エロパロ板「おむつ的妄想」スレッドに投下された作品のまとめwikiです。

本の森を、私は歩く。私の背丈を凌駕する本棚には、本が整然と並べられていた。手に持つランプの明かりだけが、ここの光源だった。歩くたびに埃が舞う。
ここに眠る本は、決して誰にも読まれることのない書物ばかりである。存在する意味すら希薄な、書物とさえ呼べない代物。
 私はそこから、1冊の本を取り出す。
 古ぼけた表紙には、題名すら刻まれていなかった。読まれることのない物語。そのため、題名すらいらない。
今、私の手にあるのは、ただあるだけの、本だ。私は静かに目を閉じる。
声が聞こえる。
本たちの声が聞こえる。
読まれたいと。存在したいと。
本たちの嘆く声が聞こえる。
そして、手に持つ本は囁いた。君が来るのを待っていたと……
再び目を開ける。静寂が、ここを支配していた。私はランプを机に置き、その本を捲った。題名のない物語。今、その扉が開かれて……

揺れる車内の中で、俺は外を眺めた。田舎じみた風景が、次々と通り過ぎていく。やがて、目印を確認し、仕事に戻った。
「次は萌葱ヶ原―。萌葱ヶ原―。お出口、左側です」
アナウンスを言ったところで、何も変わるわけはない。閑散とした車内の中には、椅子に深々と腰掛けた老人が1人いるだけだ。眠っているのか、ぴくりとも動かない。
ガクンと激しく揺れ、電車が減速する。老人は意も介さず、揺れた時に落ちた杖を拾い上げ、先程と同じポーズをとった。また、石の如く動かなくなる。
荒っぽい動きで電車はホームへと滑りこんだ。停止したのを確認し、ドアを開く。誰もいないホーム。開いた所で空気の入れ替えしかできない。
すぐさま笛を吹き、ドアを閉めた。ガタンと大きな音がして、ドアが閉まる。全てのドアが閉まったのを確認するのと同時に、電車が発車した。
老人はそこで、先程の駅が、自身が降りる予定の駅であることを思い出した。

俺の名前は緒方 紅雪。今年で20歳になる。
勤め先は橋渡鉄道という、地方の私鉄企業だ。
そこで車掌として採用され、日々を過ごしている。
地方の鉄道会社といっても、本業は不動産業であり、こちらは社名にもなっているのに、おまけ扱いの部署だ。
赤字と黒字の間を行ったり来たりしてる程度で、朝夕は忙しいが、昼間は極端に人がいないという、典型的な田舎の鉄道の様子を呈している。
今日もまた、昼間の運用に配備され、車掌として乗り込む。始発駅はこの地方の中心都市であり、大手鉄道会社も乗り入れる駅である。
その隅っこに、小さな2両編成の電車が、佇んでいた。すぐさま引き継ぎを行い、車掌としての準備に取り掛かる。乗っている人数は十数人ほど。これでも多いくらいだ。
モーター音がうるさい。旧式の、大手鉄道の払下げという車両は、所々に古い電車特有の錆が見られた。確認を終え、時計を確認する。もう少しで発車時刻だった。
他の鉄道会社とをつなぐ連絡橋から、何人かが歩いてくる。外でタバコを吹かした初老の男性が、たばこをポイ捨てし、電車に乗り込み、3人がけの席を占有した。それでも席は余りあり、立っている乗客など、一人もいなかった。
時間だ。発車ベルを鳴らした後笛を吹き、発射を知らせる。駆け込み乗車など、この時間帯では一度も起こり得なかった。
ドアを閉め、窓から顔を出す。誰もいないホーム。電車は大きく揺れ、動き始める。鈍重そうな車体を引きずり、電車は始発駅を後にした。

始発駅から10駅目。すでに車内は閑散としていた。多くの乗客は1つ前の駅で降りてしまい、列車に残っている人物は、わずか3名だった。
「次は栗原団地―。栗原団地―。お出口、右側です」
電車がつくと同時に、その3名が別々のドアから降りた。乗ってくる客などいない。
笛を吹き、ドアを閉める作業。今この電車にいる人間は2人だ。運転士の園部先輩と、車掌の俺。客を乗せなくても、ダイヤ通りには動かなければならない。電車は空気を乗せ、次の駅に向けて走り始めた。
3駅。誰も乗らずに停車した。ドアを開ける素ぶりだけして、実際は何もしなかった。運転士も分かっているため、お咎めなどない。きっと次の駅でもそうだ。
アナウンスさえ放棄し、次の駅を眺めた。ホームに人影はない。電車は荒い減速運動を繰り返して、桜台駅に到着する。俺はドアを開ける振りだけしようとして、ベンチに子どもがいることを確認した。
その女の子は、安穏に満たされた表情で、眠っていた。山吹色のカチューシャ。赤味かかった茶髪。長く伸ばされたそれは、艶やかさを誇り、風が吹くたび羽衣のように揺れる。すぅすぅという寝息。
天使のような顔立ちと言っても、差し支えないほどに可愛らしい。肌は、最高級シルクを肌にしたという感じで、触れることさえおこがましく感じた。白の、キャミソール型ワンピースを身に纏い、佇む姿は、西洋の名画を切り取ったかのようだ。
俺は時計を確認する。…ここは交換駅で、向かい側からくる上り電車を待たなくてはならない。発車時刻まで、数分あった。ドアを開け、乗務員室から出る。その音にも、彼女は動じなかった。俺は静かに近づく。
まるで禁断の花園を覗くかのような仕草に、自身でも笑いが込み上げた。

近くで見て思う。やはり、この子はかわいい。起こすために手を伸ばす。寝息を聞いて、一瞬、躊躇ってしまった。
鼓動が速くなるのがわかる。
興奮しているのか?
いや、きっと恐れているんだ。この空間をぶち壊すことに。
「お嬢ちゃん」
その手が、彼女のむき出しの肩に、触れた。
滑らかな触感だった。もちとした子供特有の感触。それでも掴む手が滑り落ちてしまうのではないかと勘ぐるほど、きめ細やかな肌だった。
「ん……ん?」
その、大きな瞳が開かれ、俺を見つめた。
燃えるようなオレンジ。その瞳の色は、夕焼けに似ていた。
「ふぁー…おはようございま、ひゅ?」
大きな伸びをした後、彼女は可憐な声で、目覚めの挨拶をする。聞いただけで、心が溶けるような声。辺りを見回し、俺を見て、彼女は大きな瞳をさらに大きく見開き、
「えっと…駅員さんですか?その、あたし、電車待ってる間に寝ちゃって…」
と弁明を始める。俺はその様子がおかしく、思わず吹き出した。
「プッ…アハハハハハ!」
少女はその様子が気に入らなかったのか頬をぷくぅと膨らまし、
「いきなり笑い出すなんてレディに失礼かと思いますけどー!」
と口を尖らせ言った。俺は帽子を取り頭を下げ、
「すいませんお嬢様。お嬢様が健やかにお眠りになられている間に、電車、発車しますけれど?」
最後は時計を見ながら脅した。反対側の電車が発車し、こちらも発車時刻が迫っていた。少女はそこでハッとし、
「ああ!乗るから待ってー!」
そばに置いてあったうさぎ型のリュックを背負い、駆け出す。俺はそれを見送ると乗務員室に戻り、笛を吹いた。ドアを閉める。数秒後、1人の少女を乗せ、電車が再び動き出した。

少女は座らず、ドア前に立ちながら景色を眺めていた。車内が揺れるたびにふらつきそうになるが、決して転ぶことはなかった。
次の駅についても、少女は下りず、ドア前に立っているだけだ。すぐに作業を済まし、発車する。流れていく風景はひどく田舎で、のどかだった。大きな道路の下を抜け、電車は加速する。ガタンと、一際激しく揺れた。
「うわわっ!」
さすがに耐えきれなかったのか、少女は大きく転んだ。尻餅をつき、腰をさする。涙目になっていた。この位置からだと向かい合うような感じになる。俺は努めて見ないようにしていたが、やはりそこは男で、ちらちらと様子を窺っていた。
その時、何か変なものを、見た気がした。
 ついそれを確かめたくて、俺は少女をまじまじと見てしまう。それに少女が気付くと、あかんべぇをしてそっぽを向いた。今度は背中のうさぎと目が合った。
流石に見ているのも馬鹿らしくなって、景色のほうに目を移す。電車は数少ない住宅地の中を、滑るように走り抜ける。時折高台を通り、街を眼下に見渡せた。
ぽつんぽつんと家がある、田舎の町。俺の地元。一度たりとも、離れたことがない。あんなことがあった後の今でも。
「次は、雲雀山―。雲雀山。お出口、左側です。ホームと電車の間に、隙間がございます。足元にご注意ください」
アナウンスをして、一度車内を見た。少女は相変わらず立ったままで、遠くを眺めていた。これもこれで絵になるなと思いつつ、俺は仕事に戻る。踏切の音が、ドップラー効果で過ぎていった。電車がホームに滑り込み、もう一度大きく揺れて止まった。
「わひゃぁあ!」
少女は転びそうになるのを、席を掴んで防ぐ。そうなるなら座ればいいのに。俺の思いとは裏腹に、少女は座ることはなかった。誰も降りることなく、電車は発車する。いよいよ電車は平野部を抜け、山間部へと向かっていった。

電車の揺れが激しさを増した。大きなカーブを通るたび、激しい横揺れが襲う。それでも少女は立ち続ける。
転びそうになっても、ドアに頭をぶつけそうになっても、彼女は決して座ることはなかった。
というより、座ることをひどく恐れているようだ。
渓谷に架かる橋を渡る。轟音を立て、電車は進む。揺れは、最高潮に達していた。少女はついに耐えかね、すぐそばのシートに腰かけた。
座り方を気にしつつ、そして俺の位置を確認しつつ、彼女はシートに深々と腰掛けた。そこは女の子だ。やはり気にしているのだろう。先程のこともあったし。
「まもなくー夕顔―。夕顔。お出口、右側です」
アナウンスを聞き、少女はぴょんと立ち上がる。すぐさまドアの前に立った。どうやら、この駅が彼女の降りる駅のようだ。うきうきしながら、彼女はドアから景色を眺める。
そのとき、ポイント通過のため、電車が大きく揺れた。
「あうっ!」
少女は不意を突かれ、さっきのように尻餅をついた。ワンピースのスカート部が乱れ、その中の下着が、ちらと顔を覗かせた。
見慣れない、ふっくらとしたフォルムだった。
 薄ピンク地の部分が、少しだけ黄色くなっている。よく見ると、布というより紙のような質感だ。
「…っ!」
少女は俺の視線にすぐさま気付き、スカートを押さえ、下着を隠す。顔が、ほんのりとした朱に染まる。責める視線。俺は罪の意識で目をそらした。電車が止まる。すぐさまドアを開く。
少女は脇目も振らず、ドアから飛び出し、改札へとつながる階段へと消えていった。小高い丘の上に作られた駅。眼下にはニュータウンとして造成された、整然とした無機質な街並みが広がる。
無駄に長いホームの中央に、不釣り合いな2両編成の電車が停まる。朝夕はここから大手鉄道へ乗り入れる直通電車が発車するから、ホームは長めに作られていた。ダイヤの調整で、一服できるほど停車する。
煙草が半分まで来たところで、発車時刻になった。もったいないと思いつつ、その煙草を携帯灰皿の中にいれ、笛を吹いた。吹き終わった後、むせてしまう。この仕事に就いてから、煙草が苦手になった。
夕顔駅を離れ、電車は加速を始める。また無人になった車内は、電車の奏でる雑音だけが響いていた。終点まで4駅。きっと、誰も乗っては来ないだろう。丘を進み、トンネルに入る。車内を電灯の光が、煌々と照らしている。
誰もいない車内の中で、彼女の姿を幻視した。先程の光景が目の奥に焼き付いている。それほどに、インパクトがでかかった。
彼女の下着。
別に見ようとして見た訳ではない。彼女を眼で追っていたら、つい見てしまった。だが、それも驚いた原因の一つだ。
あの質感。あれは俺の記憶の奥底に残っているものと一致した。やはりあれは…
無駄な考えはやめよう。見間違いだったかもしれないし。
長いトンネルを抜ける。県境はこのトンネルの中にあり、もう違う県に入っている。この県でナンバー2の地方都市。そこまでつながるレール。
しかし、この電車はそこまで至らない。それは、俺の人生のようだった。大きなものを得る前に、立ち止まり、終わってしまう。そんな人生の象徴。
電車はもうすぐ、次の駅に到着しようとしていた。

本を捲る音が、森に響き渡る。古ぼけたランプの明かりでは、文字が少しだけ読みにくい。自然とゆったりとしたスピードで読み進めることになる。
もちろん、私の力を以てすれば、強い光を生み出すことは容易なことだ。しかし、そんなことをすれば、ここにある、存在の薄い本はすべて消滅してしまう。
逆に闇がここを支配すると、今度は存在の薄い本が融け、曖昧な形になる。このぐらいが、ちょうどいいのだ。
無駄話をしすぎたわね。さあ、続きを読もうか。

同じ運用に就いたのが3日後だった。いつも通りの作業を済ませ、電車に乗り込む。この前よりも乗客は少なく、10人を切っていた。結局、その人数は変わらず、電車は動き出した。
駅に着くたび、1人1人と消えていき、彼女が乗るであろう、桜台駅に着く前に、また空気だけを運ぶ状況になる。
桜台駅のホームが見える距離まで来た。小さな人影が見える。俺はそれだけで誰だかがわかった。電車は大きく揺れながら減速し、ホームに着く。ドアを開けると、あの少女が勢いよく乗ってきた。
今日の恰好は、薄オレンジ色のフリルドレスだった。風でフリルが揺れ、今にも飛んでしまいそうな雰囲気を醸し出す。柄にもなく、メルヘンな感想だなと、一人思った。背中には、前回と同じウサギのリュックサックがいた。
少女はまた座らず、ドア横で立ち、外を眺めている。俺は彼女に声をかけず、見守るだけにした。少女はちらちらとこちらを見る。やはり俺が気になるようだ。俺は「ドア、閉まります。ご注意ください」とアナウンスしたあと笛を吹き、ドアを閉めた。
「はわわっ!」
電車が発車した時に生ずる揺れに、彼女は踏鞴を踏んだ。ドア横のポールにしがみつき、じっと耐えている。
その時、スカートにお尻がぴったりとくっつく。妙に膨らんだフォルム。それは彼女のボディラインから少しばかり逸脱している感じだった。やはりそうか。長い間あった頭のもやもや感が、吹っ飛んだ気がする。
 俺は彼女のあることに気づいていても、それをおくびにも出さないようにした。

その出来事が起きたのは、2つ目の駅を出発した直後ぐらいだった。
少女の様子がおかしい。
急に慌てふためき、助けを求めるような視線を俺に送る。俺も気になって、乗務員室から出て、彼女の元へ行った。
「お客様。どうかなさいました?」
極めて事務的に、彼女に聞く。彼女は焦りながらスカートを指さし、
「は、挟まっちゃったの!」
と叫んだ。ドアの隙間には、彼女のスカートの裾が、見事なまでに挟まっていた。俺はそこで拍子抜けし、
「大丈夫ですよお客様。次の駅も、こちら側のドアが開きますから」
と宥め、踵を返した。別にこれといって騒ぐ問題ではない。そう思っていたのだが…
彼女に強く袖を引張られた。
電車の揺れと合わせ、つんのめりそうになる。敢えて動いてバランスを取った。気を落ち着かせる。少女はそんな俺などお構いなしに、
「は、早くしてよー!あたし、その、だ…だめなの!」
と懇願する。俺は彼女を注意深く観察した。強く閉じられた太腿。両の手はいつの間にか股間を押さえるような仕草になり、目には薄らと涙を浮かべていた。俺はそこで彼女の行動の意図を読み取った。
「まだ、大丈夫か?」
先ほどまでの他人行儀な口調を止め、馴れ馴れしいような口調で聞いた。少女はその変化にすら気づけないほど切羽詰まり、
「ひ…あ…ぁ…だ、だめぇ…」
と最後の言葉を述べた。汗が一粒、床に落ちた。数秒の空白後、それは始まった。
くぐもった水の音が聞こえる。少女はみるみる顔を赤くし、自身の行動を恥じていた。押さえているスカートから、水に濡れたようなシミが出てきた。
「あ、ああ…ああー…」
呆けたようにその言葉を繰り返す少女。シミはだんだんと大きくなっていく。よく見ると、シミの色は、レモン色だった。電車が大きく揺れる。少女はバランスを崩しへたり込んだ。
ぴちゃという水の音。この電車には、クーラーなどという装備は持ち合わせていない。ましてや、水が滴る状態などもほとんどなかった。
「………」
一瞬の静寂。電車の出す雑音が、耳にこだまする。
「ふぇっ、ひっぐ…ふぇぇぇぇぇぇんっ」
堰を切ったように、少女が泣き出した。そこで俺は我に返る。なんかこの状態、変な勘違いされそうだ。
「お、おい!?そんな大声で泣くなって!」
俺は必死になって少女を宥めるも、少女は聞く耳持たず。ただただ泣き叫ぶだけだ。いつの間にか、俺の足本までに広がった黄色い水たまり。
「ひっぐ…だってぇ…だってぇ…」
電車が減速を始めていた。俺はひとまず彼女を抱きかかえた。
「うひゃあっ!」
少女は突然の行動に目を丸くする。制服の袖が濡れる。
後で洗濯しなければと思いつつ、彼女をトイレに連れて行った。ここだけ新規に改造したからか、電車とは不釣り合いに洋式便所。そこに彼女を座らせる。
彼女は不思議そうに俺を見つめている。俺は帽子を意識して被り直し、
「少し待ってろよ」
と言いつけた。少女は無言で頷く。俺は急いで乗務員室に戻り、車掌としての作業を行う。
電車はホームに滑り込んだ。ドアを開ける。誰も乗ってこなかった。笛を吹き、ドアを閉める。すぐさま電車は発車した。俺は制服を脱いで彼女の元へ戻る。
時計を確認する。次の駅まで、5分あった。

トイレの中でうつむく少女は、俺が入ってきた途端、顔をあげた。それが俺だとわかり、大きく安堵する。
「あ、あの…」
少女は何か言いたげな目で、こちらを見ていた。しかし、肝心の言葉は、いつまで経っても出やしなかった。
俺は彼女の言葉を待つより先に、やることを済ますため、
「後でいいから。まずは服、どうする?」
と聞いた。少女はそこで自身の姿を眺める。スカートは全体的に水を吸い、びちょぬれだった。
下着の様子を確認するため、捲るように指示する。最初は嫌がっていたが、流石に自身の現状を把握したのか、渋々スカートをたくし上げる。
彼女の下半身を包んでいたのは、ピンク地の、かわいらしい紙おむつだった。本来ならおしっこを受け止めるはずのそれから、おしっこがあふれ出てしまったのだ。
「ひっぐっ…ひっぐっ…」
少女はまた、泣き出してしまう。顔を紅くし、大粒の涙を流し、彼女は泣いた。俺はどう言葉をかけていいのか、わからなかった。時計を確認する。
…大丈夫。まだ駅には着かないはずだ。彼女を落ち着かせ、おむつをはずさせる。横をビリリと破いた。懐かしい音だった。
「うおっ…」
予想以上の重さについ声を出してしまう。少女はびくっとその声に反応した。怯える目つき。怒られると思っているのだろうか。
おむつは内側の部分をすべて黄色に染められ、水たまりも存在していた。少女を立たせ、水たまりを便器の中に流し、丸めてからゴミ箱に放り込んだ。一度手を洗い、彼女のリュックサックを貸してもらう。俺の予想が正しければ…
「やっぱり」
リュックには、替えの紙おむつがいくつか入っていた。
俺はその中から1つ取り出し、穿かせる。
彼女はその隙に自身の処理をある程度していたようで、俺がおむつを渡すとすんなりと穿いてくれた。問題はスカートの方だ。さすがに手持ちに替えの洋服などなかった。このまま放っておくわけにはいかないし……
おれが頭を抱えたそのとき、ピリリという音が彼女のバッグから聞こえた。俺は瞬時に反応し、それを見つける。
携帯電話。
渡りに船とはこのことだった。すぐさまそれを少女に手渡す。少女は受け取ると慣れた手つきで会話を始める。俺は邪魔にならないように、外に出た。
電車はもうすぐ、夕顔駅に着こうとしていた。

揺れが収まり、電車が止まる。ホームには1人の女性が、待っていた。ドアを開ける。トイレから顔を出した少女がこそこそと周囲を確認し、一目散に女性の元へと走っていく。
下に向かう階段に少女は隠れ、女性はその横で少女の話を聞いていた。やがてこちらに向き直り、頭を下げる。俺は少しだけ恥ずかしくなって、手で答えた後、反対側の窓の方へ逃げた。
眼下に街並みを眺める。
ここは俺が生まれた町。そして、もう戻らないと決めた町でもあった。俺には戻る資格がない。そう思っている場所だ。
発車時刻が近づいた。もう一度ホームを眺めると、すでに人影は消えていた。笛を吹き、ドアを閉める。と同時に階段から人影。
気になってしまい見てみると、そこには青いプリーツスカートと薄緑のボーダーシャツを着た、あの少女が息を切らして上がってきたところだった。
彼女は俺を認識すると、大きく手を振り、
「ありがとー!お兄ちゃんー!」
と笑顔で言った。俺も、あんまり悪い気はしなかったので、そのまま手を振って返す。
 そのとき、風がひゅぅと吹いた。
ものの見事に、スカートが捲られる。中の、俺が渡したおむつが、丸見えだった。少女はすぐにそれに気づき、手でスカートを押さえた。
そして何か大声で言っていたが、すでに電車はそれが何かを聴き取れる範囲から脱していた。
「気をつけろよ。もう…」
だから、この独り言も、あいつには聞こえないだろう。俺は自身の顔が少しだけ熱くなっているのを知っている。だから、ここまでで止めといた。これ以上何かを考えると、変な気分になりそうだった。
電車はトンネルに突入した。考える時間は、悠々あったから。
 仕事を終え、大事なことを忘れていたことを思い出す。彼女の名前を、聞くのを忘れていたことを。

