6-580様

 ヨルギルが高い塔の外壁を人知れず登っているのは、先日酒場で耳に挟んだ話に興味を覚えたからだ。
 とある人間の、大層な金持ちの商人が、自分の屋敷の塔に囲う娘は星見の姫と言い、ご大層な二つ名を負うだけの力を備え、予言先見過たず悉く言い当てるという。
 その場では酒飲みの法螺話だと一笑に付して聞き流した。
が、それから日を置かずたまたまその商人の屋敷付近を通りがかれば、城のような広大な敷地、警備に付く私兵の数が尋常ではなかった。
 これは本当に何かあるかと、鼻先に皺をよせ、ヨルギルは聳え立つ塔を見上げた。
 余人を寄せ付けず傲然と立つ姿に、悪童じみた生来の好奇心がそそられた。
そして今現在、新月の夜陰に乗じて堅い煉瓦を高く高く積み上げた建造物を這うようにして登っている。
 屋敷の周囲一帯及び塔入口周辺への襲撃を警戒し、昼のように篝火を焚いて槍や剣を携えた男たちが何人も立ち番をしている。
 だが取っ掛かりの殆どない塔そのものは、歩哨が近辺絶え間なく行き交っていてもヨルギルに言わせれば殆ど無警戒だった。
 屋敷を囲む深い堀にぐるりとある石壁から見事な跳躍で塔の側壁に取りついて、眼下をうろつく兵士らに看破されることなくほぼ腕の力だけでその頂上へたどり着くことができた。
 屋上は、「星見の姫」の異名通り、娘が自由に星を見るための場所だろうか。一角に四角く黒い落とし穴のように見える、内部への階段があった。覗きこめば、塔の内壁に添う形で作られた螺旋階段と、巨大な落とし蓋のような木の床が見えた。
床下へと続く階段に明かりが微かに滲んでいるところからして、その更に下が居住空間らしい。
 足音を消して階段を下る。かつて盗人じみた真似を何度かしたこともあり、影のようにするすると動く動作に澱みは無かった。
 ヨルギルは耳をそばだてた。
 カツ、カッ、カッ!
 誰かが何かに物をぶつける音だ。
 一体誰だと考え込むのも馬鹿らしい。噂通りなら、この塔には一人しか住人はいないではないか。
 その娘は一心に扉を叩いていた。手に持っているのは蝋燭の燭台だろうか。
 振り上げてぶつける。その動作を機械的に繰り返し、簡素なつくりの燭台は鈍い音を立てて壊れた。
 手の中の残骸を、娘はジッと見下ろしていた。
 そしてそれを放り出すと、振り返って別のもっと使えそうなものを探そうとして、部屋の真ん中に佇む存在に気が付いた。
「…よお」
「こんばんわ」
 娘はヨルギルが扉から正式な手順に則って部屋に招待された客であるかのようにきちんと頭を下げ、挨拶をした。
 ヨルギルのほうが面食らった。
 娘の行動につい姿を現したが、てっきり恐怖に怯えて声もなくへたり込むか、甲高い悲鳴を上げてその扉から兵士がどっと押し寄せてくるかと思ったのだ。
 扉、そう扉だ。
「お前、いま何やってたんだ」
 鋭い爪先で娘が奮闘していた扉を指差す。堅い樫材、更にその上に鋲で打って金属の板で覆われた分厚い扉は年若い娘の暮らす場にはまったく似つかわしくない。
それはこの部屋全体にも言えた。
 灯された明かりは小さなランプが一つ。
壁や仕切りがなく、広さだけはある造りの部屋を照らすのに、その光源はいささか乏しい。
 ヨルギルの眼は闇夜でも全く問題なく機能するが。
古びた椅子、寝台、小さな衣装箪笥。
暗がりの床に置かれた盥は行水用で、立てまわされた衝立の奥は憚りだろうか。
 若い娘の好きそうな、華やかで明るい色が何一つない。
 生活をするのに最低限のものだけが備え付けられた殺風景な侘しい部屋だった。
「壊そうとしていました。私はここから出してもらえないので」
 ヨルギルは顎に手を当てた。確かに、扉のこちら側に鍵らしきものは見当たらない。
 内部から開くことができない扉。厳戒な警備。窓一つない、屋上に出るためだけの造りの塔。
 どうやら娘の言うとおり、「星見の姫」は囚われ人であるらしい。
「逃げようとしてたって訳か」
「はい」
 例え何らかの偶発的な幸運を授かってよしんば外に出れたとしても、すぐさま歩哨にとっ捕まってしまうのは目に見えているが。
 ヨルギルの頭に浮かんだ疑問に答えるように、娘は「私は自分の先は見えないのです」と言った。
「ですが、私はもうすぐ売られてしまうようだったので、どうしても早くここから逃げ出したかった」
「売られる?」
「私を見定めにきた男の人と会いました。あの人は駄目です。傍に来られるだけでゾッとします。
とても悪い人です。でもご主人は私をあの人に売り渡すでしょう。
そうなったら私の力はあの人に悪い方向に使われてしまう」
 仔細に眺めれば、娘は夜の妖精のように美しかった。
日に殆ど当たらぬ肌は透けるように白く、月の光を紡いだような腰より長い銀髪に、黄昏の終焉、夜の始まりを思わせる青紫の瞳を持っていた。
 だが、その声は平坦で、ヨルギルを目の当たりにした時も、自分の不遇を語る時も表情と呼べるものは浮かばなかった。
 一人きりで閉じ込められた年月が、娘の年相応の感受性を奪ってしまったのだろうか。
「…なんだってこんな物みたいな扱いを受ける。金蔓にせよ、大事な星見の姫なんだろうが」
 娘はこくりと首を傾げた。そうすると、殆ど表情が無いことと相まって、なおさら美しい人形のようだった。
「そう呼ばれたことはありません。ご主人は「貴様」か「魔女」と私を呼びます。娼婦の血筋の娘をずっと食べさせてるだけでありがたく思えと。…でも私は死んだお母さんが大好きです」 
 ヨルギルは久しく覚えなかった感情が自分の胸の内にふつふつと噴き上がるのを感じた。
 多分これは怒りと呼ぶものだろう。
(おいおい、俺はいったい何様のつもりだ?)
