂の乗った焼き鮭を味わった。
 少し大変なことがあったが、振り出しに戻ってきた。回り道をしたが、結局、行き着く先は最初から決まっていたのだ。朝起きたら隣に彼女がいて、夜帰ってきたら彼女が待っていて、手を伸ばせば彼女に届く。それが何よりの幸せだ。週末に予定しているデートのことは、まだ話していない。行き先は茜と真夜に相談して決めたが、喜んでくれるかどうか。だが、二人一緒なら、間違いなく楽しいはずだ。アビゲイルは祐介が好きで、祐介もまたアビゲイルが好きなのだから。
 それだけで充分だ。


コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます