キーロフはアーレイ・バーグの夢を見るか？
キーロフはアーレイ・バーグの夢を見るか？
１月２０日。大寒。関東は今朝雪が降ったそうだ。
私には歳の近い姉がいる。今は東京で暮らしている。彼女ははしゃいだ調子で初雪が降ったことを電話で知らせてくれた。午前３時のことだ。殺してやろうかと思った。
もちろん、そんなことをするつもりはない。姉はとてもいい姉だ。たまに人間としてどうかと思うことがあるが、悪い人間ではない。度を越えて思慮が足りない場合はあるが、それさえ我慢できれば話していて楽しい。
姉のおかげで私は少し寝不足気味だった。
ヘリのローター音もどこか遠い。振動と爆音を撒き散らすＫａ−２７のターボシャフトエンジンも、そこに規則性がある限り眠気を催す。
私は目蓋の上を揉み解した。苦労して意識を保つ。カメラを構える。そして、眼下の景色をフィルムに収める。
北緯２８度、東経１２４度。見渡す限りに陸地の影はない。東シナ海の只中。海の色は深いコバルトブルー。ここで遭難したら救助は絶望的にありえない。そう確信できるほど深い青さをたたえた海。
そんな絶海の只中に忽然と鋼鉄製の櫓があった。海底油田採掘用のプラットホームだ。櫓から突き出たパイプは小さく火を噴いている。燃焼の反応を見れば採掘した石油の質がおよそ分かるらしい。
ヘリは高度を落としつつ、リグに接近する。
私は忙しなくフォーカスを調整しなければならなかった。リグは呆れかえるほど巨大だ。遠近感が狂い、カメラのピントを合わない。カメラのレンズと人間の目では見え方が随分と違う。飛行中のヘリから撮るのは至難の業だった。私は小さく舌打ちする。こんなことなら本業のプロを呼べばよかった。取材費用をケチったのが裏目にでる。
ヘリはリグを半周して遠ざかる。
私はリグで作業中の職員が手を振っていることに気づいていた。しかし、既にリグは遠い。手を振り返すタイミングを逃していた。
「如何でしたか？我が国の国益を守る最前線の砦は？」
ヘリに同乗している広報担当の岸田という海軍大尉は怒鳴るようにして言った。そうでなければ声が届かないからだ。
「大変そうな仕事場ですね。私ではとても勤まらないと思います。尊敬しますよ」
私は少し言葉を選んで言った。
私はデジカメのディスプレイで撮ったばかりの写真をチェックする。
巨大な海底油田採掘用プラットホーム。巨大な鉄の支柱と無秩序に交差する鉄骨、パイプのたぐい。アンテナが林立する巨大な鉄塔。間断なく火を噴き、黒煙を立ち上らせるリグはどちらかといえば要塞よりも悪魔の館の方が正しい。
しかし、本当のことを言っても誰も喜ばないだろう。私はそう思った。
「そう言っていただけると励みになります」
岸田は喜んだらしかった。
訊いてもいないことを喜々として喋りだす。
「あのリグを建設した企業は我が海軍から１００％の出資を受けている国策会社です。職員も海軍設営隊から選抜されたエリート達なんですよ」
「そうなんですか」
私は彼の言葉に曖昧な笑みを返した。
あんな絶海の孤島のようなリグに派遣されるのはエリートではなく、窓際族の間違いだろう。私はそう思った。或いは現代風の島流しの刑か、少し過激な罰ゲームか。天下りにしてももう少し気のきいた職場があるような気がした。
しかし、本当のことを言っても誰も喜ばないだろう。私はそう思った。
「鉄塔にアンテナがありましたが、あれはやはりＥＬＩＮＴのアンテナでしょうか？」
「そのとおりです。良いところに気づかれました。しかし、一応軍事機密なので他言無用でお願いします」
私は事前に渡されたパンフレットを見返した。
薄っぺらいパンフレットだ。最近流行りの萌え系のイメージイラストが表紙で４ｐほど。２次元美少女化した採掘リグのイラスト（頭にディフォルメされたリグを帽子代わりに被っているスク水少女）が漫画形式でガス田の解説をしている。よく見ると掲載されている写真にはどれもアンテナが写っていない。
写真から証拠能力が失われて久しいが、こうして実物を見ると少し動揺させられる。しかし、最新の写真加工技術を使えば造作もないことだ。
「凄い技術ですね。これはＣＧ加工ですか？全く気がつきませんでした」
「いえ。アンテナがない時に写真を撮っただけですよ」
現実は創作より常に奇妙だが、同時に、創作など及びつかない程、陳腐だ。
「どうかされましたか？」
「いいえ、何でもありません」
私は頭を振った。
寝不足のせいか頭の回転が悪い。
「ところで、我が海軍の船を見学されるのはこれが初めてですか？」
「そうです。これが初めてです」
私は少しづつ大きくなる洋上の艦影にカメラを向けながら答えた。
石油採掘リグよりも大きな灰白色の戦闘艦。しかし、上空から見れば小さなものだ。例えそれが２００００ｔを超える巨艦であったとしても。
その船は８０年代以降に西側諸国が建造したどのような船とも似ていなかった。その船と似た面影を探そうとすれば、時計の針を半世紀ほど巻き戻す必要がある。
つまり第１次世界解放戦争で活躍したバトルシップ、戦艦だ。煙突と一体化した塔型マストは戦艦の前檣楼そのものだった。ジェーン年鑑もその船を巡洋戦艦に分類していた。
しかし、その船は戦艦ではない。戦艦を戦艦たらしめる大口径砲を搭載していない。その代わりを務めるのは甲板のＶＬＳに格納されたミサイルだ。
「父の紹介のお陰ですね。誕生日に何か買ってあげないと」
父は海軍の縁のある人間だ。その正体は防衛族の大物議員。閣僚経験もある。
父方は帝政ロシア時代からの軍人一家。退役後の身の振り方は多くの場合政界進出だった。ロシアと日本の政界、軍に強力なコネがある。
２番目の姉は一族の伝統に従って海軍に入隊、戦闘機パイロットになった。１番上の姉は空軍で本土防空部隊にいる。こちらも戦闘機パイロット。兄は陸軍でイラクにいた。先月、手紙が届いた。砂漠に雪が降ったらしい。添えられた写真は砂漠に積もった雪を写していた。
姉弟そろって軍人稼業。父方の遺伝が強い家だった。そうでなければ説明がつかない。何しろ、姉弟の全てが違う母親を持っている。２番目の姉との歳の差は半年だった。兄との歳の差は２週間程度。年子ではありえない。完全な同時進行だった。無闇に複雑な家庭環境だった。
