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ここでは、ラピタ王国に統一される以前のラピタ島の歴史と、それに関連する周辺島嶼の歴史を記す。



概要

ラピタ島は、聖暦18世紀初頭にピリカ国首長であったラピタ王国初代国王、ポマレ1世によって統一されたが、それ以前は長きに渡る群雄割拠の時代が続いていたとされている。
が、島において文字が用いられ始めたのはポマレ3世の治世後期のことであり、それ以前の歴史については文献史料は断片的な口承及び、王家によって編纂された後代の年代記を参照する他無く、島の内部に点在する遺跡群や遺物の調査も遅々として進んでいない。
文献史料は詳細に記されてはいるものの、同時代史料ではない為信頼性に欠け、一方で実際に存在する遺跡の踏査は王国の政治的情勢の不安定さにより、調査団が踏み込めていない事が多く、統一以前の歴史の多くは未だ謎に包まれている。
ここでは、王国に伝わる伝承や文献の記述を基に、スカセバリアル条約機構の研究チームと、王国書記官府が共同で行った調査の結果を加えた物を記す。

原始時代

ピリカ・アイエアの到来

ラピタ島に人類が初めて足を踏み入れた時期は判然としない。王国の正史であるポマレ年代記(ポマレ3世治世末期から、4世の時代にかけて編纂。著述者はラピタ文字の発明者たるリコ王女)においても、その具体的な年代は「遥か遥かなる太古、太陽と月とが互いに幾千幾万回も上っては沈むを繰り返しても、なお辿り着けぬ昔」と暈されている。
考古学的な調査によれば、現状ラピタ島で確認された最古の遺跡は今から凡そ2,000年前に建造されたと推定されており、また周辺発掘調査で見つかった植物の種などからも、既にこの頃には人類が島に定住し、継続的な生活を営んでいた形跡が見られている。
年代記によれば、この最初の移住団を率いていたのはピリカ・アイエアなる若者で、7隻のカヌーに男女を連れて島に移り住み、現在のタアロアに程近い地に最初の村を築いたとされている。このピリカ・アイエアこそ、現在のポマレ王家の始祖であると伝わる。
なお、地理学的な調査によれば、現在のマウサネシア連邦共和国に住む先住民族と、ラピタ人との遺伝子、及び生活様式の一部が似通っていることが指摘されており、彼らの起源はこれらの島嶼域である可能性が高まっている。スカセバリアルの文化人類学者、セオドア・マクギリガッティ博士は、ラピタ島を北限とした「南洋文化圏」の存在を提唱しており、これらの文化圏は互いに交易や戦争によって結びつき、クシャール朝?マウサネシアによる小グリヤ諸島戦役により、海流外の諸国家が滅亡するまでの間繁栄したと彼は主張している。(なお、後述の引用史料の中には、それに反するものも多数ある)

諸国分立

年代記によれば、ピリカ・アイエアによって構築された最初の村落は順調に発展したが、やがて神々の祭祀をめぐり、人々の間に対立が起きる様になった。その後、彼の兄弟を擁した人々が村落を離れ、苦難の旅路の末に島の南側に定住して第2の村を造った。これがセルカナム国の始まりとされている。
以降年代記では、複数の低地諸国の起こりについて簡潔な記述とともに紹介しているが、これらは概ね最初の入植から20-100年間の間に起きたことと記されており、比較的早い時期からラピタ人の分裂が始まっていたものと推察される。(前述のマクギリガッティ博士は、元来移住して来たラピタ人そのものが、複数の民族的・文化的な起源を持つ多様な人々であった可能性を指摘している)
他方、年代記と並ぶ貴重な古典ラピタ語文献の1つである「大詩篇」(前述のリコ王女が4世時代に編纂。当時島の各地に伝承されていた韻文詩や詠歌4500篇余りを収集、整理した詩歌集。年代記に反する内容のものも収録されている為、貴重な一級史料とされている)には、各地で継承されて来た各国の建国縁起が詳しく記録されており、それらを紐解くと、多くがピリカ・アイエアその人や、その縁者や関連事物に起源を求めており、分裂の中でも一応の共通アイデンティティが存在したことが読み取れる。

