859 ◆93FwBoL6s.様

 物の見事に、ドラム缶が両断された。
 刃物のような切り口は熱して赤らんでいたが、すぐに元の色味に戻って滑らかな断面が現れ、上半分と下半分は永久の別れを告げるように前後に転がった。鮮やかにドラム缶を切ったブライトウィングは、普段は宇宙征服を目論む悪の機械生命体軍団、デスロニアンとの戦闘で酷使しているレーザーブレードを下げた。人間大の大きさに変化している彼は、いくらか不可解げな顔ではあったが、ドラム缶の切断を頼んできた広海に向いた。

「これで良かったのか?」
「充分です。それと、切断面を丸くしてもらえるとありがたいんですけど」

 ドラム缶の下半分を転がして立たせてから、広海が切断面を指すと、ブライトウィングはレーザーブレードの出力を調節して刃物のような切断面に撫で付けて丸くしていった。

「了解した」

 アパート裏の狭い庭で行われる二人の作業を見守るのは、203号室に住まう正義の戦士、ブライトウィングの妻である織部綾子と、102号室の掃き出し窓から庭を見下ろしているミチルだった。ブライトウィングは一通り作業を終え、レーザーブレードが接していた面から熱が抜けたことを確かめている。広海はドラム缶の中が汚れていないかどうかを調べてから、黒の油性ペンを取り出して魔法陣を書き加えた。ドラム缶の内側に書かれた魔法陣に広海が魔力を込めると、ドラム缶の底から水が沸き上がり、八分目近くまで溜まった。

「やっぱり魔法って便利ねぇ」

 綾子が感心すると、広海は少々照れた。

「僕が使えるのは基本的なものだけですけど」
「所用があると言うから何かと思ったが、君は一体何をしようと言うのだ?」

 ブライトウィングはレーザーブレードを背面部に収めてから、訝しげに水が溜まったドラム缶を見下ろした。

「ミチルを外に連れ出してやるためには必要なんですが、僕の魔法じゃ作れなくて。ドラム缶を分けて頂いただけでなく、切って頂いて、お手数掛けてすみません」

 ドラム缶に魔法陣を新たに書き加えた広海は、それを浮かばせ、数日前に入手した中古の折り畳み式リヤカーに置いた。

「いいのよ、気にしなくて。メタロニアンの隊員達が貴重な化石燃料を湯水の如く飲むもんだから、ドラム缶なんて基地中にごろごろしてるし、デスロニアンの総統のサルドニュクスが最終決戦の末に異次元宇宙に消え去ってからはデスロニアンの動きも大人しいし、地球は割と平和だしで、訓練と国連との定例会議に出席する以外はブリィは至って暇なんだから」

 綾子が笑うと、ブライトウィングはやりづらそうに口元を曲げた。

「それはそうかもしれないが…」
「で、どこに行くつもり?」

 ミチルが居間に置かれたビニールプールから顔を出すと、広海はリヤカーに乗せたドラム缶を魔法で固定した。

「この近くに川があってさ、桜が咲いているんだ。川の水深も深かったから、ミチルが泳げるんじゃないかって思って」
「あら、いいわね。お花見ね」

 綾子はそう言ってから、ブライトウィングを横目に見やった。

「なんだその目は」

 ブライトウィングが妻に聞き返すと、綾子は顔を背けた。

「いーえ別に」
「去年のことをまだ根に持っているのか、君は」
「いーえ全然。どうせ地球人は、季節変動による植物の繁殖活動に勝手に感情移入する知能レベルの低い種族だものねぇ」
「あ…あれはだな、情緒的な感覚が今一つ認識出来ていなかったからであって」
「だから、今年はオペレーター仲間とだけでお花見に行ってくるわよ。二度とブリィなんて誘わない」
「頼む、そう怒らないでくれ」

 すっかり拗ねた綾子に、ブライトウィングは困り果てている。その姿は地球の平和を守る正義の戦士からは程遠く、広海は変な笑いが浮かんでしまった。微笑ましいと言えば微笑ましいが、綾子の話を聞く限りはブライトウィングに非があるとしか思えない。ブライトウィングはどうしたものかと思考回路を働かせながら綾子の様子を窺っていたが、綾子の前に回ってその両肩を掴み、向き直った。

「では、綾子。私は君に何を与えれば良いのだ」
「そういうのじゃダメ」
「では、一体」

 ブライトウィングが迫ると、綾子はにんまりして夫の額部分の装甲を小突いた。

「今年こそ、新婚旅行のやり直しをさせてもらうわよ。敵が大人しい間に、溜まりに溜まった有休使って思い切り遊んでやるんだから! どう、文句ある?」
「いや、全く」
「それでよろしい。あなたの翼で連れて行ってちょうだい」
「無論、ファーストクラスでな」