父は共産主義者だったが、下半身に関しては回教徒らしかった。ようするに多情な男という奴だ。幸いなのは情と同じだけ金を持っていたことだろう。不自由な思いをしたことは一度もなかった。寂しい思いをしたこともあまりない。父は決まってクリスマスを私の家で過ごしたからだ。代わりに他の姉、兄は寂しさを味わうことになったが。
父は末娘の私を溺愛していた。まことに有難く、迷惑な話だった。戦略ロケット軍に出した入隊希望を裏から握りつぶしたのも父だった。せめて私だけは戦争に関係ない場所においておきたいらしかった。
父の陰謀で大学卒業と同時に強制的にプラウダ日本支局に入局。３年ほどそこでジャーナリズムの基礎を学んだ。金言。プラウダにイズベスチヤはなく、イズベスチヤにプラウダはない。後は下らないことだった。その他諸々。政府発表の垂れ流し方、効果的なプロパガンダの書き方、企業広告の集め方、取材費用で温泉旅行をするための方法論、対西側用の罵詈雑言常套句の暗記術。
３年でプラウダを辞職した後は、フリーランスで食べていた。それなりに仕事はある。専門は国際政治と安全保障。大学の専攻分野、プラウダ時代の人脈と父のコネによるものだ。最近はＷＰ紙にも記事を卸している。
ちなみに、今まで書いた記事は全てペンネームで出している。色眼鏡で見られないように男性名だ。念を入れて英米系の外国人名にしてある。Ｕ・Ｎ・オーウェンの名前はこの業界ではそれなりに知られていた。読者の少ない狭い業界だったが。
実はその名前で本も出している。ハードカヴァーの分厚い本だ。アメリカでも翻訳出版された。冷戦終結からソ連崩壊までの日ソ関係を書いたハードな奴だ。政治的、軍事的専門知識と一定の教養がなければ読めないシビアな仕上がりになっている。女や子供が興味本位で読める代物ではなかった。
故に、私の取材を受けた人間は多くの場合、オーウェンが女であることを知って驚きの表情を浮かべることになる。
Ｋａ−２７が着艦態勢に入ったキーロフ級重原子力ロケット巡洋艦「栄光」の艦長は数少ないその例外的存在だった。
「叔父様は元気にしているかしら？」
今回の取材を許可してくれた気前と恰幅のいい艦長は兄に劣らず、末娘の私を溺愛している困った人だった。
東シナ海が冷戦の最前線になったのは、１９５０年代のことだ。
中華動乱が中国大陸の南北分断によって終わり、台湾の日帝残党勢力がアメリカと安全保障条約を結んだことでそれは決定的になった。
沖縄は日本とソビエトの南の出城だった。沖縄を中心として、半径１０００ｋｍの円を描けば上海と台北がその円の中に入る。北西に向かえば南中国の経済の要である上海。東に向かえば日帝残党勢力の首都である台北。射程距離１０００ｋｍの核弾頭搭載のＩＲＢＭがあればその２つを一瞬で消滅させることができる。迎撃に使える時間的余裕は殆どない。
よってソビエトは沖縄に多数のＩＲＢＭを配備したのは当然の成り行きだった。沖縄のサトウキビ畑を背景にＩＲＢＭを搭載したＴＥＬ車両が移動する様子をニュースで見て記憶している人間は数多いだろう。固定式のミサイル発射台も多数建設された。現在の嘉手納宇宙センターの前身である。
さらにソビエトは１９７８年にＲＴ−２１Ｍ（ＮＡＴＯコード：ＳＳ−２０）を沖縄に配備して、日帝残党勢力と南中国を恐慌状態に陥れた。
長大な射程距離とＭＩＲＶ弾頭を備えるＲＴ−２１Ｍは南中国の殆ど全て、台湾島全土、フィリピンの大部分を射程内に収めていた。
アメリカが南中国と日帝残党勢力の要請によりパーシング２と核弾頭搭載型のトマホーク巡航ミサイルを台湾島と中国沿岸に配備したのは有名な話である。そして、アメリカはＲＴ−２１Ｍの撤去を条件にパーシング２の撤去を持ちかけ、それが中距離核戦略全廃条約（ＩＦＮ条約）に発展し、米ソ核軍縮の道を開いたのは歴史書に示されているとおりである。
しかし、沖縄からＩＲＢＭが撤去されても東シナ海が対立の海であることに変化はなかった。ソビエトは沖縄から核を引き上げる代償措置として、日本に６６７ＢＤＲＭ型原子力潜水艦（ＮＡＴＯコード：デルタ�検砲硲咤味贈佑龍〕燭魴萃蠅靴討い拭Ｆ�帝残党勢力が台湾島からのパーシング２の引き上げを不服としてイスラエルと南アフリカを巻き込んで極秘の核開発（最終的にＣＩＡの工作で断念）に走ったのはよく知られた話である。南中国も核弾頭搭載のＳＲＢＭの増強を受けている。
結局、東シナ海の緊張緩和は冷戦終結を待たなければならなかった。
１９６０年代に海底探査で大規模な海底油田の存在が明らかになっていた東シナ海油田が１９９０年代まで手付かずの状態だったのはそうした理由によるものだ。
火中の栗を拾いたがる人間は誰もいない。核の炎ならなおさらだった。
「本艦はただ今、原子力にて航行中です」
取り留めのない思考を遮るように声が聞こえた。
艦内の案内役、キンスキーという海軍少尉の声だった。名前から分かるとおりドイツ系だ。階級の割には若くない。所謂たたき上げという奴だった。兵隊から士官に昇ったヴェテランだった。兵隊における少将といったところである。帝国海軍ではこうした叩き上げを特務士官といって兵学校を出た士官と区別していた。
「そうでない時があるのかしら？」
それでは原子力巡洋艦である意味がないような気がした。
「ああ、それはですね」
歳の割には軽すぎる声でキンスキーは答えた。
「母港から出航する際は地元との安全協定により、重油ボイラーを使っています。私どもとしてはどちらでも同じだと思うのですが、いろいろと気にする人がいますので」
「いろいろと大変ですね」
「はい。いろいろと大変です。まず、船の維持費が馬鹿になりません。しかし、燃料補給がなくても２ヶ月間も連続航行ができるのは大きなメリットです。スチームも電気も使い放題ですから、いろいろと快適ですよ。真水はいくらでも生産できますからシャワーも風呂も無制限です」
キンスキーは嬉しそうに言った。
「自分はここに来る前はミサイル艇に乗っていました。小さい船だからクルーはみんな家族みたいな雰囲気で居心地は悪くなかったのですか、時化るとガブるし、ベッドは小さいし、堅いし、３段式だし、キッチンがないから食事は全部弁当と缶詰だし、刑務所の方が揺れないだけまだマシでした。刑務所に入ったことはありませんが」
「はぁ・・・」
私は最後に相槌を挟むのが精一杯だった。
どちらかといえば冷たい感じのする容貌のドイツ系スラブ人は喋りだすと止まらないタイプらしい。
「そういえば随分とカラフルな床ですね」
私は原色で塗られた通路を見て言った。