本に栞を挟んで閉じる。さすがに目が疲れた。この明かりの乏しい空間では、目の負担は大きすぎる。少しばかり休ませよう…そう決め、本を読むのを止めた。本を机に置き、ランプを置いたまま、暗闇へと躍り出る。
本の森は常に姿を変える。ここは読まれることのない本たちの墓場だ。常に変化し、増えていく蔵書。迷路のように入り組み、高層階層を構築し、摩天楼のように聳え立つ。
こうやって一歩歩むだけで、私は地の底に向かって落ち、そして一回ジャンプしただけで、大空を舞う。
重力すら関係ない、異空間。その中で唯一ここの本を減らせる存在が、私…いや、私たちだ。まあ、他の連中は本を読む気があるとは思えないので、実質私だけだろう。
さて、まずは迷い込んだ子猫を探しに行きましょうか。それまで、その本、読んでいてもいいよ。栞は、そのままでね。

久方ぶりの休みに、俺は親父の墓参りに行くことにした。
命日や彼岸はとっくに過ぎているが、まあ、その辺はスケジュールが合わなかったのだ。仕方ない。
いつもは車掌として乗る電車に、今日は客として乗り込む。
相も変わらずスカスカの車内。車掌は先輩の扇さんで、俺の姿を見つけると、手で挨拶してくれる。
俺は会釈し、手短な席に座った。電車はいつも通り、激しい揺れとともに動きだした。
窓の外は雲一つない青空となっていた。風が吹いていて、電車の近くの木々が、少しばかり揺れている。
目的地は夕顔町。
駅にして3つ。
待ち遠しいような、後ろめたいような気持ちが、体を駆け巡る。電車は、警笛を鳴らし、橋を渡った。

「まもなく夕顔。夕顔〜。お出口、左側です」
声と共に立ち上がり、ドア前に立つ。電車がガクンと揺れ、減速した。そこで、この前の少女のことを思い出す。あの後、少女に会うことはなかった。
あれだけのことがあったのだ。俺を見つけると逃げてしまうかもしれない。
ただ、彼女はそんな雰囲気はなかったし、また同じ運用をやれば、会えるのだろうか。
ドアが開き、俺は電車を降りた。ホームには、俺以外誰もいなかった。電車の中には数人の乗客が残っていたが、誰一人動じず、ただ発車を待っていた。
その電車を背にし、階段を降りる。改札を抜け、駅を出た。綺麗にまとめられた、こじんまりとしたロータリーには、バスが一台、タクシーが4台止まっているだけだった。
俺は数秒考え、歩いていくことにした。それほど遠くないし、無駄に金を使う必要もない。時間に余裕だってある。それらのことを考え、足はひとりでに動き出していた。
遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。

親父の墓は、町を見渡す丘に作られた駅よりも上、その後ろに聳え立つ山の中腹の寺に存在する。世界的に有名なアルピニストだったらしい親父の要望で、その寺の一番見晴らしの良い場所に、墓があるのだ。
らしいというのは、俺が親父に関する記憶があいまいなせいだ。親父は俺が5歳の時に山で雪崩にあって死んだ。死体は運がよくて見つかった。そう、運がよくて。
どうせなら、もっと強運で、生きて帰って来れたらよかったのに。
親父の亡骸を前に、お袋がわんわん泣いていたのだけは未だに覚えている。対する俺はその光景がジョークやショーにしか見えなくて、泣くことすらできなかった。葬式をやって、数日してようやく、俺は親父が死んだことを認識した。
それでも、涙は流さなかった。代わりに、おねしょが再発した。その日から3年間。俺のおねしょは治らなかった。きっと、涙を流さないために、おしっこをしていたのだろう。子供のころは、そう思うしかなかった。
 少しだけ息を切らし、寺に到着する。年季の入った山門をくぐり抜け、その先の墓所へと向かう。急に空気が冷たくなった。この寺の雰囲気だろう。厭に静かで、妖怪でもでるんじゃないかと勘繰ってしまう寺。
昔は本当に出たという話も、ガキの頃に聞いた。桶に水を入れ、柄杓と花を持ち、線香とライターをポケットにいれ、その場所を目指す。墓地の端。そこまで石畳を歩き続ける。遠くで、電車が走る音がした。

ようやく、親父の墓に着く。生けてある花は萎れ、墓は所々が汚れていた。俺はそれを掃除し、花の水を替えて、自分の持ってきた花を生ける。線香を点け墓前に置いた。
合掌。
親父の墓からみた町の景色は盛観だった。駅も、街を一望できるがここはそれよりさらに高い。遠くに流れる川まで、見渡せた。
人などとても見えるものではなく、車さえ、確認できるか怪しい。ただ、街並みだけでも絵になる。そんな光景だった。
「紅雪…君?」
呆けたように景色を見ていた俺に、その声は届いた。声のするほうを振り向くと、そこには見慣れた人間が、そこにいた。
「なんだ。真夏か」
俺に真夏と呼ばれた少女は、ぺこりと一礼した。瀬尾 真夏。俺の幼馴染の少女、いや女性だ。童顔のせいか未だに15、16歳くらいにしか見えないが、年齢は俺と同じ20歳だ。
「珍しいね。紅雪君がここに来るなんて」
真夏は桶を置き、俺の横に立つ。背の低い真夏は、俺を上目使いで見たあと、そう言った。俺は年甲斐もなく、どきりとしてしまう。
真夏は世間一般からみれば美人の範疇にはいるだろう。漆黒の髪をおかっぱに切り揃え、声はハスキーボイス。胸のあいたブラウスを着ており、下にはキュロットを穿いている。立ち振る舞いを含め、日本人形的な雰囲気を持つ。
「やっと時間がとれたんだよ。そういうお前はどうしてここにきてんだよ」
俺の質問に真夏は一度振り返り、
「毬子さん忙しいから、1ヶ月に1回、私が乱眞さんの墓、掃除したり、お花交換したりしてるんだ」
と教えてくれた。毬子とはお袋のことであり、乱磨とは親父のことだ。どちらも久しぶりに、名前を聞いた。
「そうか。ありがとな」
俺は素直に感謝の言葉を述べる。真夏は「どういたしまして」と応え、
「でも、もう紅雪君が全部やっちゃったんでしょ?なら、私はこのお花だけ生けて、帰るよ」
と言った。彼女は花を墓前に生けると、俺に一礼し、立ち去ろうとする。俺はそれを引き留めた。
「……?」
真夏は不思議そうにこちらを見ている。俺は一度頭を掻いたあと、切り出した。
「久しぶりに会ったんだしよ。どこかで飯食おーぜ」
少しだけ、恥ずかしかった。真夏は少しだけ驚いた様子でいたが、すぐに「うん。どっか、行こうか」と承諾した。荷物を片付け、先に山門で待つ。すぐさま真夏は追いつき、2人で山を下る。
ちょうどお腹が空いてきたころ。
駅前には新興住宅特有の、大きなレストラン街を備えた大型複合商業施設がある。そこまでの間、何を食べようかと、2人で話し合う。そのやり取りがまるで子供のころのようだと、懐かしむ自分がいる。もう、この街には戻れないと知っている癖に。

大型複合商業施設、有体に言えばショッピングモールの中で昼食のパスタを食べ終えた後、俺らはそのまま買い物に移行する。
ちょうど真夏がほしい服や物があったらしくて、俺はその荷物持ちという扱いだ。別段苦労するものではないし、付き合ってあげることにした。
その考えが甘かった。
彼女は欲しいものを手当たり次第買った。どうやらいつもは荷物が重くなるから控えていたらしい。しかし、今日は俺という荷物持ちがいる。彼女の限界が、突破した。
「今日はありがとう。欲しいものは、大体買っちゃった」
真夏はうきうきとした声で俺に言った。対する俺は両手いっぱいにビニール袋や紙袋を提げ、見事なまでの召使っぷりだった。
「…満足したか?」
情けないなと思いつつ、疲れた声を出してしまう。真夏はきょとんとした顔をした後、
「満足も満足。大満足ね」
とにこにこしながら答えた。その笑顔は、名前の通り、真夏の太陽のようだった。俺も悪い気分はしなかった。こんな笑顔を見れるのならば、これぐらいの苦労、どうってことはないのだ。
ただ、その気持ちも長くは続かなかった。
帰るために1階に降りて、外に出るときだった。前から、3人組の男共がこの施設に入ろうとしていた。それに俺は気づいていたが、真夏は俺と話すことに夢中で、気づいてはいない。
奴らもまた、俺らには気づいていないようだった。そして、自動ドアのところで、事件は起きた。
「あたっ」

真夏は盛大にその男共の1人、アロハシャツを着たロン毛の男にぶつかった。
そいつはそこで「チッ」と舌打ちしたあと、少しだけニヤついた。それで俺の嫌な予感は倍増する。
「ご、ごめんなさい。前、見てませんでした」
真夏が誠意をもって謝る。しかし、男達は満足しないのか、
「ハァ?俺にぶつかってきてそんだけぇ?舐めてんの?」
と横柄な態度で言う。真夏はさらに困惑し、次の言葉が出ない。
「なぁさ。黙ってないで、何とか言ったらどう?」
横にいた、ピアスをジャラジャラ付けたツンツン頭の男が脅す。
「まあ、まずは土下座だよな。土下座」
さらに反対側にいた、スキンヘッドにサングラスの、流行り歌手をダメにした感じの男が言った。そこで俺はカチンときて、真夏をかばいつつ反論する。
「お前らなんだよ。謝ったんだし、そっちも不注意だっただろうが」
「うっせーよ。てめぇには聞いてねーし」
アロハシャツの男が語調を上げて言った。お前は邪魔だと言わんばかりの態度。今度は横のピアス男が、
「お前彼女の何なの?彼氏?」
と挑発する。そこでなぜか真夏の顔が赤くなった。俺はそれを見なかったことにし、
「別に友達だよ。で、もういいだろ?」
「よかねーよ!さっきからうざいんだよ!」
アロハシャツの男がいきり立った。ピアス男は真夏に近づき、
「なあさ。こんな奴ほっといて俺たちとお茶しよーぜ。嫌とは、言わねぇよな?」
と半強制的なナンパをしてくる。今度はスキンヘッドの男も加勢し、
「彼女ちょい小さいけど、かわいいじゃん。俺にもヤラセてくれるだろ?」
と卑猥な言葉を口にした。そこで俺は堪忍袋の緒が切れ、
「いい加減うざいんだよ…屑が!」
と、どすの利いた声を出した。そこでへらへらしてた横の2人も、こちらを向く。数秒の沈黙。
「…おい。今なんつった?」
先に口を開いたのはアロハシャツの男だった。こちらもかなりキレているようで、ぴくぴくとこめかみが動いている。
「聞こえなかったのかよ。屑っていたんだよ!ク・ズってなぁっ!」
大声での挑発。それを無視できるほど、こいつらは賢くなかった。
「…おい」
アロハシャツの男の合図に、他の2人が頷く。そして親指を立て、外を指差した。どうやら表出ろということらしい。
「……紅雪君」
真夏が俺の腕を掴んだ。震える手。俺はその手を反対の手で上から抑え、
「大丈夫だよ。俺が何とかするから」
と余裕をもって答えた。彼女は俺から離れず、寄り添いながら歩き出した。
 向かった先は、この施設横にある、人気のない路地裏だった。

ひんやりとした空間が、そこに広がっていた。寺とは違い、肌にまとわりつく、じめとした感覚。気持ち悪さが体に染み付く、そんな空気だった。そこに着いた途端、アロハシャツの男が殴りかかってきた。
不意討ちを狙ってのことだろう。
しかし、俺には効かない。そのまま鼻っ柱に拳をめり込めさせる。おそらく鼻の骨を折っただろう。悶絶し、後退するその男に代わって、今度はどこからか拾ってきたのか、鉄パイプを持ったピアス男が、大きくそれを振りかぶってきた。
「紅雪君!」
真夏を瞬時に後ろに庇い、その攻撃をよける。体幹がなってないのか、男は勢いだけでふらついた。それでも男は、更に横ふりで攻撃する。それをひらりとかわし、勢いを利用して回し蹴りを横腹に見舞う。
男はパイプを落とし、腹を抱える。その隙を、俺は逃さなかった。追撃のひざ蹴りを顔にぶち込む。
ぶちゅりとし感覚が、足に届いた。
男は顔を崩され、そのまま後ろに倒れこんだ。最後に、スキンヘッドの男だが、すでに逃げ腰だった。だが、ここにいる以上、倒させてもらう。俺が突進すると、そいつは蛇に睨まれた蛙のように動かなくなる。
恐怖に体を竦ませて、顔が大きく引き攣っていた。
そこでラリアットを首に叩き込む。スキンヘッドの男は背中、続いて後頭部からアスファルトに叩きつけられる。おそらく脳震盪ぐらいは起こしているだろう。まったく動かなくなった。
この間。わずか30秒の出来事。後は最初の男の後始末だ。そう思ったとき、
「きゃああああっ!!」
悲鳴が路地にこだました。最初の男はいつの間にか真夏を羽交い絞めにし、手にはナイフをチラつかせていた。鼻から大量の出血をしてる姿は、非常に見っともなかった。
「ぼい!これ以上やっだら、どうなるかわがってんだろなぁ…?」
所々が濁点になった言葉。おそらく脅しのつもりなんだろうが締まらない。しかし、ここは従っておくのが得策だ。
俺が両手を上にあげると、すぐさま後ろからその腕をつかまれる。ピアス男が復帰し、俺を羽交い絞めにした。アロハシャツの男はそこで満悦した笑みを浮かべ、
「びい気味だぜ」
と笑おうとしていたが、口に血が入り噎せていた。真夏を放すと、俺に近づき、顔を殴り始める。

「ヒャビャヒャビャヒャッ!気持ちいいぜぇ!」
どうやらドSのようだ。俺を殴ることでかなり気持ちが昂っているアロハシャツ。俺は少しだけやられるふりをした後、
ピアス男の足の甲を、思いっきり踏んづけた。
「―――――っ!」
悶絶。ピアス男は声にならない悲鳴を発し、腕の力を緩める。俺は瞬時に抜け出し、しゃがんだ。
アロハシャツの拳が、見事なまでにピアス男に刺さった。
マンガみたいに飛ばされるピアス男。そのままスキンヘッドの近くまで飛ばされ、こちらも動かなくなった。
「バァ?」
アロハシャツはその光景に唖然とし、動きが数秒止まる。俺はそこでハイキックをかまし、こめかみにヒットさせる。アロハシャツは呆けた表情のまま横に跳び、壁にぶつかり、動かなくなる。
全員動かなくなったのを確認すると、真夏の元に駆け寄る。真夏はへなへなと座り込んでしまう。そして、
しゃあぁぁぁぁぁ……
水の流れる音がした。薄暗くて色は分からないが、それがなんであるかぐらい、容易に判別できた。仄かに漂うアンモニア臭。放心した真夏は、自身が恥ずかしい行為をしているという認識すらなかった。
「真夏。しっかりしろ」
俺は彼女の肩を揺らし、正気に戻させる。真夏はそこでハッとし、
「あ、あれ私……」
そこでようやく、真夏は自分がおもらししていることに気がついた。自身のスカートを見る。お尻を見、また前を見て一言。
「おもらしなんて…中学校以来だよ…」
とあんまり覚えてもいない過去のことを話した。ひどく落ち込んでいるようだが、さすがにこのままにはしておけない。まずは、こいつらから離れなければ。
「立てるか?」
俺の問いに真夏は、
「えっと、なんとか…」
案外楽々と立ち上がる。俺はそこで一息吐いたあと、
「まずはその身なり、何とかしないとな……この先、確か児童公園があったよな。そこで着替えよう」
幸い、先程買った商品にはスカートもTシャツもあった。俺の提案に、真夏は「わかった」と素直に従う。
俺は彼女の手を掴む。彼女が驚いて俺の顔を見る。俺は動揺してる心臓を抑えつつ、
「走るぞ」
とぶっきらぼうに言った。きっと、顔は赤くなっているだろう。対する真夏も顔を赤くし、
「うん。なんとかついてく」
と少しだけ自信なさげに言った。
そこでのびてるゴロツキ3人を放置し、俺らは街を走り抜ける。周りの人は迷惑そうに、不思議そうに、驚いて、面白そうに俺らを眺める。瞬時に通り過ぎているから、彼女のおもらし跡もばれないだろう。というか、そう信じたかった。
児童公園は、目と鼻の先にあった。

児童公園は平日とあって閑散としていた。まあ、そのほうが好都合である。彼女の、真夏の今の姿を見られずに済むから。
公衆トイレを見つける。運よくここまで、誰にも見られずに済んだ。俺は悪いとわかっていても、女子トイレを覗いた。……誰もいないようだ。
「ほら」
俺は持ってる紙袋の1つとビニール袋の1つを手渡す。真夏は受け取ると女子トイレの中に消えていった。俺が外で待っていると、女子トイレから反響した声が聞こえる。
「紅雪君―。聞こえるー?」
俺は「何だよー」と返した。数秒後、彼女が切り出す。
「そう言えばさー、私が小学4年生の時もー、こうしてくれたよねー」
俺はその言葉で自身の記憶を探る。…あった。確かに、俺と真夏は小学4年生の時、似たようなことを経験していた。別に、喧嘩はしていない。ただ、真夏がおもらしをし、その介抱をした。
真夏は小学校の帰り道、よくおもらしした。幼馴染の俺は、その世話を、よくしたものだ。大泣きする真夏を連れ、家路を急いだあの日。まだ家が温かいものと思っていた頃。
 数十分後、真夏は新しい、ベージュのフリルスカートに、白い、胸にポップな文字がイラストされたTシャツを着て出てきた。
上まで着替えなくてもよかったが、どうやら新しい服を出すということで、気分を紛らわせたらしい。聞きたくもないのに、
「やっぱノーパンだしスースーするね」
とか呑気に口走っていた。俺は呆れた表情で真夏を見たが、真夏はそんな俺を見つめ返し、そして、
「……紅雪君。口から、血。出てるよ」
と指摘した。俺はそれを拭うが、真夏はさらに俺を凝視し、
「ここにも。ここにも。ここにも傷がある」
と様々な個所の傷を指摘した。正直、族時代の怪我に比べれば屁でもないのだが、
「さっきの喧嘩で?……うん。決めた」
いつの間にか真夏が何かを決めていた。徐に携帯電話を取り出し、誰かと話している。会話内容は聞き取れないが、真夏が敬語を使うとは、珍しいことだった。
「話が進んでるけど、どうなったんだ?」
俺の問いに、彼女は「私の仕事場まで連れて行って手当てをする」という内容のことを答えた。
正確には、「私の勤めているお屋敷の相方兼先輩に頼み込んでこっそり忍び込み。手当てをしてからこそこそと抜け出す」というものだ。
「おいおい。いいのかよ」
俺は世間一般常識的観点から、苦言を呈す。対する真夏は、
「大丈夫。あのお家、ほとんど私の勢力下だから」
と自信満々に答えた。それ、間違ってるだろという突っ込みは、心の中に仕舞っといた。

電話をしてからわずか5分。児童公園に1台の車が到着する。大型のワンボックスカー。真夏は大きく手を振り、車は俺たちの前で停まる。運転席には、奇怪な存在が乗っていた。
「すみませんプレシア先輩。奏音様は、お車の中に?」
真夏がその奇怪な存在に話しかける。
「ええ。お嬢様はお休みよ。あんまり、うるさくしないようにね」
プレシアは穏やかな表情で話す。吸い込まれるような、アクアブルーの瞳。不思議な雰囲気を醸し出す、白髪のウェーブヘア。なにより……
出で立ちが、メイド服だった。
その世間離れした光景を唖然として眺める俺。対して平然とし、
「早くしないとおいてくよー」
と声をかける真夏。さっさと助手席に座る彼女を恨みつつ、俺は後部座席のドアを開ける。
そのとき、俺の物語の歯車が動き出した気がした。
座席の奥で、毛布にくるまり、すやすやと眠る奏音と呼ばれた少女。その姿、顔。見間違えようもない。電車の中の記憶が鮮明に蘇る。
あのおむつ少女が、そこにいた。

さてさて、私がいないうちに、どこまで読んだのかしら?
あら、それほど読んでいないのね。ならそこで待ってなさい。すぐに追いつくから。
この世界の、本の森の外が気になる人も多いだろうから、掻い摘んで説明しよう。この世界はあなたが思っているような簡単な場所ではない。
最初に、この世界に到達できる存在は限られてくる。無論、決していないわけではないが、普通の、「人間」では不可能だろう。そんな、限られた存在のみが許される、秘密の場所。
次に、この世界は一体何なのかを説明しよう。この場所はすべての物語が集結する場所だ。ここに存在しない物語はない。勿論、ここの本の多くは読まれることのない誰かの物語だ。世間一般に読まれている本は、こんなところに迷い込んだりしないから。
最後に、この世界の外について説明しよう。この世界の外は、極楽浄土から無間地獄のすべてが存在する、一定した状態にならない、永遠に終わらない世界だ。うん。言ってる私があまり理解していないように見える。
だが、断じてそれは否定しよう。この世界は終わってはいけないのだ。この世界の終りは、すべての終結を意味するから。
さて、続きが気になるだろうし、先に進もう。