 ブライトウィングは軽口を返してから、あ、と広海とミチルに気付き、綾子は照れ笑いした。

「じゃ、そういうことで。またね、広海君、ミチルちゃん」
「では、さらばだ!」

 照れ隠しに敬礼したブライトウィングは、綾子を横抱きにすると急上昇した。そのうちに彼の白い機影が巨大化し、戦闘機に変形すると、暴風と轟音を残して飛び去った。照れるぐらいなら人前でやらなきゃいいのに、と広海は思ったが、口に出すほどのことでもなかったので、リヤカーを引っ張って掃き出し窓の前に移動させた。
 お花見、と聞いてミチルは浮かれた。だが、懸命に表情筋を固めて顔には出さず、全力で興味のないふりをしていた。桜といえば、海で暮らしていた頃は遠目に見るだけだった。広海の地元の海岸沿いには生えていなかったし、生えていても高台にあり、遠くにぼんやりとしか見えなかったが綺麗な花だと思っていた。だから、一度近くで見てみたいと思っていた。しかも、広海に連れて行ってもらえるなんて。嬉しすぎて尾ビレが勝手に動いてしまい、ミチルは両手で尾ビレを押さえた。こんなことではしゃいだら、子供っぽいと思われてしまう。

「ミチル」

 広海は靴を脱いでビニールシートを敷いた居間に上がると、近付いてきた。

「ちょっとごめん」

 袖を捲った広海は濡れることも構わずにミチルを抱えたので、ミチルは驚きすぎて固まった。無論、嬉しいからだ。文句の一つでも言っておかなければ体面が保てない、と考えるが、心臓が暴れて喉が詰まって言葉が出てこない。広海は多少苦労しながらミチルを運び、水を張ったドラム缶の中に入れた。ビニールプールよりも若干冷たく、狭いが、充分エラ呼吸出来るほどの深さがある。意識しすぎて黙り込んだミチルが俯いていると、広海は濡れた腕を拭った。

「やっぱり、魔法で転送した方が良かったかな」

 まさか、あの二人が羨ましくなったから、とは死んでも言えまい。広海は居たたまれなくなってしまい、ミチルの横顔から目を逸らした。まともに抱きかかえたのはこれが初めてで、非力な自分で持ち上げられるかどうか不安だったが、ミチルは予想以上に体重が軽かった。人間とは骨格も違えば筋肉量も違うからなのだろうが、華奢で、繊細で、おまけにやたらといい匂いがした。潮の匂いのようでいて、年頃の女性の悩ましい匂いでもあり、忘れがたい感覚だった。広海はぎこちない足取りで自室に戻ると、戸締まりのために掃き出し窓の鍵を閉め、濡れた服を着替えて外出するための身支度をしつつ、平静を取り戻そうと理性を酷使したが、所詮は十八歳なのでそう上手くいくわけもなく、ミチルの目がないのをいいことに盛大に身悶えた。敷きっぱなしだった布団を相手にしばらくもんどり打ってから、広海は何事もなかったかのような態度を作って玄関から出ると、庭に待たせているミチルの乗ったリヤカーの元に戻ってきた。

「ミチル」
「行くならさっさと行けば?」

 五右衛門風呂のような状態のミチルがあらぬ方向に目を向けていると、広海はショルダーバッグを探った。

「気に入るかどうかは解らないけど、これ、着ていった方がいいんじゃないかな」
「何を?」
「水着。上だけだけど」

 広海が取り出したのは、白地にフリルが付いたタンクトップビキニだった。エラ呼吸への配慮なのか、締め付けの緩いAラインだった。振り向いたミチルが目を丸めると、広海は自信なさげに目を伏せた。もちろん、ミチルは跳ね上がらんばかりに嬉しかった。プレゼントなんて初めてだ。しかもそんなに可愛いものを。だが、素直に喜んでは今までの頑張りが台無しだ。しかし、踏ん張りが効かなくなって頬が緩んできたので、ミチルはどぼんと水中に没して深呼吸して気持ちを落ち着けてから、水から顔を出し、仕方なさそうな顔をして広海の手から水着を引ったくった。

