当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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ことわざとは何なのか

A.全称命題

 ことわざには全称命題がかなりあるという気がしていますが、どうでしょうか。
 全称命題というのは、wikipediaの説明によれば、「一つの集合を構成する全ての項について、ある性質を肯定する命題」のことらしいです。「全ての犬は死ぬ」とか、「全ての弁護士はいじ汚い」とかですね。

 以下に、全称命題であることわざの例を挙げます。
<事実的>
・事実は小説よりも奇なり
・犬も歩けば棒に当たる
・憎まれっ子世にはばかる
・塵も積もれば山となる
・良薬口に苦し
・喉元過ぎれば熱さを忘れる
・芸は身を助ける
・安物買いの銭失い
・貧乏暇なし
・子はかすがい
・地獄の沙汰も金次第
・笑う門には福来る
・来年のことを言えば鬼が笑う
・三十六計逃げるに如かず

<当為的>
・かわいい子には旅をさせよ
・急がば回れ
・老いては子に従え
・少年老い易く学成り難し
・善は急げ
・急いては事を仕損じる

 ことわざ自体があまり厳密さを意識していないものなので、「全ての」「あらゆる」といったような分かりやすい全称の量化詞はないものばかりですが、言いたいことは全称的な命題でしょう。「憎まれっ子世にはばかる」ということわざが言いたいのは、「憎まれっ子の中には成功する奴もおちぶれる奴もいる」ということではなくて、「全ての憎まれっ子はこの世で栄達する」ということだと思われます。「かわいい子には旅をさせよ」ということわざの言いたいことは、「かわいい子の中には旅をさせた方がいい子もよくない子もいるから、旅をさせた方がいい子には旅をさせましょう」ということではなくて、「子がかわいければどんな子であっても困難な道を歩ませよ」ということだと思われます。

 上の表では事実的なもの(単なる事実の記述)と当為的なもの(「〜せよ」「〜すべし」といったように相手に一定の行動を求めるもの)を分けて書きましたが、あまり厳密な違いはありません。ことわざには、言い方は事実的でも、趣旨としては一定の当為を求めているものなど、いくらでもあるからです。「少年老い易く学成り難し」というのも、当為的の方に分類しましたが、言い方は「子どもというものはあっという間に年をとってしまうから、学問を究めるのは難しい」と事実的です。ただ、本当に言いたいのは、「だから勉強せい」という当為だと思われるわけです。

 で、全称命題というのは、間違いのものの方が圧倒的に多いのです。なぜなら、現実はそう単純ではないからです。「日本人はアメリカ人より賢い」というのも、素直に解釈すれば全称命題ですが、間違いだというのはお分かり頂けると思います。アメリカ人より賢くない日本人というのは、いくらでもいるからです。「鳥は空を飛ぶ」だって全称命題として考えれば間違いです。ペンギンやダチョウやエミューやキウイやヤンバルクイナのことを無視しています。
 全ての事象には、普通は例外というものがあります。その例外のことを無視して大雑把に議論してしまう全称命題というのは、正しくないことの方が多いのです。ちなみに、「全ての事象には必ず例外がある」と言うとこれも全称命題になってしまうので、間違いの可能性が出てきます。
 間違いなので、当然バッティングすることわざも出てきます。「善は急げ」と「急いてはことを仕損じる」なんかまさにそうです。現実においては、急いだ方がいい場合も急がない方がいい場合もあるというのが本当でしょうが、そういう細やかな部分を無視してお互いに大雑把な議論をするから、両方間違いになってしまうのです。

 じゃあなぜ間違いだらけの全称命題がことわざという形でここまで人口に膾炙しているのかということです。それはおそらく、全称命題というものが、簡潔で、分かりやすくて、訴求力が高いからです。極端さと正確さは不可避的にトレードオフの関係にあるというやつですね(全称命題というのは、「全ての○○は◆◆だ」と一刀両断にするものなので、極端なのです)
 例外に気を付けて正確な議論をすると、冗長になり、何が言いたいのかが分かりにくくなります。前述の通り、「かわいい子の中には旅をさせた方がいい子もよくない子もいるから、旅をさせた方がいい子には旅をさせましょう」というのが例外に気を付けた表現になりますが、長いばかりで言いたいことが雲隠れしていないでしょうか。「老いては子に従え」を正確に言うと、「子の言っていることは合っていることも間違っていることもあるから、自分が老いた後も無条件に従うのではなく、合っているか間違っているかを判断したうえで合っているものには従いましょう」になってしまいます。人間は普段から世に溢れる言説に合っているか間違っているかを判断しながら行動しているので、当たり前の行動をしろと言われているだけになってしまうのです。これは、何も言われていないのと一緒であって、何の指針にもなりません。