「それはですね、本艦ほどの大型艦になると、艦内は迷路のようなものですから、迷子にならないように床の色で艦内区画の位置が分かるようにしてあるんです。それでも新米は、一度は必ず迷子になります」
「あなたも？」
キンスキーはあいまいな笑みを浮かべた。図星だったらしい。
「それにしても、なんというか閑散とした感じですね。人の気配がしない」
「でしょうね。本艦は一応のところ現在は戦闘配置中ですから」
キンスキーによるとここは居住区らしかった。普段は生活の場だ。戦闘配置になれば当然、ここから水兵達が飛び出していく。
「本当なら艦長が案内したかったらしいのですが、艦長は艦橋につめていますので、こうして私が代わりを務めているわけです」
「そうですか・・・ところで、軍艦は戦闘前に艦内に可燃物を全て捨てると聞いていますが、そうするとあの化粧板も全て捨ててしまうのですか？」
この船にあまりにも多くの木製品があった。
私はこの船の他にも軍艦に乗ったことがある。西側の主力艦だ。フレンドシップ事業で横須賀に来たアーレイ・バーグ級イージス巡洋艦。
艦名は忘れた。しかし、哨戒ヘリを搭載できるフライト�轡織ぅ廖�最新型だ。
「とんでもない。わざわざあんな化粧板まで剥がして捨てるような無意味な真似はしません。環境破壊で緑豆に訴えられますよ」
キンスキーは冗談めかして言った。
「しかし、それでは延焼の危険はありませんか？ダメージコントロールでは不利ですよ」
「あぁ、なるほど。そのご懸念はよく分かります」
キンスキーは笑みを浮かべてうなずいた。その笑みには見覚えがあった。客の要望を理解したホテルの接客担当者の笑みだ。
「西側のメディアではわが国や同盟国の艦艇に木製品が多数使用されることを我々の後進性として取り上げていますが、そもそも大型の対艦ミサイルが命中したら、この船でも無事では済みません。西側の船なら一撃で大破か、沈没でしょう？」
キンスキーの言っていることは事実だった。
現代の艦艇の直接的防御力は極めて低い。なぜか？なぜならば艦艇に分厚い装甲を施すパッシブな防御は殆ど無意味だからだ。そうした装甲で艦を保全したところで、脆弱なレーダーアンテナが破壊されれば実質的に艦の戦闘力は０になる。現代の水上艦の主兵装はミサイルだ。ミサイルの発射、誘導にはレーダーが欠かせない。レーダーが破損すれば、ミサイルの誘導は不可能になり、艦の戦闘能力は失われる。
ある程度以上の衝撃に耐えられないレーダーを艦の戦闘システムの中枢に据えたことで、装甲のもつ価値は半世紀前から（空母のようなＨＶＵを除いて）激減していた。
「戦術核攻撃を受けた場合を考えてください。艦内に木材や木製品を多用したところで大したマイナス要因にはならないでしょう？木製品を排除したところでダメージコントロールにおいて意味のある差が生じるかどうかは疑問ですね。どうせ何をしたところで助かりようがないのです。それならば、平時に少しでも居住性をよくするために木材を活用した方が賢いというものです」
微妙に何かが間違っている気がした。しかし、ある意味、正論である。割りきり方としては悪くないかもしれない。悪くない気がしないこともなくもなくもなくない。どっちだ？
「やはり木はいいですよ。肌ざわりが違いますし、湿気を吸って呼吸をしますから快適ですよ。本当なら畳も敷いた方がいいと思うのですが」
「さすがに畳はまずくないですか？」
「そうですか・・・畳は日本家屋の基本だと思いますけどね。それに炬燵とみかんがあれば完璧なのですが」
ドイツ系ロシア人は妙に日本臭いことを言った。
「ところでつかぬことをお伺いしますが、少尉はどこの出身ですか？」
「埼玉ですよ。政令指定都市になったところです」
生粋の日本人らしかった。
私は頭を振る。馬鹿馬鹿しい話だった。それを言うなら私はどうなる。半分はロシア人だ。どのみち生粋の日本人などもうどこにもいない。日本国民の大半がロシア人かどこかの少数民族が混ざっている。私がいい例だ。
こんなことになったのは冷戦時代の話だ。ソビエトの強制移住政策は日本を巨大な収容所にした。海を越えてしまえば、故地に帰ることはできない。モスクワはそう考えたらしかった。強制移住の被害者は様々だ。ウクライナ人、ポーランド人、ドイツ人、クルド人、ユダヤ人、コサック、タタール、北カフカス諸民族、特にチェチェン人がいい例だ。
おかげで日本人の外見的バリエーションは多彩になった。ブロンド、シルバー、ブラウン、ブラック。最近は赤毛や青髪も珍しくない。遺伝子交雑で瞳の色も様々だ。
そうした雑多な諸民族を日本人化するのは簡単なことではない。文部省の国語教育は徹底したものだ。海外で生活したことのある私はよく知っていた。あれは洗脳の一種だ。戦前の皇民化政策など可愛く思える。
キンスキーはその成功例だ。外見はドイツ系ロシア人。しかし、その内面は畳と炬燵とみかんを愛する普通の日本人中年男性。ぶっちゃけありえない。
彼の先祖はウクライナの黒土を駆け抜けた東方騎士団に違いない。
炬燵でみかんを食べるキンスキーを見たら卒倒することだろう。
「どうかされましたか？」
「いいえ。何でもありません」
永遠に続くかと思われた通路が終わる時がきた。
キンスキーは分厚いハッチを開く。区画ごとに設けられた水密ハッチの数は途中で数えるのをやめていた。膨大な数の水密区画だった。
流れ込む風は潮の香りがする。
私は陽射しに手で傘を作った。蛍光灯に慣れた目には陽光が少し強い。
甲板から見下ろす海は空から見た時と同じ色だ。深い青。艦首の切り裂いた海は左右に白く引き裂かれていた。
ここは艦橋直下の上甲板だった。一段高いところになっている。
「どうぞこちらへ。本艦の兵装についてはどの程度ご存知ですか？」
「ネットで調べられる範囲ですね」
「そうでしたか。では、あれがなんだかわかりますか？」
キンスキーが指差したのは甲板に並べられたＶＬＳだった。見た目は風呂場のタイルに近い。
「フォールト長距離対空ミサイルのＶＬＳですね」
「正解です。本艦は８連装リヴォルバー発射機を１２基集中配置しています。誘導用のレーダー、つまりイルミネーターは改良型に更新してありますので、射程距離は１５０ｋｍを超えています。本艦にはイルミネーターが２基装備してありますが、このイルミネーターで同時誘導可能なミサイルは６発です。つまり、本艦は同時に１２個の対空目標を攻撃することが可能なわけです」
