クメール立憲革命とは1921年5月24日〜6月2日までクメール王国首都のアンコールを中心として行われたブルジョア民主主義革命である。
広義では1880年代から行われた一連の労働運動や1926年の社会主義革命も含めてクメール革命とする。
クメール立憲革命
↑革命当時のアンコール・ワット
種類  ブルジョア民主主義革命
目的  立憲君主制への移行(社会主義者同盟)
    王制の廃止(人民党、民族主義者)
結果  憲法制定、一時的な国内の安定
場所  クメール王国 アンコール市
日時  1921年5月24日〜6月2日

概要

クメール立憲革命は1921年5月24日から6月2日にかけて行われたブルジョア民主主義革命である。革命の発端はクメール国王の寵愛をうける高官が社会主義者によって暗殺された事件である。アンコールを中心としたカンプチアで革命は進行し、その他の地域では諸民族の独立運動が並列しておこなわれた。この革命によりクメールにおける絶対王制は崩壊し、憲法が制定され後の社会主義革命に繋がった。

背景

クメールの内情と暴動の多発

当時のクメール王国は多民族、多宗教と言う安定してるとは言い難い情勢のなかイギリス資本によって経済発展が進んでいた。
経済発展はクメールに富をもたらしたが国内経済の殆どはイギリス資本に支配されていて、常にクメール人は不利益を被っていたし貧富の差も拡大していた。

このような状況のなかクメール王国は自らの体制の維持と国家の安寧のために軍事力に強く依存しており、極めて立ち後れていた。
軍はクメール国王が最高指導者であり国王が自らの権力を維持するための盾であり矛であった。征服戦争によって確立された国土を維持するために国王は常に高圧的で譲歩を一切許さなかった。尤もこの時に国王が大きく譲歩を行っていたら、かつてのオーストリア=ハンガリーのように諸民族の小国が東南アジアには乱立していただろう。
クメールが長い間東南アジアの大部分を支配し続けていたのはその圧倒的な軍事力と豊かな経済力のおかげだった。だが支配のために必要な軍事力はクメール人が少ないため様々な民族から構成せざるを得なかった。

クメールはかろうじて独立を保ち、イギリス資本による開発によって土地を失った農民達は都市に流出し労働力を求めていた各地の工場で働いた。アンコールなどの都市に資本は集中し農村との経済格差が拡大し、更に労働力は都市部に流れと言う循環が繰り返されクメール人労働者の賃金の低さも相まって資本主義が急速に進展していた。

1890年代には工場の建設のために重鎮の強制立ち退きが行われた。このようなイギリス資本による強制的な開発は自然を破壊し、自然を崇拝するクメールのコンポトム教信者にとっては耐え難いもので、1897年6月2日には遂にクメールの全土で暴動が発生したが、暴動は各々がバラバラに運動を行ったため早急に鎮圧された。
また労働者の労働環境は劣悪で生活費を稼ぐためには未就学児も働かなければならないほどだった。そのため常に工場ではストライキが発生しイギリスの資本家達とクメールの労働者の間には深い溝が存在した。
このような伝統的な思想と近代化の対立や労働環境の改善を求める暴動はのちの社会主義革命まで発生しつづけた。

諸民族の独立運動

1900年代に突入すると益々暴動は頻発し、国内が不安定になると元より中央政府の支配が行き届いていないクメール人以外がすむ土地では、独立運動が発生し事実上の独立国となった地域も存在した。

この頃の1907年には今も政府を悩ます「タイ独立戦線」の前身である「タイの声」が発足した。
彼らはクメール人によるタイ人の支配を打破し、かつてのアユタヤの版図を回復させることを目的としてタイ人の民族覚醒を試みるために様々な冊子を発行した。発行された冊子の殆どはクメール中央政府により禁書とされ発行禁止が命じられたものの「タイの声」は地下で出版を続けていた。
各地で独立運動が激化し、事実上独立している地域が既に存在していたがクメール中央政府がタイの独立を許さなかったのは、既に分離していた地域が森林や山地など重要性の低い地域だったのに対してタイはアンコールからも比較的近く豊かな水田地域だった為である。

タイ以外にもラオス人やチャム人、ベトナム人等も独立運動を開始して中央政府の支配が及ぶ地域は国土の5割を切るまでに減少した。勿論これらの運動を中央政府は鎮圧しようと国軍を派遣するものの、クメール人以外の民族から構成された部隊は寝返り大損害を被った。諸民族に対する国王の威光は没落し、長きにわたり東南アジアの大半を支配したクメール人の勢力は本来の土地に戻っていった。

↑1910年代のクメール国内

ただ、帝国主義真っ只中の世界情勢の中で小国が分立することは絶対に避けるべきことで、だからこそクメール国王は分離主義運動の全てを断固とした態度で対応していたし、各地のベトナム人やチャム人は独立ではなく自治権を求めていた。

一方でタイ人やベトナム人のような過激派は完全な独立を目指していた。タイ人の目指したものはかつてのアユタヤ朝の再興であり、ベトナム人は同胞のベトナムとの合併を目指して闘争を行っていた。
彼らのような過激派は中央から派遣された役人を襲撃し、中央政府の地方行政を麻痺させた他に地方の流通網を完全に破壊させた。これにより各地で物資の欠乏が発生するなどの多大な影響を与えた。

