完顔阿骨打



本名:阿骨打(あくだ)
別名:完顔阿骨打(わんやん・あくだ)
身分:女真族完顔部族長、後の金の初代皇帝
家族:父・劾里鉢、兄・烏雅束、弟・呉乞買
登場作品:『天龍八部』

 阿骨打(あくだ、アグダ、1068年 - 1123年7月1日)は、女真族完顔部(ワンヤン部)の族長で、金の初代皇帝。中国風の諱(中国名)は旻であるが、日本では女真名である阿骨打(アクダあるいはアグダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。劾里鉢(廟号は世祖)の次男、父と兄の烏雅束(廟号は康宗)も完顔部の族長であった。

 完顔部(満州のワンギヤ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は女真人のうち遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族で、松花江の支流按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省)に居住していた。阿骨打の先祖は完顔部の族長として遼から節度使の称号を与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。阿骨打は完顔部の族長・節度使を務めた父、叔父、兄を助けて完顔部の勢力拡大に功があり、このころまでに完顔部は生女真をほとんど統一した。1113年、兄が死ぬと阿骨打が完顔部を継ぎ、都勃極烈を称した。翌1114年遼に対して挙兵し、遼の拠点寧江州(現在の吉林省)を攻撃し、これを占領した。また猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した。

 1115年、阿骨打は皇帝に即位し、国号を大金と定め、収国の年号を建てると、同年遼の天祚帝率いる大軍を破った。北の遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年、金と同盟を結んだ。これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。翌1121年遼の天祚帝は燕京を放棄して西走し、遼の支配はまったく壊滅した。

 宋軍ははじめ国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約に従って燕京を攻め残した。その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石らの率いる遼の残存勢力に連敗したため、宋軍の司令官童貫は金に対して燕京を落とすよう要請し、金軍が燕京を攻略した。金の将軍たちはこのまま燕京を金の物にすべきだと主張したが、阿骨打は盟約を尊重して燕京以下六州を北宋に割譲し、代わりに燕京の人民を全て連れ去った。またこの代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧 20万石を受けることになった。

 1123年、阿骨打は没し、弟の呉乞買(太宗)が後を継いだ。その死後、金は1125年に天祚帝を捕え遼を完全に滅ぼしたが、歳幣の支払いを巡って北宋と対立し、これを滅ぼして中国に進出することとなる。なお、三代皇帝熙宗以降の金の皇帝は阿骨打の子孫である。

 2003年9月5日、北京市文物局は、北京市南西郊外の九竜山で1980年代に発見された金朝の陵墓から、阿骨打のものとみられる石棺と遺骨、装飾物が発掘されたと発表した。(以上、Wikipediaより)

 この作品では、阿紫を連れた蕭峰と意気投合する姿が描かれているが、年代等は史実と一致しないので注意が必要である。

※彼についてもっと語るぞ! って方はどんどん書き足してください。
2005年08月20日(土) 15:23:58 Modified by kizurizm




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