「アーレイ・バーグ級と同じですね」
アーレイ・バーグ級イージス巡洋艦の多目標同時攻撃能力は１２だ。タイコンデロガは１８発。装備するイルミネーターの数で大きな差が出る。
「そのとおりです。しかし、ミサイルの射程距離はこちらが上ですし、発射方法もより進んだものを採用しています。コールドランチは分かりますか？」
「分かりますよ。ＶＬＳから不燃ガスを使ってミサイルを発射する方法ですね？」
「正解です」
西側のスタンダードの発射システムはホットランチだ。ＶＬＳの中でロケットエンジンに点火する。バックブラストでＶＬＳは火の海になる。甲板から火柱が立つ映像をよくＴＶで見る。よってＶＬＳは耐熱、耐衝撃性が必要になる。結果として余計な重量がかさむことになる。
それに対してフォールトは不燃性ガスでミサイルを押し出し、ロケットエンジンを空中で点火する。利点はＶＬＳを簡素化できることだ。それに尽きる。
「また、本艦は前年に施した改装により、新型のクラブＮ対地対艦巡航ミサイルを装備しました。これも垂直発射、コールドランチを採用しています。冷戦時代に開発されたグラニート重対艦ミサイルは優れた対艦攻撃兵器ですが、アメリカとの全面戦争が起きる可能性が皆無になった今では無用の長物となっております。グラニートを撤去したスペースにクラブＮのＶＬＳを設置しましたところ、クラブＮの搭載数は８０発になりました」
「アーセナルシップ？」
「それが本艦の存在意義です。現時点において、本艦は世界最強の対艦、対地攻撃用水上戦闘艦艇といえます。まぁ、他にもいろいろと変わっています。対潜ミサイルも新型のもとになっていますし、ＣＩＷＳも全てカシュタンになりました。個艦防空ミサイルも新型を積んでいます。レーダーも最近流行りのフェイズド・アレイ式になりました。あまり意味のない想定ですが、相手がイージス艦でもタイマンなら本艦の圧勝は間違いありません」
本当に意味のない想定だった。イージス艦は空母の護衛艦だ。キーロフ級とタイマンを張るような船ではない。そもそも水上艦艇とはタイマンで戦うようなものではない。
「とはいえ、これからはああいう船の時代でしょうな」
キンスキーは視線をずらして言った。
私もその方向を見た。キンスキーは併走するフリゲート艦を見ていた。
最近就役したばかりの新造フリゲート艦だった。陽炎級フリゲート。冷戦中に大量建造したクリヴァク級フリゲートの後継艦だった。
日本は基本的にソビエト海軍と同一の艦艇を装備していた。そうでなければ、有事の際に相互連携に支障がきたすからだ。装備を改造、改良することはあっても基本的にフレームには手を入れない。
しかし、陽炎級フリゲートはロシア海軍には装備されていない。個々の装備はともかく、船体は全て独自設計だ。
陽炎型は３０００ｔ級の汎用フリゲートだ。満載でも３６００ｔ程度の排水量。艦隊のワークホースとなるべき汎用艦。そこはクリヴァク型とさして変化はない。変化したのはその外見だ。平滑な平面で構成された船体は高いステルス性を備える。対艦ミサイル、対空ミサイルもＶＬＳで発射する。艦砲もステルスシールドを備えていた。
艦名からして冷戦時代ではありえない船だった。陽炎の名はソビエト海軍を震撼させた帝国海軍甲型駆逐艦のリメイクだ。冷戦時代なら、国防省の役人の首が景気よく飛ぶ。言葉どおりの意味で。
新造フリゲート艦は人民海軍の新時代の到来を告げていた。
そして、キーロフを追い抜いていく。さらに離れていく。
私はその時になって何かがおかしいことに気づいた。
肌がざわついた感じがする。女の勘は危険を告げていた。よく当たる自慢の勘だった。
いつの間にか現れた水兵から耳打ちを受けていたキンスキーは顔を上げて言った。
「ミス・オーウェン。艦長がよろしければ艦橋に来てくださると幸甚であると申しています」
私は軽く首肯することで返事とした。
軍隊における丁寧な言葉遣いとは、実質的な命令を意味する。
冷戦終結後、最初に東シナ海油田に手を付けたのは南中国だった。
９０年代に海底探査を繰り返し、日中中間線に近い海域で春暁、断橋、天外天、平湖、冷泉、龍井のガス田（油田）を定めて採掘リグの建設を進めた。
日本の対応は出遅れた。省庁間の縄張り争いがその主因だ。しかし、より根本的な原因は他にあった。原油や天然ガスをロシアから友好国価格で買える日本にとって東シナ海の油田はさして旨味のある事業ではなかった。足りない部分は中東から買えば済む。ロシアと共同開発したサハリンのガス田、油田もある。
不健康な責任の擦り付け合いの末に日本は開発中止と共同開発を打診した。例え経済的に儲けがなくても東シナ海の南中国の覇権拡大は阻止しなければならなかったからだ。もちろん、反中世論の沸騰もある。
しかし、南中国はそれを無視して開発を強行した。石炭以外のエネルギー資源に乏しい南中国は中東以外からのエネルギー資源確保を国策として推進していたからだ。大慶油田を有する北中国から輸入は大慶油田の生産力減衰により先細りになっていたし、ロシアからの輸入もインフラの未整備で進まない。特に陸路の場合は北中国を経由しなければならないのが致命的だった。
よって東シナ海油田の開発はエネルギー国産化の切り札として南中国の一大国家事業となった。もちろん日本との共同開発を推す声もなくはなかった。しかし、政治的な事情がそれを許さなかった。ＧＮＰでカナダを抜いて世界第３位に浮上した南中国は国民にとって分かりやすい、具体的な目で見える形での国威高揚のイベントを必要としていた。
祖国統一は残念ながら短期的には不可能だった。ロシア人は緩衝地帯として北中国を手放すことは絶対にありえなかった。中国統一は在中米軍の北上を意味している。それを避けるためだけに北中国を半世紀も支援してきたのだ。
また、北中国にとっても力関係から完全な吸収合併以外に道のない祖国統一は受け入れられるものではない。そもそも経済的に立ち遅れている北中国を併合した場合、経済的に共倒れになる可能性が高かった。ほぼ確実といってもいい。当面は北中国の改革解放路線を支持し、援助を与えるしか道はなかった。
では、他にどのような道がありえるのか？