いかに国の立たんや 今ここに語るべし父祖の辿る道 我は船に乗りて 楽土に足を踏み入れき 乗りし船の名はワイカト ピリカ・アイエアの初めて作りし船にて 我こそは英雄の則を追う者なり (大詩篇11巻 ワイカト国編より)
また、遺跡調査によれば、ラピタ島各地に点在する石造遺跡の年代の多くは、今からおよそ2000年前から1800年前に集中していることから、この時期に人々の島における生活域が大きく広がり、小国家の分立が始まったことを示している。

古代〜中世

戦乱の幕開け

考古学的な年代においては1500年前と推定される頃より、ラピタ島における人々の営みは急速に多様性を増していく。
遺跡の建築様式が地方毎に独自化し、独特の壁画や彫刻が増加すると共に、これらの破壊された痕跡も多く発見されている。
また、遺跡の発掘調査中に、鏃や槍の穂先の突き立った人骨、及び破損した木製の鎧や盾が多く出土するのもこの時代からである。
そうした証拠から、多くの学者達は、年代記や大詩篇の伝える、「極めて長き戦乱の時代」がこの頃から本格化したと考察しており、以後凡そ1300年間の長きに渡り、ラピタ島全域において断続的な戦乱が続いたとされている。
文献史料によれば、この頃既に「低地」と「高地」の区別と隔絶がほぼ確立していた様で、年代記は、その頃の伝承として、以下の様に伝えている。

旅人はかくのごとく、王に申し上げた。「山々に住む人々は剽悍で言葉が通じず、人の心が無い。我々の顔を見るなり、首を取ろうと襲ってくるのだ」と。(ポマレ年代記2巻より)
また、大詩篇に収録された詩や歌の中にも、低地同士、高地同士、あるいは双方間での苛烈な戦いを偲ばせるものが多く、往時のラピタ人の剽悍さが伺える。

父よ、父よ、あなたの猛きこと、他に何をもってか歌いあらわさん。敵の血にて洗いし刀を翳し、腰に五つの首を繋げおろし、クーの社に捧げしその姿、いかでか他国に敗れんや(大詩篇12巻、ホーゴー国編より)
ちなみに、同時代の証拠品として珍重される、神話などに題をとったと思われる遺跡彫刻が積極的に作られ始めたのもこの頃である。これらの遺跡彫刻の多くは神殿に奉献され、武勲や功績の証拠として長く受け継がれたが、中には石碑の様な記念物として村落に保管されたり、見目の良い場所に安置されている物もある。これらの彫刻に関する縁起は口承によって受け継がれ、大詩篇などに残された一方、現在においても貴重な研究資料となっている。

他国の視点

古代から中世にかけてのラピタ島の歴史に関して、この頃からは他国による記録史料が数多く現れ始める。
聖暦900年から1500年代まで繁栄したマウサネシア先住民国家のトァイ・トゥンガ国に残された聖暦1050年頃に建立されたとみられる碑文(一部未解読 マウサナ文字で刻まれた部分のみ解読済)には、「キンバ島(ラピタ島の他称)のピリーカ国の使者と名乗る男が、大首長に対して砂金を献上した」ことが遺されている他、クシャール朝第14代国王、ウダヤデイッタヤジュラル2世の治世を記録した実録内には、その時代に入朝した外国使節の一つに、「キンバ島・××国(国名欠損)使節リホ・リホ」の名が記されており、大王に対して黒砂糖と布を朝貢したことが記録されている。
この様な記録から、当時ラピタ人はジェニングス=ベラミー海流を横断し、小グリヤ諸島から大グリヤ諸島に至る広い地域で活動していたことが読み取れ、彼らの足跡が至る所に存在する可能性が示唆された。
年代記でも、「エノハアマナ(海鳥王)」という名の当時の首長が、「海龍の背の向こうに位置する国々」に船を派遣し、豊富な財物を持ち帰ったことが記されており、当時のグリヤ諸島一帯には相互に経済的な繋がりがなされていたと考えられている。
但し、ラピタ島及びその周辺域は、その他の島々からは同文化圏とは見做されず、むしろある種隔絶した化外の蛮地と見做されていた、とする記録も残っている。小グリヤ諸島を征服したクシャール朝の王、インドラジュラル5世の治世を記した歴史書には、ラピタ島征服を目論んだ王を次の様に諌めた先住民の挿話が残されている。