 下らない好奇心で噂の姫君を盗み見ようとした侵入者風情がと、つい笑い出しそうになる。
 だがカチカチと鳴る無数の牙は、笑いより実は怒りの咆哮を噛み殺していた。
 噴きだす熱を帯びて首筋の鬣が炎のように逆立つのを、娘は不思議そうに見ていた。
「本当は最初に尋ねたかったんです。あなたはどうしてそんな毛むくじゃらの恰好をしているのですか?」 
 ヨルギルは虚を突かれた。
 たった今抱えた憤怒が、娘によって横合いから蹴とばされたように消えてしまった。
「お前、獣人を見たこと無いのか?」
「じゅうじん?知りません。ごめんなさい」
「謝らなくったっていい。ふ、箱入りならぬ塔入りか。仕方ねえけど、世間知らずで育ったんだな」
「はい。ごめんなさい。良かったら触ってもいいですか」
「だから謝んなって…さわる?」
 はい、と娘は頷いた。
 悪意のかけらも無い態度に、ヨルギルは了承し、袖無の黒いシャツから伸びる剥き出しの片腕を差し出した。
 自分よりずっと背の高い獣頭のヨルギルに恐れ気もなく近づき、身体能力において人より格段に優れた獣人のなかでも特に戦闘能力が高い狼種の筋骨たくましい腕を、娘は子どものように頑是なくペタペタと触った。
戦いのさなかで自在に伸縮させ、鋼を切り裂き馬の首をも一掻きで刎ねる生来の武器の爪も、物珍しげに見つめる。
「毛は柔らかいのに、なんだか硬いです」
「筋肉がな」
「あかがね色、綺麗」
 そうして気のすむまでヨルギルを撫でたり手触りを堪能した娘は、
「獣人さんはとても強いのですね」
と言った。
「俺を何か見たのか?」
「見なくても分かることがあります。あの、不躾で申し訳ないのですが、もう一つ、いえ二つお願いしたいことがあります」
「なんだ。言ってみろ」
 こんなクソみたいな場所から逃げ出したいって言うんなら、俺が叶えてやる。
 そんな風に考えていたヨルギルの予想は片方は当たり、もう片方はまったく思いもよらないことだった。
「どうか私を外に連れて行って。そして私と交わってください」

 脱出は侵入よりも容易かった。
 ヨルギルは片腕に娘を抱きかかえ、塔の屋上から何の造作もなく飛んだ。
 耳元を風が切る落下のスピードに、娘は悲鳴の代わりに首に縋って、肌蹴たシャツの胸元に顔を埋める。
 逞しい長躯と、人一人分の着地の体重を加えた落下の衝撃を全く感じさせなず、猫種のようなしなやかさで侵入経路の石壁に着地したヨルギルは今の今まで娘を長きにわたり幽閉していた塔を一瞥すると、後は振り返りもせず夜の闇の中を野の獣を凌ぐ速さで疾駆した。
 娘が言うには、朝になると食器の出し入れ口から食事が差しだされ、その受け取りが日課になっている。
 そこで不在に気づき、大騒ぎになるだろうが、とにかくはかどわかしの犯人を探ろうと、魔術か鼻の優れた獣人でも雇って追跡を試みるはずだ。
 そうして辿ってこの場所が知れても、連中は奪還の手を伸ばしあぐね、確実に二の足を踏むと読んだ。
 ヨルギルにとって庭先も同然だが、迂闊に入り込めば二度と戻れぬと噂される複雑怪奇に入り組んだ悪名高き魔の森の最深部だ。
重装備の探索隊を組んだとしても、もうその時にはここを捨て、手掛かりの痕跡も消してさっさと別の土地へ姿をくらます心積もりでいる。
 外に出していた大振りの燐光石を四方の台に設置する。
すると、昼の間に蓄えていた温かみのある光を放ち始めて闇に包まれていた中はぐんと明るくなった。
 視界が効くようになったら、朽ちた巨大な古木の洞を利用した隠れ家を、何もかもが目新しいのか、娘はきょろきょろと見まわしている。
 部屋、というより木でできた大きな穴蔵は、長身の獣人が悠々と動き回れるスペースがあり、乱雑に巻いて積み上げられた古い地図やちょっとした武器、酒瓶に頭陀袋にロープに保存食、何故かまったく必要性のない小さな船の錨が無造作に転がったりと取り留めもないものが所狭しと散乱し、片隅には藁を積んで大ネズミの毛皮を上に敷いただけのベッド代わりの寝床がある。