俺はその家の光景を見て、唖然とさせられた。
まず、門から家が見えない。
わかるのは石畳がくねくねと続いていること、木々が森の如く生い茂っていること、お金持ちらしい、ヨーロッパ調の塀が続いていることだ。
その石畳をワンボックスカーで進む。不規則な揺れが体を襲った。電車と車、その揺れの本質は全く違う。電車は縦揺れが少なく、横揺れが多い。
に対し、車は縦揺れの方が多い。だからこの揺れは、すごく体に響いた。
「もうすぐでお屋敷です」
そんな俺の様子をミラーで見つつ、プレシアはハンドルを右に切った。車がゆっくりと右折する。そして、石畳のカーブが無くなった。
正面に、今まで見たこともない豪勢な邸宅が、現れた。
どこかの有名ホテルかと見紛う位の大きさ。3階建ての建物で、壁は白で統一され、屋根は西洋風の、こげ茶色だ。
窓はすべてに木製の雨戸がつき、入口にはライオンが彫られている。車はその豪勢な入り口を逸れ、すぐ横の駐車場に停車した。
「着きましたよ。…真夏。先に彼を送って差し上げなさい。私はお嬢様をお運びいたしますから」
「わかりました」
真夏はプレシアの言うとおりにし、俺を降ろして家の中へ連れ込む。入ることすらおこがましいその雰囲気に、俺は自然とたじろいでしまう。
「早くしないと、これ、オートロックだから!」
真夏に言われ、俺は小声で「失礼します」と断ってから、豪邸の中へ侵入した。
 絢爛豪華。その言葉に相応しい室内だった。
まず玄関は吹き抜けになっていて、3階の屋根まで見渡せた。高い。室内かどうかすら疑いそうなぐらいの高さ。
木目調の室内は、気品と静寂さを兼ね備え、そしてすべてが高い代物だと感じずにはいられなかった。
「今、旦那様は書斎に籠られている時間帯だから大丈夫だけど…今のうちにこっちに、静かにね」
俺は真夏の指示に従うだけで、精一杯だった。俺とは無縁な世界。そんな中での立振舞い方なんて、分かるはずもなかった。そして、俺はリビングに、案内された。

真夏は慣れた手つきで俺の傷を見つけだし、治療する。俺はそんな自分にこそばゆさを感じ、抵抗しようと試みるが、すぐさま真夏の、
「おとなしくしてくれないと、私が困るよぅ…」
という泣きそうな声で、それを諦めた。やがて体中に絆創膏を貼り付けられた俺は、
「今、紅茶をいれてくるから…」
という言葉に甘え、1人おとなしく部屋で待つことになった。やっと落ち着いて、リビングを眺める。広い。豪邸のリビングにふさわしい、広々とした室内。
3人掛けソファが3方に並び、それぞれにレースの飾りがかけられている。傷一つないフローリングの上に、オリエンタルな模様の、高級そうな絨毯が敷かれている。
「うおぉっ…」
思わず声が出てしまうほど、豪勢な空間。
「はしたないですよ。お客様」
後ろから声をかけられる。俺が振り返る前に、その声の主はすぐさま回り込み、俺の様子を見る。
「……ふむ。大丈夫そうですね」
「…プレシアさん」
プレシアはソファの1つに腰かけ、メイド服の裾を整えると、こちらに向き直り、きつい視線を俺に浴びせた。
「あなた、お嬢様の何?」
単刀直入な質問を、投げかけてきた。
「いや、その…」
言葉にしづらい関係だ。名前さえ、さっきまで知らなかった。「かのん」だっけ?どんな漢字を書くんだろうか。
「プレシア先輩。違いますよ。その人は悪い人じゃない…とは言えないけど、少なくとも、私の信用のおける人です」
紅茶を持って、真夏が帰ってきた。真夏はいつの間にかメイド服に着替え、ヘッドレストとリボンで髪をまとめ、西洋的な様相の姿は、彼女の雰囲気をがらりと変える。
その彼女は俺の過去を知っているから、含みのある言い方をした。
「そう…真夏がそういうのなら…」
プレシアはまだ、探るような視線を俺に向けていたが、そんなことお構いなしに真夏は紅茶を置くと、俺の隣に座る。
「一応自己紹介します。紅雪君です」
俺が一礼すると、プレシアは軽く一礼し、
「初めまして…というのも変ですけど、紅雪さんですね。プレシアです。よろしくお願いしますわ」
と挨拶する。そして、紅茶を1口啜ると、プレシアは早速切り出す。
「真夏。旦那様に気づかれないように、紅雪さんを送って差し上げなさい」
拒絶。はっきりと認識できる拒絶だった。
「そんな冷たいですよ…プレシア先輩」
真夏が批難をするが、プレシアは気にも留めずに、
「お嬢様の教育上よろしくありません。本当ならすぐに出ていってもらいたいぐらいです」
と辛辣な言葉を浴びせる。まあ、こんなことは慣れっこだ。俺はすぐさま紅茶を飲み干し、立ち上がる。
「ありがとな真夏。頼むけど、送ってもらえないかな?」
「紅雪君…」
真夏は数秒俺を責めるような、悲しそうな曖昧な表情で見つめたが、プレシアの「賢明な判断です」の言葉を受け、ゆっくりと立ち上がる。
「わかりました。……すみません紅雪君」
最後の声は、俺にしか聞こえない小さな声だった。俺はジェスチャーで「いいよ」と示し、2人でリビングを後にした。

廊下を進む。余所の家だったら部屋ほどもあるぐらい、広々とした廊下。端には手すりが備え付けられている。
「今日は、ありがとうね。…本当に」
真夏の感謝の言葉。俺は「いいって」と返す。香水をつけているからか、ほんのり花の香がした。おそらく、おしっこの匂いをごまかすためだろう。
その時、微かであるが、ピアノの音がした。
「ん?」
俺はその音に機敏に反応し、導かれるように廊下を逸れ、その音がする方へ歩いて行く。真夏はそんな俺を咎めず、逆に嬉しそうな表情で後ろをついてくる。
どんどんと大きくなるピアノの音。
最初は穏やかだったピアノの音は、だんだんと激しくなっていくが、それでも滑らかに奏でられていた。やがて、ピアノの音がすぐそばまで聞こえる場所に来た。
「……ここか?」
外から見たら只の扉。俺はそこから漏れるピアノ音に、吸い寄せられ、静かに開く。
そこには、天使がいた。
穏やかな、それでいて嬉しそうな表情を浮かべ、「かのん」はピアノを軽やかに弾いていた。羽が舞うよな、そんな幻視さえ見えてしまう姿。奏でる響きは天使の囁き。
「かのん」は俺の知らない曲を、体に溶け込ませる感じ。…そうか「かのん」って「奏音」って書くのか。そう直感した。
突然、その指が止まった。

彼女はピアノを弾くのをやめ、こちらを見る。しまった。彼女の空間に入り込んでしまったか。
「あれ?見たことない人…誰?」
奏音は俺らを眺め、尋ねる。さすがに制服を着ていないとあの時の車掌だと気付いてもらえないか。そう思っていたが、少し様子が違った。
「初めまして奏音ちゃん。今日からここで働くことになった真夏です」
真夏は俺の前に出て、わざわざ自己紹介した。俺はその行為に不信感を覚えたが、真夏は俺を割り込ませなどしなかった。
「まな…つ?」
「はい。真夏です」
幼児のように名前を繰り返し、反芻する奏音。真夏はにこやかに、保母さんのような対応をした。奏音は一通り名前を繰り返すと、今度はその夕焼け色の双眸を、こちらに向けた。
「お兄ちゃんは?誰?」
その声は、まるで今ここに生まれてきたかのような、純粋無垢な音色だった。
「俺の名前は紅雪だ。よろしくな」
俺の自己紹介を受け、彼女は答えようとし、
「あたしの名前は、名前は…」
止まった。ビデオを見るような感覚。すべてが制止し、音すらなくなる。開いたままの口を動かさない奏音。返答がこず、どうしようか思いと動けない俺。そして、真夏が悲しそうな眼で、奏音を見つめていた。
「名前…なんだったっけ?」
静寂を打ち破ったのは、奏音の無邪気な声だった。どこまでも透き通るような声で、彼女は、自身のことを尋ねた。俺はその光景が理解できなくて、呆けてしまう。それに対し、真夏は迅速に対応した。
「お忘れですか?奏音様。あなたは華村 奏音様です。この華村家のお子様ですよ?」
ニコニコとした表情を崩さない真夏。しかし、その表情に一瞬、陰りが見えた。
「うーん…覚えてないかも。真夏は、あたしを、知ってるの?」
「はい!私はこの華村家で、ハウスキーパーをさせていただいております」
きょとんとした眼。その眼が、さっきと同じように、俺に向けられた。
「じゃあさ、紅雪はあたしのこと、知ってる?」
無邪気な、本当に無邪気な質問。その質問に俺は、答えられなかった。

奏音は俺の顔を食入るように覗く。俺の回答を待ちわびているようだった。だけど、俺は軽はずみに答えることなど、できなかった。またも時間が止まる。しかし、今度のそれは、一瞬で終わった。
「あ…」
小さな、それでいて確かな声。奏音は股間に手をやると、強く押さえる仕草をする。顔がみるみる赤く染まる。真夏はすぐさましゃがみ、奏音と同じ目線になるよう腰を下ろした。
数十秒その行為が続き、やがて体を震わせると、「ふぅ…」と大きく肩で息をした。
「おしっこ、でちゃいました?」
穏やかな声。奏音は静かに頷いた。真夏が手を差し伸べると、奏音はその手を自然に、受け取った。
「あれ?…なんだか、懐かしいかも」
奏音の言葉に、真夏はにこりと微笑み、
「きっと、お体は覚えているのですよ」
と答えた。そして、ピアノの部屋を後にし、俺らは奏音の部屋へと向かう。
部屋に入ると、真っ先に目についたのは、どでかい熊の縫いぐるみだった。
ファンシーな空間。ところどころに縫いぐるみが置かれ、ベッドもメルヘン調に彩られている。壁に備え付けられた木目調の低い箪笥の上には、額縁に収められた表彰状やトロフィーが飾られている。
反対側の壁にはキーボードが置かれ、その上には楽譜が広げられていた。楽譜には様々な書き込みがされていて、題名はこの位置では読み取れないものの、とても人間が引ける量の音符の数ではなかった。

玄関の外まで連れ出された俺は、そのまま車の近くまで連れて行かれ、
「あなた。お嬢様の秘密、どのくらい御存じなの?」
と詰め寄られた。俺は虚を突かれ、茫然自失に一瞬陥ったが、すぐさま意識を回復すると、
「どのくらいって…まぁ…あの子が、おむつをしてること…ぐらいかなぁ?」
正直、俺は彼女のことをほとんど知らない。電車で会ったことなど数回だけだし、名前だって今日知ったのだ。そんな少女の秘密をどれだけしているのかと聞かれても、答えようがなかった。
「そう…しらばっくれるのねぇ?」
プレシアはやけに低い声で脅したあと、メイド服の懐から黒光りするものを取り出した。
それは、誰がどう見ようと、拳銃だった。
実物かはわからない。ただ、その重厚なフォルムと、雰囲気が、それが本物であることを物語っていた。
「これを突き付けられても、NOと言えるのかしら?」
彼女は妖艶な表情を浮かべながら、胸に銃口を突き付ける。サディスティックで退廃的な光景。しばらく離れていた、俺の居場所。昔のことが、走馬灯のように思い出される。
「……ああ、言えるさ」
そうさ。言える。この程度のピンチ、ざらじゃない。
「ふぅん?」
強く押しあてられる銃口。引き金を握る手が、ぴくりと動いた。
「俺は何ら疾しい心なんてない。ただ真夏に連れられて、ここに来ただけさ」
プレシアは俺の瞳を見つめ、真意を探る。数秒の空白。風の音が大きく聞こえた。
「まあ、今日はここまでね」
プレシアは銃を胸元に戻し、離れる。俺がほっと一息つくと、玄関から真夏と奏音が現れた。
「お話の方、終わりました。送って差し上げなさい真夏」
「………」
真夏はだんまりを決めて、プレシアを見る。プレシアもさすがにこの行為にいぶかしみ、真夏に問う。
「真夏。どうしたのですか?車のカギでしたらあなたも持っているはず…」
「奏音様がっ!」
そこでプレシアの声は遮られた。プレシアは一瞬驚いた表情をしたが、またいつもの冷静な表情で、
「お嬢様が…どうなされたのです?」
と聞き返す。その声は、冷徹だった。聞いただけで背筋が伸び、体が硬直し、動かせなくなる、そんな声だった。
しっかりと2人に向き直るプレシア。もう、表情の様子などは分からない。

「奏音様が、紅雪君に、話したいことがあるようです」
言い終わる前に、奏音は俺の元へ駆け寄ってきた。プレシアは、動かなかった。奏音は俺に抱きつくと、上目づかいで俺を見上げ、
「あのね、紅雪。紅雪って、あの、車掌さんでしょ?」
と聞いた。俺は突然の行為にどぎまぎしたが、
「ああ。どうして、気づいた?」
と聞く。奏音はその回答に喜び、心底嬉しそうな笑顔で、
「わかる…わかるよ!だって、声。同じだもん」
と言った。そこでプレシアがハッと振り返る。真夏も驚いた表情で俺を見た。
「あのね…あたし。時々、忘れちゃうんだ。いろいろなこと。自分のこと。みんなのこと。大切なこと…でもね。ここには…」
そうして彼女は自身の胸の前で手を組み、
「ここにはそんな、忘れちゃうはずだったものが少しだけ、残るの。音とか。感じとか。でね、声だけ。車掌さんの温かい声だけ、ここにあったの」
穏やかな表情。俺はというと、照れくさくて、まともに顔を合わせられなかった。奥の2人は、静かに、こちらに歩み寄った。
「でね。でねっ!あたし、ずっと…ずっと言いたかったんだ…ありがとうって!……あなたに」
一筋の涙が、流れ落ちる。やがてそれは雨となり、地面へと降り注いだ。
「忘れちゃう…とこだったよぉ…あたし…あん…なにぃ…思って…たのに…」
涙とともに出る、掠れた声。それは、彼女の心の叫びだった。
「お嬢様。もういいのです」
プレシアは彼女を抱き寄せる。視線では、「もう行ってくれ」と言わんばかりだった。後ろで、車のドアが開く音。見ると真夏が運転席に座り、エンジンをかけた所だった。真夏が無言で頷く。俺はそこで奏音から離れ、車に乗ろうとし、
裾を、掴まれた。
赤ん坊のように。強く握られた手。俺は一度向き直り、優しくその握り拳を解かせ、言った。
「大丈夫だよ。また、会いに来るから」
泣き顔で彼女は、聞く。
「本当?」
「ああ、本当さ」
俺は強がるような、自信ありげに言った。プレシアは「余計な事を」と言いたげだったが、彼女の人となりからして、奏音の要望は、断らないだろう。
「じゃあ、また来てくれる?約束、守れる?」
その艶やかな、触るだけで天にも昇る気持ちになる髪の毛を撫で、
「守るよ。……絶対」
と宣言した。
奏音とプレシアに見送られ、華村家を出たのは、その5分後だった。

流れる街並みを眺め、俺は駅まで送ってもらった。真夏は、終始楽しげに会話をしていたが、奏音のことは一度も話題にはしなかった。ホームに立ち、夕焼けに染まる街並みを眺めた。遠
くはもう電灯がつき、夜景と化し始めていた。もうすぐ夕方のラッシュだ。きっと降りる人でこのホームはごった返すだろう。ここは多くの人が帰る場所と決めている場所。ベッドタウンと呼ばれる場所の1つ。
だがここにはもう1つの、荒んだ歴史がある。ここは数年前まで、治安がいいと呼べる街ではなかった。町にはヤクザや不良が蔓延り、夜に1人で出歩いてはいけない町と呼ばれた。数年前まで。
数年前。ある事件を皮切りに、警察が本格的にここいら一帯の取り締まりを強化した。それにより、ここは以前とは違った、クリーンなイメージを取り戻すことができたのである。
しかし、今でもところどころに傷痕は残っている。この駅の近くのガードは、そんな記憶を色濃く残す現場だ。無数の落書き。血の跡。まだこの町がすさんでいたころの名残。
町にも記憶がある。人だってそうだ。この町の人間の多くは、未だに夜は単独行動をしない。昔の記憶は、易々と消えない。
だが、彼女は違う。彼女はいとも簡単にすべてを忘れてしまう。
それは、幸福なのだろうか。はたまた、不幸なのだろうか。
大手私鉄直通の、長大編成の電車が、ホームに入ってきた。中のぎゅうぎゅう詰めにされた親父やOLが、早くドアが開いてほしい願っていた。
ドアが開く。
それと同時に雪崩のように降り、ホームを埋め尽くす人だかり。その中で俺は、1人唇を噛みしめていた。
 彼女の苦しみを知りもしないで、そんなことを考えてしまった自身を恨みながら。

さてさて。あなたたちも随分とこの世界のことが分かってもらえたようだし、少しばかり難しいお話をしようか。なに、気楽に流してくれてもかまわないよ。
あなたは本を読む?
どんな本でも構わない。漫画でも、小説でも、雑誌でも、実用書でもなんでもありだ。
どれか1つは読んでいる?だろうねぇ。
まあ、生きているうちに本に触れず生きるのは不可能なことだ。誰だって教科書を読んで勉強するし、絵本だって読む。
ただし、それは先進国と呼ばれている連中に限るが。
あなたが手に持つその本には、さまざまな文字がつづられている。それは意味のある言葉として、あなたの中に残っていく。意味があるものであろうとなかろうと。
そしてあなたは紡ぐのだ。人生という物語の中に、数々の文字を使って。
では、それができない人々はどうなるのか。
記憶を持てない人は?
文字を持てない人は?
あなたは今、幸せの中にいることを実感したほうがいい。そのためにもあなたは、この物語を読んで、不幸について考え直したほうがいいだろう。
さて、他人の不幸の話の続きが始まるよ?

あれからしばらくの間、時折俺は奏音の家に訪問しては、彼女の遊び相手となった。
彼女はいつも朝早くに治療のために病院に出かけてしまうため、遊ぶのはもっぱら彼女が返ってくる16時以降となる。
「紅雪?今日はね…歌、聞いてほしいの」
「歌?」
「うん…このまえ、真夏がきいていた、歌」
珍しい。奏音は主に弾くほうで、俺はすでに3回ぐらい奏音の素晴らしいピアノテクニックを拝んでいる。
彼女は本当に巧くて、そんじょそこらの人間では、その巧さがうまく言葉にできないぐらいだ。
「えっと…設定は…」
奏音はキーボードを弄り始める。どうやらすでに下準備として伴奏を入力しておいたらしい。
自身が入力したデータを必死に探す姿は、とても愛らしい。
「あ、あった。再生っと…」
彼女が再生ボタンを押すと、曲がピアノの独奏から、始まる。奏音はそれで自身が選んだ曲か間違いないかを確認し、キーボードから離れた。

全自動で流れる伴奏は、静かな曲調から始まった。和的なメロディ。やがて、楽器が重なり、音が壮大になっていく。そして、さららという金属製楽器の流れる音を機に、奏音が歌い始める。
「嗚呼、足元で爽やかに夏の足音♪ 空は青く高く♪…」
静かな曲調。落ち着いたメロディ。奏音の声がしっかりと聞こえる。その声はまるで天使の囁きのように軽やかでかつ伸びがあるものだった。曲はAメロを進み、サビヘ突入する。
 瞬間、世界が開ける感じがした。
広がる楽器の音。どこまでも突き抜ける感じ。夏の青空を彷彿とさせる爽やかさ。俺の目の前に、それが広がった。その中心で、日傘を差し、歩く奏音の姿を幻視する。
奏音は伸びのある歌声で、俺をその世界へと誘った。
「太陽よりも眩しい笑顔の花♪ 今こそ此処に咲かせましょう。♪」
そこでサビが終わり、またAメロへと戻る。落ち着いたメロディに映える声。電子音は記憶を呼び覚ます音。いつのまにか、俺はこの歌に引き込まれていた。
「また今年も廻り廻る恋の季節♪ 心に芽生えた恋の花♪」
再びのサビ。夏の景色そのものを見るような感覚。ひまわり畑。数本のひまわりを抱える少女。麦藁帽子を被った、奏音の姿。どこまでも広がる青と黄色。2色のコントラストに映える白い少女。
……うん。それはすごく、美しい光景だ。
曲はサビを終え、感想を挟み、B,メロへと入る。俺はもう、その曲、ひいては奏音の歌声の虜になっていた。
「いつかは終わりの来るその生命(いのち)♪ 少しでも永くそばにいて♪ 心に大粒の雨が降った日は♪ 抱きしめてキスをして涙をそっと拭いてあげるから♪」
徐々に大きくなる声量。昂る心と思い。全ては恋のなせる業。そして一度落ち着き、サビに入る。前2つのサビを繰り返し、曲は和風なメロディを残し、消え入るように終了した。