(国王が)御下問になったことについて、(現地の人々は)この様に答えた。
ラピタに至るまでには、極めて強い海流があり、大きな兵船は通り抜けることができない。小さな船も流れに逆らっては、転覆して沈むのでうまく操らなくてはならない。
また、着いたとしても島の地勢は厳しく、険しい山脈であちこちが隔てられ、狭苦しい平地に小国がひしめいている。
また、ラピタの人々はそんな海流を頼みにしているから、外の国に従うことをせず、専ら内に覇権を争っている。
低地に住む人々は貪欲で、自らに従わないと見るやすぐに争って財貨を奪おうとする。
山々に住む人々はそれよりもなお獰猛で野蛮である。言葉も通じず、山に踏み入った者は悉く首を刈られて生きて帰ることが無い。
この様な性情の人々が、厳しい地勢の島に暮らしているのだから、およそ人が辿り着いて以来島が統一されたことは無く、今も二十余りの国に分かれて争っている。
いずれも剽悍で好戦的であり、野蛮という言葉だけでは表しきれない。恐らくは人の心も無いのであろう。
これを聞いた賢明な国王陛下は、ラピタへの王師を返し給て、二度と征服の兵を起こされることはなかったと云々…(「大王実録」より)
この人物が実際にラピタ島を訪れたかどうかは不明だが、島に残された過酷な戦乱の痕跡を見るに、その言葉が完全な嘘であったとは言い難い。(ちなみに、外国文献での「ラピタ」という名前の初出は、この大王実録の少し前に編纂された、「北洋航海誌」である。そこには、「ラピタ島 別名キンバ島」と記されている)
こうしたラピタ島に関する悪印象の記録は、小グリヤ諸島征服以降マウサネシア側の文献に頻出し、歴代の王が征服を目論むたびに臣下が諫言するお決まりの文句となっている。(寧ろ、外征を制するために誇張されている可能性も高いが)
ちなみに、ラピタ島の各地ではマウサネシアの高度な技術で作成された剣類、及び国王の名前が刻印された金貨や銀貨が発掘されており、その頃の交易の盛んさを今に伝えている。

周辺諸島との交流

なお、古代から中世に至るまでのラピタ島史で見過ごせないのは、周辺の島々との交流である。周辺の島々の内、ライアテア島とマナルウイ島に関しては、地勢が穏やかな為、それぞれラピタ島統一の100年前までには統一、ないしは強力な政権に諸勢力が収斂されたと見られており、政治的安定を背景に多くの伝承や遺跡が残された。(これらの多くはポマレ2世の征服事業の過程で破壊されたが、残ったものについては積極的に大詩篇への収録が行われた)
それらによれば、ライアテア島・マナルウイ島・ボラボラ島の本土三島の他にも、無数の島々とラピタ島諸国の間に経済的・軍事的結びつきがあったことが示されており、ラピタ諸島域全体で独自の文化圏が築かれていた可能性を濃くしている。
特に決定的な証拠として、モトゥタエ国製と見られる骨製の剣がピリカ国内で出土したこと、或いはマナルウイ島の神殿に纏まった砂金が奉献されたこと(現状砂金が出土するのはラピタ島の他に確認されていない)などが挙げられており、これらの証拠から彼らが島を跨いだ交易を行なっていたことがほぼ明白になった。
また、ライアテア島の伝承の中には、ラピタ島からと思われる侵略行為を伝えるものが多数残されており、それらによれば、「古い兄弟の国から、野蛮な人々が攻めて来た」とされている。このことから、ライアテア島他、各地の島々とラピタ島は、文化的な起源を共有しているとする研究者も多い。

