5-456様

季節は秋、天気は曇り。

ざざあん、ざざあん。
波音が一定のリズムで響く海岸に、クロマツが並んでいた。
涼しさを匂わせる砂浜には夏のような喧騒など欠片もなく、海から来る湿った潮風が、クロマツ達を微かに振るわせていた。
そこにある一人の少女がやってきた。近くの中学校の制服を着た少女はひととおりクロマツ達を見回すと、その中のある一本に近づいた。
この海岸沿いのクロマツ達の中でも一際立派な物だ。
そのマツの隣まで来ると、少女はおもむろに声を発した。

「今日は何してた?」

もちろん独り言では無い。だがこの砂浜には少女以外には誰もいない。
波の音が少し響いて、どこからともなく声がした。

「波の音を数えてたかなあ」

どっしりと響くような声。
「そっかあ。何回まで数えた?」
少女は特に不思議がる様子もなく続ける。

「お前が来たからわからなくなった」
ややぶっきらぼうに声は答える。
「そっかあ。そりゃあお邪魔しました」
少女は悪びれる様子もなくそう言いながらクロマツの根元に腰掛け、幹にもたれた。
「今日は少し早いんだな」
「学校が早く終わったからね。今日は部活もないし」
「ふーん」
そう声がしたあと、クロマツの枝がざわざわと揺れた。まるで少女をくすぐったく思うように。
「ねえ、クロマツ」
「何」
「呼んでみただけ」
学校が終わったら、この海岸でクロマツと過ごす。
それが彼女の日常だった。

「全くお前もよく飽きないよなあ」
「何が」
「よくこう毎日来るよなって」
「毎日じゃないよ。週5回位だよ」

少女はクロマツの事が好きだった。ただ純粋に好きだった。

自分の暇つぶしに付き合ってくれたりだとか、愚痴をぶちまけたい時には何も言わずに聞いてくれたりだとか、そういう所も好きだけど、それは本当の理由ではなかった。

ただ、守られてる気がしたのだ。

親と喧嘩して家出をした時、
先生に怒られた時、
好きだった男の子が他のクラスの女の子と付き合っていると知った時、
少女はこのクロマツのそばで泣いたものだった。
「友達が居ないんだな」
「そんな事ないよ」
「そうか」
「うん」
こんな会話を繰り返すだけで、心が安らいだ。
その太い幹に体を預けるだけで、不安がどこかに飛んでいった。
少女はクロマツの事が好きだった。

十年前の夏。
少女は両親と共にこの砂浜に遊びに来ていた。
初めて来た砂浜。青く光る海。何もかもが幼い少女には輝いて見えた。しかしはしゃぎすぎたのか、少女の視界はやがてぐらぐらと回り始め、ついにはその場に倒れ込んでしまった。

朦朧とする意識の中、両親が名を呼ぶ声がする。
やがて父の腕に抱き起こされ、視界が移動する。
そして…ついた先にはあのクロマツがあった。
あやふやな意識の中、少女が“大きい木だな”とそう思った瞬間だった。
「あーあ何やってんだか」
突如、聞いたことのない声が少女に降り注いだ。
「なあんも被らんであんだけ走り回るから」
それも父や周りの人間といった‘横’ではなく、遥か‘上’から。
「へえ、今度はちょっと似てるな、“アイツ”に」
明らかに、目の前の木が、喋っていた。
「木が喋ってる…」
そう呟いて、少女は意識を失った。


「ねえクロマツ」
「今度はなんだ」
「どうしてお前だけ喋るんだろうね」
少女は足元の土を石でほじくり返している。
「喋るのおれだけか」
「お前だけだよ。他のクロマツは喋らないよ」
「そうか」
「うん」

そう言って二人はしばらく黙った。幾度目かの波音の後、沈黙を破ったのはクロマツの方だった。
「おれも一個聞いていいか」
「何」
「そんならさ」
「うん」
「何でお前にだけおれの声が聞こえるんだ」
土をほじくり返す少女の手が止まった。
「…えー」
少女が困った顔で俯く。
「そんなの」
「うん」
「わかんない」
「じゃあおれもわからん」
「あっ何その答え方!ずるい!」
「ずるくない」
「ずるい!」
「ずるくない」
「ずーるーい!」
「ずるくないったらずるくない」
結局、どちらの答えも出なかった。少女は納得がいかないという顔で石を砂浜に放った。二人の間を、再び波音が包んだ。