台湾は論外だった。日清戦争で日本帝国に不当に奪われた台湾の正当な領有権をもつのは中国だが、それを主張することは台湾政府との全面的な対決を意味している。日本帝国の正当後継者を自認する台湾政府はアメリカと同盟を結ぶ西側諸国の一員だった。アメリカは中国の同盟国でもある。中国と台湾の関係悪化はアメリカにとって愉快な話ではない。歴史的に友好関係にあるとはいえないが、台湾を併合するという選択肢は政治的、軍事的、経済的にありえない。リスクが大きすぎる。
同様の理由で台湾海軍が睨みを効かすスプラトリー諸島への進出も不可能だった。脆弱なベトナム海軍と違って台湾海軍は帝国海軍の伝統を引き継ぎ、精強を以って知られている。隔年のリムパック演習でそれを何度も思い知らされている。
ベトナムはスプラトリー諸島の領有権を巡って見解の相違はあるものの、南ベトナムの共産主義政権を打倒したベトナム戦争以来の友好国だった。この方面への進出もリスクが大きすぎた。
チベットは今や大国として浮上しつつあるインドとの緩衝地帯として無くてはならない国になりつつある。インドは伝統的に日本の友好国であり、兵器ビジネスでも深い関係にある。そもそも２１世紀にもなって国連加盟国のチベットに武力侵攻しようものなら、国際社会が黙っていないだろう。特にアメリカが。湾岸戦争やユーゴ空爆が良い例だ。これも却下。
残った選択肢の中で何らかの展望が開けそうなのは、東シナ海だけだった。
中国には国連海洋法条約により東シナ海の大陸棚における資源開発を行う正当な権利がある。これなら国際的にも大義名分が得られる。経済的なメリットも大きい。歴史的に反日感情の根深い日本が相手なら国内世論の支持も得られやすい。
国政選挙が近づくたびに盛り上がる反日キャンペーンは今や政治的常套手段に近い。東シナ海で日本人が対抗姿勢を明確にすればするほど現政権の支持率は上昇する。全く結構な話だった。
最終目標は既成事実を積み重ね、沖縄トラフまで排他的経済水域を拡大。東シナ海の海洋支配を確固としたものとすることである。それに必要な海軍拡張の財源は南北の緊張緩和で余裕の生じている陸軍を削減することで賄われる。
しかし、今のところ東シナ海の覇権拡張はあまり上手くいっていない。
「中国艦、離れまーす！」
艦橋の見張り員が叫んだ。
キーロフ級重原子力ロケット巡洋艦の艦橋は巨大だ。怒鳴るような叫びもそれほど強く響かない。
「機関半速、取り舵２０」
しかし、艦長の声は不思議とよく響いた。
それに答える操舵手の声もだ。
「ヨーソロー」
禁じられたはずの帝国海軍用語で答えた操舵手が木製の舵輪を傾ける。
２００００ｔを超える巨艦は海面をドリフトしつつ旋回に入る。中国艦に向かう接近コースに乗る。相手は南中国の主力艦、神盾級ミサイル巡洋艦だ。
アーレイ・バーグ級イージス巡洋艦に似たスマートな艦橋は既に手に取るほど近い距離にある。危険なほど近距離。相手の傾斜が目視できる程度の距離。船の大きさ故に速度はあまり感じない。しかし、時速４０ｋｍ近い速度で二つの船は接近していた。引かれあうように船腹が近づいていく。神盾は速力を上げて接触を回避しようとする。しかし、間に合わない。衝突する。
「機関ちょい微速、取り舵１２、いや１３」
動揺など微塵も感じさせない艦長の声。
操舵輪が小さく傾く。栄光は艦首を中国艦に向ける。艦首から突入する態勢。そうとしか思えなかった。しかし、頭を振ったことで生じた微妙な抵抗が栄光を大きく失速させた。中国艦の加速が間に合う。栄光の巨大な艦首が中国艦の艦尾をかすめる。飛び移れそうなほどの近距離で艦首と艦尾がすれ違う。
ドリフトしつつ、栄光は神盾の左に出た。
ＢＧＭにユーロビートが流れていないことが不思議だった。気分はイニシャルБ。８６年式トラバントで西側のスポーツカーをドラテクでぶち抜く不可能設定の漫画だ。ちなみに全巻持っている。
艦長の巧妙な操艦に中国艦は完全に翻弄されていた。
競艇のボートのように高速ドリフトする栄光はぴたりと神盾の旋回の内側に張り付いて離れない。逃れることを許さない。
私は借りた双眼鏡で中国艦の艦橋を見た。
右往左往する人影が見える。もちろん、それはこちらも同じだ。艦長以外は顔面の色がおかしいことになっていた。艦長以外はまともな人間だ。
巡洋戦艦に分類されるキーロフ型原子力巡洋艦に比べれば、イージス巡洋艦はふたまわり小さい。まるで猫と鼠の喧嘩。ネコにとって狩りは娯楽だ。鼠を虐め殺すように中国艦を翻弄する。
「中国艦、増速しまーす」
見張りの声は遊戯の終わりを告げていた。
中国艦は加速して舵を右に切った。中間線の向こう側へ逃亡するコース。追撃の許可は出ていない。栄光にとって楽しいゲームは終わりだった。
「根性なしめ」
ぼそりと艦長が呟く。
しかし、艦橋の空気は安堵のため息に近い。２００００ｔ超の巨艦でロデオをやりたい人間は少数派だ。少数どころか存在さえ疑わしい。
私は正気の存在が疑わしい艦長の顔を見た。叔父の顔だ。父によく似ている。私はいやな気分になった。父も私の知らないところでこんなことをしているのだろうか？その可能性は否定できない。
「どうだったかな？」
父親そっくりの顔をした叔父は笑顔で言った。
どうもこうもない。
「その、たぶん、大変貴重な体験ができたと思います」
「そうだろう。そうだろう。これが国防の最前線なんだ。叔父さんはいつもこうして日本の海を守っているんだよ」
「なんというか、その、お疲れさまです・・・」
私は軽い気後れを覚える。
２００００ｔ超の巨艦でロデオをすることが国防だとは思えなかったが、当事者がそう言うのならそうなのだろう。私はそう思うことにした。
確かに、発砲を禁じられていれば体当たりぐらいしか方法がないことも確かだった。２０００ｔ超の巨艦で体当たりすれば、大抵の相手は大破を免れないだろうが。
南中国のイージス艦は距離をとって栄光と併走していた。中間線の向こうはこちらが手出しできない安全圏。それを知っている動きだ。その一線さえこなければこちらができることは何もない。
もっとも中間線など曖昧なものだ。南中国は公式には中間線の存在を認めていない。ゆえに越境してくる中国海軍の艦艇はあとを絶たない。それを放置すれば、中国艦はさらに沖縄に近いところまで接近してくるだろう。
栄光はそうした中国艦の監視と排除を任務としていた。
２００００ｔ超の巨艦はその任務には最適だった。巨大な船体と要塞のような上部構造からなるキーロフ級原子力巡洋艦は存在だけで相手を萎縮させる何かがある。イージス巡洋艦には不可能な業だ。旧来的な美的感覚からすれば、イージスシステムの構成要素、ＳＰＹレーダーを装備した神盾級イージス巡洋艦は明らかに兵器としての迫力に欠けた。