中世後期

歴史時代

スカセバリアルにおけるラピタ史研究の第一人者、スタニスラフ・ヴァンシンスキ博士は、小グリヤ諸島征服から、ポマレ1世によるラピタ島統一までの約200年間の時期を、便宜上「中世後期」と呼称し、伝承に現れる人々が明確な実在性を持ち、またラピタ島統一に至るまでの布石の時代であると見做している。
ヴァンシンスキの見方を多くの学者達が踏襲しており、これらの時代の研究に励んでいるが、それに関して現在主流となっているのは、年代記・大詩篇の解読及び、マウサネシア側に残された断片的な記録の照合である。
この頃から年代記は、各首長の在位年数を明確に記録に残し始めており、概ね編纂されたポマレ3世の治世末期から200年ほど前の首長から、在位年数や生没に関する記述を行っている。(中世後期の後半約100年間に相当する期間)
この理由について多くの学者が考察しているが、最も有力な仮説として、この頃の首長に関する伝承が、当時は比較的多く残っていたことから、編纂者たるリコ王女が記述を行いやすかったのではないか、とするものがある。年代記では、ピリカ・アイエアを除く、統一以前の多くのピリカ首長に関する記述がごく簡潔な物で終了していたのにも関わらず、ポマレ1世の「祖父」と位置付けられるロノイマカヒキ首長以降からは極めてその記述が細密になり、子女の経歴に至るまで記されている。なお、このことから、ロノイマカヒキ以前と以後の歴史伝承について、なんらかのブレイクスルーが発生したのではないか、と推測する学者も少なくない。(なお、編纂者のリコ王女は、記述の出典に関して、「王家秘伝の語り部の記憶、神殿の神官による奉献の記憶、古老の懐古、各地の人々の歌」などを挙げているが、この中に現在は失われた伝承が含まれており、彼女がそれに基づいて記述を進めた可能性は十分あり得る)
また、ロノイマカヒキ以前の首長に関しても比較的記述が充実し出すと共に、大詩篇に採録された詩や歌の年代も多くがこの頃のものであると推定されている。(山地諸国の伝承歌として採録された物には、中世後期前半から半ばにかけて在位したピリカ首長に同定される人物について扱った物が非常に多く、この頃ピリカ国が北東部における大国の地位を占めていたことが窺われる)
年代記と大詩篇の記述などから、ヴァンシンスキはこの「中世後期」に関して、「明確な歴史の輪郭が存在する」ことから、ラピタにおける「歴史時代」の幕開けと位置付けており、この時代の人々や事象が、現状実在を信頼できる最古の地点だとしている。

四大国の争い

聖暦16世紀後半頃、年代記と大詩篇は、ラピタ島各地に勃興した大国について伝えている。この頃島は20以上の小首長国群に分裂していたが、これらを4つの大国が収斂・従属させ、その他の国々は時に応じて大国に対し従属・敵対するといった新しい戦国の時代が始まった。
これらの大国は、年代記の伝えるところでは、それぞれ、
・北西部の平野を制したピリカ国
・南東部の低地を得たセルカナム国
・西部に栄えたオロナ国
・中央山地に根を張ったホーゴー国
の4つとされ、これに次ぐ規模として東部の低地国ワイカトと、高地国のタウツア国の名が挙げられている。この他の国々はこの4国に対して従属的な立場に置かれ、時に応じて属国化し、有利不利に応じて寝返ると言ったことが常態化していた。他方それに応じて大国も小国を滅ぼして臣下をその主に命じるといった封建的な体制を作り始め、現在の王国の制度に近い物が出来上がりつつあった。
聖暦1540年頃(と推定)、オロナ国の首長(アリイ)として即位したポパルザイは、自身の異母弟であるナタイと激しく争い、彼をピリカ国へと追いやった、と年代記には記されている。当時のピリカ首長、テリイタリア・アリパイアはナタイを立ててオロナ国に攻め込み、数年間に亘る死闘を繰り広げた。
大詩篇にもこの大戦を歌った詩が収録されているが、それによれば戦いは、他国の戦争と同じく10年間の長きに渡ったと歌われており、当時の大国間の戦争が長期化していたことが読み取れる。
ポパルザイは武勇に秀でた勇敢な戦士であり、大軍で攻め寄せたピリカ国の侵攻を幾度となく撃退した。しかし、遂に抗しきれず敗れ、オロナ国は崩壊したと年代記は伝えている。
しかし、大国の鼎立はこれで崩れた訳ではなく、オロナ国の旧領の一部を掠め取ったセルカナム国と、それに対してホーゴー国の支援の下攻撃を仕掛けたワイカト国によって、各国のパワーバランスは再び均衡に戻ってしまった。また、オロナ国の支配領域を得たピリカ国も、テリイタリアの死後は幾度となく発生した叛乱と侵攻によって支配領域を後退させ、オロナの領域は小国が乱立する混沌の時代となった。(年代記より)
現在、王国傘下の国として存続しているオロナ国の遺跡を調査した結果、過酷な破壊と再建の痕跡が見られる他、多数の人骨が幾層にも重なり合って埋葬されており、これらの地域を何度かに分かれた戦乱が蹂躙したことを示している。
調査を指揮したジョアン・ボルトーン博士は、これらの戦闘に何某かの宗教的な意味合いがあったのではないか、とする分析を行ったが、今のところ生贄との関連性は掴めていない。