数秒間、静寂が流れた。
俺は彼女の歌声に息を呑まれ、言葉を忘れてしまった。彼女は歌い疲れ、少しだけ息を荒くしていたが、少しだけ不安そうな表情を、俺に向けていた。俺はやっと言葉を取り戻し、
「……すごい。これしか言えないけど、奏音は、めちゃくちゃすごい」
俺の言葉の意味を図りかねていた奏音は、恐る恐る聞く。
「下手、だったかなぁ?」
俺はその言葉を即座に否定し、
「そんなことない!というか絶対に奏音はその辺のアイドルなんかよりは絶対うまいよ!」
と力説する。奏音はそれ聞いて安心し、気が抜けたのかぺたりと座り込む。その座り方で、オムツを露わにしてしまった奏音。前よりも膨らみ、レモン色に染まっているのがありありと分かった。
「おもらし、しちゃったのか?」
俺の問いにこくりと頷いた。そして、オムツを確認し、
「さっき思いっきり大声出しちゃったからかな?」
と朗らかに笑いながら言った。あんまり危機感がなさそうな顔。前はおもらしであんなに泣いていたのに。やっぱり、記憶を失うというのは、心も失うということなのだろうか。
「じゃあ、真夏を呼んでくるよ」
俺が離れようとした瞬間、服の端をがしと掴まれた。振り返ると、右手で服の端を掴み、左手の中指をしゃぶりながら、奏音が俺を上目遣いで見ている。
「行っちゃ…ダメ…」
急に寂しそうな表情になり、声も涙声に変わる。
「1人にしないで…あたし…あたし…」
そこから先の言葉は、出てこなかった。泣きそうになる彼女を抱きあげて、手で涙を拭いて、言ってあげる。
「わかったよ。離れない。一緒に、真夏の所、行こっか」
「うん!」
瞬時に笑顔に戻る奏音。大輪の向日葵のような、晴れ晴れとした笑顔。それを見ただけで、俺の顔は、沸騰した。
「?紅雪?顔、どしたの?赤いよ?」
不思議そうに眺める奏音の視線でハッとなり、俺はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。
「な、なんでもねー!さ、早く行こうぜ」
2人で奏音の部屋を出て、真夏のもとへ行った。

真夏はエプロンドレスを身に纏い、キッチンで夕食の準備をしていた。俺が呼びかけると、スリッパをトテトテと鳴らして、やってくる。
「あれ紅雪君に奏音様?抱っこされて嬉しそうですけどどうしたんです?」
奏音はそれを指摘され、急に慌てふためいた。バランスを崩しかけ、危うく落としそうになる。数秒落ち着いて、事情を説明する。
「はいはーい。奏音様は本当に紅雪君のことが好きですねぇ」
少しばかり茶化した様子だが、奏音は本気にし、大きく否定しながら、
「ち、違うもん。あ、あたし…そ、そんなんじゃ…ないもん…」
と顔を赤くしながら、満更でもない様子だった。俺もあんまり、悪い気がしない。
「じゃあ、紅雪君。私は行ってきますから、少し待っていてくださいね」
真夏に連れられ、奏音はまた自身の部屋へと戻る。俺は1人残され、キッチンを見まわす。
純白に統一された、清潔感のある室内。オール電化のシステムキッチンは、整理整頓され輝いていた。
「すごいなぁ…」
思わず声に出てしまう気持ち。お金持ちの概念は違う。そう感じさせる室内だった。
その時、蝶番がキィと音を立てて、ドアが開かれた。俺は真夏が返ってきたのかと思い、微笑み顔で振り返った。
 そこには、髭を蓄えた、細身の中年男性がいた。
 固まる。2人同時に固まる。お互い初対面。探るように交わされる視線。
 先に口を開いたのは、中年男性の方だった。
「君はあれか…奏音のもとに来るという男か」
「…えっと、はい」
俺はまだ緊張で固まっていて、片言のような感じでしか返せない。
様子を注意深く観察する中年男性。しかし、それを諦めると、男性は慣れた手つきでコーヒーを入れ始める。俺はそれをただ見てるだけだった。
「……コーヒーはキリマンジャロだと思うのだが、君はどう思うかね?」
「コーヒー…ですか?」
缶コーヒーが限界の俺に、コーヒーの味の差など、わかるはずはなかった。
「………つまらない男だな」
男性は俺をそう酷評すると、もう興味が失せたのか、話しかけることはなくなった。
やがてコーヒーを入れ終わると、俺を一瞥し、キッチンから出ようとする。と同時に、2人が帰ってきた。
 鉢合わせ。真夏が「しまった」という顔をしている。奏音はきょとんとした表情で男性を眺めていた。男性は2人を眺めた後、
「真夏君。あとで私にサンドイッチを作って持ってきてくれ」
「は、はい。誠一郎様」
「それと…」
誠一郎と呼ばれた中年男性はこちらを振り返り、
「あまり娘に悪影響を与えるようなやつを家に引き込ませないでおくれ。いくら君の頼みとはいえ、私も怒るぞ」
と忠告する。真夏は俺をチラ見した後、
「申し訳…ございません」
と深々と謝る。俺は自分がどういう風に見られていたかを察し、言い返そうとしたとき、今まで黙っていた奏音が、口を開いた。
「おじちゃん?誰?」

空気の流れが、止まった。
誠一郎を不思議そうに眺めながら、繰り返し、「初めてみるよ?おじちゃん、どこから来たの?」と質問攻めをする。
すぐに対応したのは真夏だ。真夏は後ろから奏音を抱くと、耳元で明るく囁く。
「お忘れですか?奏音様のパパ様ですよ?」
真夏の言葉を聞き、大きな瞳を一際見開いて、誠一郎を見る。
「あたしの…パパ?」
その言葉も、初めて聞いたかのように…事実初めてだったのだろう。意味を探るように繰り返していた。誠一郎は一部始終を見た後、
「……じゃあ、真夏君。後は頼んだ」
と真夏には言葉を残し、奏音に言葉も残さず去って行った。俺はその様子を茫然と眺めていたが、我に帰り憤る。
「おい!今の人っ…」
「はい。奏音様のパパ様である、誠一郎様。だからまずは落ち着こ?」
真夏は先手を打ち、俺を鎮静化させるためにミルクを俺の前に出した。俺はそれを受け取りがぶ飲みする。
コップのミルクが空になった時には、少しは頭に上った血も下がったみたいだ。
「紅雪。口にミルクでひげできてるよ」
奏音は俺の顔を指差し、言った。俺は慌ててハンカチを取り出し、拭く。奏音はクスクスと笑いながら、
「もう、焦って飲んだりするからだよ紅雪。おもしろーいっ!」
こちらに近づき、真夏にミルクを要求する。真夏は先ほどと同じようにミルクを出そうとしたが、奏音は首を横に振り、

「あたし、真夏のミルクが飲みたいの」
と爆弾発言した。
またもや、世界が停止した。
「えっ…?ええっ!?」
流石の真夏も動揺を隠しきれなかったのか、牛乳を手から離した。牛乳はキッチンの上に垂直に落ち、そのまま直立する。
少しだけ漏れたミルクが、床や真夏のエプロンを汚した。顔を真っ赤にし、あわわと動く姿は、小動物のようだった。
「真夏、ミルク、出るんでしょ?」
そんなことも気にせず、奏音はさらに近づいた。やばい。俺は顔を熱くし、否応なしに真夏の乳房を凝視してしまう。
少しだけ膨らんだ、ふくよかで張りのある乳。母性的とはいえないものの、ちんまり主張するそれは、女性の証だった。
「もう、紅雪君までどこ見てるんですかぁっ!」
耳まで赤くし、真夏は胸の前に腕を置き、俺らの視線から逃れようとする。俺もその言葉で咄嗟にそっぽを向いた。そしてそこで、強い視線に気づく。
ドア横に、悪鬼が立っていた。
正確にはなぜか嫉妬の瞳を向けたプレシアさんなのだが、あれはどう形容しようにも悪鬼だった。ぎらついた視線。今にもレーザー光線が出そうだ。
口元にはハンカチが添えられ、それを漫画のように噛みしめ、引っ張る。ああ、あれ。マジでやる奴いたんだ…と場違いな感想が頭を過った。
「え、だめ。そんなっ…私っ」
後ろではもう切羽詰まったかのような真夏の声。やばい。マジでやばい。今後ろを振り返ると、金輪際剥がせないレッテルを付けられそうだ。
俺はロボットのようなぎこちなさで動き、ドア元にいたプレシアさんに助けを求めた。プレシアさんは最初俺を射殺さんとする視線で見ていたが、すぐにいつもの冷ややかな視線に戻り、
「……わかりました。そちらは何とかしましょう。しかし、今日はもう遅いですし、お帰りになられたら、どうでしょうか?」
と暗に「帰れ」と脅してきた。まあ、こうなってしまった以上仕方のないことだろう。俺は素直に従い、プレシアに奏音を任せ、廊下を歩きだした。

家を出ようとしたところで、真夏が俺に追いついた。息を荒くし、顔はまだほんのり赤かったが、どうやら冷静さは取り戻したようだ。
真夏は、今、奏音はプレシアが面倒を見ていること、俺を駅まで送って行くように言われたことを説明した。俺は別にいいと断ったが、どうやら俺に対する用事はオマケで、そのあとの用事が本命のようだ。
俺はそれを聞き、少しばかり落胆したが、真夏と2人きりになるいい機会だということもあってか、その誘いを承諾した。
車は石畳を出て、公道に出る。最初はお互い無言だったが、ぽつりぽつりと会話が始まった。
「誠一郎様…きっと辛いんじゃないかな…」
真夏は低いトーンで、切り出した。俺は無言を貫き、先を促す。
「だって、誠一郎様、毎回ああやって忘れられちゃうんだよ?……私もまだあそこで働き始めて1年足らずだけど、辛いよ。忘れられると」
少しばかり、声に潤みが増した。俺は「けど、覚えている時もあるんじゃないのか?」と聞くが、真夏は軽く首を横に振り、
「あの子が…奏音様が一度忘れたことを思い出すのは、紅雪君のことで3回目なんだ。1回目はピアノのこと。2回目はお母様である彩音様のこと。……たったそれだけ」
さらに声は潤みを増し、涙声へと変わる。
「それ以外は、奏音様はどんなことも忘れてしまう…もちろん、基本的な言葉とか習慣は大丈夫だけど…思い出とか…大切なこととか…あの子はどんなに覚えていたいと思っても忘れちゃうんだよ?」
そこで一区切りした。ミラー越しに見た真夏は、大粒の涙を流していた。
「それって…悲しすぎない?」
真夏の言葉に、俺は「そう…だな…」としか返せなかった。記憶を失うことが、どういうものか知らない俺にとって、奏音を取り巻く全てのことを理解することは不可能だし、理解しちゃいけないと思った。
深い悲しみを理解したつもりになるのは、そいつの傲慢でしかないからだ。
「だからきっと、誠一郎様はもう疲れちゃったんだよ…そんな日々に。だから今では、私達…ハウスキーパーにしか、お会いにならないもの」
父親として、わが子に忘れられるとはどういう気持ちなのだろうか。想像もできないほどの悲しみ、絶望……それが克服できないものであるという怒り……俺の想像力程度では、簡単には形容できないものだろう。
それは、マリアナ海溝のように深いものだ。人間レベルでは、到底到達できないほどの。

俺は真夏の話を聞いて思う。奏音はその悲しい事実を気づいていないだろう。だって、そんなことすべても忘れてしまうから。だから、その悲しみを、周りにいる人物が背負う。そして、それが伝わり、彼女も悲しみを追う。巡り廻る悲しみの輪廻。
車はいつの間にか駅に到着していた。ロータリーを回り、入口の前に止める。そこには既に「本命」の人物が1人、佇んでいた。
幽霊みたいだな…それが第一印象だった。
一点の曇りがないほどの白い、純白のワンピースに身を包み、華奢で長い、肌色の薄い手足が見える姿は、柳の下の幽霊を想起した。スラリとした長身。美人画の幽霊がそのまま出てきたかのような姿で、奏音とも真夏とも違う、幽冥の美しさを感じさせる顔。
その顔に不釣り合いのサングラスをかけ、彼女の傍らには無骨なアタッシュケースが置かれ、反対側の手には、金属製のステッキが握られていた。漆黒の長い髪が、風になびきカーテンのように落ちていった。
「着きましたよ?紅雪君」
真夏の言葉に促され、俺は車から降りる。と同時に、真夏はその女性の横に立ち、アタッシュケースを左手で持ち、右手で彼女の左手を握った。彼女はそこでようやく真夏の方を向き、頷く。
「じゃあ、歩きますよ?」
真夏の言葉に頷き、女性はゆっくりと歩き出した。それに真夏が合わせる。杖をこまめに動かし、顔は微動だにしていない。そこで俺はこの女性の状態に気づく。
 この人は、目が見えていない。
 真夏に連れられた女性は、俺の横に来る。俺は邪魔にならないように避けた。女性は俺のことなど気付かない様子で車に乗る。真夏は「ここに置いときますね」と断ってから、彼女の横にアタッシュケースを置き、ドアを閉める。そして俺に向き直ると、
「今日もありがとう…でね、これは内緒ね」
そう言いながら、ポケットの中にメモ帳を切ったような小さな紙を入れた。そして、すぐさま運転席に戻り、車を発進させる。俺がその紙を確認する前に、真夏と女性を乗せた車は、視界から消え失せていた。
紙には、11桁の番号が3−4−4に分けられ、書かれている。見たことのない番号。俺は頭を傾げながら、駅の中に入った。

家に着いた俺は、その番号とにらめっこを続けていたが、あほらしくなって、思い切って掛けてみることにした。番号を入力し、発信ボタンを押す。手に汗を掻いてしまっていた。
妙な緊張感。コール音がそれを煽る。
――もしもし?
4回目のコール音の後、その声は聞こえた。俺は静かに「もしもし」と返す。そこで相手方は俺の声に気付いたようで、
――紅雪?
と名前を聞いて来た。俺はそこで合点がいき、相手の名前を言った。
「なんだ。奏音の電話番号か」
奏音は「なんだというのは失礼かも」と非難してから、嬉々として会話を始める。
――誰からあたしの電話番号知ったの?
「真夏だよ。あいつがこっそり教えてくれたんだ」
――真夏か…うん、うん。ありがとって後で言わなきゃ。
「ああ言ってやれ。きっと今日みたいに顔を赤くするぞ」
――あれも面白かったよね!思い出しただけで笑っちゃうかも。
「お前…わざとだったのか?」
――ううん。おっぱい飲みたかったのは本当。あたし、その記憶もないから…どんなのかなって。
 言葉の節々が、少しだけ痛かった。彼女はそれを苦に感じないだろうが、俺からすれば重い十字架を担いでいるように思える。
――そういえばさ。紅雪帰っちゃったから、1つ聞き忘れたことがあるの。
「なんだ?」
――紅雪は、次は…いつ暇なの?
「次?…えーっと…」
メモ帳を確認する。次の休暇は来週の土曜だった。俺はそのことを伝えると、電話越しで華やかな声が広がる。
――やったぁっ!それならあたしも大丈夫かもっ!
「大丈夫って…何が?」
――外出許可。プレシアから取るのきついけど、土曜だったらお医者様行かないし、うまくいくかもって思ったの。
「外出許可って…で、どうしてその日外に出るんだ?」
――買い物に、付き合ってほしいの。
「買い物?」
オウム返ししてしまった。俺はそのワードを心の中で輪唱する。買い物。それも女の子と。これって…
「デートか?」
半ば冗談も含めて言ったが、対する奏音の反応は予想を超えるものだった。
――デート?……確かにそうかも。けど、紅雪だったらいい…かな?
 俺の頭が、沸騰した。
「で、でで、ででで…」
――紅雪?どうしたの「で」ばっか繰り返して…壊れちゃった?
「デートってお前っ…」
――?…そんなに変なことかな?真夏は前、紅雪とデートしたことあるって言ってたよ?
 二重に爆発。心の中で真夏にドきつい突っ込みをたたき込んだ後、深呼吸して自身を落ち着かせる。
「……買い物、行きたいのか?」
まずは意思を確認しよう。
――行きたい。
「俺でいいのか?」
次は許可だ。
――うん。……紅雪が、今一番いい。
「じゃあ、約束だ」
最後は、同意。
――うん。約束するし、忘れないよ!
「メモしておけよ。本当に忘れないように」
――わかったよ。じゃあ、土曜日に会おうね。
「ああ。集まる場所は駅前でいいか?」
――うん。いいよ。またね。
「またな」
電話を切った。余韻に浸りながら、俺はメモ帳に消えないようにしっかりとした字体で書く。
 奏音とデート、と……

たまには外に出ようと思って、本を置き、「世界」の外へ。
見渡すばかりの草原地帯が、広がっていた。扉は消え、私は1人、ここに佇む。総ての世界の終着点足る場所であるから、ここには総ての世界の在りようが現れる。
こうも美しい景色ならいいが、基本は違う。「世界」は常に不幸で満ち溢れている。なぜなら、幸福の総量は決まっているが、不幸の総量は決まっていないからだ。
幸福には限りがある。それは運の廻り合わせ。誰かが幸福を得れば、どこかで誰かか不幸になる。そして、不幸は連鎖する。幸福が生まれずとも、不幸は自然に増殖する。
だから、人界は地獄と化す。私はそんな「世界」を幾度もなく見てきた。見るだけ。それが仕事であり、私の存在意義だからだ。
私は「世界」を「安定」させるのが仕事だ。だから、「世界」の中で何が起ころうと、それが「世界」の根幹に関わることでなければ、私が干渉する必要はない。
 しかし、これから先に行うのは、はっきり言って仕事外の、「余計なこと」だ。私の力を以てすれば、運命を変えることなど容易い。しかし、それが世界を壊すかもしれない。
その危険性を孕んでいても、私はやらなければならない。それが、彼女からここを預かった私の意志であり、恩返しだからである。
 総ては、主なきこの世界を再生するために。

土曜日は、雲1つない快晴だった。俺は久しぶりにカジュアルなワイシャツに袖を通す。この服は、概ね特別な、こういうデートの時にしか着ない服だ。少しばかりこそばゆい。
ネクタイを巻き、半ズボンを履いた。色は黒。上と合わせて、白黒だ。電車に乗り、夕顔駅に向かう。今日は同僚の秋山が車掌を担当していた。顔がにやけている。俺は眼でそれを黙らせ、空いてる席に座る。
子ども相手だというのに、緊張している自分がいる。まだ、始まってさえいないのに、手には汗がべとついていた。う〜ん…俺ってこんなに初心だったか?
あっという間に時間は過ぎ、電車を降りた。風が心地よい。気合いを入れるというわけではないが、小さく深呼吸をして、体を落ち着かせる。ゆっくりと階段を降り、駅を出た。
ロータリーは土曜日ということもあってか、人気は少なかった。
タクシーが2台止まっていて、運転手が他愛ない世間話をしているのを端で見ながら、駅唯一のモニュメント、月の像の前に立つ。
なんでも、この町出身の芸術家がデザインしたもので、2重の螺旋階段が月まで届くさまをイメージしているとのこと。なんとも不思議なテーマだが、目立つものが少ないこの町では、いい待ち合わせ場所になっている。
像の台座に寄りかかり、奏音を待った。待ち合わせ時間まで、あと20分近くある。早すぎたとも感じたが、あの子を待たせたくなかったから、この時間に来た。
待つことには慣れている。小さいころから散々、いろんな時に待たされた。親父が死んだあとは、お袋が働きに出た。
幸い、お袋は稼げる職業だったため、苦労はしなかった。しかし、寂しい幼少期を過ごしたとは思う。家にいないお袋。1人で食べる食事。
その寂しさがおねしょとして結実していた。お袋が家にいないときは、自分で処理をした。こっそりおむつを持ってきて、履いたことすらある。
真夏のおもらしをバカにしなかったのも、俺が一番お子様だという自覚があったからだ。
―――妙なこと、思い出しちまったな。
先程までの考えをすべて消し去り、俺は空を眺めながら、待ち続けた。

見覚えのあるワンボックスカーがロータリーを回る。俺はすぐさま立ち上がり、近づいていった。それは俺の目の前に止まると、エンジンを切った。
運転席から降りてきたのはプレシアだ。彼女は俺を一睨みした後、後部座席ドアの左側に立つ。そして、助手席から真夏が降り、俺ににこりと微笑んだ後、後部座席ドア右側に立った。そのとき、窓から奏音が、顔を出す。
「おはよっ!紅雪っ!」
元気な声が、俺に届いた。子供なので化粧はしていないと思ったが、ほんのりと化粧をしているのがわかる。きっと、奏音自体は化粧の技術とかなさそうなので、横の2人がしたのだろう。
奏音の化粧は、彼女の良さを損なわないように控え目だったが、それでも、一流のレディ…とはいえないが美しさを彩るには十分だった。
その美麗さに言葉を失いかけたが、なんとか踏みとどまり、俺は「おはよう」と返した。そのあと車を降りるよう促すも、奏音は動かない。やがてぼそぼそ声で、ドア端にいる2人に話しかける。
俺はその一部始終を呆れつつ眺めていたが、急にそれが止み、プレシアが意を決してドアを開けた。
 プリンセスが、そこにいた。
彼女は某王国のプリンセスで、お忍びでこの国に来ました…というニュースが流れていても不思議ではない姿。メルヘン調のワンピースドレス。ティアラ状の髪飾り。上品なブルーのリボン。
その全てが彼女を姫だという証に見えた。背中には、あのウサギ上のバックがいて、余計にメルヘンさが増す。
「変…かな?」
珍しく自信なさげな声。顔を赤らめ、もじもじとしている様は、本当の恋人のようだ。俺はその美しさに見とれ、感想を言おうとして言葉が出なかった。
愛らしさ。美しさ。可憐さ…どのランクでもTOP3は入るだろう姿。これを言い表せる語彙など、俺の中には存在しなかった。
「……すごい」
感想を心待ちにしていた奏音は、俺が何も言わないので不安を倍増させていたが、やっと出た言葉がそれだったので、ぷくぅと頬を膨らませ、言った。
「むぅ…気の利いた言葉1つぐらいでないのかなぁ?」
どうやら知識はある程度回復しているようだ。真夏から聞いた話では、やはり記憶を失った後は子供っぽくなるそうだが、数週間後にはいつもの調子に戻るらしい。今の奏音は出会った時の状態に近かった。
「いや、それは全面的に俺が悪いけど……うん。言う」
俺の言葉に、奏音は背をしゃきと伸ばし、居直る。表面上は大人しいが、体の端々からうずうずとした内面が漏れ出ている。俺は敢えてタメを作った後、言った。
「正直、見とれちまって言葉が出なかった。そんぐらい、綺麗で、可愛くて…」