クメール人民党の結党

国内が内戦状態と言っても過言ではない状態になっていたころ、一部のインテリゲンチャはイギリスに留学して社会主義に触れた。
この頃の社会主義は絶頂にあり第二次インターナショナルが組織されていた。クメール国内においても社会主義は影響を与えていた。

既に国内にはクメール社会主義者同盟が1904年に組織され地下活動を行っていた。彼らクメール社会主義者同盟は社会主義に関係するあらゆる思想を内包しており、その思想はブルジョア民主主義革命を経た後に社会主義革命を達成する二段階革命論を採用した以外には殆ど存在していなかった。確かに彼らはその成員数は多く絶大な影響を保持していたものの、内情はひどく確かな方針も存在せず其々がバラバラになって活動していた。例えばある一派は自身の体を使い死を持って政府に訴え、ある一派は全国で発生していたストライキを指導していた。

1909年には彼らの一部とそれに協調した軍の一部がクーデターを実行した。このクーデターから判明するのはクメール人以外からの支持を失っていた国王がクメール人の知識人からも支持を失いつつあったことである。ただ、この状態になってもクメール人の農民は国王を慈悲溢れる父として信奉していたことである。国内には豊かな教養を備える知識人を育成する教育施設は存在したものの多くは高い学費が必要で、農民の殆どは文盲で前近代的な価値観の中に暮らしていたし生活も多少困窮した程度で殆ど変化しなかった。

1912年にはイギリスのロンドンでクメール人民党が結成された。彼らの多くは学生であった。しかし人民党の大きな特徴として当時ロシアで革命を推し進めていたボリシェビキのように明確な目標、統一された行動と言うものを持っていた。

彼らの大半が帰国する1914年には第一次世界大戦が勃発、世界情勢は混沌となり第二インターナショナルも解散した。世界大戦が勃発したときのクメール国内は社会主義者同盟や民族主義者によるテロが相次いでいた。この頃は民族主義者も社会主義者も王制の打破を狙って共闘していた。

クメール国王の王位の危機をもたらす社会主義運動に対して中央政府は民族主義よりも徹底的な弾圧を行った。すでに諸民族を束ねる東南アジアの王からクメール民族の王に転落していたが、支持層のクメール民族(特に貴族、農民層)に社会主義が蔓延した場合には完全にクメール国王は廃位されるためであった。

弾圧が締め付けられるとテロやストライキの件数は増加して行った。ただ中央政府側も少しの譲歩を行い最低賃金を増加させたし僅かに労働環境は改善した。この中央政府の譲歩は労働者が自ら組織した労働組合の勝利であって人民党や社会主義者同盟はより大規模なストライキを企画して継続させようとしたもののこの指令は届かず、全ての労働運動を一括して指導する機関の設立が問題となった。

立憲運動

1915年にはアンコールでのデモが発生した。政治は国王とほんの僅かな貴族によって独占されていて人民大衆が求めるものは殆ど反映されず権力闘争や自らの保身に明け暮れていた。
欧州で既に民主主義が成熟しつつあったこの時代、留学した知識人が民主主義を要求するのは当然だった。
故に、1915年4月6日にアンコールで勤労者の権利を求めて憲法の制定を大衆が求めたときに王国を支える知識人が揃って大衆側に立ったのは必然だった。(ちなみに教育機関の貧弱さから社会主義者は貴族の若年層に多かった。)
この時の中央政府は再び譲歩を繰り返し憲法の制定には応じなかったものの身分別の議会の制定を約束した。
この頃は民族の独立運動が盛んでクメール人すらも敵に回すことは賢明ではなかったためであり、これによりクメール人が居住するカンプチアでの一時的な安定を手に入れた中央政府は民族主義者によって王国から分離した地域を国軍をもって鎮圧し国家の分裂状態を約20年振りに回復させた。

中央政府が譲歩して国内の民族主義者も打破したことにより革命の機運は徐々に冷めていった。
ここまで中央政府から譲歩を引き出してきた人民の原始的な革命の情熱が沈静化していくと国内は数年間の安定を保っていった。
この小康状態は革命勢力と反動勢力の双方にとって非常に重要な時間となった。
革命勢力はこれまで殆ど人民大衆を指導しておらず、ただ自発的な革命の情熱に導かれ自らが真に欲するものを理解せず表現することが出来ていなかった。無意識的な革命精神のみが先行し人民党や労働民主党(社会主義者同盟より改称)はそれに振り回されていた。

それは殆ど北の大国のロシア帝国で発生した革命と同様で、故にロシアで進行中の革命から多くのことを人民党は吸収していった。
人民党がボリシェビキのような真に人民大衆の革命精神を体現する前衛党に脱皮しようとしていた時に労働民主党(旧社会主義者同盟)は最早解体しつつある農業共同体に則った農民を支持層とした大衆政党になろうとしていたし、人民党がレーニン主義受容したのに対して西ヨーロッパで絶大な権威を持っていたドイツ社会民主党のカウツキー主義を受容し、ボリシェビキとメンシェビキと言う二つの革命政党が対立したロシア革命に益々酷似していった。

革命

結果

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