 ここに書いた通り、ことわざというのは行動の一定の指針を提供してくれるものです。指針は、分かりやすい方が覚えやすいし、使いやすいです。「子の言っていることには取り敢えず従っておけ」「急いでいる時は回り道をしろ」「何かあったら逃げろ」という指針は非常に単純明快で自分で考える余地もないので、運用しやすいのです(逆にだからこそ、間違う局面も出てくるわけですが)。こういう「間違いの可能性もあるけど単純で覚えやすい行動の指針」がことわざという形でたくさん提供されているということは、人間がそれだけアホだということでしょうか。そういう面もあるとは思いますが、筆者はむしろ子供に色々と教え込むために発達したのがことわざではないかという仮説を立てています。子供は、まだ判断力が未熟なので、何かを教えるにしても単純で分かりやすい方がいいです。「勉強してもダメな奴もいるし勉強しないけど大成する奴もいるから、自分には何が向いているかを考えて今必要なことをやりなさい」なんて言っても子供にはすぐには理解できません。だからとりあえず「少年老い易く学成り難し」とバカの一つ覚えで吹き込んでおいて、勉強をさせた方が子供も動きやすいのです。

 ここにも、「道徳化における単純化」が見てとれるわけです。

 分別のつく年齢になった皆さまは、「全称命題はほとんどの場合間違いであり、したがって全称命題のことわざも間違いを多分に含んでいる」ことを肝に銘じておきましょう。ことわざは子供の教育に使われるもので、皆様も頑是ない時分から散々吹き込まれてきたものですから、ことわざを持ち出されると何か正しいことを言われているような気がしてしまいますが、そんなことはありません。大人はもっと、理性的な議論をしてください。ことわざを持ち出すのは、「他に論拠がないときに間違いを糊塗したいから」、ということが多分にあります。ペテン師の、やり方なのです。
 何か金のかかる大きなプロジェクトを進めようとしている人が、周りの了解を取り付けるためにそのプロジェクトの必要性を説明する場面で、「善は急げ」しか言わなかったらどうしますか。逆も然りです。どう考えても喫緊の課題をやらずに放置している人がその理由を「『急がば回れ』って言うでしょ」としか言わなかったらどう思いますか。高いものを買わせようとしている人がセールストークで「『安物買いの銭失い』って言うでしょ」とだけ言っているとしたらどうでしょうか。

B.比喩

 この原稿を書くに当たってことわざを色々調べていましたが、全称命題のことわざを除くと、残りのかなりの割合を占めるのが「比喩のことわざ」なのです。もっと分かりやすい言い方をすれば、「たとえ」です。

「猫に小判」「豚に真珠」→価値の分からない者に貴重なものを与えても役に立たないことのたとえ
「泣きっ面に蜂」→悲惨な状況が二度続いたことのたとえ
「鬼に金棒」→強い人が更に強くなったことのたとえ
「二階から目薬」→回りくどいことのたとえ
「立て板に水」→話がうまくてよどみないことのたとえ
「爪に火をともす」→貧しい生活のたとえ

 ちなみに、比喩と全称命題を両方兼ね備えたものもあります。
 「餅は餅屋」というのは、「専門家に任せておけ」という全称命題を餅屋の比喩で言ったものです。「蛙の子は蛙」というのも、「子は必ず親に似る」という全称命題を蛙の比喩で言ったものです。

 比喩というのは、要は言い換えです。あることを、違う言葉で言い換えただけなのです。同じことを言っているので、論理的な進展はありません。比喩にしたことで分かりやすくなり、その結果議論が進むということはあるでしょうが、比喩それ自体に論理的な進展はないのです。
 比喩のことわざも一緒です。これも全称命題のことわざと同じく、我々が幼いころから吹き込まれているので、議論の場で持ち出されると何か意味のあることを言われたような気になってしまいますが、比喩なのでそれ自体に論理的な進展はないということを肝に銘じておかなければなりません。

A「だから、あなたがたのセクションにこれ以上予算を与えても使いきれないでしょう」
B「使いきれないというのはどういうことですか」
A「猫に小判ってことですよ」

 Aさんの二度目の発言は、最初の発言を言い換えただけで、同じことを言っています。Bさんの質問に答えていません。ことわざを使っているので、何か意味のあることを言っているような気がしますが、そんなことはありません。Bさんはこういう局面でひるまないようにしましょう。逆に、Aさんが「猫に小判」を繰り返すばかりでそれ以上の説明をしないとしたら、「予算を与えられない理由」を説明できない(本当に理由がない場合も、理由はあるけどBには明かせない場合も考えられます)から、ことわざを持ち出してごまかそうとしているということが多分に疑われます。

 これはことわざ以外の比喩でも一緒です。
A「だから、あなたがたのセクションにこれ以上予算を与えても使いきれないでしょう」
B「使いきれないというのはどういうことですか」
A「サッカー選手にバットを持たせても仕方ないでしょう」

 まあことわざって、こうやっていくらでも考えられる比喩の中で、なぜだか人口に広く膾炙したものを言うんでしょうね。なんで「猫に小判」みたいなそんなにレベルの高くない比喩が今の今まで生き残っているのかは全くもって不明ですが。


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