859 ◆93FwBoL6s.様

 夢ではない証が、全身に染み付いていた。
 体温の抜けた精液が産卵管の奥底に溜まり、互いの体液が混じり合ったものがウロコに付着していた。ビニールプールに張った水に身を沈めているミチルは、火照りが抜けなかったせいで寝付けず、ぼんやりと天井を仰いでいた。カーテンの隙間から差し込んだ朝日が埃っぽい空気を輝かせ、ほのかに水を温めていた。その温もりは広海の体温とは程遠いが心地良く、ミチルはごぼりとエラから水を吐き出しながら感じ入った。
 上体を起こすと、髪と肌から水が滴った。不自然な姿勢で力んでいたせいか、背中や腰だけでなく尾ビレも筋肉が重たかったが嫌ではなかった。改めて広海と交わったのだという実感が湧き、今度は恥ずかしくなる。胸元や首筋に散る赤い痕は広海が押し殺していた情欲の強さを思い知らせるようで、そこまで欲情されていたというのは嬉しいやら照れるやらだ。広海の寝室である六畳間から物音は聞こえず、広海はまだ目を覚ましていないようだった。なんだか寂しくなったミチルは、水を零さないようにしながらビニールプールから這い出し、畳を濡らさないためにカーテンレールのハンガーに引っ掛かっていたタオルで体全体を丁寧に拭いてから、襖を開けてみた。薄暗く狭い部屋では、広海が布団を被って熟睡していた。ミチルは彼を起こさないように気を付けながら、襖の隙間から体を滑り込ませ、ざらついた畳を這って広海に寄り添った。
 不意にめくれかけた掛け布団の下から手が伸び、ミチルを引っ張り込んだ。思い掛けないことにぎょっとしたミチルが身を固くすると、メガネを掛けていないせいでやけに目付きの悪い広海がミチルを抱き締めてきた。

「ミチル、泡になってないよね? それが心配で、良く寝付けなかった」
「だったら、確かめてみればいいじゃない」

 心配された嬉しさで胸が詰まりながらミチルが呟くと、広海はミチルの湿り気の残る下半身に手を滑らせた。昨夜と違って間に水が入っていないために直接肌に触れる手の温かさに、ミチルは甘ったるい余韻が蘇って背筋がざわめいた。広海の体に腕を回して抱き締め返すと、初めての性交に夢中だった時には解らなかった骨格の太さが腕に伝わってきた。触れ合うだけの浅いキスを交わしていると、広海の乾いた指がミチルの潤った産卵管に差し込まれ、内壁に付着している混じり合った体液と少し固まりかけた精液を掻き回した。

「く…ぅ、あっ…」

 ミチルが懸命に声を殺そうと広海の肩に顔を埋めると、広海はミチルの内から指を抜いて顔をしかめた。

「やっぱり、ちゃんとしないとダメだね」
「なに、がぁ?」

 呼吸を速めながらミチルが問うと、広海は再度深く指を入れ、白濁した固まりをミチルの内から掻き出した。

「ほら、これ。ミチルは僕のじゃ受精しないだろうけど、でも、中に入れっぱなしになるのは良くないから」
「広海の、出しちゃうの?」
「人間相手でもまずいけど、人間じゃないミチルにはもっとまずいだろ。だから、今度からはちゃんと準備するよ」
「私は、別に」 

 ミチルは広海を抱く腕に力を込め、頬を染めた。中に注がれた方が、彼に染められるようでいいのだが。

「あ…でも、これは僕がやらない方がいいかな」

 広海は精液の固まりを掻き出した指を枕元のティッシュペーパーで拭いながら言うと、ミチルは首を横に振った。自分でやるよりも、やられた方が余程良い。広海は赤面し、朝っぱらからやることじゃないような、とも思ったが、ミチルの頼みを無下にするのはよくないと自分に言い訳して再び彼女の内に指を入れ、たっぷりと注ぎ込んだ精液を出来る限り丁寧に掻き出した。潤いが残る陰部をぐちゅぐちゅと掻き回され、最深部ではないが奥まった部分を指の腹で強くなぞられたミチルは、寝起きとは異なる意味で目を潤ませて広海に縋り、尾ビレで布団を叩いた。

「ひぁっ、あっ、んあっ…あぁっ!」

 びくんとミチルが痙攣し、腕の中で脱力すると、広海はおのずと股間が反応した。昨夜、あれだけ酷使したにも関わらず、寝て起きたら元に戻っているのは若さの成せる業か。ミチルは達した余韻で浅く速い呼吸を繰り返し、広海に噛み付くようにキスをした。広海はミチルに応えつつ、寝間着と下着を下げて硬く充血した性器を押し付けた。