 寝馴れたそこと、部屋の真ん中に脱ぎ散らかしていたままのシャツを摘みあげてしげしげと眺めている娘を交互に見、ヨルギルは塔での会話を思い出していた。
「雑じると価値が下がるのだそうです」
 淡々と娘は言った。
一瞬ヨルギルは獣人と人との性交で生まれたあいの子にいまだ少なからずある差別的な意味を指してのことかと思ったが、ちょっと考えてみれば獣人の存在も知らない、世間に縁遠い娘である。
 やはり、その言葉には全く違う意味があった。
「私の母もその母も、同じような力を持っていました。
そして私の血族と性交をすると、力の加護が与えられると、そう信じる人たちが居たそうです」
 予見の女たちは純潔であるときが最も能力が高い。
 権力者の監視下に置かれて飼い殺しで力を利用され、今度は体を利用される。
金と引き替えに複数の男たちと体を重ね交わるごとに、少しずつ奪われるように力を失っていく。
 しゃぶり尽くされて孕んで生まれる赤子が女であったなら、買い取る権利はそれまで一番金を積んで母親を抱いた男に与えられる。
(つまりは種付け料って訳か)
 胸糞の悪くなる話だった。ヨルギルも女を買った経験はある。
聖人君子ぶるつもりは毛頭ない。
だが娼婦に金を支払って双方納得づくで一晩遊ぶほうが、よほどマシで上等だと思った。
 娘もそんな羽目に陥る寸前だったらしい。一応この年まで無事だったのは、商人は周囲によっぽど高値を吹っかけていたと見える。
「でも男の人の精を貰うときっと私の力は弱まります。私の価値がなくなれば、もう用なしになって誰も欲しがらないで興味を失ってくれるはずです」
 懇願する娘の眼差しには確かな固い意思があり、ヨルギルには差し出された両腕を拒む理由は無かった。
 まだあちこちを見足りない様子の娘に、このままじゃ要らんものまで暴かれかねないと、ヨルギルは机の上の木製の皿に置いてあった果実を「ほれ」と放り投げた。
 投げ渡されたそれを娘は棒立ちのまま目の前を横切るのを眺めていた。
橙色の果実はてんてんと床を転がった。
 物をそうやって受け取ることに、全く思い至らなかったらしい。
 転がったそれを拾い上げて試すすがめつ観察した後に食べようとするのを制し、手ずから別の新しいものを与える。
 本人に聞いても自分の年が定かでなく、見たところまだ二十歳には達していないのだろうが、何やら幼い子どもの世話を焼いているような錯覚を覚える。
 瑞々しい果実の匂いをすんすんと可愛らしく嗅いでかぶりついた娘は「美味しい」と声を上げた。
 耳聡く、ヨルギルの立った耳がピクリと動く。
初めて聞いた、喜色をほんのり帯びた声だった。
「美味いか?その辺で生ってたのを適当に千切ったやつなんだが」
 同じ果物でも、野生のものより市場で売っているものの方が、品種も違い、農家の手が掛かっている分ずっと甘い。
 だが、
「はい。とても美味しいです。こういうものを、私は初めて食べました」
「…お前、あそこで何を食ってた?」
「パンとスープを毎日。常時変わらない食事を摂取しないと、力に変調をきたすと思われていたのかもしれません」
 ますます囚人と変わらぬ生活を送っていたようだ。
 この境遇では、確かに娘の言うとおりにしなければ、再び魔手が延び、死ぬまで欲と野望に絡め取られるのだろう。
 意外な食欲を示してあっという間に果実を食べきった娘の、果汁に濡れた唇を親指で拭ってやる。
「いい加減聞いておけばよかったな。俺の名はヨルギル。お前は?」
「アーシュ。お母さんは、そう呼んでいました」
「雄に、男に抱かれるって意味を分かってるのか?」
「大丈夫です。ちゃんと知っています」
 アーシュはヨルギルの眼を見上げ、しっかりと頷いて見せた。
「ヨルギルさんと、同じベッドで一緒に寝ればいいんでしょう?」
 道のりは険しそうだとヨルギルは思った。


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