「うん。許す」
言い終わる前に、奏音が抱きついてきた。熱くなる体。速くなる鼓動。頭の中が沸騰しそうなぐらい、その行為には驚いた。
「か、かか、奏音!?」
俺のどぎまぎ声を楽しみつつ、奏音はにこりとした笑顔で、言った。
「早く行こっ!今日はいーっぱい紅雪に甘えさせてもらうんだ」
メルトダウン。心がチョコレートのように溶ける。俺もつい笑顔になって、
「じゃあ、今日は俺も奏音を精一杯、可愛がるからなっ!」
と宣言する。傍から見れば恥ずかしい行為だが、今の俺達には関係ない。無敵の存在と化した俺たちに、そんな視線など通じない。
「じゃあ、何かあったら連絡、下さいね」
真夏はすぐさま助手席に戻る。その顔は穏やかで、にこやかだった。対するプレシアは冷淡な顔をして、
「精々お嬢様に粗相のないようにな。……お嬢様。何かあったらいつでもお電話ください。私か駆けつけて、すべて、滞りなく解決いたします」
後半部を強調して、運転席へと戻った。そのままエンジンをかけ、車を発進させる。心なしか、運転が荒いように見えた。視界からワンボックスカーが消えると、奏音が呟く。
「本当に、行っちゃったね」
俺は奏音の手をつかみ、
「そうだな。これで、デートができるな」
と強調した。奏音は顔をトマトのように赤くし、
「そういうこと言わないでよぉ…恥ずかしいなぁ…。……うん。デート…しようか」
満点の笑顔で、俺を見てくれた。俺はそれだけで、すごく嬉しかった。そして少しばかり恥ずかしくなって、あることを聞いた。
「おむつ、大丈夫か?」
奏音は口をつんと尖らせて、
「大丈夫だもん…ちょっと。おもらししちゃってるけど……」
最後のほうは、すごく小さい声で言った。俺はそれを聞き逃さず、まずは行く先はトイレだなと決めた。
 まだまだ午前中。遊ぶ時間は、いっぱいあった。

真夏と来た、大型複合商業施設。そこがデートの場所だった。というより、街の中において買い物でこの場所の右に出る所はない。幸い、ピンからキリまで商品があるこの場所は、奏音にとって新鮮そのもので、目をぱちくりさせながら興味深そうに眺めていた。
俺はよそ見をしている彼女を、うまくトイレまで誘導する。
「まずは、おむつ替えな」
ぼそりと俺は耳打ちした。奏音はかぁーっと顔を赤くし、それでも静かにこくりと、頷いた。
「うん。いい子だ」
頭を撫でてあげる。絹のような髪は、とても心地よい肌ざわりだった。ほんのりいい香りもする。奏音はというと、とても嬉しそうに―まるで天まで昇るような穏やかな顔立ちで―笑っていた。
多目的トイレに入り、鍵を閉める。広々とした空間の中心で、もじもじとしている奏音。きっと落ち着く場所がないからだろう。俺はおむつ換え台を見て、さすがにそれはないなと自己否定する。座る場所もないし、仕方ない。
「奏音。スカートたくし上げて」
俺の言葉に、奏音は動揺し、
「ふぇっ?…え…ええっ!?」
と驚きの声を連呼した。俺は彼女に座る場所がないことを説明し、さらに服が汚れてはまずいことも説明した。そこまで説明すれば、彼女も納得したようだ。
しかし、理性で納得しても、感情は納得しない。やはり、たくし上げるという行為には抵抗があるようだ。
「やっぱり…」
ここで一呼吸開け、唾を飲んでから、
「やらなきゃ…ダメ?」
と恥ずかしながら懇願する。
 その可愛さで、俺の理性が少しばかり吹きとんだ。
 上目遣いの視線。哀願する声。赤くなった顔。その全てが俺のリピドーを刺激する。そこで残った理性を総動員し、何とか踏みとどまらせる。さすがに嫌われたくはない。俺も分別の一つぐらい、持ち合わせている。
「ダメだよ。奏音だっていつまでもおむつが汚れてるのは、嫌だろ?」
こくり。
「なら、言うこと聞いてくれ」
………こくり。
「よし、いい子だ」
頭を撫でてやると、向日葵のような笑顔を向けてくれた。どうやら、気持ちを決めたようだ。ゆっくりとスカートを上げる。その隙に、俺は彼女の背負っているバッグから替えの紙おむつと、ウェットティッシュ、ベビーパウダーを取り出す。
しっかりとそろっているところは、さすがあの2人といったところだろう。
準備し終え再度、奏音を見る。彼女は顔を真っ赤にし、目を閉じ、静かに待っていた。とても恥ずかしいのか、体が震えている。
「大丈夫だよ」
耳元で囁く。俺は心配させまいと素早く、それでいて的確に行動できるようイメージを固める。…大丈夫。悪くない。

「じゃあ、おむつ、とるぞ」
目を閉じたまま、こくりと頷く奏音。俺はそれを確認すると、おむつの外側を破り始める。ビリリという紙特有の音。両側を外し、おむつをうまくとる。
股の部分はほんのりと黄色く染まっていた。ズシリとした重みは、彼女のおしっこをしっかり受け止めた証しだ。
俺はそれをテープでまとめ、ゴミ箱に捨てる。すぐさまウェットティッシュを取り出した。
「次、おしっこ出るところ。拭くぞ?」
口で「え」という形を作ったが、彼女にはスカートをたくし上げるという行為をしているため、両手は塞がっていた。
「大人しくしろよ…」
おずおずといった感じで頷く奏音。俺は慎重に彼女の秘書を拭く。
「ひゃっ…」
唐突な感触に、思わず声が出たようだ。それを無視し、丁寧にお尻やお股を拭いていく。耳まで赤くする奏音。俺もいつの間にか、顔が熱くなってしまっていた。
次にパウダーを塗す。おむつかぶれが起きないよう、念入りに行う。ようやく終わらせ、新しいおむつを履かせてあげる。しっかりとおへその下までゴムを届かせる。終わると同時に、スカートを下ろすよう指示した。
 ゆっくりとスカートを下ろす奏音。おむつの位置を鏡で気にしていたが、どうやら大丈夫なようで、にこりとした笑顔で俺に抱きつく。
「うん。すごく気持ちいい…ありがと。紅雪」
「どういたしまして。お嬢様」
俺は少しだけ、ふざけて返した。奏音はその言葉に目を真ん丸と見開いて、俺を見た。夕焼けのようなオレンジ。その向こう側を、俺は食入る様に見つめてしまう。
「なんか…変な感じ。前にも、こんなこと、あったのかなぁ?」
俺は奏音との出会い時交わした会話のことを黙っておくことにした。今こうして隣にいる。それだけで十分なのだから。
 やがて訪れる運命を、この時の俺は知らなかった。

奏音に連れられ、俺は様々な店に立ち寄る。全てが新鮮なのか、寄る店の商品を興味深そうに眺め、時折手に取り、そして別の店へ。
忙しかったけど、楽しかった。何より、あれだけ楽しそうで、幸せそうな奏音の笑顔は、一緒にいるこっちも楽しませてくれる。
「絵の具?」
「うん。油絵の絵の具」
奏音の口から出たその言葉は、彼女には全く無縁のものに思えた。彼女は音楽の人だ。美術に関しては疎くて、きっと水彩画と油絵の違いも分からないだろう。
「どうして、それが欲しいんだ?」
だから、理由が気になって、聞く。奏音は言おうかどうか悩んでいる様子だったが、意を決して話してくれる。
「あのね…約束。したの」
それはいつになく、真剣な表情だった。俺は気を引き締めて、話を聞く。
「病院にいる…健太お兄ちゃんとの約束…なんだ」
「そうか…じゃあ、買ってやらないとな」
どういう事情かは大方分かった時点で、俺は行動する。これ以上は、俺が割って入るべきことではないだろう。それに……
少しだけ、羨ましかった。
だから、俺は話をこれ以上聞きたくなかったのかもしれない。
絵の具を買った後、俺らは昼食をとるため、レストラン街へ。
レストラン街で俺らは洋食チェーン店が営むファミレスに入る。初めてファミレスに来たという奏音は、俺にひっついて離れなかった。
店員に案内され、窓際の席に座る。同時にメニューを広げた。ファミレスだけあって、和・洋・中のある程度は揃っていた。俺はその中でハンバーグセットを、奏音はオムライスを頼んだ。
頼んだ商品が来るまで、2人で他愛のない、世間話を始める。
「この前真夏と一緒に、ゲームしたんだ」
嬉々として話す奏音。最近知ったことだが、真夏はゲーマーでさらにオタクとのことだった。俺の知らないうちにどこをどう踏み外したのか、さっぱりわからなかった。
「どんなゲーム?」
「シューティング。真夏は『だんまくげー』って言ってた」
おそらくは『弾幕ゲー』こういう風に書くんだろう。ということは、弾数が多いのか?それってシューティングとしてやりづらくないか?
「へぇ…。それで、どうなったんだ?」
「あたしがイージーで、真夏がね『るなてぃっく』ていう難易度でやったの。あたしは3面で失敗しちゃったけど、真夏はクリアしたよ?」
正直、シューティングのことなどよくはわからないが、真夏がとんでもないのはわかった。
「けど、3面まで行ったんだろ?すごいじゃないか」
「えへへ。3面のアリスが、どうしても倒せないんだ…紅雪はシューティングするの?」
「うんにゃ。俺はゲームは高校で卒業したんだ」
むしろ俺は単車とか、車とか、本当に男の子じみた趣味に傾倒していった。それが高じて、ああなった訳だが。
 なんか今日は、昔のことばかり思い出すな…。
この町に来るようになったからか、俺は日に日に昔のことを思い出す機会が増えていている気がする。
もう捨て去ったはずの、苦い思い出。
それが今、深い記憶の海の底から、ゆらりゆらりと上がってくる気がするのだ。
実は記憶を失いたいのは、自分なのかもしれない。
そんな不謹慎な考えが、頭から離れなかった。

料理が来たのは、会話が一度終息しかけていたところだった。
「お待たせしました。こちらオムライスになります」
店員さんが奏音の前にオムライスを置く。奏音は目をキラキラさせて、手をうずうずさせながら、オムライスを見ている。
「こちらハンバーグセットのハンバーグと、ライスになります」
俺の目の間に、ハンバーグと皿に盛ったライスが置かれた。
「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」
俺が頷くと、店員は伝票を置いて、別のテーブルへと向かっていった。
俺はもう今にも食べたいというオーラを撒き散らした奏音を抑え、食べる前の挨拶をするように言う。こういうとき、どんな人間でも素直になる。
「「いただきます」」
同時に挨拶して、それぞれの料理を食べ始める。ハンバーグはというと、まあ、庶民の味といった感じだ。
別段まずいわけではないが、真夏が作る料理には劣る。まあ、そこそこという感想が妥当だろう。奏音はというと、お腹が空いていたせいか、オムライスをぱくついていた。
時折頬にケチャップがつく。その度に紙ナプキンで拭いてあげる。その行為を3回繰り返し、俺はふと思い、言った。
「なんだか、奏音って今、本当の赤ちゃんみたいだな」
奏音はその言葉を聞いて恥ずかしそうに俯いた後、
「ち、違うもん。あたし、あ、赤ちゃんじゃないもん」
と拗ねるような口調で言った。流石に地雷だったか…と悔み、慰めようとした時、先に奏音が顔を上げ、俺に言う。
「おしっこ…でちゃった…」
俺はそこで出かかった言葉を飲み込む。涙目になり、今に泣きそうな奏音。俺は咄嗟にトイレに連れて行った。どうやら、さっき俺がからかったこと。
そしてその後おもらししちゃったことが追い打ちになったようで、トイレに着いた途端、奏音はわんわんと泣き始めた。
楽しいはずの空気を、俺はぶち壊してしまった。へたり込み、大声で泣く奏音。俺は「ごめん」を繰り返すばかりで、対応できていない。
外では、中の様子を探る野次馬が数人、ガラス越しにいるようだった。
このままではまずいと直感した。しかし、どうしようか分からず混乱して、俺は奏音に抱きついた。奏音はそこで急に泣きやむ。
どうやら、俺の行動に吃驚したらしい。しゃっくりを繰り返しながら、様子を探っている。俺は彼女を抱いたまま、静かに、口を開いた。
「ごめん。…別にカラカウつもりは、あんまりなかったんだ。ただ本当に、可愛くて、そんなこと言っちゃったんだ。でも、それが奏音を傷つけたなら、ごめんな」
奏音は少しばかりの涙声で「いいよ」と俺を許し、そして
「おむつ汚れちゃったから、換えてほしいな」
と懇願する。俺は再び、奏音を見た。
そこには、穏やかな笑顔があった。
これぞ聖母といった感じの笑顔。それは、彼女が見せた初めての「母性」だった。俺は気を取り直し、彼女に相応しい王子様となるべく、まずはおむつを交換してあげる。そう決めた。
せっかくのエスコート。このまま悪い気分で帰らせたくは、なかった。
その野次馬の中に、あいつがいたことを、俺は気付けなかった。

おむつを換え、昼食を食べ終えた後、俺らは買い物を続行する。終始笑顔の奏音と、それにつられ、喜怒哀楽を見せる俺。周りからは滑稽に思われても気にしないぐらいの、バカップルっぷりだった。
流石に荷物も置くなり、俺の疲れが見えたところで、1度俺は、商業施設を出ることを提案する。奏音も快諾してくれた。
思えばこれが、運命の分かれ道だったのかもしれない。
出口を出た途端、数人の男たちに囲まれた。俺はすぐさま奏音を庇う。見知らぬ男たちばかりで、その半分ほどが俺くらいにあほそうな奴ばかりだ。にへにへと下品な笑みを浮かべ、徒党を組むしか能のない連中。
俺はそういうやつをよく虫に例える。いや、虫は規則正しい行動をするが、こいつらにはそれが皆無だ。
だからこいつら虫以下、寧ろ未満といった所か。その時、後ろで奏音が動いた。服をぎゅと握る感触。その手が震えていることさえ、筒抜けだった。
「おーっす…俺のこと?覚えてるぅ?」
囲んでいた一角が開け、そこから見覚えある3人がやってくる。
「なんだこれ…お前の差し金か?」
いつぞやの、アロハシャツと、ピアス男と、スキンヘッドだった。そいつらはもう勝ち誇った笑みを浮かべ、こっちを見下しながら答える。
「ピンポーン♪この前のこと話したらさぁ…俺の友達同情してくてねぇ。あ、そうそう。俺、友達めちゃいっからさ。みんなしてお前、殴りたいて言うから探してたんだよねぇ」
饒舌に語るアロハシャツ。周りの男たちは余計顔をニヤつかせた。
「あれ?あれれぇ〜?この前と彼女違うじゃ〜んっ!お前アレなの?振られたの?それもその子ちっこいしさぁ…もしかして、ロリコン?」
俺は何も言わず、ただ睨むだけだ。ただ、その行為だけで、アロハシャツは腰を引かせた。しかし、虚勢を張ると、さらに煽ってくる。
「まじキメーなぁっ!お前ぇ〜!……ま、いっか。お前どうせ暇っしょ?面、貸してくんない?」
アロハシャツはある方角を指差した。そこは、この町で随一の危険地帯。夕顔駅横のガード下だった。あそこはこういう、無法地帯野郎どもの巣窟だった。
「俺はいいが…この子は関係ないだろ。悪いがこの子を巻き込まないでくれ」
あんなところは、この純粋無垢な少女とは無縁なところだ。あそこに行けば、彼女は永遠に残る傷を作ることになるだろう。たとえ、自身が忘れても、周りは忘れてはくれないのだ。
だから奏音だけは、こんな場所に、いちゃいけないんだと思った。しかし、
「ダメ〜ェ。お前に決定権なんて無ぇ〜んだよ!」
横から、ボディ。俺は不意打ちのせいで、体を屈ませる。そこを以前俺がやったように、誰かの膝が飛んできた。とっさに首をずらし、避ける。耳元で髪がチッと音を立てて消し飛んだ。
問題はそこではない。俺がこいつらに気を取られている隙に、別の男が奏音を担いで行ってしまった。そいつらに続いていく虫未満の男ども。
「一名様。鬼畜ルートごあんなぁい。ケヒヒッ!」

ピアス男がおちゃらけて言った。笑い方が気持ち悪い。しまったと思うももう遅い。残った連中8人で作られた輪は直ちに塞がれ、もう奏音の姿は見えなかった。
「嫌っ!…やだ…やだよ…助けてっ!紅雪っ!」
悲痛な声だけが、俺の耳に届く。それが、俺の中のストッパーを外す合図だった。周りの男どもは勝利を確信していた。物量で押せばこんな奴、訳ないと……。だが、そんなことで屈する俺ではない。寧ろ、余裕さえあった。
この程度の戦力で、俺を潰せるものか…と。
奴らが爆ぜるよりも早く、俺が動き出す。まずは目の前のデブにローキックをかます。こういうタイプは、足にダメージを負うと即座に響くからだ。案の定、デブはひざから崩れ落ちた。それを皮切りに向かってくる残りの男ども。
俺は脚を軸に反転し、真後ろのひょろ男の顔面に、ストレートを見舞う。
顔がつぶれる感触。
そいつの状況を確認する前に、俺はステップで後退する。その時うまくデブの足の甲を踏むようにした。デブは続けてくるダメージに悶絶する。
そして交差した雑魚どもは、お互いの攻撃で絡み合い、数名が転んで頭を打つなりして自滅した。こういう輩は、相手の行動を考えないから、こうして自滅を促すに限る。そして後退をした後大きくジャンプし、間合いを取る。
これでいい。ちょうどあいつらと1メートルほどの間合いを作ると…
勢いよくガードのあるほうへダッシュした。
虚を突かれ動きが止まる雑魚連中。あいつらは忘れている。あいつらの目的は足止めのはずだ。しかし、包囲網を崩され、数名再起不能になった時点で、あいつらの負けは決まっているのだ。
「しまった…追えっ!」
もう遅い。俺とあいつらとはすでに3メートルの差が広がっている。そして、こういう奴らの体力は、非常に低いと相場が決まっていた。
「待ってろ奏音…すぐ助けに行くぞ…」
俺は逸る気持ちを抑え、彼女を助けにひた走る。

ガード下に着いたのは同時だった。俺は有無を言わさず奏音を掴んでるやつをタックルで倒し、奏音を救い出す。顔を歪め、涙目なその表情は、彼女の恐怖を表していた。
「怖かったよぉ…紅雪ぅ!」
抱きつかれ、大泣きする奏音。泣きじゃくる彼女の肩を抱く。小さい。こんなに弱くて、可愛くて、小さくて、華奢で…そんな彼女を泣かせた存在がいると知っただけで…
俺はついに、堪忍袋の緒が切れた。
「奏音。君はここから走って逃げて、プレシアさんを呼べ」
ぼそりとした言葉で、しかし確実な声で、奏音に指示を出す。
「で、でもそしたら紅雪が…」
「いいからっ!」
この子が俺を心配する必要はない、こんなことに巻き込んだのは、俺なのだから。俺の大声にびくついた奏音。俺は静かに、やさしく、穏やかに、言った。
「…俺は大丈夫だから。だから、俺の言うこと聞いて、いい子にしてくれ…なっ?」
こくりと頷く奏音。俺は彼女の頭を撫でてやる。優しく、丁寧に…丁寧に…
これが、最後になるかもしれないから。
奏音は身を震わせると、もう一度頷き、走り出した。今まで俺たちの様子を窺っていたアロハシャツは、友達というか手下にすぐさま追うよう指示する。手下数名は、走り出そうとして、
「行かせるかよっ!」
俺の飛び膝蹴りを食らった。まずはそれで1人ノックアウト。続けて、反則級の後頭部に対する肘打ちで、2人ダウン。そこまで見れば、手下は走るのをやめ、アロハシャツのところに戻っていた。
「ビビってんのか?あぁんっ!?」
俺の、どすの利いた声だけで、数名がたじろぐ。しかし、奴らには数という絶対有利な条件がある。見ただけで20名はいる。流石の俺もこれを同時に相手することはできない。さらに、ここまで全速力で来たせいか、体力もかなり消耗しているのだ。

正直言って、こちらの分が悪かった。
「舐めてんのはどっちだ…あぁんっ!?」
奴らは一斉にこちらに襲い掛かってくる。俺はすぐさま防戦できるように、壁を背にした。こうすれば最低、後ろから刺されるなんてことはないはずだ。まず1人目を、しゃがんでやり過ごし、そのまま回し蹴りを見舞う。見事にすっ転ぶが、もう次が来ている。
俺は手を地面に置き、逆立ちの要領で勢いをつけ立ち上がる。そのまま勢いを殺さずに、右ストレートを鼻にぶち込み、さらに追撃でミドルキック。後ろに控えていた次のやつがそいつにドミノ倒しの要領で倒される。俺はすぐさま後退し、壁に背を預ける。
「チッ…」
ピアス男は舌打ちし、首で後ろの連中に指示を出す。すると、ピアス男はいつぞやの時のパイプを取り出し、さらに舎弟にもそれを持たせていた。こいつらに清々堂々などない。
あるのは己が欲求をセーブ出来ない理性だけだ。
「オラッ行くぞッ!」
鉄パイプの応酬。流石の俺も捌ききるのがやっとだった。ステップと体を使い、何とかギリギリでかわす。
しかし、足元にいた伏兵を、俺は忘れていた。
後ろからの鉄パイプ。ステップでかわそうとし、
足首をがしと掴まれた。虚を突かれ、動きが止まる。そこへ、鉄パイプが襲ってきた。咄嗟に急所は腕でガードする。
鈍い痛みが、全身を駆け巡った。やがて鋭さを増すそれは、出血の証だった。額が切れて、血が流れる。おそらくほかのところも外出血か内出血ぐらいしているだろう。足を掴んだ奴を凝視する。
最初に襲い掛かってきた、男だった。俺は思いっきり背中を踏みつけ、そいつの拘束から離脱し、間合いを取る。血が流れた跡がある。あれは、俺の血だ。意識が薄らとしてきた。片目は血のせいで使えなくなっている。
満身創痍だった。