「そんなに強くはしないし、出す前に抜くから」
「うん…解った」

 ミチルはしおらしく頷き、力を抜いた。広海は彼女の変わりように支配者じみた優越感を覚えてしまい、自分の欲望の罪深さをつくづく思い知った。好きだなんだのと言う以前に、美しい人魚を手に入れたかっただけなのかもしれない。それもまた恋の一端かもしれないが、あまり真っ当ではない。広海はミチルの少し冷たい内側に熱く膨れた異物を浸入させながら、ミチルを優しく抱き締めた。

「ミチル」
「ん、なあに、広海ぃ」

 ミチルは息を弾ませ、広海と至近距離で見つめ合った。ぼやけた視界の中のミチルを見据え、広海は自嘲した。

「僕は最低だ」
「んっ…ぁあっ!」

 ぐい、とミチルの奥深くを突いた広海は、ミチルの乱れた長い髪に指を通した。

「もっと早くに好きだって言っておけば、こんなにひどいこと、しなくて済んだだろうに」

 もう一度深く突くと、ミチルの肢体は跳ねた。

「くあぅっ!」

 ミチルが喉を仰け反らせると、広海はミチルを離すまいと細い腰を引き寄せ、緩やかに打ち付けた。

「だって、君は人魚だ。魚人族の亜種で、本を正せばれっきとした魚だ。繁殖方法は海中に産んだ卵に精子を掛けて受精させるわけだから、本当はこんなことはしない。なのに、僕がしたいからってだけで…」
「しないけど、し、したかったのぉ、広海とじゃなきゃ、こんなことしない、したくない!」

 ミチルは広海に離されまいと、その腰をぐっと抱き寄せた。

「だから、そんなこと言わないでぇっ!」
「でも、もう、そろそろ」

 込み上がってきた熱い固まりに気付いた広海がミチルの内から抜くと、ミチルはすかさず体を折って布団の中に潜り込み、口を開いて銜え込んだ。広海が慌てて布団を剥ぎ取るが、ミチルは広海の性器を懸命に吸っていた。人間よりも薄く冷たい舌がぎこちなく動き、硬い歯の先端が皮に触れ、宝石の粒のような雫が付いた髪を垂らした頭が上下する。広海はミチルを引き剥がそうとしたが、とうとう出来ず、ミチルの口中に迸らせた。

「…無理しないでよ」

 息を上げながら広海が漏らすと、ミチルは生臭さと苦みに眉根を歪めながら嚥下し、ぬるついた口元を拭った。

「中に出してくれないんだったら、こうすればいいだけよ」
「全く、もう」

 広海はミチルの強引さに呆れかけたが、ミチルは身を起こし、小さく咳き込んだ。

「それだけ好きってことなんだから、つまんないこと気にしないでくれる? 癪に障るから」
「解ったよ」

 広海は下着と寝間着を引っ張り上げてから、ミチルを後ろから抱き寄せた。

「解ればいいの」

 ミチルは広海に覆い被さられながら、水着の胸元を握り締めた。口中にはまともに飲んだ精液の味が濃く残り、喉には熱い固まりを飲み下した違和感が残っていたが、幸福感で涙が出そうだった。寝付くに寝付けなかったせいで何度となく見た虚ろな夢の中では、ミチルは泡と化して海に溶けた。その度に目を覚まし、精液の温もりと広海が付けた肌の痕を確かめずにはいられなかった。広海に髪や頬を撫でられながら、ミチルは頬を緩めた。
 彼の腕の中は、春の海のように温かかった。


 見慣れない道具が、縁側にずらりと並んでいた。
 爪ヤスリ、ヘアブラシ、コンコルド、シュシュ、ヘアピンだと稲田ほづみは説明してくれたが、どれがどれなのかもミチルには把握出来なかった。だが、持ってきてくれるように頼んだのは自分なので、まずはどれが何なのか見分けを付けることから始めることにした。ほづみから教えてもらった名前とその物を一致させるのは苦労したが、なんとか覚えられた。ミチルは銀色に輝く金属製の爪ヤスリを取り、眺めていると、ほづみはミチルの手を取った。