「仕方ないわね」
「良かった、着てくれるんだ」
「このまま外に出たくないだけ」

 ミチルは水着を被り、カップの中に乳房を収めてから、長い髪を引っ張り出して整えた。

「じゃ、行こう」

 広海は満面の笑みを浮かべると、リヤカーを引っ張った。ミチルが受け取ってくれたことだけでも嬉しかったのだが、水着が似合っていることが尚嬉しい。趣味が悪いだの何だのと罵られたら再起不能に陥るところだが。アパートもえぎのの敷地から出た広海は、桜並木のある川沿いを目指して出発した。事前に施しておいた魔法のおかげで、リヤカーに載せたドラム缶とその水の重量は軽くなっていて、広海の腕力でも容易く牽引出来た。擦れ違った人々からは物珍しげな視線を向けられたが、気にならなかった。ミチルも大して気にしていないらしく、進行方向だけを見ていた。
 しばらく歩くと、住宅街の先に柔らかな色彩の固まりが見えてきた。通り掛かる人々の数も増えてきて、彼らは似たような目的で川沿いを目指しているようだった。あまり人の数が多いとミチルが気にするだろう、と判断した広海はちょっと方向を変え、桜並木と花見客が密集している地点から離れるために上流に向かった。桜並木は長々と続いているし、何も人が多い場所でなければ桜が楽しめないわけではない。なので、リヤカーを引っ張る広海は土手の下に添って歩いていったが、陽気がいいのと休日であることも相まって歩けども歩けども花見客が途切れない。今更ながら、都会だなぁと感じ入った。
 それから、広海は小一時間歩いた。道に迷わないように土手の下の道を進み、進み、進んだが、人間が途切れた頃には桜並木も途切れてしまった。土手の上までリヤカーを引っ張り上げた広海は、リヤカーのスタンドを立たせてから、その場に座り込んで汗を拭った。魔法で軽くしてあるとはいえ、重量はちゃんとある。それを小一時間も引っ張ってしまうと、ろくに体を鍛えていない広海では疲れて当然だ。道中にあった自動販売機で買った缶ジュースを開け、喉を鳴らして飲み干した広海は、遙か彼方で花見客に囲まれている桜並木を見つめた。


「なんか、ごめん」
「何が」
「あんなに人がいるとは思わなくて」

 広海は胡座を掻き、情けなく背を丸めた。ミチルはドラム缶から上半身を乗り出し、桜並木に目を凝らした。

「ていうか、誰もろくに桜なんて見てないじゃない。酒を飲んで騒いでいるだけ」
「まあ、大抵のお花見がそんなもんだから。特に、いい歳した大人は」
「だったら、なんでお花見なんて言うの? ただの宴会なのに」
「僕に理由を聞かれても困るんだけど」

 広海は語尾を濁し、苦笑いした。ミチルはあれだけ嬉しかった気持ちが萎み、ドラム缶の中に潜った。せっかく桜を広海と一緒にゆっくり眺められると思っていたのに。なんだか悔しくなったが、こればかりは広海に文句を言ってもどうにかなるものでもないし、文句を付けてはさすがに可哀想なので、ミチルは口とエラから泡を零して眉根を顰めた。広海も落胆していたが、幅広の川を見下ろした。

「桜が近くで見られないのは残念だけど、ちょっと泳いでいったら?」
「そうね」

 ミチルは上半身を出し、川面を見下ろした。海に比べれば底も浅ければ水も濁りがちではあったが、泳げないほどの水質ではなさそうだ。それじゃ、と広海は空き缶を上着のポケットに押し込み、立ち上がってリヤカーを再び引っ張った。河川敷に下りる坂を下りて川に近付き、リヤカーが止まると、ミチルは下半身で力強くドラム缶の底を蹴り付けて跳躍し、細身の肢体を宙に躍らせた。美しい弧を描いて川面に飛び込んだミチルはたっぷりと解放感を味わってから、川から顔を出して広海を見上げた。すると、前髪に桜の花びらが一枚付着したので、ミチルは上流に目を向けた。

「あっちにも生えているのかしら、桜」
「行ってみる?」
「泳ぐついでにね」

 ミチルはまた水中に身を没し、尾ビレで力一杯水を叩いた。広海はリヤカーを引いてミチルを追い掛けようとしたが、人魚の遊泳速度には到底敵うはずもなく、ミチルの後ろ姿はあっという間に上流に向かっていった。間隔は広がる一方で、途中から広海はミチルに並ぶことを諦めて歩調を緩めた。自由に水中を泳ぎ回るミチルの肢体は、海の宝石と称される種族に相応しい美しさだった。上流へと進んでいくと、桜並木として盛る木々よりも若く細い桜が一本だけ生えていた。水中から顔を出したミチルは、川面へ精一杯枝を伸ばす細い桜を見上げ、遅れてやってきた広海も桜の若木を見つけた。