木偶人形となった俺を、あいつらは容赦なく痛めつけた。腹を殴られ、ひざから崩れ、倒れこむ。うつ伏せに倒れた俺を、空き缶を蹴るように蹴り上げ、仰向けにさせた。
腹の上に、足が振り下ろされる。
「がはっ…」
先ほど食べたものを、吐くかと思った。薄ら眼で見たのは、優越感に浸り、悪逆の限りを尽すアロハシャツ。アロハシャツは同じ行為を続けながら、恨み辛みを吐く。
「この前はぼこぼこにしてくれてど〜もぉ」
ガシッ!
「おかげで彼女に振られるわさぁ、笑い物にされるわさぁ。散々だったんだよねぇ〜」
グシャッ!
「どう落とし前付けてくれんだァ?」
ドスッ!
「答えたらどうなんだよォッ!あぁんッ!?」
グシッ!
その時、スキンヘッドの舎弟が、あることを言った。俺はそれは聞こえなかったが、どうやらそれは俺に関することのようだ。
それを聞いたアロハシャツは顔を笑いで引き攣らせ、高々と言う。
「お前ェあれなんだってぇ?ここいら仕切ってた族、『ブラックゲイル』の頭だったんだってなァ?」
それは、俺を一番縛り付けていた、過去だった。
「アレだよなァ?『ブラックゲイル』っていやァこの辺を仕切ってたくせに、いざとなったら頭が逃げ出して、全員補導されたっていう、あの情けない族のことだろォ?」
ピアス男が笑いながら言った。……ああ、そういうことになっているのか。まあ、大方事実だが。
「だせェー。超ダセェ。これ以上笑かすなよォ。お前」
アロハシャツは恥ずかしいほどの高笑いで笑う。周りの舎弟も、大笑いしていた。
「なんだァ。お前、腰抜けかよォ。情けねェなァ…クククククヒヒヒヒフハハハハハハハ」
ピアス男は頭と腹を抱えて大笑い。どうやらつぼにはまったらしい。ひくひくと痙攣させながらも、それでも笑い続ける。
「じゃ、いい加減飽きたしよォ…」
笑い疲れたのか、アロハシャツは俺を足蹴にし、あるものをちらつかせる。銀色に輝くそれは、刃渡り10センチほどの、ナイフだった。
「死ねヨ。とっとと」
それが振り下ろされ…
 別の「何か」に、弾き飛ばされた。
霞む視界では、もうそれが何かは判別できなかった。ただ、大きな背中と、銀色の髪が、印象残った。
「なんだァ?てめェッ?」
もう意識すらも霞んでいく。朦朧とする中で、俺は、確かにその言葉を聞いた…気がした。
「しがない雇われ稼業の者ですよ…探偵という名の、ね」
そして、俺の意識は寸断された。

 声がする。
 誰かが呼ぶ声がする。
 私を呼ぶ声?
 それとも、他の、大切な誰かを呼ぶ声?
「私は行かなければね」
それがどちらにしろ、私は行かなければならない。
「ここまで声が届いた…それは私に会う権利を持つ者である証…」
あなたはここにいなさい。ここから先は、私の『領域』よ。
「では、始めましょう…『世界』に住まう『命』たちよ…」
私は本を宙に浮かべる。足元には幾何学模様を描いた魔法陣。両の腕に付いた輪から、6つの宝玉が滞空する。
世界を構成する2つの側面と、4つの力。
それの結晶たる宝玉が、まるで生き物の心蔵のように拍動し、妖しく輝く。
「…交点接続…パス解放…」
本がバサバサと荒々しく開かれ、あるページで止まる。
私は首から下げた鍵型のアクセサリーに魔術をかけた。アクセサリーはそれに従い肥大化。杖となった。
下は鍵を模しているが、上は一定の形状にならず、さまざまな形に変化しては、最初の球状になるのを繰り返している。
「…存在認証…介入開始…」
杖の鍵をその本に刺す。本の中に溶け込んだそれを、私は廻す。
かちゃり。
 それが、私の仕事始めだ。
6つの宝玉が等間隔に魔法陣の上に並ぶ。魔法陣は連動し、輝きを増す。
「では、ごきげんよう」
私は本の中へ吸い込まれ……
世界は、あなただけになった。

…ここはどこだ…俺はどこにいる…
仄暗い、本当に一寸先も見えぬ闇の中で、俺は一人浮かんでいた。どこだかもわからない。
なぜ、どうやってここに来たのかもわからない。
気づいたら、「ここ」にいた。
俺は、どうやってここまで来たかを探るため、記憶を掘り返す。あのとき、殴り合いがあって、銀色の髪の男性に助けられて、気を失って……
だめだ。全然繋がりがない。
そこで思い出すのをやめ、俺は漂うだけの存在になる。痛みがない。傷もない。まるで夢心地。気持ちよささえ感じる。
そのとき、強い光に包まれた。
訳が分からないまま、俺はそれに飲み込まれる。光が強すぎて、目を閉じた。数秒の後、光が弱くなったのを感じ、目を開ける。
そこには、懐かしい光景が広がっていた。
遠い記憶。懐郷の世界。セピア色で、単一色の世界。どこか古ぼけた街並み。その街並みの中に、中睦まじい親子連れがいた。
あそこで両親に手をつながれている3歳ぐらいの少年を、俺は知っている。
あれは、昔の俺だ。まだ親父が生きていた頃の、俺の記憶。
―――おとうさん。きょうはどんなごはんにするの?
―――そうだな…母さんは何がいいと思う?
―――あら?紅雪から聞かれたのはあなたじゃないの。私に振らなくても、あなたが決めてかまわないわよ?
―――うーむ…山暮らしは食事を考えずに済むしな…
―――おとうさんはやまのぼりするとき、なにをたべてるの?
―――基本はラーメンさ。それもカップの。
―――あら?元医者として、その不健康な食事は反対よ
―――うぐっ!…しかし、手間と効率性を考えるとだな…
―――今度簡単な山登りをするときは、私に言ってくださいね。とびきりのお弁当、作りますから。
―――あー!おとうさんだけずるーい!
―――じゃあ、今度はみんなでピクニックに行こうか!
―――あら?いい考えね。そしたらお母さん。紅雪の好きな鮭おにぎり、いっぱい作るからね
―――わーい!やったぁっ!
幸せな、光景だった。どこにでもある、幸せな家庭風景。もう届かない、懐かしい空間。俺は親父に声を掛けたくて仕方なかった。
しかし、それはできない。
こんな姿の俺を、親父には見せられないからだ。親子連れが近づいてくる。俺はとっさに踵を返し…
また光に包まれた。強烈な光に目が眩み、手で影を作ってしまう。次に広がる光景は…
親父が死んだときだった。親父の亡骸には、白い布がかけられていた。泣き崩れるお袋。茫然としている俺。周りの親戚がお悔やみを言い、部屋から出て行くところだ。残ったのは俺とお袋だけ。
お袋はずっと「あなたぁ…あなたぁ…」と繰り返すばかりだ。俺はそんなお袋を、慰めようと背中を摩っていた。俺が大べそ掻いたとき、お袋がしてくれたように。やがて俺とお袋も部屋を出る。
俺は続けて扉を出た。さすがは記憶の世界。扉は俺の体をすり抜け、閉まる。お袋に連れられ、歩かされる俺。その時俺は、何度か親父がいる霊安室を振り返っていた。
3回目に振り返った時、表情に変化があった。
その前の2回はすぐに前を向きなおしたが、3回目だけはずっと振り返ったままだ。俺はそこで何を見たのか、思い出せなかった。俺は幼い俺がしたように振り返り…
新たな記憶へ飛んだ。

今度は小学生の頃、真夏と一緒に帰るところだ。真夏は俺に手をひかれつつ、足をもじもじさせていた。記憶の中を探る。こういうときは大抵…
―――あっ。
小さな、切な声の後、
しゅわわわわわわ……
水の音とともに、真夏のスカートが濡れていく。俺は音で気づき、足を止めた。真夏は必死に抑えようとしていたが、無駄だった。結局、道の上に大きな水たまりができるまで、真夏はおもらしを続けた。そしてその後は決まって、大泣きをするのだ。
―――ひっ、ひっぐ、うえぇぇぇぇん……
俺がそんな真夏を引張り、家路を急ぐ。「大丈夫だよ」とか、「もうすぐだから」と慰めの言葉をかけた。真夏はそれを聞き、徐々に泣き止んだ。お互い、恥ずかしさを募らせながら、短いようで長い帰り道を歩き続ける。それを見終わったとき、次の記憶へと飛ぶ。
今度は暴走族時代のものだ。
ちょうど、俺が族を結成して、間もないころのものだ。あの頃は怖いもの知らずで、よく近くの山道へ繰り出しては、甲高い音を鳴らして走り回ったものだ。
もちろん、今考えてみれば、あまり褒められた行為ではないだろう。
それでもあの頃は、これに青春賭けてしまっても、いいとさえ思ったのだ。そして、記憶が飛んだ。次の記憶は…
その暴走族が、終焉した日の記憶だった。
一番思い出したくない記憶。この記憶こそ、俺の今を作り出しているといっても、過言ではない。
その日、俺らはいつものように公道を走り、山道へと向かう途中だった。ざわついた街並み。満月が照らす夜道。煌々と光るナトリウム灯。その中を、何台という単車が、跋扈していた。エンジンの唸る音が、静寂を揺さぶる。
―――そこの前のバイクたち、止まりなさい!
いつものように、パトカーがやってきて、制止させようとする。俺は周りの皆に頷く。皆も同様に頷いた。そして、次の大きな分かれ道。Y字型になった国道との交差道路で、俺らは散開する。
パトカーは真っ先に俺がいるほうを狙う。なぜなら俺の単車が一番派手で、俺がこの族の頭だったからだ。他のバイクは上手く脇道にそれていく。最終的に俺が囮となり、他の皆を逃がす作戦だ。
俺には捕まらない自信があった。
俺のバイクテクはそこらの警察には負けない自信もあったし、バイクはそれ相応のスピードが出るように改造さえしていた。
案の定、俺は逃げ切ることに成功した。後は皆がいるはずの、いつもの場所へ集合すればいいだけだ。俺は意気揚々とその場所へとバイクを走らし……
誰もいない場所へと、辿り着いた。
その時の俺は、我が目を疑ったと思う。
普段なら勝利のハイタッチを交わし、山へと走りに出かける仲間は、1人もいなかった。寂しげに風が吹く。俺はバイクを降りることさえできないまま、そこで立ちつくした。
さらに俺を驚かしたのは、次の日の新聞だった。

地方新聞の3面記事に大きく、『暴走族 一斉検挙』の文字が、高々と躍り出ていたのだ。俺はその新聞を買い、熟読する。そこに書かれていたのは、昨日の、俺が知りえない真実だった。
あの時警察は俺を捕まえることをあきらめ、最初から包囲網を敷き、俺らをあえて散開させるように誘導した。そうとも知らず俺は散開し、まんまと罠にかかった仲間を、1人残らず補導、逮捕したのだ。
幸い、俺は仲間には厳しい人物だったので、逮捕の内容も道交法違反や、公務執行妨害ぐらいで済んだらしい。しかし、この事実は俺に、あることを突きつけた。
それは、仲間を見捨て、自分だけ逃げたということだ。どういうことがあるにしろ、結果がそうなのだ。それは、言い逃れのできない事実となった。俺は新聞紙をぐしゃぐしゃになるほど強く握りしめ、悔しさに嗚咽を漏らした。
その日を境に、俺は族を止めた。
どうしてこんなことを思い出したのだろう。さっきから昔の記憶が順々と……そうか、これが走馬灯のようにってやつか。俺は、死ぬのか。
まあ、それもいいのかもしれない。
俺は彼女を、奏音を、危険に晒してしまった。俺という存在に出会わなければ、あんな思い、させずに済んだのだ。そう思うと、また悔しさがこみ上げてくる。俺は一体、なんなんだろうか。
親父に小さいころ言われたことがある。「男なら、誰かを守れるようになれ」と。
結局、俺は誰も守れずに、死ぬのか。
悔しい。本当に悔しい。自分が不甲斐無くて。情けなくて……
お願いだ。俺は死にたくない。まだ、死にたくない。だから、俺の、命以外の総てを、奉げてもいい。神様。俺に最後でいいから、チャンスを下さい。
俺は再び、眠りについた。

――あなた、私を呼んだの?
声がする。
誰かが呼ぶ声がする。
俺を読んだのか。
他の誰かを呼んだのか。
――起きなさい。そして、答えなさい。
重い瞼を開く。曖昧な視界。目の前に、誰かいる。誰だ…誰…
「しっかりなさい。緒方 紅雪」
その声で、俺はようやく覚醒する。視界がはっきりした。見渡すばかりの、青紫の空。それは夜明けの空。
「私のこと、認識できる?」
目の前に、少女が浮かんでいた。仰向けに寝る俺と、うつ伏せに浮かぶ少女。向き合った俺たち。交わす視線。
「ああ。わかる…ここは、どこで、お前は、誰だ?」
少女はそこでふわり舞うように動き、今度は俺を見下すように、起き上がる。
「あら?あなたは分かってて、ここにいるのかと思ったのだけれど」
彼女の視線が、俺に降り注ぐ。俺はその言葉と態度に、イラッと来て、ぶっきらぼうに答えた。
「知るわけねーだろ。気づいたらここにいたんだぜ?」
少女はそれで、俺の心を見透かしたのか、どこか小馬鹿にするような目つきで、
「まずはあなたも起き上がってはどう?そんな姿勢で話を聞こうとするほうが失礼よ」
と指摘する。俺は更に苛々を募らせたが、渋々それに従い、起き上がる。地面がないのに、すんなりと起き上がることに成功した。
俺の眼の前に立つ少女は、それでようやく対等だと言わんばかりの態度で、
「なるほど…あなたは、何も、知らないのね?」
と聞いてきた。ジトリとした眼を、俺に向ける。俺の苛々は容易く頂点に達し、
「もったいぶってんじゃねぇよ!」
と怒鳴った。彼女はそんな俺に憐れみの視線を向ける。
そこで初めて、彼女の目の異変さに気付いた。金と銀。違う色の目をした少女。
それは、人間ではない、そんな雰囲気さえ漂わせる眼だった。
「仕方がないわね…説明してあげるから、大人しく聞きなさい?」
俺はそこで自制し、素直に彼女の説明を聞き始める。少女は透き通るほど白い、腰まで届く長い髪の毛を揺らすと、反転し、背を向ける。
「ここはすべての人間の底の底。無意識下の世界よ」
少女はそのまま、朝日のほうを指差した。朝日は今にも昇りそうだったが、一向に動く気配がなかった。
「あちらが意識の世界」
少女は俺のほうを向き、
「そしてこっちがすべての中心点。まあ、『源』とか『コア』とか『無』とか言うわね」
俺の後ろのほうを指差す。俺は振り向くと、そこには夜の闇とは違う、全く光の届かない闇が存在した。
形容するならブラックホール。そのまま放っておけば、今にも飲み込まれそうだ。
「そしてここが、無意識の世界」
彼女は自身の立場所を指差す。俺も釣られてそこを見た。海と夜明け空。それだけが広がる世界。
「まずは自分のいる場所、理解したかしら?」

俺は頷くしかなかった。少女はまるで見透かしたような口ぶりで、
「まあ、いきなり理解しろと言っても無理か。まずはこんな場所程度に覚えておけばいいわ」
と言った。俺は反抗せず、従った。今、ここの場所を完全に理解しているのはこの少女のみだ。この少女から離れたら、俺はきっと戻れなくなる。そう直感していた。
「次にあなたが知りたいのは私の名前ね?」
「あ、ああ」
彼女は見た目相応の、子供っぽい笑顔を俺に向けた。身長から見て、9歳ぐらいだろうか?黒いドレスを身に纏い、両の腕には腕輪。
その腕輪は等間隔に色のついた玉―宝石だろうか―が付いていて、それぞれ3つずつ、右に白・赤・黄、左に黒・緑・青といった感じだ。
胸には鍵型のアクセサリーがついたネックレスが首から掛けられ、人懐っこい顔は、奏音を想起させた。
「あなたと会うのはこれで2度目ね。名前は、そうねぇ……アンネでいいわ」
その言葉に、驚愕する。
俺はこの少女に、1度逢っているらしい。
 どこであろうか?俺の記憶に、彼女と会った記憶はない。こんな独特の容姿をした子を、忘れるはずはないだろうし、忘れていてもすぐさま思い出せるはずだ。
「私のこと、思い出そうとしているでしょ?」
俺は少女の言葉に震える。この少女―アンネは、逐一こちらの考えを読んだ発言をする。
「まあ、忘れてもしょうがないか。ずっと前の話だしね」
どういうことだろうか?
「じゃあ、あなたの記憶。解き放つわよ?」
彼女は胸のアクセサリーを左手に持つと、額に持っていき、祈るような仕種をした。
「…術式…解放…」
静かな、それでいて強い声だった。
アクセサリーはすぐさま大きくなり、彼女はそれを握り、剣のように一振りする。先端部がカギで、持ち手の後ろが、不規則に形状変化する杖。それを彼女は左手に持ち、唱える。
「我が声に従え…『世界』よ…」
空間が、震えた気がした。
「この者の奥底に眠る記憶。解き放ち、我の前に示せ」
鍵を地面?めがけて振り下ろす。鍵は虚空の中に溶け込んだ。アンネはそれを確認すると、誰もがやるように廻す。
かちゃり。
それが、始まりだった。

周りの世界が吹きすさぶように変わり、光に満たされる。俺は目を手で覆い、光から守った。光の気配が消え、手をどかす。
また、あの記憶だった。
親父が死んだ時の記憶。さっきと同じ。泣き崩れるお袋。お悔やみを言う親戚。変わらない。さっきと何も変わらない。隣にいるアンネはその光景を、黙って見ていた。俺は堪らなくなり、怒鳴る。
「これが…どうしたんだって言うんだ!」
アンネはそんな俺を冷ややかに見ながら、
「あなたが私と会った時の記憶の再現よ?」
と言いのけた。俺はそこで周囲を見渡す。俺の記憶の中では、ここでアンネと会った覚えはなかった。案の定、部屋の中にアンネはいない。
俺はさらに言おうとしたが、アンネは口元に人差し指を置き、静かにしろとジェスチャーした。
俺はそこで渋々従い、成り行きを見守る。やがて子供の頃の俺とお袋も、外に出た。アンネはそれに合わせ、外に出る。俺もそれに続いた。
俺がお袋に引かれ、歩いている。廊下は蛍光灯の光が照らしているものの、そこはかとなく暗かった。俺は1度振り返る。お袋に言われ、すぐさま前を向きなおした。もう1度振り返る。
俺とアンネは、それをドアの入り口の前で見守った。
子供の俺はまた、前へと向きなおった。そして3回目。またもや振り返る。
そのときドアが開く音がした。俺は驚いてドアのほうへ向きなおる。そこには…
死神が、鎌を携えて立っていた。
ステレオタイプな死神だった。鎌を持ち、骸骨で、宙に浮いている。その死神が部屋から出てきたのだ。俺は驚いて腰を抜かした。そのまま床に尻餅をつく。
死神はそんな俺のことを見もしないで…当然か。ここは俺の記憶の世界だ。
この記憶の中に、俺らはいないのだ。小さな頃の俺を見る。小さい俺は目を見開いた。きっと俺にはそれが、なんなのかは理解できなかっただろう。
死神は鎌を構え、突進する。標的は小さい俺。俺は思わず「逃げろ!」と叫んでしまう。アンネはそんな俺を見ながら、
「何を興奮してるのです。ここはあなたの記憶の中。あなたがここにいる以上、助かるのは決まっているじゃないですか」
と身も蓋もないことを言う。俺はそこで拍子抜けし、立ち上がった。と同時に、俺らをすり抜け、1つの「影」が飛んで行った。

それは死神さえも恐れる存在だった。
死神はその「影」を見ると、俺を襲うのを止め、一目散に逃げようとする。
しかし、「影」のほうが早かった。
「影」は死神を捕まえると、左手に持つ剣で、死神を一太刀に断ち切る。
死神はそこで絶命し、霧散した。その霧散した死神の『魂』を、「影」が吸っている。「影」はそこで実体化した。
白い髪が、翼のように靡いた。
金色と銀色の瞳を俺に向け、「影」は佇む。俺はその幻想的な光景に、ただただ見入っていた。
剣は元の白い宝玉に戻り、彼女の右手の腕輪に収まる。
―――私のこと、見えるの?
「影」は、俺にそう聞いた。
―――うん。
俺は素直に答える。「影」は少しばかり驚いた表情をすると、
―――すごいわね。あなたは将来、大成するわ。
と妙な事を言っている。俺はその意味が分からず、頭に?を浮かべた。「影」はそこで振り返り背を向け、
―――私は、行かなければならないの。あなた、名は?
と聞いてきた。俺はお袋に気付かれないように小声で、
―――紅雪。緒方 紅雪だよ
と答えた。「影」が少しだけ、微笑んだ気がした。
―――じゃあね紅雪。また、逢いましょう…
それで「影」は、消えた。