「これはね、こうやるの」
「…うっ」

 ざらついた金属板に爪先をごりごりと擦られる違和感にミチルが呻くと、ほづみは笑った。

「大丈夫大丈夫、すぐに慣れるから」
「でも、なんか、指まで削れちゃいそうな気がして」

 ミチルが怖々と目を上げると、ほづみはミチルの硬い爪先を丹念に擦って滑らかにした。

「そんなことないって。ほら、もうちょっとで仕上がるから」

 仕上げの細かいヤスリで擦ってから、はい出来上がり、とほづみに手を解放され、ミチルは指先を見つめた。憎らしかった爪が丸くなり、刃物じみた鋭さも取れて鈍角になっている。ほづみは、爪ヤスリをミチルに渡した。

「じゃ、次からは自分でやってみてね。やり方は今の通りだから」
「人間って凄い道具を使うんですね」
「こんなのは大したことないって。もっと凄いのがあるけど、それはまた今度ね。一度じゃ覚えきれないし」

 ほづみはミチルの藍色の長い髪にヘアブラシを通していたが、爪ヤスリを凝視するミチルの横顔を覗き込んだ。

「だーけど、微笑ましいったらないわねー。綺麗にしたいから教えてくれ、だなんて」
「何もしないままでいるのは、なんだか広海に悪い気がして」
「解るわー、その気持ち」
 ほづみはミチルの長い髪を一掴みにしてまとめると、くるくると捻ってまとめてからコンコルドで留めた。

「ただ着飾るのも楽しいけど、見せる相手がいると張り合いが出るもんだしね」
「ほづみさんの相手って、確か、茜の友達の」

 あの調子の良いトンボの、とミチルが付け加えると、ほづみは明るく笑った。

「そうそう、アレよ、アレ。ちょいと頭は軽いけど本当に馬鹿ってわけじゃないし、結構良い奴だから、ミッチーも気が向いたら付き合ってあげてね。もちろん、優先順位は広海君が上だろうけど」
「考えておきます。それと、結局、ミッチーで決定なんですか?」
「呼びやすいに越したことはないし、その方が親しみがあっていいじゃない」

 ほづみはミチルの髪からコンコルドを外し、お団子にしてから太いヘアピンを差し込んで固定した。

「こんなんでどうかしら」

 ほづみはミチルの後頭部に鏡を翳し、ミチルに手鏡を手渡した。ミチルは合わせ鏡に映った自分の髪型を見、まじまじと眺めてから、ほづみに振り返った。

「あなたは魔法使いですか」
「まさか。こんなこと出来る人間なんていくらでもいるって」

 ほづみはシュシュを広げ、お団子の根本に柔らかく填めた。

「この道具は使い古しだし、処分するよりいいからミッチーに譲るわ。練習しないと出来るものも出来ないし」
「そんなのって」

 いいんですか、と言いかけたミチルに、ほづみはにんまりした。

「綺麗な歌を聴かせてくれた御礼よ。人魚の歌なんて、そう滅多に聞けるもんじゃないでしょ?」
「ありがとうございます、ほづみさん」

 ミチルが頭を下げると、ほづみは妹を見るような眼差しで目を細めた。

「これからも色々とあるだろうけど、頑張りなよ。私や茜ちゃんや祐介君は逆の立場だけど、苦労は変わらないから」
「はい!」

 ミチルは顔を上げ、頷いた。

「私さぁ、彼氏にトンボを選ぶなんてこれっぽっちも考えたことがなかったんだよね」

 ほづみはミチルの前髪を分けて整えてやりながら、穏やかに述べた。

「世の中、そこら中に変なのが生きているけど、相手にするはずがないって思っていたのよね。偏見があったわけじゃないけど、縁がなかったのよ。シオの前に付き合ったのは全部人間だったし、友達も人間ばっかりで、人外と付き合う機会なんてなかったんだわ。でも、いざ付き合ってみると、ただの人間よりも何十倍も面白いんだわ、これが。人生を損してた気がするわ」
「広海もそう思ってくれているんでしょうか」
「そうかもしれないけど、まあ、人それぞれだからね」