「勇気ある者」との関連性について

マウサネシアの複数の歴史書は、トァイ・トゥンガ征服の際に、「白髪白肌の勇気ある者」(ラピタ語ではメエケオケオ)によって率いられた軍が、マウサネシアの精鋭に対して激しく抵抗し、その末に彼は亡命を望む人々を連れて海の彼方に去った、とする内容の記録を伝えているが、この謎の人物とポマレ王朝の関連性は既に複数の学者から指摘されてきた。
マウサネシアの文化人類学者マウリヤナ・リュパワルダナは、ポマレ王朝の起源をこの謎の人物に求め、王朝の家系に多数現れる先天性白皮症の理由ではないかと考察している。
他方、ラピタ側では外来の人物に対する記述が少なく、断定するに至るまでの情報は集まっていないが、大詩篇のピリカ国編の目次には、既に散逸したものの「まれびと来たりて」という名の歌が収録されていたことが分かっており、前後の歌の時代からこれが作られたのは16世紀前半であることもほぼ特定されている。
また、ポマレ4世時代に民間で執筆された物語本には、この歌の一部を引用した描写があり、これら逸文の収集から、マウサネシアとラピタの関係性を紐解く研究も進められている。

ロノイマカヒキの時代

聖暦1596年頃、ピリカ国首長にロノイマカヒキが即位した。これ以降年代記は多彩な記述によって、この頃の社会情勢や歴史を伝えている。
まず、ロノイマカヒキの名前について、年代記は「(平和の神の)ロノ神のおわす時」と名をつけることで、島全土に平和がもたらされる様に、という祈りを込めた、と記している。
彼は即位した後、歴代の首長が行ってきた生贄の儀礼や度重なる対外遠征を取りやめ、その徳によって民をよく治め、国を繁栄させたとされている。
が、彼の治世においても戦争は幾度となく行われており、1603年、オロナの小国群と高地国の連合がピリカに対して大軍で攻め込み、双方に多数の犠牲が出たことが年代記に記述されている。
1615年には、オロナ諸国併呑の為に兵を差し向けたホーゴー国に対し出兵するなど、主に防衛戦争が多数起きた治世であった。
ちなみに年代記では、彼の治世が終わりに近づいた頃、ロノ神の神殿にて、「彼の孫が島を統一し、平和を齎す」という神託を受けたという。それを受けて彼は自身の長男の息子に対して祝福を成したとされるが、実際に統一を成し遂げる孫はこの頃まだ生まれていない。
なお、文化的にはロノイマカヒキの時代には多数の記念碑的な彫刻が作られたとされており、その多くが現存している点で特筆に値する。また、神殿の壁画についても、彼の時代に描かれたものは多くが良質な状態で現存しており、当時の文化的な様相を今に伝えている。
1648年頃、ロノイマカヒキは死去した。彼の後は長男のテレヌイアが継ぎ、積極的な対外戦争へと戦略をシフトしたものの、1661年に彼が戦死、未来の統一者として期待されていたテポポタが即位した。しかし、テポポタは1668年にまた戦闘で戦死し、ピリカ国は混乱に陥った。
この混乱を収める為に、群臣はロノイマカヒキの末の息子で、英明さを高く評価されてきたテウ・トゥヌイエアイテを首長に推戴し、彼の子供に神託の実現を託すこととなった。