俺らは再び、夜明け空の世界、無意識下の世界に戻る。俺はずっとアンネを気にしていた。この少女があの『影』なのは、間違いないだろう。
では、あの少女が行っていた、『魂』を吸うという行為は一体、何だったんだろうか。
「これで納得いったかしら?」
アンネは俺に問うた。俺は「ああ」と答える。アンネはそれでいいのか、その先を聞くことはなかった。そしてもう話は終わりと言うことなのか、次の話題に切り替わる。
「あなたはどうしてここに来たのか分からない…と言ったわね」
俺はその言葉に同意した。アンネはそれを確認すると、杖を元のアクセサリーに戻した。
「単刀直入に言うわ。あなたは今、出血多量で死にかけの状態よ」
やはり、そうだったのか。アンネは続ける。
「人間は死にかけるとね、一度はこの無意識下の空間に行くのよ。俗に言う三途の川ね。で、あっちの意識の世界に戻れたら生還。で、あっちの『源』に触れたら死ぬというわけ」
つまりここは、生死の狭間というわけか。アンネは俺がそれを納得したのを感じ取り、さらに続けた。
「まあ、普段は自力でここの存在を感じ取ったら脱出できて、できないと死ぬのだけれど、稀にあなたみたいに、ここに私を呼んでしまう人間もいるのよ」
アンネは俺のことを指差す。俺はアンネがここに連れてきたとばかり思っていたが、真相は逆のようだった。
「アンネを呼ぶということは、どうなるんだ?」
俺の素朴な疑問に、彼女は自慢げに言った。その仕草が、すごく子供っぽくて、可愛いと思ってしまった。
「私を呼び出すということは、それだけで価値のあることよ。あなたは私を呼び出した。つまりあなたは、私に声を届かせたということになる。それはあなたが、上位世界への扉を開いたのと同意義よ」
意味が分からない。上位世界って何だ?
「そうか、あなたは知らないわよね…そうねぇ…あなたは、運命を信じる?」
唐突な質問。数秒悩んだ後、俺はそれにYESと答えた。アンネはふむふむと頷き、俺に問う。
「それが、誰かの勝手で動かされてるとしたら、あなたはどう思う?」

彼女の難題に俺は頭を抱えた。運命が誰かの勝手で動かされる?確かに憤るが、運命なんてそう簡単に変えられるのだろうか?そもそも、運命を決めているのは、誰なんだ?神様か?
「悩むわよね。実際。それが普通なのよ。運命なんてものわね、言葉のまやかしに過ぎない。私は、いえ、あなたより上位の存在が単にこう動けと命じてるだけ」
回りくどいような言い方。理解に苦しむ。
「簡単に言うなら、本の文章を塗りつぶし、そこに新たな物語を創作するようなもの。下位世界が本で、上位世界が読み手ね。
読み手は物語が気に入らないからといって、本の文章を塗りつぶし、物語を改変する事が出来る。それによって世界は分化され、並行世界が存在する。それが横縦と積み重なったのが、現在の『世界』の構造よ」
ようやく分かってきた。アンネはさらに言った。
「そして、私はあなたより上位の世界にいる。あなたの物語を改変する事が出来る。そしてあなたもまた、その権利を手に入れたことになる。まあ、声を届かせた程度じゃ、一段上ぐらいが精一杯だろうけど」
そこでようやく、合点がいった。アンネは俺に、ある事を選ばせようととしているのだ。
「あら、理解してくれたかしら。時間も惜しいし、単刀直入に言うわ。あなたの選択肢は3つ。
1つ目は、自力であの意識の世界に向かい、生存するか。
2つ目は、このまま身を委ね、死か植物状態のまま、生き続ける状態になるか。
3つ目は、私とともに上位世界に行くか。
1つ目を選ぶと、過酷なことが待ってるし、確実とは言えない。もしかしたら途中で力尽き、死ぬかもしれない。それでも、あの世界で生きたいと願うのなら、そうしなさい。
2つ目を選べば、あとはあなたのなるようになるわ。死後の世界も、なかなか乙な物よ?
3つめを選べば、あなたは神様…とはいかないけど、それ相応の力は手にすることはできる。だけどあなた自身は二度と、この「世界」には戻れない。
もちろん行くことはできる。しかし、あなたは「世界」の外の人間になり、二度とこの世界で一生を終えることはできなくなる。
……これで説明は以上よ。あとはあなたが、選びなさい。私はいくらでも、待ってあげるわ」
アンネはすべて説明し終わると、俺から離れ、世界を飛び回り始める。俺を1人にしてくれたのだろう。俺はゆっくりと考え始めた。どれがいいか。俺にとってどれがいいものなのか。
……いくつもの思いが体を廻る。
俺の心の中で、様々な意見が飛び交った。
纏まらない。
意見ばっかり出てくるせいで、一向に纏まらなかった。
そのまま頭を抱え、考え続ける。
 その時、奏音の声を幻聴した。
「へっ?」
思わず、声を出してしまった。どうしてここで、奏音のことを考えたんだろう。記憶を探る。それと同時に、奏音の声が、姿が、仕草が、思いが、徐々に蘇っていく。そして、気づいた。
………なんだ。簡単なことじゃないか。
とうの昔に、答えは、決まっていたんだ。
俺は…

俺の回答を聞くと、アンネはやっぱりという顔をした。
「まああなたなら、それを選ぶでしょうね」
俺はずっと、アンネに心を見透かされっぱなしだ。アンネは俺を見ながら、最後の言葉をかける。
「あとは総て、あなたがやることよ。私も関与しないし、個人の意思まで関与はできない。この無意識下の世界では、誰よりも個人が勝るもの。外の意識ではなく、無意識下でこそ、個人というものが大きくなるの」
ここで一息入れ、
「神様としては、私は何もしない。けど、私個人としては、あなたのこと、応援してるから」
と思いがけない言葉をかけてくれた。俺はそれだけで奮起する。最後にフフフ…と笑い、アンネはこの無意識下の世界から飛び去った。髪の毛が翼のように踊るのを見届け、俺は目の前の朝日を見据える。
さて、帰ろうか。
心の中で誰ともなしに呟いた。
皆が待つ、俺の居場所へ。
大きく、1歩を、踏み出す。
朝日は、とても遠かった。歩いていける距離であるのかもわからない。それでも俺は、歩き続ける。待ってる人がいる。心配してる人がいる。頼ってくれる人がいる。なら俺は、今度こそ、それに応えなければならない。
そして、暖かい光に、包まれた……

痛みによって俺は覚醒した。見られぬ天井。白基調の室内は、ここがどこだかを容易に判別できた。
「起きたか。阿呆が」
久し振りに聞いた、懐かしい声。聞こえたほうに振り向くと、皺を寄せ、白衣を着た初老の女性がパイプ椅子に座り、俺を見下ろしていた。
「…お袋…」
俺は自然と、その言葉が出ていた。しかし、相手は露骨に嫌な顔を作り、
「あんたにそんな呼ばれ方、されたくないね。わたしゃあんたを勘当したんだ。もう赤の他人だよ。強いて言うなら、医者と患者さね」
と指摘する。俺は少しだけ気に入らなかったが、まあそれが事実だ。ゆっくりと体を起こす。頭からズキとした痛みが襲った。思わず手を置くと、包帯の感触があった。体を見渡す。右腕は三角巾で吊るされ、ギブスが嵌められている。
「頭の傷は皮膚を切っただけだ。6針で縫っといた。右腕は全治2週間の捻挫だ。あといくつか内出血跡があったが、その程度は自分で治せるだろ?…とまあ、医者としての説明は以上だ。質問は、あるかい?」
矢継ぎ早に出る言葉に面食らったが、まずは起き上った時からある思いをぶつける。
「……どうしてお袋が、俺を治療したんだ?」
お袋はいきなりの質問にさらに顔を顰めた。しかし、それでも質問には答える。
「奏音ちゃんの頼みさね。わたしゃあの子の家のかかりつけ医。頼みとあらば、嫌な相手でも仕事はする。それがプロというものだよ」
意外なところで、俺と奏音は繋がっていた。もしかしたら、真夏は知っていたのかもしれない。俺が悩んでいると、お袋はふぅと溜息をつき、
「普通さ…今いつだとか、奏音はどうなったとか、そういうことを聞いてくるもんじゃないのかい?」
と呆れたといった素振りで言った。俺はそれを聞き、ようやく頭に血を巡らす。そうだ。何のためにここにいるのだろう。俺は何のために、アンネの誘いを蹴ったのだろうか。
「か、奏音は!?…イっ!つぅ…」
強引に動いたから、体中に激痛が走った。そのまま、ベッドの上で蹲るような姿勢になる。冷ややかな視線を向け、お袋は言った。
「ふんっ!大丈夫さね。あんたがあの子を逃がしたおかげで、あの子には傷1つついてなかったさ。事の顛末はドアの外にいる、プレシアにでも聞くんだね」
そこでお袋は立ち上がる。そのままドアのほうへ歩いて行くが、一度立ち止まり、振り返らずに言った。
「あの子を、守ったんだってね」

「あ、ああ」
1秒の間。
「あんたも少しは、誰かを守れるように、なったのかい」
「それは…」
「まあ、そうなら、天国のあの人も、喜んでくれるはずだわ」
それだけ言うと、俺の言葉を待たずに、立ち去った。
「お、おいっ!」
声をかけたが、お袋が止まることはなった。ガラガラというドアの開く音がした。数秒後、入れ替わりにプレシアが入ってくる。
「この度はお嬢様を守っていただき、ありがとうございました」
深々と礼をするプレシア。俺は逆に体を固くしてしまう。本当なら、俺はプレシアに殺されると思っていたのだ。なんせ、あの子を巻き込んだのは、俺のせいだから。
「すまん俺こそ……そうだ、俺が倒れた後、どうなったんだ?」
俺の質問に、プレシアは俺をしっかりと見据え、話し始める。
「私の伝手であなたを調査していた探偵に、あなたを助けさせました。お嬢様から連絡を受け、すぐさま私が手配したのでございます」
いくつか、聞き捨てならない言葉があったが、プレシアはお構いなしに先に進む。
「あなたが倒れた後の処理は、私とその方でやっておきました。おそらく2度とこちらに関わることはないでしょう。そのあとお嬢様の指示通り、あなたをここへ搬入し、治療を依頼したのです。今日はあの日から、3日目になりますよ」
多くの情報が出てきて、頭の中が整理しきれなかった。数秒考え込んで整理し、まず、彼女に一番聞きたい事を聞く。
「奏音は!?俺はもう一度、あの子に会えるのか?」
プレシアはすぅと、どこか遠くを見る目をした後、
「それは私としてはお勧めしません。もちろん、旦那様からは何も言われておりませんが、今は会わないほうがよろしいかと思われます」
と忠告する。俺はその言葉が気になって、痛む体を引きずり、ベッドから降りた。
「今、ここにいるのか?」
大きく目を見開いたプレシア。アクアブルーの瞳が、一際輝いた。
「案内、してくれ」
俺の言葉に、「ですが…」と一度断ろうとし、目を泳がせる。しかし、俺の熱い視線を浴び、我慢できなくなったのか、
「どうなっても、知りませんからね」
と渋々承諾した。俺はプレシアの肩を借りつつ、病室から出た。

連れて行かれたのは、病院の屋上だった。雲1つない青空。風が強い。白いシーツの波が、バサバサと揺れる。その先に、1人の少女が、いた。少女は手すりに体を預けつつ、外を眺めている。
 俺は駆け出そうとして、激痛に顔を引き攣らせた。隣のプレシアは呆れつつも、俺を支える。俺はゆっくりゆっくりと前進し始めた。本当は、一刻も早く、彼女のもとに行きたかった。しかし、体が言うことを聞かない。逸る気持ちだけが、募っていった。
「お嬢様」
穏やか、声だった。プレシアはいつも、奏音には甘いのだ。
「なぁに?プレシア」
奏音は無邪気に、こちらを振り向いた。夕焼け色の相貌が、最初プレシアに、そして俺に向けられる。天使のような美しい顔。赤味がかった茶髪。死の淵で、会いたいと思った存在。それが今、目の前にいる。
奏音は不思議そうな顔で俺を見る。二、三度パチクリと瞬きした後、彼女は言った。

「プレシア。その人、誰?」

俺の耳が、悪いのだろうか。今、とんでもないことを聞いた気がする。俺は彼女の名を呼んだ。
「奏音。俺のこと、覚えてる?」
奏音は、無邪気な笑顔で、首を傾げると、

「いいえ。私はお兄さんとは、初めて会いました。……人違いでは、ないですか?」

と断言した。

その時、俺の中の何かが壊れた。

俺はそこから先の言葉を、失った。伸ばしかけた手を引っ込め、プレシアに、病室に戻るよう頼んだ。プレシアは、憐れんだ表情で俺を見ていたが、俺の言う通り、引き返す。奏音は、新底不思議そうな顔をし、
「あのっ!」
と引き留めた。俺とプレシアは、そこで立ち止まる。
「名前、まだ、聞いてません」
彼女は俺に向けて、そう言った。俺は静かにそれを聞き入れ、返す。
「…緒方 紅雪だ…」
奏音は「こーせつ」と繰り返し呟いていたが、それをやめて、悲しそうな表情を浮かべ、
「やっぱり、私、あなたのこと、覚えてません…ごめんなさい…」
と謝る。俺は、できるだけ静かで、穏やかな声で言った。
「誤ることもないよ。もう、俺はいいんだ。俺は、奏音のことが見れて、それで十分なんだ。だから…」
その言葉。それは、俺自身を殺す言葉。

「俺のことなんて、覚えてなくていいんだよ」

それだけを言い残し、俺は屋上を後にした。

病室に戻り、ベッドの中に収まる。
「紅雪様…」
悲しそうな、憐れんでいる声。プレシアは俺のことを心配そうに見つめている。俺は一気に年を取ったかのように、狼狽していた。そうか、こんなにもダメージがでかいのか。忘れられるって。それをずっと、プレシアも、真夏も経験していたのか。
いつの間にか、涙が出ていた。
俺は、あの子に会いたくて、ここまで来たのに。あの子は俺のこと、忘れてしまったのか。もちろん、あの子が悪いわけじゃない。ただ、こんなにも思っている自分が滑稽で、情けなくて…
笑いが、込み上げてきた。
一度来た笑いは、体中を駆け巡った。滑稽で、滑稽で仕方がない。
「フ、フフ…」
最初は、噛み殺したかのような笑い。
「ハハハハハ…」
プレシアは、その声に、とても驚いていた。気が狂ったのかと、疑いの目を向ける。俺はそんなことすら気付けずに、笑い続けていた。
「アーッハハハハハハハ……」
腹を抱え、笑い続ける。乾いた笑い。涙を流しながら、俺は嗤う。自分自身を、滑稽に嘲笑う。やがて、笑いが治まると同時に、涙だけ流し続けた。ベッドに左手の拳を埋め込み、叫んだ。
「ちくしょぉぉぉぉぉうっ!」
空虚な響きが、病室に木霊した。

それからの数日間は、虚脱感に襲われながら、日々を過ごした。
まず、次の日には真夏がお見舞いに来てくれた。真夏はプレシアから事情を聞いていたようで、俺を慰めてくれた。自分も辛いはずなのに。真夏は元気を取り繕って、俺を励ます。
その姿が、とても痛かった。
だから俺は、もう見たくなくて、無下に扱ってしまった。それでも嫌な顔せずに、最後は笑顔で、去って行った。湧いてくる後悔。唇を噛み締め、口の中を血で潤すような状態になっても、俺は悔しさに打ちひしがれていた。
退院は、その2日後だった。碌な挨拶もされずに、病室から追い出された。お袋は眼を鋭くさせながら、
「あんたみたいなやつを病室に置くより、金持ちの爺さんでも置いておいたほうがましさね」
と碌でもないことを言い放つ。相変わらず守銭奴というか、金に五月蠅い人間だと思った。
それが唯一つの、俺の心を潤す出来事だった。バス、電車と乗り継ぎ、会社に挨拶に行くと決めた。携帯電話は、あの喧嘩の時に破壊され、使い物にならなくなっていた。なので、直接出向くことにしたのだ。
駅につき、時刻表を確認する。少しばかり待ち時間があるようだ。俺は切符を購入し、ホームへと出た。駅名、桜台。俺と奏音が初めて出会った場所。
そして、俺はあのベンチに腰かけた。彼女が眠っていたベンチ。野晒しのため、所々が錆び、腐りかけているベンチ。座るとキィ…と、少しばかり頼りない音が鳴った。そのまま背もたれに体を預け、空を見る。
どんよりとした雲が、空一面中を埋め尽くしていた。雲の色は暗く、雨が降りそうな気配だ。それは今の俺の心のようだった。今にも泣きたいのに泣けない、俺の有様そのものだ。
終点まで乗り、さらにそこから歩いて、ようやく会社に着いた。不動産業で成り上がったこの会社は、昔ながらの鉄筋コンクリート製の旧社屋と、近代的な、ガラス張りの新社屋の2つがある。
もちろん、前者が鉄道部門などの、いわゆる「オマケ」の部署が押し入れられ、メインとなった不動産業や、儲かりどころ、人事などが新社屋に悠々としたスペースを陣取っていた。
旧社屋に入り、2階に行く。そこが俺の職場の総本山だ。オフィスなんてものはあまり要らない鉄道部門では、この2階だけが名ばかりのオフィスだった。
中にいたのは事務系の同僚や、今日は書類整理をしている先輩、そいて一番大きなデスクで新聞を読みふけっている課長だ。

俺は私服のまま、課長のもとへ行く。課長名折れの姿を見て怪訝そうな表情を浮かべると、開口一番、
「君。明日から来なくていいからね」
とやる気のないような口振りで言った。俺はその言葉の意味をすぐさま理解し、そして、素直にロッカーを片づけ、会社を出た。同僚や先輩が、ヒソヒソ話をしているのが聞こえる。
解雇理由は、やはりあの事件だった。
あの中の1人が、会社にタレコミしたらしい。まあ、最後の嫌がらせということだろう。
別にもうどうでもよかった。
あの子に拒絶されてからというもの、俺はどんなことでも呆けるような状態で聞いていた。心、ここに在らずだった。
タクシーに乗り、自宅へ向かう。もうあの電車には乗りたくなかった。きっと俺がクビになったことも、あいつらは知っているだろう。顔を合わせたくは、なかった。
タクシーに乗るとき、頭に水滴が落ちた気がした。俺が乗ると同時に、運転手が発進させる。ぽつりぽつりと、窓に雨が当たる。
タクシーのおじさんが、気さくに話しかけてきた。俺はそれにうまく話を合わせた。あんまり、話したくはなかった。今は本当に、1人になりたかったのだ。
家に着く頃には、雨は土砂降りに変わっていた。傘などは持ち合わせていないため、濡れるのを承知で、外に出た。タクシーは久しぶりの上客に、財布をホクホクさせることができただろう。
俺は疲れた体を引きずって、家の中に入った。そのまま、怪我を気をつけつつ、何も食わずに、寝た。このまま起きていると、いろんなことを考えそうだった。俺は考えるという行為が苦手だ。
余計な事を考えて、いつも苦しい思いをする。
暗い室内で、俺は1人眠りに就く。雨で濡れた体も拭かず、敷いてあるカーペット汚しながら、俺は横になった。拭きたくは、なかった。いま拭いてしまったら、顔を濡らす別の水滴が、ばれてしまいそうだから。
静かな嗚咽が、暗闇に響いていた。

次の日、空は雲1つない快晴だった。重たくなった体をむくりと動かし、シャワーを浴び、適当に着替える。無職となった俺は、時間を持て余していた。いつもなら仕事のために慌ただしく動くのだが、そんな日々はもう過去の存在だった。
「……久し振りに、行くか!」
俺は無理にでも元気な状態を自分で作る。うだうだしても仕方ない。だから今日は踏ん切りも兼ねて、親父の墓参りに行こうと思った。家を出て、鍵をかける。そのまま歩いて駅に行き、電車に乗った。車掌は、同僚の―いや、同僚だった…か―秋山だ。
冷やかな、蔑む視線をこちらに送る。俺は無視して、椅子に腰かけた。
目的の駅まで、車窓を見る。どこまでも田舎な、田園風景。農耕機械が轟音を立て、畑を耕していた。時折大きな道路が近付き、離れるを繰り返す。通行量は疎らで、渋滞など起こりそうもない。
遠くに見える山辺は、緑が燦々と生い茂っていた。……本当に、のどかな風景だ。誰もが持つ、懐郷の念を刺激するほどの。
夕顔駅に降り立ち、目的の山寺へと向かう。あのガード下は、まだ血痕が残っているようだった。それでも薄れていたその痕跡は、時間が進んだ証しだ。町は何事もなかったかのように時を刻み続けている。俺だけはまだ、時が止まったままだ。
 時刻は、午前を過ぎた頃だった。