 それはそれとして、とほづみは声を潜めてミチルに顔を寄せた。

「今度からはもうちょっと大人しく励んでね? でないと、色々と気まずいから」
「え、あ、あっ!?」

 間を置いてその意味に気付いたミチルが固まると、ほづみは身を引いた。

「とにかく壁が薄いのよ、ここ。私らも他人事じゃないけど」
「広海にも、そう言っておきます…」

 赤面しすぎて茹だったミチルは俯き、ビニールプールに映る自分と向き合った。髪を上げたのは初めてで、普段は髪に隠れている両側頭部のヒレの根本や首筋も露わになっていて、ちょっと恥ずかしかったが、広海に見てもらいたくなった。ミチルはほづみから慰めとも冷やかしとも付かない言葉を掛けられ、受け答えながら、少しだけだが自信が持てるようになった。華やかなラインストーンが付いたコンコルドは、広海と主従の契約を交わしたために十五歳の成人の儀式をしないままだったミチルに与えられた、成人の証のように思えた。
 隣家の庭に咲く散り際の桜が、また一枚、花びらを落とした。


 二度目の釣りも大漁だった。
 広海は桟橋から釣り糸を垂らしつつ、適当に見繕ってきた昼食を摂っていた。桟橋に腰掛けているミチルは、自分で捕まえてきた生魚に喰らい付いている。骨の一本もヒレの一枚も残さずに食べるので、無駄がない。大型連休を終えた次の週末だからか、釣り人はまばらだった。それもまた、釣果が冴えている理由なのだろう。
 ミチルの後頭部には人魚の遊泳速度で泳いでも崩れないほど見事に丸められたお団子の髪が載っていて、水着に合わせたヘアピンが刺さっている。もちろん、海水でも錆びないように魔法で処理済みだ。一線を越えてからすぐ、103号室の住人である稲田ほづみから髪の結い方を教わったミチルは、髪を上げるようになった。充分似合っているし、美しく豊かな髪が汚れないで済むのでいいことだと思うのだが、その理由が解らなかった。

「ねえ、ミチル」

 広海はペットボトルのお茶で喉を潤してから、手前に座るミチルに問い掛けた。

「なんで、髪の毛いじるようになったの?」
「これだけ伸びたのに切るのは勿体ないでしょ」
「そりゃ、まあ。でも、それだけじゃないような気がするんだけど」
「だったら、当ててみたら?」

 振り向いたミチルは、血に汚れて紅を差したような唇を舌先で舐めた。その勝ち気な表情と仕草に、広海はぎくりとした。それ以上見てしまったら妙な気持ちになりそうなので、目を逸らしながら広海は懸命に考えた。たっぷり間を置いてから、やっと感付いた。人魚姫の童話に登場する人魚姫の姉達は、髪を切って魔女に渡し、王子を殺す短剣を手に入れた。それは、姉達が己の純潔を捨ててまでも人魚姫に現実を知らしめる暗喩だとされているが、現実の人魚族でもそれほど遠い意味ではないと大学の図書館で読んだ研究書に書いてあった。

「髪が短い人魚は既婚だ、ってやつ?」

 広海はそう言ってから、がたっと折り畳み椅子を揺らした。

「え、ええ!?」
「意味が解ったんなら、責任取ってよね。どうせ、私は海には戻らないつもりだし」
「切ってないってことは、ああつまりそうか、ちゃんと結婚したら髪を切るってこと?」
「そうに決まってんでしょ」
「ちょっと待って、うん、ちょっとだけ待ってね」

 広海はミチルの潔さに少しだけ臆したが、気を取り直した途端、何かが弾けた。

「ああもう好きだ大好きだぁああああっ!」
「ちょっ…!」

 ミチルは目を剥いたが、広海に飛び掛かられて桟橋から海に落下した。どばぁん、と荒々しい水柱が上がり、広海が垂らしていた釣り糸は吹き飛んで大量の水飛沫が散った。細かな泡に包まれながら浮かび上がったミチルを、広海は力一杯抱き締めてきた。

「馬鹿」

 ミチルが照れてそっぽを向くと、広海はフロートジャケットのおかげで浮きながら苦笑した。

「あー、そうかも…。帰りのこと、考えてなかった」
「でも、言ったからね! ちゃんと言ったからね! だから、責任取らなきゃ許さないんだから!」
「はいはい」

 広海は頑なに顔を見せようとしない彼女の腰と肩に手を回し、笑った。

「僕なんかで良かったら、いくらでも」

 海の中にも、陸の上にも、王子様なんていやしない。いるとすれば、何があろうとも傍にいてくれる相手だけだ。その相手を見つけることは出来ても、結ばれることはそう簡単ではない。だから、童話の住人となった人魚姫は海に身を投げて泡に戻ってしまった。だが、世界は変わり、海と陸の隔たりは薄くなりつつある。広海とミチルはその狭間で揺らぎ、迷い、悩んだが、嵐が過ぎてしまえば凪いだ海が待っているものだ。
 そして、宝箱のような結末も。


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