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冠婚葬祭の起源

 筆者が物心ついてからガッツリ出席した初めての葬式は、母方の祖母のものでしたが、その時の感想は、「音楽の起源ってやっぱり宗教や儀式典礼なんだろうな」というものです。読経を聞いて、そう思いました。
 冠婚葬祭は、元は儀式でしたが、全て次第に儀式としての意味を失っていきました。絵画や音楽など一部が切り出されて、藝術やエンターテインメントとして生き残った文化や技法もありました。これと同じで、冠婚葬祭のうち、「祭」そのものもエンターテインメントとして生き残りました。「冠」は、いまや残っているのは成人式ぐらいのものでしょうが、あれも今まで会ってなかった旧友に再び会えるから行っている人が多いのではないかと思います。「婚」も「葬」もそうでしょう。親類縁者が一堂に会する機会だからこそ、なかなか会えない人と会って話ができるのが「冠」「婚」「葬」です。そこに意味を見出して行っている人が実は多いのではないでしょうか。それは結局、儀式本来の意味はもはや失われて久しいということにほかならないのではないでしょうか。

 逆に言うと、その点にメリットを見出せない人は行く気にならないということです。筆者は人間が嫌いで旧友や親戚みたいな中くらいの親しさの人間には一番会いたくないので、「冠」にも「婚」にも「葬」にもなるだけ行きたくありません。そういう人を行かせる気になるには、「祭」みたいにもっとエンターテインメント化を進めるのは一つの手ではないでしょうか。
 流石に「葬」の機会にエンターテインメントをやるのはどうかとは思うので(これはすなわち、葬はまだまだ儀式としての意味も失われていないということを意味します。言っていることが矛盾していますね)。筆者が注目しているのは「婚」です。もっと、エンターテインメント化を推し進めるべきです。ところが現状、主催者(=新郎新婦)の側に、金を払ってまでやってきてくれた参加者を楽しませようという気概が全く感じられません。金を払って参加してくれている以上は、相手は「お客」です。主催者が一人で楽しいことをやれば済むなんていう甘いもんではありません。着飾った自分たちを見せておけばいいだろうなんていう考えでは意識が低すぎます。あんな内容でしかできないから、文句も言われるのです。
 逆に筆者も、万が一結婚することになって、万々が一式を開かざるを得ないということになったら、必死にコンテンツを考えますから。そもそも開きたくないので、全力で抵抗するでしょうけど。だって、新婦友人と新郎友人ってバックボーンが共通していないことも多いので、そうだったら新郎関係の内輪ネタをやっても新婦友人にはウケないんですよ。参加者が内輪だけだから内輪ネタをやるのが一番なのに、それが封じられるってムチャクチャやりにくいじゃないですか。

 だから、結婚式をウケる内容に作り上げるのは難しいのです。そして、それができないのであれば、参加者にせめて交通費・宿泊費と一定額のギャランティーを払うべきでしょう。中国には結婚式に参加してくれるバイトみたいなのがあるんじゃなかったでしたっけ。それと同じ発想です。筆者も、ギャラの額次第では行く気にもなるというものです。

 「凡人がギャラも払わずに人を集められるのは自分が結婚する時と死ぬ時の2回だけ」というのは筆者が作った格言です。


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