「植樹されてから、まだそんなに時間が経っていないんだ」
「でも、花は咲くのね」
「そりゃ、桜だからね」

 広海はリヤカーを止め、幼さすらある若木越しにミチルを見下ろした。桜に見入るミチルはどこか表情が緩んでいたので、広海まで釣られてしまった。春の空気は柔らかく、明るい日差しに照らされるミチルは薄暗い居間で見るよりも格段に美しかった。もちろん、室内でも美貌に陰りはないのだが、狭苦しいビニールプールや浴槽で縮めている肢体や長い髪が解放されているからか面差しも清々しげだった。それを感じてしまうと、広海はまた罪悪感が湧いてきた。

「ねえ、ミチル」
「何よ」

 ミチルが素っ気なく答えると、広海はリヤカーに座って川面を見渡した。

「今度、釣りに行こうか」
「それは海?」
「そう、海。僕が先に電車で移動して、その場にミチルを転送する。それなら君も疲れないだろ?」
「考えておいてあげる」
「うん。僕もよく考えるよ、いつ頃にどこに行けばいいのかとか」
「せいぜい大物を釣ることね」

 ミチルは身を翻し、泳ぎ出した。決して深くない川底を目指して潜ると、広海の影は遠のいた。嬉しいことが続きすぎて、目眩がしてしまいそうだ。こうして一緒に出掛けられただけでも顔の緩みが収まらないのに、釣りに出掛けようだなんて、それはれっきとしたデートだ。間違いなくデートだ。ミチルは緩みすぎてだらしない顔を両手で押さえ、その場でぐるぐると意味もなく回転した。予定を返上されないようにあんまりつんけんしないようにしよう、と胸に誓ったが、だけど下手にはしゃいだら頭が軽いって思われるんじゃ、と悩み、ミチルは次第に浮力を失って柔らかな泥が堆積した川底に沈んだ。
 悩みに悩んだ末に出した結論は、態度を変えないことだった。


 調子に乗りすぎたんだろうか。
 花見を兼ねた散歩から帰宅してから、ミチルは急に機嫌が悪くなった。水を入れ替えたビニールプールに戻してからというもの、広海に目もくれず口も利いてくれない。ドラム缶がいけなかったんだろうか、それともリヤカーが気に食わなかったのか、でなければ桜が物足りなかっただろうか、やっぱり水着が悪かったのか、と広海は大いに悩んだが、彼女が機嫌を損ねた理由がさっぱり掴めないまま、夜を迎えた。アビゲイルにばかり頼るのは気が引けるので、自炊するようになった広海は、慣れない手付きで料理をしながらも考え込んだせいで手元が狂い、包丁で指先を切ってしまった。
 痛い、と言いかけて飲み込んだ広海は、テレビ台の傍に置いてある箱から絆創膏を出すためにビニールプールの前を横切ろうとしたところ、冷たい手に左手を掴まれた。振り向くと、ミチルが不機嫌極まりない顔で広海を見上げてきた。

「な、何?」

 広海が恐る恐る尋ねると、ミチルは広海の切り傷が付いた人差し指を銜えてきた。途端に広海は痛みなど吹き飛び、頭に血が昇った。広海の人差し指を舐める舌は人間のものよりもざらつきが少なく、さらさらとした唾液が指の根本から手のひらに伝い、痛いほど握り締められた手首は棒でもねじ込まれたかのように固まってしまった。広海は何がどうしてこうなったのか全く解らなかったが、間を置いて理解した。そういえば、人魚は肉食だったが、なぜ、こんな唐突に。
 ミチルの舌がするりと動き、指全体を舐め上げてきた。人間のそれと変わらない唇の感触は柔らかいが、肌に触れる歯はいずれも尖っている。ミチルが顎に力を入れれば、広海の指など一息で噛み千切られるだろう。だが、恐怖よりも扇情が勝り、広海の脳裏に卑猥な想像が駆け巡った。相手が好きな女性では、考えるなという方が無理な話だ。
 広海の血と肌の味を味わいながら、ミチルは心底後悔し、そして心底高揚していた。不機嫌な態度を作って誤魔化していたが、広海に近付かれたら我慢出来なくなった。抱きかかえられた時に感じたのと同じ体温を舌と口で吸い取りながら、ミチルはエラから吸った水を緩く吐き出した。表情を見られまいと床を見つめるが、どこまで堪えられるものだろうか。
 自由の利く親指を曲げた広海は、ミチルの唇の端に触れた。すると、水面が僅かに波打ち、ミチルが身動いだのが解った。呼吸が速まったことを悟られまいと息を詰めながら、広海はミチルの唇をなぞった。残りの三本の指も曲げて顎を包んでから、人間とは機能が異なる喉を撫でた。どこもかしこも柔らかい。なぜか、ミチルが抗う様子はなかった。試しに喉から顎にかけて撫で上げても、ミチルは動かない。それを知った途端、広海の内で何かが弾けた。