親父の墓には、真新しい花が活けてあった。墓も綺麗に磨かれ、美しさを誇っている。誰が来たのかを推測したが、墓前に置いてある日本酒とコップを見て、ピンときた。
あれは、4歳の頃だったか。
親父が飲んでる酒を勝手に飲んで、倒れたことがあった。俺はお袋のこっぴどく叱られたが、親父は豪胆に笑うと、
―――どうだ。おいしかったか?
と聞いてきた。俺は首を横に振ると、
―――ううん。すっごいからくて、いやっ!
と感想を言った。親父はさらに大口を開け、
―――ハッハッハッ……さすがに紅雪にはまだ大人の味だったな!
と言いながら、俺の頭を荒々しく撫でた。俺はそれが堪らなく嬉しくて、親父に言う。
―――じゃあさ、じゃあさ。おれがおとなになったら、あじが、わかるの?
親父は酒をクイッと飲んで、
―――分かるようになるさ。じゃあ、約束だな。お前が大人になったら、俺はこの酒と同じやつを買ってくるから、一緒に飲み明かそうな!
その時の俺はきっと、誰よりも明るい笑顔で、
―――うん!やくそくするっ!
と答えたはずだ。その様子をずっと見ていたのはただ1人、お袋だけだった。俺はコップを洗った後、日本酒の栓を開け、注ぐ。そして、親父の墓に、酒を掛けてやった。俺も1口、飲んだ。
 その味はやっぱり辛くて、しかしそれこそが日本酒のうまみだとわからせる味だった。
「親父…」
俺はちびちびとコップの酒を飲みつつ、言う。
「俺、やっと好きなやつが、できたんだ」
今度は親父に、酒を掛けた。
「そいつは俺よりもずっと幼いんだけど、可愛くて、放っておけなくて、綺麗で、泣き虫で…」
自然と出てくる言葉。涙は、出なかった。
「俺は、そいつを守ろうとして、けど出来なくて…」
コップの酒が、空になった。それでも、次の酒を注ぐ気にはならない。
「悔しくて、餓鬼みたいに泣いて、何もかも失って…」
そして、俺は、最後の酒を親父の墓にかけると、コップと瓶を墓前に置いた。そのまま振り返る。
 どこまでも広がる視界。街を一望できるということが、こんなにも寂しいことだと、初めて知った。俺はあの街とは離れたところにいる。それが今の俺の立ち位置だ。
俺をこの町に縛り付ける物は、何一つ消えさった。
「親父…俺…」
「紅雪…君?」
その声は、驚きをもって俺に齎された。なんという奇遇。なんという運命。
「…真夏…」
静かに彼女の名前を呟いた。彼女はいつも通りの墓参りセットをもって、こちらも驚愕の表情で俺を見ていた。
「なんでお前が…」
この酒を見る限り、お袋はここに来たということになる。なら、どうして真夏がここに来たのだろうか。
「それはこっちのセリフだよ。…毬子さんに言われて、来ただけだよ?」
どうやら、お袋の差し金のようだ。俺は荷物を置くよう促す。真夏は墓の横に墓参りセットを置くと、俺の右隣に立つ。
あの日の再来。見渡す景色は、あの日のように素晴らしかった。ただ、お互いの心は、大きく変わってしまっている。
「紅雪君。あのね…」
珍しく、真夏が早口で俺に切り出した。普段と違う行動。変わった心。変わった立場。
最後のピースが、埋まろうとしていた。

次の日、俺は華村家へと足を運んでいた。昨日、親父の墓前で、真夏に今日来るように言われたのだ。断ってもよかったが、何やら重要な話があるということなので、奏音に会わないことを条件に承諾した。
門前にはプレシアが立っていたが、俺の姿を見た途端、大きなため息をつくのがわかった。
「失礼じゃないのか?人を見るなりため息なんかついて」
彼女にそのことをぶつけると、
「別にあなたに対してため息をついたわけではありません。私はまた、真夏に騙されたことに対して、ため息をついているのです」
といった答えが返ってきた。真夏はプレシアに何を言ったのか気になるが、プレシアはそれ以上は頑として話さなかった。2人きりで、数分立ちつくす。お互い会話する内容もないので、黙って立っていた。
その静寂を破ったのは、もちろん真夏だった。真夏は門の内側から歩いてやってくると、
「プレシア先輩。ボディガードさん来ました?」
と俺のことを見ず、声をかける。プレシアは真夏を睨むと、
「それが、彼なのですか?」
と俺のことを指をさして、言う。真夏は俺を見ると、大きく頷いた。
「はい!新しいボディガードさんですよ?」
俺は、話の筋がよくつかめなかった。ボディガードとは、どういうことだろうか。プレシアは真夏の回答に怪訝そうな顔をし、
「私は腕利きのボディガードを連れて来い…とあなたに言ったわよね?」
と確認する。真夏はそんな彼女の追及を、
「腕利きですよ?私も守ってもらいましたし」
と言ってかわした。プレシアはわざと、大きなため息を吐いた。
「でも、お嬢様を守るには力不足ね。それはあの人の姿が証明してるじゃない」
「いい加減。当事者をほっとくのはやめてくれ」
そこでようやっと、俺は話に割り込む。プレシアは腕組みをし、冷たい眼光で、
「当事者?いえ、あなたにそんな権利はありません」
と一蹴する。しかし、真夏がそれに反論した。
「弱いと仰るのなら、強くなればいいんです。こんなこともあろうかと、師匠もお呼びしてありますから」
その言葉に合わせて、タクシーがこちらにやってきた。真夏は待ってましたと言わんばかりに大きく手を振る。プレシアは一礼した。タクシーは門の前に止まり、1人の男性を下した。その男性は「待たなくても、大丈夫ですよ」と運転手に声をかける。
運転手は一礼し、男性が離れたのを確認してから、ドアを閉め、走り出した。俺らは、ここに来たその男性に注目した。

一瞬、タレントかと見間違えた。
 銀色の髪を短く切り揃え、纏められている。すらりと伸びた体は、180cmはありそうだ。穏やかな表情は、優男といった印象を与える。何より目を引くのは、優しさの中に鋭さを持った紅い瞳だ。
男性は俺を見、そしてプレシアを見た。プレシアは現れた男性に戸惑いを見せた。俺も頭の中に、何か、引っかかりを感じた。
「お待ちしてましたよ。銀之助様!」
真夏が一礼して、言った。銀之助と呼ばれた男性は物腰柔らかに「お呼びに与り光栄です」と礼をした。動きすべてが完璧で、思わず見惚れてしまう。
男から見てもかっこいい。
そんな印象を持った。
俺の視線が気になったのか、銀之助さんはにこりとこちらを向き、
「怪我は軽かったようですね。よかったです」
と俺の姿を見て、言った。そこでようやく、頭の引っかかりが取れた。
「あ、ああ。あなたは、あの時のっ!」
「そう。あなたを調査した探偵ですよ。紅雪様」
言葉にならない俺に代わり、プレシアが先を言った。そう、この人物は俺の記憶に色濃く残った「銀色の髪」の人物だったのである。
「で、どうしたいのよ。真夏」
プレシアが訝しげに真夏を見た。どうやら現状を理解したうえで、聞いたようだ。
「どうしたい…ですか?……私は奏音様のボディガードは紅雪君しかいないと思ってます。力が足りなかったら付ければいい。そのための師匠を、銀之助さんに要請しました」
最初は悩んだような表情で、その後は真剣な顔で、答えた。プレシアはやれやれといった顔をして、
「どうせ…そんなところだと思いました。それを私が認めると思いますか?」
と脅す。真夏は一歩も引かず、言った。
「認めさせます!私は、そのためなら先輩だって、敵にします!」
空気が静寂に包まれた。気まずい雰囲気。銀之助さんは空気を読んで、一歩下がった。俺はどちらが先に喋るまで、黙ろうと決め込んでいる。
「……わかったわ。仮にあなたの言うことを認めるとしましょう。しかし、『彼』は、どうなのです?」
先に沈黙を破ったプレシアが、俺を見つつ言った。真夏の顔に、焦りの表情が浮かんだ。それを見逃さず、プレシアは追及する。
「どうせあなたのことです。紅雪様に真実など話していないのでしょう。そして今、話の概要を知った彼が、これを受け入れると思いますか。奏音様に忘れられ、すべてを失った彼が!」
「でもっ!」
「先程の意見も、あなたの1人善がりではなくて!」
「…っ!」
言葉を詰まらせる真夏。心なしか、勝ち誇った顔のプレシア。一部始終を落ち着いた表情で見る銀之助さん。やがて3人は俺を見つめた。総ての決定権は今、俺に委ねられた状態だ。
「俺は…」
静かな、本当に落ち着いた声で、話し始めた。

「俺は、あいつの隣にいる…資格なんて、ない…」
俺の言葉に真っ先に反応したのは、真夏だった。
「そんなっ!そんなことないですっ!」
俺の言葉を、否定する言葉。必死に叫ぶそれは、おそらく彼女の立場を象徴する言葉だろう。余裕を持った笑みで、プレシアは言い放つ。
「これで決まりましたね。真夏」
まるで首元にナイフでも突きつけたような言葉だった。
真夏は「ひゅん」といった感じで黙り込み、それ以上は言葉が出なかった。
そこで大勢が決定したのか、プレシアが銀之助さんに近寄り、
「では、私から改めてあなたに、お嬢様のボディガードを依頼しますわ。この旅はご足労をお掛けして、申しわけございません」
と挨拶する。銀之助さんは俺をちらと見ると、
「残念ながら、お断りします」
丁重に断った。プレシアは予想外だったのか、動揺が表情に出てしまっている。

「な、なぜです!?」
声が荒立っているのが、すぐにわかった。銀之助さんはそんなプレシアではなく、俺のほうを見て、言った。
「誰かの隣にいるのに、資格がいるのですか?
誰かと共にいるのに、力がいるのですか?
私はそうは思いませんし、そう思うのなら、それを満たすために努力をすればいいではないですか。
それに…」
銀之助さんは穏やかな表情で、けどしっかりとした視線で俺を見ながら、先を言う。
「私は、あなたはその程度であきらめてしまうほど、弱くはないはずです。あのとき、あの不良どもに囲まれたあなたは、ずっと凛々しく、強く見えましたよ?ねぇ?真夏さん」
振られた真夏は、一瞬目を泳がせどぎまぎしていたが、ゆっくりとした口調で話し始める。
「私、私も、そんな…そんな紅雪君。見たくないです…私の知ってる紅雪君は、強くて、凛々しくて、我慢強くて、諦めも悪くて、優しくて…」
顔を赤くし、思い出すようにいろんな言葉出てくる真夏。やがてしっかりとした口調で、こう言った。
「私は、そんな紅雪君が、大好きです…大好きでした。でも…」
俺は、驚きで目を丸くする。真夏は恥ずかしそうに体をもじもじさせながら、言葉を紡ぎ続ける。
「でも、紅雪君は奏音様のことが、好きなんですよね…」
俺はいとも簡単に、自分の心を言い当てられた。プレシアは目も口も開いて、俺を見る。真夏は、俺の言葉を待っているようだ。俺は少しだけ戸惑ったが、
「ああ。俺はあいつのことが、奏音のことが、好きだ」
素直に、奏音が好きなことを、認めた。真夏は頷き、そして寂しそうに、言った。
「私、2人のこと応援します。だって、私、好きなんです。紅雪君のことも。奏音様のことも」
「………わかったわよ」
今まで黙っていたプレシアが、口を開いた。それにより、プレシアに3人の視線が集中した。プレシアはその迫力に一瞬体を引いたものの、強い視線で俺らを見返し、
「わかったと言ったのです。あなたたちのことも。その心も。だからもう、私は何も言いません。……いいでしょう。認めます。紅雪様の採用を」
真夏の顔が、快晴の空のように晴れ渡る。
「ただし!」
大声で、プレシアは俺に詰めよりながら言う。
「まず、お嬢様第一に考えてください。次に、泣き言や弱音は許しません。最後に命は捨てた物と思ってください。あなたはお嬢様の盾となり、鉾となるのですから……いいですね?」
最後の確認の言葉に、俺は同意した。プレシアはそれで下がり、さっきの場所に戻る。
「じゃあ、詳しいことを説明しますね」
真夏がそう口を開いた途端…
「真夏遅―い!紅茶冷めちゃったよー!」
門の向こう側から、少女の声がした。

皆が驚きながら、その声のするほうを見る。そこには、大きなピンクのリボンで髪を束ねた、奏音が腰に手を当て、仁王立ちしていた。
「あっ…」
奏音は俺の姿を見ると、何か言いたげに口を動かすが、言葉にできないみたいだ。俺は、静かに近づき、視点を合わせるためしゃがむ。
「こーせつ…さん」
奏音は俺の名を呟く。俺は「そうだよ」と、自身が「こーせつ」であると認めた。奏音は目をいろんな所へ向け、俺と視線を合わせないようにしている。
しかし、俺の視線は奏音からずれない。奏音はついに観念して深々と頭を下げ、
「ごめんなさい!やっぱり私、こーせつ…さんのこと思い出せません…」
泣きそうな顔。俺は穏やかな顔で、言った。
「いいよ。奏音は悪くないんだから。あと、俺のことさん付け呼びは、止めてほしいな」
奏音はこくりと、頷いた。俺はそれを確認すると、
「じゃあ、また初めましてからだね…俺の名前は、緒方 紅雪だ」
と自己紹介する。奏音は最初戸惑っていたが、俺を見つめると、自己紹介を始める。
「私の名前は、華村 奏音です。よろしくお願いします」
「ああ。これから、よろしくな」
その時、奏音の頬に、一滴の涙が流れた。
「あれ?おかしいな…涙なんて…」
それを拭いながら、奏音が言う。涙はいくら拭っても止まらない。やがて大粒の雨になって、地面に降り注ぐ。そんな奏音を、真夏は抱き締める。そして、まるで本当の親子のような、教えるような感じで、言った。
「奏音様。きっと、お体は覚えているのですよ。奏音様が、紅雪君を好きだったことを」
目をまん丸くさせ、真夏の言葉を聞き入る奏音。真夏は奏音から離れ、その手を握る。
「じゃあ、まずは紅茶を入れなおしですね」
「うん…」
そして、真夏は目でこちらに指示を出す。ついて来いということか。
「じゃあ、詳しい話は中で、ですね」
銀之助さんが先陣を切った。俺らもそれに続く。
 そして門が閉められ、俺は華村家の一員になった。

あれから、2週間が過ぎた。
 ようやくギブスも外せるようになり、体も自由に動かせるようになった。しかし、今でも生傷は絶えない。なぜなら…
「ほら。これでチェックメイトですよ?」
「ごふっ!」
容赦のない、銀之助さんの一撃が、体に刺さる。俺はそれで地面へと倒れ込んだ。怪我が完治すると同時に、俺は銀之助さんから稽古をつけてもらっていた。
見た目に寄らず、この人、めちゃくちゃ強かった。俺の攻撃が当たるのはまぐれレベルで、いつも手玉に取られ、こうして打ちのめされるのだった。
稽古の場所は、森のように生い茂る、華村家の庭だった。柔らかい芝生の上。
ここなら怪我もあまりしないだろうという配慮だ。
今俺は、その芝生の上でうつ伏せになり、参ったの状態だった。
なんとか体を動かし、仰向けになる。少しだけ、雲が広がる空。
ボロボロの体で見る空は、とても遠くに感じた。
「大丈夫ですか?」
「こーせつ!しっかりっ!」
真夏と奏音が俺に駆け寄る。横にいる銀之助さんは汗一つ掻かず、平然としている。俺の様子を注意深く見た後、
「今日はここまでです。私は、失礼しますね」
と、稽古の終了を言うと、足早に去っていく。スーツをびしっと決めた姿は、まさしく大人の男を感じさせた。俺はというと、女の子2人に介抱され、情けない姿を晒していた。銀之助さんは、そんな俺を見つつ微笑みながら、
「しかし。君はとても面白い人です。私の攻撃をここまで耐える人物は、そうはいませんからね」
と褒めてくれた。そして再度俺に近づき、
「ふむ。私も君に興味が湧きました。以後は、その生態、観察させてもらいますね」
とにこやかに宣言して、帰って行った。俺はその言葉の意味深さに震えながら、何とか自力で立ち上がる。
2人は先に広げたレジャーシートの上に戻り、2つあるバスケットの内、小さいほうの中身を出し始める。クラブサンドや玉子サンド、さらにたこさんウィンナーなど、可愛らしいお弁当が、目の前に広がった。
それを見ただけで、俺のお腹は素直に、ぐぅという悲鳴を上げる。
和やかな昼食タイムが始まった。
がつがつと、荒々しく食べる俺。
ちびちびと、リスのように食べる真夏。
そして、上品に、本当のお嬢様のように食べる奏音。
その姿も本当に可愛くて、抱きしめたくなった。
すると、こちらの視線を感じた奏音は、満面の笑みを浮かべる。
本当に、幸せだと言わんばかりに。

「ほっぺた。ついてるぞ」
俺に指摘され、慌てて頬を探る奏音。右頬に付いた卵を掬うと、ひょいぱくと食べてしまった。そして顔を赤くし、体をもじもじさせる。どうやら、すごく恥ずかしかったらしい。俺が頭を撫でてあげると、奏音はまたあの、幸せそうな顔に戻った。
 最後のサンドイッチを食べ終わる直前、奏音の動きが止まる。体を震わせ、恥ずかしそうに俯いた。それだけで俺と真夏は、何が起きたのかを感じ取った。
「おしっこ、出ちゃったのか?」
奏音は小さくこくりと、頷いた。真夏は大きいバスケットの中身を出し、準備に取り掛かる。大きいバスケットに入っていたのは、おむつ替えセットだ。
おむつ替え用のマットをレジャーシートの上に敷き、奏音をそこに座らせる。テープ式のおむつだから、座らせた方が、効率がいいのだ。
「は、恥ずかしいよぉ。真夏ぅ」
おむつ替えの時だけ、舌足らずになる奏音。真夏はあやす様な言い方で、
「じっとしてくだちゃいね〜」
とにこにこしながら言った。アリスドレスの裾をたくし上げ、奏音は潤んだオレンジの瞳で俺を見る。
恥ずかしさから顔をトマトのように真っ赤にしていた。俺は努めて真夏の手伝いをするため、横にいる。奏音から汚れたおむつが外された。
お尻の方まで黄色く染まり、ぐっしょりと濡れたおむつを真夏は手早く纏めた。その隙に俺が、真夏の秘所やお尻をウェットティッシュで丁寧に拭く。それが終わると真夏が、パウダーをまんべんなく塗すのだ。流石に2週間も経てばこの連携も板についていた。
新しいおむつの様子を確認する奏音。どうやら、大丈夫なようだ。新しいおむつが気持ちいいのか、上機嫌になっている。それを見た真夏は、
「じゃあ、これ、片づけておきますから、ごゆっくり…」
と妙な気を利かせ、去って行った。
俺と奏音。2人が庭に残った。

2人だけだとなんでかわからないが恥ずかしくなり、うまく会話ができなくなった。
それは奏音も同じで、いつもは人懐っこく話してくれる彼女も、俺と2人きりだとまごまごした話し方になってしまう。
「こーせつ」
奏音は俺の体をなぞる。そこには先程の稽古でできた傷が残っていた。
「痛い?」
純粋に、心配する声。俺は首を横に振り、否定する。
「大丈夫さ。俺は、強いからな」
そう。俺は、奏音のためなら、いくらでも強くなれる。
「ねぇこーせつ」
そんな俺を見ながら、奏音はまた話しかける。俺が振り向くと、彼女は少しだけ手をもじもじさせたが、俺を上目遣いで見つめ、言った。
「キスしよ」
びっくりして、一瞬、呼吸が止まった。
「えっ…ちょ…」
俺が動揺で言葉にならない声を出すと、奏音は人差し指を唇につけ、
「私、こーせつと、キス、したい」
と甘える。俺は顔を熱くさせてはいたが、覚悟を決めた。俺よりもずっと小さいこの子からのお誘いだ。断ることなんて、できはしない。
「じゃあ、目、瞑って」
奏音は従い、目を瞑り、唇を出す。
 その姿は、お伽噺に出るお姫様そのものだ。
俺は少しだけ目を泳がせたが、意を決して、その唇に、自分の唇を重ねる。
2秒間のキス。それが、世界が一周するくらい長く感じた。
「んっ…ぷはっ」
息が苦しくなり、2人同時に唇を離す。見つめ合う状態になると、急に恥ずかしさが込み上げてきた。すぐさまお互い目を逸らし、自身を落ち着かせる。
数十秒後、俺らは屋敷に戻ることを決め、レジャーシートを片づけた。それを奏音に持たせると、俺は彼女を、あの時のようにお姫様抱っこした。
「わひゃぁっ!」
驚きの声を上げる奏音。体の所々が軋むが、まぁ大丈夫だろう。ゆっくりとお屋敷に向かって歩き始める。
「…おかしいな。なんだか、すごく懐かしくて…温かい…」
俺の中で小さくなる奏音。俺は、真夏の受け売りを言った。
「それはきっと、体が覚えてるんだよ」
俺の言葉に驚いて、奏音は俺を見る。
「前にも、こんなこと…したの?」
俺は素直に、「そうだよ」と頷いた。奏音の顔が、暗いものに変わる。
「私また、忘れちゃったの…」
俺はそんな彼女に、言った。
「俺の手、握ってくれる?」
俺は彼女の体を抱いている手を動かす。彼女はそれに気付き、小さな手で、握ってくれた。
「温かいだろ?」
こくり。
「これから何回でも忘れても、この温もりだけは、忘れないでほしい。だから、体に、それを覚えさせるよ。そしたら、奏音も安心だろ?」
こくり。
「じゃあ、そんな顔するのは、止めてほしいな」
奏音はそれを聞いて、雲なんか吹き飛ばすぐらいの笑顔を、俺に向けてくれる。俺はそれを嬉しく思いつつ、同時に心にある決意を浮かばせていた。
それは、彼女の小さい手を握った時、思ったことだ。
こんなにも小さい手。けど、必死に、皆を不安にさせまいと頑張る、小さな体。
それが愛おしくて堪らないから、俺は、この命に代えても、守ると決めたのだ。
絶対に、この手を離さず、どんな地獄からでも、救い出してやる。
それが、俺に与えられた、神様からの使命なのだから。

本から飛び出た私は、彼の話を読み終えると同時に、一息ついた。彼の話は一旦、これで終わる。しかし、本はまだ終わっていない。まだ1/3も、読み終えてはいないのだ。
「まだ、この物語は終わらない」
あなたにそれを確認する。あなたはきょとんとしていた。どうやら、まだ最後まで読んでいないようね。
じゃあ、生憎様。今しばらくは、休憩としましょうか。
栞を挟み、本を閉じる。ランプの明かりを消すと、本の森は闇に包まれた。私はそこに、微かな光だけをばらまき、本に囲まれ、一時の眠りに就く。
彼らの幸せを願い、私は夢の世界へと落ちて行った……

メンバーのみ編集できます