これは典型的な砲艦外交以外の何者でもなかった。当然、栄光の示威活動は南中国の猛烈な反発を呼んでいた。総統が大使を呼びつけて抗議することも珍しくない。
しかし、それは彼らがそれ以上できることが何もないことを示している。行動ではなく、言葉が先立つということはそういうことだ。
中国艦で光が瞬いた。規則的な点滅を繰り返す。発光信号だった。
「中国艦から発光信号。本文。貴艦ノ正気ハ何処二有リヤ？全世界ハ是ヲ知ラント欲ス。返信されますか？」
「当然だ。返信。馬鹿メ。以上だ」
「は？」
通信士は思わず聞き返した。
「馬鹿メ、だ。何度も言わせるな」
苛立った艦長の声で通信士が顔を青くした。
彼は何も悪くない。私はそう思った。
栄光の返答に対する中国艦の返事はストレートだった。私は神盾の主砲の砲身が消えていることに気づく。もちろん、折れてしまったわけではない。こちらに砲口を向けているから見えないだけだ。今は砲身の代わりに砲口が見える。
「いいぞ、楽しくなってきた」
艦長は無闇に好戦的なことを言った。
自重して欲しい。私はそう思った。他のクルーもそう思っているに違いない。そういう顔をしていた。迷惑な話だった。
日中の不健康な対立は歴史問題を絡めて異常な盛り上がりを続けている。戦争にはなりそうにない。しかし、和解には程遠い感情的な対立構造。負の連鎖反応。失われた共和国憲法９条を信仰する９条の会の言うことは案外正しいかもしれなかった。武器を捨てるだけで平和が来るとは思わないが。
こんなことが何時まで続くのか？
先のことを考えると憂鬱な気分になる。海の色に近い。まっさらな、深いブルー。
続く？
１月２０日。大寒。関東は今朝雪が降ったそうだ。
私には歳の近い姉がいる。今は東京で暮らしている。彼女ははしゃいだ調子で初雪が降ったことを電話で知らせてくれた。午前３時のことだ。殺してやろうかと思った。
もちろん、そんなことをするつもりはない。姉はとてもいい姉だ。たまに人間としてどうかと思うことがあるが、悪い人間ではない。度を越えて思慮が足りない場合はあるが、それさえ我慢できれば話していて楽しい。
姉のおかげで私は少し寝不足気味だった。
ヘリのローター音もどこか遠い。振動と爆音を撒き散らすＫａ−２７のターボシャフトエンジンも、そこに規則性がある限り眠気を催す。
私は目蓋の上を揉み解した。苦労して意識を保つ。カメラを構える。そして、眼下の景色をフィルムに収める。
北緯２８度、東経１２４度。見渡す限りに陸地の影はない。東シナ海の只中。海の色は深いコバルトブルー。ここで遭難したら救助は絶望的にありえない。そう確信できるほど深い青さをたたえた海。
そんな絶海の只中に忽然と鋼鉄製の櫓があった。海底油田採掘用のプラットホームだ。櫓から突き出たパイプは小さく火を噴いている。燃焼の反応を見れば採掘した石油の質がおよそ分かるらしい。
ヘリは高度を落としつつ、リグに接近する。
私は忙しなくフォーカスを調整しなければならなかった。リグは呆れかえるほど巨大だ。遠近感が狂い、カメラのピントを合わない。カメラのレンズと人間の目では見え方が随分と違う。飛行中のヘリから撮るのは至難の業だった。私は小さく舌打ちする。こんなことなら本業のプロを呼べばよかった。取材費用をケチったのが裏目にでる。
ヘリはリグを半周して遠ざかる。
私はリグで作業中の職員が手を振っていることに気づいていた。しかし、既にリグは遠い。手を振り返すタイミングを逃していた。
「如何でしたか？我が国の国益を守る最前線の砦は？」
ヘリに同乗している広報担当の岸田という海軍大尉は怒鳴るようにして言った。そうでなければ声が届かないからだ。
「大変そうな仕事場ですね。私ではとても勤まらないと思います。尊敬しますよ」
私は少し言葉を選んで言った。
私はデジカメのディスプレイで撮ったばかりの写真をチェックする。
巨大な海底油田採掘用プラットホーム。巨大な鉄の支柱と無秩序に交差する鉄骨、パイプのたぐい。アンテナが林立する巨大な鉄塔。間断なく火を噴き、黒煙を立ち上らせるリグはどちらかといえば要塞よりも悪魔の館の方が正しい。
しかし、本当のことを言っても誰も喜ばないだろう。私はそう思った。
「そう言っていただけると励みになります」
岸田は喜んだらしかった。
訊いてもいないことを喜々として喋りだす。
「あのリグを建設した企業は我が海軍から１００％の出資を受けている国策会社です。職員も海軍設営隊から選抜されたエリート達なんですよ」
「そうなんですか」
私は彼の言葉に曖昧な笑みを返した。
あんな絶海の孤島のようなリグに派遣されるのはエリートではなく、窓際族の間違いだろう。私はそう思った。或いは現代風の島流しの刑か、少し過激な罰ゲームか。天下りにしてももう少し気のきいた職場があるような気がした。
しかし、本当のことを言っても誰も喜ばないだろう。私はそう思った。
「鉄塔にアンテナがありましたが、あれはやはりＥＬＩＮＴのアンテナでしょうか？」
「そのとおりです。良いところに気づかれました。しかし、一応軍事機密なので他言無用でお願いします」
私は事前に渡されたパンフレットを見返した。
薄っぺらいパンフレットだ。最近流行りの萌え系のイメージイラストが表紙で４ｐほど。２次元美少女化した採掘リグのイラスト（頭にディフォルメされたリグを帽子代わりに被っているスク水少女）が漫画形式でガス田の解説をしている。よく見ると掲載されている写真にはどれもアンテナが写っていない。
写真から証拠能力が失われて久しいが、こうして実物を見ると少し動揺させられる。しかし、最新の写真加工技術を使えば造作もないことだ。
「凄い技術ですね。これはＣＧ加工ですか？全く気がつきませんでした」
「いえ。アンテナがない時に写真を撮っただけですよ」
現実は創作より常に奇妙だが、同時に、創作など及びつかない程、陳腐だ。
「どうかされましたか？」
「いいえ、何でもありません」
私は頭を振った。
寝不足のせいか頭の回転が悪い。
「ところで、我が海軍の船を見学されるのはこれが初めてですか？」
「そうです。これが初めてです」
私は少しづつ大きくなる洋上の艦影にカメラを向けながら答えた。
石油採掘リグよりも大きな灰白色の戦闘艦。しかし、上空から見れば小さなものだ。例えそれが２００００ｔを超える巨艦であったとしても。