「そろそろ帰った方が良いんじゃないのか」
気がつくと、周りの景色が青に染まり始めていた。曇りの日には、夕焼けなどというロマンチックな時間はない。
「えー」
少女は渋って周りを見回す。
「まだ良いよ」
「そんな事言ってたらあっという間に真っ暗になるぞ」
クロマツがそう言った直後、少し離れたところにある電灯がチカチカと音を立てる。秋の太陽は、夏ほど待ってはくれない。
「ほら向こうの電灯も帰れって言ってるぞ」
少女は何も言わない。帰りたくないのだろうか。
「…ねえ」
「何だ」
少女は何かいいたげな表情でクロマツを見上げた。クロマツは少女の言葉の続きを待った。
「やっぱり何でもない」
「なんだそりゃ」
「忘れて」
少女はそう言うと立ち上がってスカートをはたいた。
「それじゃ」
少女は振り向いて歩き始める。
「なあ」
足音が少し小さくなった所で、クロマツは少女を呼び止めた。
「明日も来るか」
クロマツが聞くと、少女はゆっくりと振り向いた。逆光で表情がわからないが、クロマツには笑っているように見えた。
少女は答えずに行ってしまった。
砂浜には、波音とクロマツと、古い電灯の光だけが残った。

翌日は雨だった。少女は来なかった。


その翌日は、また曇りだった。空気は湿気に満ち溢れ、雨が今にも降り出しそうだった。
クロマツは今日もいつも通り。ただそこに立って、波の音を数えているだけだった。
ただ、いつもと違うのは、普段より少し余計に少女の事が気になるという事だ。二十か、三十位数えたところで少女の事を思い出し、またそれからしばらくして、一、二と数え始めるのだった。
そして、これで何度目だろうか。クロマツがまた波音を数え直そうとした時、背後から、じゃり、と土と砂の混ざり合った地面がかすかに鳴った。
「あ…お前」
そこに立っていたのは少女だった。
いつもなら楽しそうににやついて数えるのを邪魔して来るのに、今そこに立っている少女は浮かない顔をしている。
「今日もちょっと早いな。部活が無かったのか?」
「…ん」
少女は低い声で答える。
「お前傘持ってるか?今日は降りそうだぞ」
「…んん」
「…さっきからどうしたお前。どっか痛いのか」
少女は答えず、いつものようにクロマツの隣に来ると、目の前の海を見つめた。
「…あのね」
「うん」
少しおいて、静かな声で。

「わたしね、もうあんたに、会えなくなっちゃった」

少女は、言った。

強い風が吹いて、クロマツがざわりと揺れた。砂浜に波の音が一際大きくはじけた。
「わたしんちね、クロマツには言わなかったけど、ていうか言ってもどうにもならないから言わなかったんだけど」
少女は続ける。
「この間、お父さんの仕事、転勤が決まって」
少女は続ける。
「それで、もう引っ越すって、学校も転校するって」
少女は続ける。絞り出すような、震えた声で。
「それで、」
クロマツの葉に冷たいものが当たった。小さな雨粒が、ぽつりと落ちてきた。
クロマツに落ちてきたのは雨粒だけでは無かった。クロマツの幹に、少女が抱きついて顔をうずめていた。
「どう、しようっ…わた、わたしっ…何処にもっ行きたくないっ…!友達にもっ…クロマツにも…会えなくなんの…やだよぉっ!」
少女の細い肩が震えている。
クロマツは何も言わずに、いや、何も言えずに少女を支えていた。
「…ふっ…うっ…うあぁああああっ…」
砂浜に、少女の高い泣き声が響く。
クロマツの葉を打つ雨は少し強さを増していた。

クロマツは少女の泣く声と、波音と、雨音に包まれ、灰色のよどんだ空を見上げた。
「…よーし、お前が泣き止むために楽しい昔話をしてあげよう」
「…え?」
少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「まあ聞け」
「…うん」
「むかーしむかし、一人の罪人がおったとさ」
「…うん」
「その罪人は処刑されて死んだんだが、地獄に落ちる前にお釈迦様がやってきてな」
「うん」
「お前は死ぬ前に一つだけとても良いことをしたから、特別に生まれ変わらせてやるって言ったんだ。実はその罪人は、処刑される前に一人の娘を助けたんだ」
少女が鼻をすすった。
「鼻かむか?」
「うん、続けて」
少女はポケットからティッシュを取り出すと鼻をかんだ。
「まあ助けたって言っても賊にさらわれそうになってたのを止めただけなんだけどよ」
「ん」
「そんでまあ罪人は生まれ変わったんだ。何に生まれ変わったと思う?」
「…何?」

