【スマートフォン対応】弘前ねぷたの関連グッズ、ねぷたの由来、ねぷた祭の現地情報などを掲載しています。

ねぷたまつりの由来はさまざまある。

(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、敵をおびき出すために大きな人形を作った。
(伝承)文禄2年(1593年)7月に藩祖為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。
(定説)江戸時代元禄期の後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷたに発展してきた。

語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛。(表記は佞武多、禰ふたと様々ある) 「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払い、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。

明治から昭和初期にかけて、主に当時の弘前市内に複数あった、町道場に通う士族や平民の子弟らを中心とした若者達が作り練り歩いたねぷたでは、他の道場または町会のねぷたと出くわすと、相手のねぷたに石を投げつけたり、竹槍や木刀等(時には日本刀)で乱闘し、しばしば死傷者を出したため、何度も「ねぷた禁止令」[1]が出されたことがある。これを「けんかねぷた」という。 (その名残が「石打無用」という言葉になってねぷたの肩部分などに記されているものもある)

日中戦争が始まった翌年の昭和13年から中断していたが、昭和22年に復活した。

昭和46年(1971年)には、陸奥新報社の創立25周年記念で、棟方志功がネプタ絵を描いている。 1980年(昭和55年)に「弘前のねぷた」が国の重要無形民俗文化財に指定された。[2] 昭和58年(1983年)には初めて日本国外(アメリカ・シアトル市)で運行され、平成8年(1996年)には弘前ねぷた囃子が「日本の音風景100選」に認定された。

[参考文献:wikipedia]

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