その船は８０年代以降に西側諸国が建造したどのような船とも似ていなかった。その船と似た面影を探そうとすれば、時計の針を半世紀ほど巻き戻す必要がある。
つまり第１次世界解放戦争で活躍したバトルシップ、戦艦だ。煙突と一体化した塔型マストは戦艦の前檣楼そのものだった。ジェーン年鑑もその船を巡洋戦艦に分類していた。
しかし、その船は戦艦ではない。戦艦を戦艦たらしめる大口径砲を搭載していない。その代わりを務めるのは甲板のＶＬＳに格納されたミサイルだ。
「父の紹介のお陰ですね。誕生日に何か買ってあげないと」
父は海軍の縁のある人間だ。その正体は防衛族の大物議員。閣僚経験もある。
父方は帝政ロシア時代からの軍人一家。退役後の身の振り方は多くの場合政界進出だった。ロシアと日本の政界、軍に強力なコネがある。
２番目の姉は一族の伝統に従って海軍に入隊、戦闘機パイロットになった。１番上の姉は空軍で本土防空部隊にいる。こちらも戦闘機パイロット。兄は陸軍でイラクにいた。先月、手紙が届いた。砂漠に雪が降ったらしい。添えられた写真は砂漠に積もった雪を写していた。
姉弟そろって軍人稼業。父方の遺伝が強い家だった。そうでなければ説明がつかない。何しろ、姉弟の全てが違う母親を持っている。２番目の姉との歳の差は半年だった。兄との歳の差は２週間程度。年子ではありえない。完全な同時進行だった。無闇に複雑な家庭環境だった。
父は共産主義者だったが、下半身に関しては回教徒らしかった。ようするに多情な男という奴だ。幸いなのは情と同じだけ金を持っていたことだろう。不自由な思いをしたことは一度もなかった。寂しい思いをしたこともあまりない。父は決まってクリスマスを私の家で過ごしたからだ。代わりに他の姉、兄は寂しさを味わうことになったが。
父は末娘の私を溺愛していた。まことに有難く、迷惑な話だった。戦略ロケット軍に出した入隊希望を裏から握りつぶしたのも父だった。せめて私だけは戦争に関係ない場所においておきたいらしかった。
父の陰謀で大学卒業と同時に強制的にプラウダ日本支局に入局。３年ほどそこでジャーナリズムの基礎を学んだ。金言。プラウダにイズベスチヤはなく、イズベスチヤにプラウダはない。後は下らないことだった。その他諸々。政府発表の垂れ流し方、効果的なプロパガンダの書き方、企業広告の集め方、取材費用で温泉旅行をするための方法論、対西側用の罵詈雑言常套句の暗記術。
３年でプラウダを辞職した後は、フリーランスで食べていた。それなりに仕事はある。専門は国際政治と安全保障。大学の専攻分野、プラウダ時代の人脈と父のコネによるものだ。最近はＷＰ紙にも記事を卸している。
ちなみに、今まで書いた記事は全てペンネームで出している。色眼鏡で見られないように男性名だ。念を入れて英米系の外国人名にしてある。Ｕ・Ｎ・オーウェンの名前はこの業界ではそれなりに知られていた。読者の少ない狭い業界だったが。
実はその名前で本も出している。ハードカヴァーの分厚い本だ。アメリカでも翻訳出版された。冷戦終結からソ連崩壊までの日ソ関係を書いたハードな奴だ。政治的、軍事的専門知識と一定の教養がなければ読めないシビアな仕上がりになっている。女や子供が興味本位で読める代物ではなかった。
故に、私の取材を受けた人間は多くの場合、オーウェンが女であることを知って驚きの表情を浮かべることになる。
Ｋａ−２７が着艦態勢に入ったキーロフ級重原子力ロケット巡洋艦「栄光」の艦長は数少ないその例外的存在だった。
「叔父様は元気にしているかしら？」
今回の取材を許可してくれた気前と恰幅のいい艦長は兄に劣らず、末娘の私を溺愛している困った人だった。
東シナ海が冷戦の最前線になったのは、１９５０年代のことだ。
中華動乱が中国大陸の南北分断によって終わり、台湾の日帝残党勢力がアメリカと安全保障条約を結んだことでそれは決定的になった。
沖縄は日本とソビエトの南の出城だった。沖縄を中心として、半径１０００ｋｍの円を描けば上海と台北がその円の中に入る。北西に向かえば南中国の経済の要である上海。東に向かえば日帝残党勢力の首都である台北。射程距離１０００ｋｍの核弾頭搭載のＩＲＢＭがあればその２つを一瞬で消滅させることができる。迎撃に使える時間的余裕は殆どない。
よってソビエトは沖縄に多数のＩＲＢＭを配備したのは当然の成り行きだった。沖縄のサトウキビ畑を背景にＩＲＢＭを搭載したＴＥＬ車両が移動する様子をニュースで見て記憶している人間は数多いだろう。固定式のミサイル発射台も多数建設された。現在の嘉手納宇宙センターの前身である。
さらにソビエトは１９７８年にＲＴ−２１Ｍ（ＮＡＴＯコード：ＳＳ−２０）を沖縄に配備して、日帝残党勢力と南中国を恐慌状態に陥れた。
長大な射程距離とＭＩＲＶ弾頭を備えるＲＴ−２１Ｍは南中国の殆ど全て、台湾島全土、フィリピンの大部分を射程内に収めていた。
アメリカが南中国と日帝残党勢力の要請によりパーシング２と核弾頭搭載型のトマホーク巡航ミサイルを台湾島と中国沿岸に配備したのは有名な話である。そして、アメリカはＲＴ−２１Ｍの撤去を条件にパーシング２の撤去を持ちかけ、それが中距離核戦略全廃条約（ＩＦＮ条約）に発展し、米ソ核軍縮の道を開いたのは歴史書に示されているとおりである。
しかし、沖縄からＩＲＢＭが撤去されても東シナ海が対立の海であることに変化はなかった。ソビエトは沖縄から核を引き上げる代償措置として、日本に６６７ＢＤＲＭ型原子力潜水艦（ＮＡＴＯコード：デルタ�検砲硲咤味贈佑龍〕燭魴萃蠅靴討い拭Ｆ�帝残党勢力が台湾島からのパーシング２の引き上げを不服としてイスラエルと南アフリカを巻き込んで極秘の核開発（最終的にＣＩＡの工作で断念）に走ったのはよく知られた話である。南中国も核弾頭搭載のＳＲＢＭの増強を受けている。
結局、東シナ海の緊張緩和は冷戦終結を待たなければならなかった。
１９６０年代に海底探査で大規模な海底油田の存在が明らかになっていた東シナ海油田が１９９０年代まで手付かずの状態だったのはそうした理由によるものだ。
火中の栗を拾いたがる人間は誰もいない。核の炎ならなおさらだった。
「本艦はただ今、原子力にて航行中です」
取り留めのない思考を遮るように声が聞こえた。