「“マツ”だよ。その娘が植えたマツに罪人は生まれ変わったんだ」
「へえ」
「お釈迦様は罪人に、マツに生まれ変わってその娘を見守り続けるっつうよくわからん罰をお与え下さったのさ」
「確かによくわかんないかも」
「そんで罪人は娘を見守り続けた。その娘はちょくちょく様子を見に来るから罪人も飽きなかった。冬だろうが夏だろうがお構いなしで来るもんだからな」
「うん」
「でもな、それもそんなに長くは続かなかった。娘が年頃になって嫁に行くことになったからだ。昔だからな、今みたいに好きな相手と恋愛して幸せに結婚て訳にはいかなかった」
「そうなんだ…」
「娘は嫁に行く前の晩、そのマツの下にやってきた。嫁になんか行きたくないって泣いてな。でも親が決めたことだ、娘一人が泣いて嫌がったってどうにもならない。結局朝は来て娘は嫁に行ってしまった」
「………」
「変だろ?ずっと娘を見守れってはずの約束だったのに娘の方からいなくなっちまうなんて」
「うん、お釈迦様が間違ったんじゃない?」
「罪人もそう思った。でもそうじゃなかった。なぜかって、またそいつが目の前に現れたからさ。しかも日射病だかなんだか知らんが日差しで顔真っ赤にしてな」

「え…?」
また強い風が吹いた。風で少女の髪が乱れた。
「そいつってば真夏に何も被らんでそこら中走り回ったりするもんだから」
少女は呆けた顔で目の前のクロマツを見上げている。
「しかもなんか木が喋ってるーだの言って気失ってな、普通喋らないだろう木は」
「え…ちょ」
「それからというものそいつは殆ど毎日やってきては今日何があったとか話していくんだ。親と喧嘩しただの先生に怒られただのな」
「ちょ…ちょちょっと待って!え…ちょっと…え、なにそれ」
少女はあたふたと狼狽して頭を押さえている。
「ちょっと昔ばなし」
「ちょっとって…え?なにそれなにそれ、わた…え?」
混乱しているのか喋りもおぼつかない。
「それ…わたし、だ、よね」
「そう」
「そうって。い…意味わからない。なんで娘の話がわたしになってるの」
「娘がお前だからだ。正確に言うと、お前がお前になる前のお前」
「わたしになる前のわたし…」

「そうだ。お釈迦様はな、全部わかってたんだ。お前の魂は、この土地と離れられない運命にあるって。もし離れることがあっても、またいつか戻ってくるんだって。何十年、何百年もの間、おれは何度も何度もお前と出逢ってきた。男だったこともあったし、動物や虫だったこともあった。でも、それぞれみんな、お前だってちゃんとわかった」
「そ…そんな話…信じらんないよ…」
「信じなくてもいいんだ。ただ心に留めておいてくれるだけでいい。おれは何十年何百年、何千年経とうと、ここでお前を待ってるよ」
波の音でも数えながら、とクロマツは最後に付け足した。
「…じゃあ」
「うん」
「じゃあ…またいつか、いつか、きっと…もっかい、逢える?」
少女の瞳から、再び涙が零れた。しかし、少女の顔には微かに、でも確かに、さっきまでとは違う、微笑みが宿っていた。
「…ああ。約束だ」
「ん…約束、だよ…」

少女はそう言って、クロマツの大きな体をぎゅっと抱きしめた。
雨はいつの間にか本降りになっていた。
傘も差さずに立つ少女の傍らで、クロマツがその枝葉をのばしていた。
まるでその少女を、冷たい雨から守るように。

少女とクロマツは、何十という時代も、何百という時をも飛び越えて、その絆を紡いでゆくのだろう。気の遠くなるような数の、邂逅と離別を繰り返しながら。
これまでも、そしてこれからも。


季節は秋、天気は曇り。

波音が一定のリズムで響く海岸に、クロマツが並んでいた。
誰もいない砂浜に、波の音だけが何処までも響き、クロマツはそれを静かに数えていた。
再び輪廻の時が満ちるのを待ち焦がれながら。
今、何千回、何万回目かの波の音が聞こえた。


このページへのコメント

感動しました。超感動しました。涙腺崩壊です。とても新鮮で純粋な気持ちになれました。

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Posted by なかた 2011年12月02日(金) 08:31:14 返信

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