テウ・トゥヌイエアイテとポマレ1世

テウ・トゥヌイエアイテは即位した後、失われた領域と支配力の回復に努めた。1670年には離反した諸国を征伐して再び支配下に置き、同年には現在の「許しの庭」として知られるロノ神の大神殿、プウホヌア・オ・ホナウナウを再建した。そうした彼の治世の下で、ピリカ国は再び安定を取り戻し、大国としての地位を盤石にした。
1679年、彼のもとに待望の長男が誕生した。が、その姿は白髪に白肌、目は青色という異形であり、当時の人々はそれを大いに恐れたとされている。
大詩篇には、叛逆を覚悟で当時の人々が歌ったとされる流行歌謡が収められており、それによればこの白髪の子供は、母親が悪魔に取り憑かれたが故に生まれたとされ、忌子として殺害されかねない危険な状況だったという。しかし、テウ・トゥヌイエアイテは彼を後継者・神託の実現者と信じて立て、タアロアの領主に任じたのだった。
1689年、ピリカ国に対して境を接する小国の主人、コロキ・マ・パキが突如兵を起こし、攻撃を仕掛けてきた。兵力の差は圧倒的で、すぐに彼が敗れると思われたが、彼は大国、セルカナムの支援を受けており、その戦力を破るのは容易ではなかった。
それどころか1692年、テウ・トゥヌイエアイテは野営地にて奇襲を受け、敵の手にかかり戦死を遂げてしまう。戦闘の長期化に倦み疲れた国に対して、これは致命的な打撃となった。
首長の死が各地に伝わるや、ピリカに従属していた各地の国々は即座に離叛し、援軍を引き上げてどこに従属すべきかの品定めを始めた。また、ピリカの直接の臣下さえも離叛の気運を高めていたのだった。
この内憂外患に対し、ただ一人の後継者であった白髪白肌の子ーティナは直ちに首長の即位を宣明し、攻め込んできた敵軍と激しく争った。そして、13歳の若さながらこれを打ち破り、滅亡寸前と思われたピリカ国の危機を見事に救ったのである。
ティナはこの戦いののち、「白髪」を意味する「ポマレ」と1人とに呼ばれる様になり、島の北西部を制した覇王として恐れられることになる。
1694年、ポマレに対して包囲網を構築した諸侯が内紛を起こし、彼がこれを各個撃破し始めてからは、島の戦乱は急速に収斂と統合に向かい、1699年の時点で島はポマレ率いるピリカ国と、その最大の宿敵となるロゴ・トゥム・ヘレのセルカナム国により二分され、統一の戦いは最終局面に向かうこととなる。(鉄砲伝来についてもこの頃と推定される。漂着したマウサナ人商船から武器を手に入れた諸勢力同士が争った形跡が見つかっている)

ロゴ・トゥム・ヘレについて

ロゴ・トゥム・ヘレは、ポマレ1世による17年間にわたる統一戦争における最後の宿敵、最悪の敵対者として記憶されているが、その歴史的な事実や生涯について、分かっていることは少ない。
戦争の終結後、彼の建てた記念物や彼に関する伝承の多くは破壊され、王府にとって都合の良いものに置き換えられたからである。
しかし、数少ない現存遺構や伝承は、ロゴが王府の伝える様な邪悪な人物ではなかった可能性を示唆している。例えば、セルカナム国郊外の山肌に建てられた要塞の壁画には、民とともに宴を楽しむ王の姿が描かれており、その姿はポマレ1世では無い別の人物であることは明らかだ。
また、ポマレ4世時代に編纂されたと見られる「新詩篇」(編者未詳)には、数少ないロゴを称える詩歌が収録されており、それによれば、彼は外に対しては知勇兼備の戦士、内には明君として見事な政治を行なっていたという。
彼に関する歴史的な研究は、ポマレ3世後期の文化的爛熟期と、6世、7世、9世の頃に盛んに行われたが、その中間に当たる4世、5世、及び8世の御世にはクーデターとそれに伴う民族主義の興隆によって中断を余儀なくされ、先代の知見を後代に受け継ぐのに多大な労苦を要した。
これらの研究資料の多くは、異教の書物と共に焼却処分されるか、書記官府の禁書倉庫に封印されるなどして歴史から葬り去られたが、昨今の調査によって多くが再発見され、不明な点の多いラピタの歴史共々、その輪郭が再び浮かび上がりつつある。