「んっ」

 いきなり指を引き抜かれてミチルが小さく声を漏らすと、肩を押さえられ、頭上が陰った。重たい水飛沫が上がると、広海の体が上に乗っていた。広海の足によってビニールプールが歪み、二人分の体積によって水が溢れ出していた。
 川の水の味がした。ミチルの唇を塞ぎながら、広海は彼女の肩から背に手を移動させた。体の下ではミチルが硬直したままで、尾ビレの先さえも動いていない。冷たい水を吸った服が重たく、メガネは水滴に濡れて見通しが利かなくなったが、体は隅々まで熱かった。帰宅してからも脱いでいなかった水着の上から乳房を胸で押し潰すと、彼女は苦しげに喘いだ。
 その喘ぎが止まると、広海の首筋に痛みが走った。首筋の肌を切り裂いた爪が頬に及び、肉に食い込んできたので、広海はミチルを離して身を起こした。後頭部に回されていたミチルの手が外れて水中に落ちると、左手の爪に染み込んだ鮮血が水に溶けて薄らいだ。火に掛けたままだった鍋が吹きこぼれかけているのか、蓋が暴れていた。

「…ごめん」

 その他に言うことがあるだろうか。広海は袖や裾から水を絞ってビニールプールから出ると、濡れた服を着替えようと滴を落としながら寝室に入った。首筋に刻まれた爪痕は新しいが、肌を裂かれた感触は覚えていない。ミチルを貪るのに夢中になっていたからだ。甘えられたわけでもなければ、好意を示されたわけでもなく、ただ血を舐められただけなのに、あんなことをしてしまうとは。傍にいるだけで充分ではなかったのか。片思いで満足しているのではなかったのか。
 変化がないのは、それだけ安定した関係の証拠だと考えていた。ミチルにきつい態度を取られるのには慣れているし、嫌われていると思っているし、無理に好かれようとは思わない。心のどこかに、微妙な均衡を保てる自信を持っていた。だが、そんなのは夢にも劣る幻想だったらしい。広海は見た目こそ男臭くないが、やはり男なのだ。だから、彼女から触れられたら抑えが効かなくなった。陸にいるのをいいことに、いつか組み伏せてしまうかもしれない。人間を受け入れるための機能が充分ではない彼女を力任せに貫いてしまうかもしれない。そうなる前に、主従関係は解除しなければ。
 これ以上、傷付けないために。


 この爪が、この手が、この体が憎らしい。
 そんなつもりじゃなかった。傷付けるつもりなんてなかった。同じことを返そうとしただけなのに、この手に生える爪が勝手に彼の肌を裂いてしまった。貝や甲殻類を容易く切り裂けるほどの硬度を持った人魚の爪には、人間の肌など紙よりも薄い。取り返しの付かないことをした。もう嫌だ。何もかもが嫌だ。
 淡水よりもいくらか塩辛い涙が水に溶け、歪めた口の隙間から入り込み、懐かしい潮の味を舌に広げた。だが、今はそれすらも疎ましい。ミチルは少しだけ水深が浅くなったビニールプールで身を丸め、声を殺して泣いていた。左手の爪の中にこびり付いた広海の血は、どれだけ擦ろうとも取れなかった。謝りたいが、どうやって謝ればいいのだろう。広海はいい加減な夕食を摂ったきり、寝室から出てこないし、あまり物音も聞こえない。勉強しているのだろうが、それにしても静かすぎる。本気で怒らせてしまったに違いない。

「もう、どうしたらいいの…?」

 好きだと言えたら。愛していると叫べたら。だが、その瞬間に泡となる。泡にならずに生き延びられる方法を探したいが、陸上歩行出来ないのでは行動すら不可能だ。ビニールプールに身を収め、広海の牽くリヤカーで運ばれるのが精一杯だ。このままでは、きっと彼を不幸にする。強引すぎる方法で傍に来たはいいが、そこから先のことを何も考えていなかった。
 アビゲイルが、ブライトウィングが、他の面々が羨ましすぎて妬ましい。彼らも人ではないのに、自由に思い人と愛し合っている。嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。ミチルは嵐の海よりも激しく荒れ狂う感情を抑えるために歯を食い縛り、目を閉じた。
 それでも尚、涙は溢れた。


管理人/副管理人のみ編集できます