文献について

統一以前のラピタの歴史を研究する際に用いられる文献として、主なものを挙げる。
・ポマレ年代記…リコ王女による王朝の正史。ピリカ・アイエアからポマレ3世に至るまでの歴史を記す。構成は歴代ピリカ首長の伝記である「本伝」、その子女の記録である「副伝」、及び人物や事件に関して特筆した「列伝」に分かれる。全45巻、中世ラピタ語散文で記されている。完本がラピタ王国の書記官府・図書館に保管され、贈呈された写本が下サニエル大学に保管されている。
・ピリカ叙事詩…作者はポマレ1世・3世。年代記の下になった書物で、天地創世から王朝の起こりまでを流麗な韻文で語る。全24巻、言語は古典ラピタ語韻文。書記官府に完本が存在する他、各地にそれらの文章を刻んだ記念碑が残されている。なお、正文とされるのは神殿の巨大な石壁に刻まれた「大碑文本」である。
・大詩篇…編者はリコ王女。ポマレ4世の時代に完成した、ラピタ島各地と本土の島々の口承を集大成した書物。各地の詠歌・詩を収録し、時代ごと、各国毎に並べて編成された。構成は全20巻及び目録4巻。収録された歌と詩は総計で4568篇、うち4317篇が現存している(第11巻、第16巻、第18巻が一部欠損、第19巻が完全に欠損)。欠損した歌は目録から題と国名のみが伝わる。言語は多様で、古典ラピタ語から、中世ラピタ語、及びその過渡期にあたる中古語、更に各国で日常的に話されていたと思われる方言や独自の言語も多数含まれており、解読が進められている。研究の基本となっているのは、書記官府本(欠損部を除いてほぼ完全に残存)、図書館本(16巻が残存。一部書記官府本と内容が異なる)で、その他各地に選集や抄編、写本が残されている。
・新詩篇…編者不明。ポマレ4世時代に完成したと見られる。構成は全12巻、収録されている詩歌は1360篇、うち1110篇が現存。大詩篇に収録されなかった歌や、本土外の小諸島の詩歌を収録した最初の詩歌集。王府の唱える史観と大きく異なるものも収められており、貴重な研究資料となっている。書記官府本と、ウツロア離宮本が完本として残っている。言語は中世ラピタ語を中心に多様。
・ラピタ=ポノイ…作者はオウムアムア他多数。成立時期はポマレ4世の頃。構成は全33巻、ラピタ・ライアテア・ボラボラ・マナルウイの4島と、他の島々の説話を纏めた説話集。「本島部 隣島部 諸島部」に分類されている。言語は基本的に中世ラピタ語散文。史料の中では珍しく欠損が殆どなく、また欠損部も民間伝承によって補われた結果、ほぼ完全な姿を今に残している。最古の物はフアヒネ離宮本(現在は王宮所蔵)、その写本が書記官府本とされる。
・ハワーラ碑文…作者不明。年代は日付からポマレ3世51年と特定。当時の首長を讃える為の碑文であり、その由緒から功績までを3メートルの巨大な石板に刻んでいる。言語は中世ラピタ語・ホーゴー語・カンタバン語の3種類。これらはラピタ諸語の中でも相互意思疎通が困難な部類の言語であることから、この碑文が翻訳の大きな手助けとなった。
・エルサンディ文書…ポマレ7世の頃に、文化人類学者ラファエル・エルサンディが大金と引き換えに買い取った文書群。これらの多くは王国政府によって焼却処分される予定だった裁判の記録や異教の文書であり、当時のラピタ人の暮らしや宗教観を知る貴重な史料である。また、その中には統一以前に伝わった太陽教と思われる異教の信仰に関する記録が含まれていたことから、統一前史の研究にも役立てられた。言語は近世ラピタ語他。
・カウムアリイ日記…ポマレ3世時代の貴族、カウムアリイの日記。旅行記なども含み、各地の伝承などを書きつけて残している。最初期の文字記録の一つ。構成は全4巻、ポマレ3世48年からポマレ3世52年までの日記である。
・アヴァトル碑文…作者不明。日付はポマレ4世元年2月。ハワーラ碑文と同じく、時の首長を讃える為に建てられた御料地の碑文。王族の首長に捧げられた為、この由緒は王家の歴史に遡っている。同時にアヴァトル周辺の歴史も併せて刻まれており、唯一の歴史記録として重視されている。言語は中世ラピタ語、361行の散文。

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