艦内の案内役、キンスキーという海軍少尉の声だった。名前から分かるとおりドイツ系だ。階級の割には若くない。所謂たたき上げという奴だった。兵隊から士官に昇ったヴェテランだった。兵隊における少将といったところである。帝国海軍ではこうした叩き上げを特務士官といって兵学校を出た士官と区別していた。
「そうでない時があるのかしら？」
それでは原子力巡洋艦である意味がないような気がした。
「ああ、それはですね」
歳の割には軽すぎる声でキンスキーは答えた。
「母港から出航する際は地元との安全協定により、重油ボイラーを使っています。私どもとしてはどちらでも同じだと思うのですが、いろいろと気にする人がいますので」
「いろいろと大変ですね」
「はい。いろいろと大変です。まず、船の維持費が馬鹿になりません。しかし、燃料補給がなくても２ヶ月間も連続航行ができるのは大きなメリットです。スチームも電気も使い放題ですから、いろいろと快適ですよ。真水はいくらでも生産できますからシャワーも風呂も無制限です」
キンスキーは嬉しそうに言った。
「自分はここに来る前はミサイル艇に乗っていました。小さい船だからクルーはみんな家族みたいな雰囲気で居心地は悪くなかったのですか、時化るとガブるし、ベッドは小さいし、堅いし、３段式だし、キッチンがないから食事は全部弁当と缶詰だし、刑務所の方が揺れないだけまだマシでした。刑務所に入ったことはありませんが」
「はぁ・・・」
私は最後に相槌を挟むのが精一杯だった。
どちらかといえば冷たい感じのする容貌のドイツ系スラブ人は喋りだすと止まらないタイプらしい。
「そういえば随分とカラフルな床ですね」
私は原色で塗られた通路を見て言った。
「それはですね、本艦ほどの大型艦になると、艦内は迷路のようなものですから、迷子にならないように床の色で艦内区画の位置が分かるようにしてあるんです。それでも新米は、一度は必ず迷子になります」
「あなたも？」
キンスキーはあいまいな笑みを浮かべた。図星だったらしい。
「それにしても、なんというか閑散とした感じですね。人の気配がしない」
「でしょうね。本艦は一応のところ現在は戦闘配置中ですから」
キンスキーによるとここは居住区らしかった。普段は生活の場だ。戦闘配置になれば当然、ここから水兵達が飛び出していく。
「本当なら艦長が案内したかったらしいのですが、艦長は艦橋につめていますので、こうして私が代わりを務めているわけです」
「そうですか・・・ところで、軍艦は戦闘前に艦内に可燃物を全て捨てると聞いていますが、そうするとあの化粧板も全て捨ててしまうのですか？」
この船にあまりにも多くの木製品があった。
私はこの船の他にも軍艦に乗ったことがある。西側の主力艦だ。フレンドシップ事業で横須賀に来たアーレイ・バーグ級イージス巡洋艦。
艦名は忘れた。しかし、哨戒ヘリを搭載できるフライト�轡織ぅ廖�最新型だ。
「とんでもない。わざわざあんな化粧板まで剥がして捨てるような無意味な真似はしません。環境破壊で緑豆に訴えられますよ」
キンスキーは冗談めかして言った。
「しかし、それでは延焼の危険はありませんか？ダメージコントロールでは不利ですよ」
「あぁ、なるほど。そのご懸念はよく分かります」
キンスキーは笑みを浮かべてうなずいた。その笑みには見覚えがあった。客の要望を理解したホテルの接客担当者の笑みだ。
「西側のメディアではわが国や同盟国の艦艇に木製品が多数使用されることを我々の後進性として取り上げていますが、そもそも大型の対艦ミサイルが命中したら、この船でも無事では済みません。西側の船なら一撃で大破か、沈没でしょう？」
キンスキーの言っていることは事実だった。
現代の艦艇の直接的防御力は極めて低い。なぜか？なぜならば艦艇に分厚い装甲を施すパッシブな防御は殆ど無意味だからだ。そうした装甲で艦を保全したところで、脆弱なレーダーアンテナが破壊されれば実質的に艦の戦闘力は０になる。現代の水上艦の主兵装はミサイルだ。ミサイルの発射、誘導にはレーダーが欠かせない。レーダーが破損すれば、ミサイルの誘導は不可能になり、艦の戦闘能力は失われる。
ある程度以上の衝撃に耐えられないレーダーを艦の戦闘システムの中枢に据えたことで、装甲のもつ価値は半世紀前から（空母のようなＨＶＵを除いて）激減していた。
「戦術核攻撃を受けた場合を考えてください。艦内に木材や木製品を多用したところで大したマイナス要因にはならないでしょう？木製品を排除したところでダメージコントロールにおいて意味のある差が生じるかどうかは疑問ですね。どうせ何をしたところで助かりようがないのです。それならば、平時に少しでも居住性をよくするために木材を活用した方が賢いというものです」
微妙に何かが間違っている気がした。しかし、ある意味、正論である。割りきり方としては悪くないかもしれない。悪くない気がしないこともなくもなくもなくない。どっちだ？
「やはり木はいいですよ。肌ざわりが違いますし、湿気を吸って呼吸をしますから快適ですよ。本当なら畳も敷いた方がいいと思うのですが」
「さすがに畳はまずくないですか？」
「そうですか・・・畳は日本家屋の基本だと思いますけどね。それに炬燵とみかんがあれば完璧なのですが」
ドイツ系ロシア人は妙に日本臭いことを言った。
「ところでつかぬことをお伺いしますが、少尉はどこの出身ですか？」
「埼玉ですよ。政令指定都市になったところです」
生粋の日本人らしかった。
私は頭を振る。馬鹿馬鹿しい話だった。それを言うなら私はどうなる。半分はロシア人だ。どのみち生粋の日本人などもうどこにもいない。日本国民の大半がロシア人かどこかの少数民族が混ざっている。私がいい例だ。
こんなことになったのは冷戦時代の話だ。ソビエトの強制移住政策は日本を巨大な収容所にした。海を越えてしまえば、故地に帰ることはできない。モスクワはそう考えたらしかった。強制移住の被害者は様々だ。ウクライナ人、ポーランド人、ドイツ人、クルド人、ユダヤ人、コサック、タタール、北カフカス諸民族、特にチェチェン人がいい例だ。
おかげで日本人の外見的バリエーションは多彩になった。ブロンド、シルバー、ブラウン、ブラック。最近は赤毛や青髪も珍しくない。遺伝子交雑で瞳の色も様々だ。
そうした雑多な諸民族を日本人化するのは簡単なことではない。文部省の国語教育は徹底したものだ。海外で生活したことのある私はよく知っていた。あれは洗脳の一種だ。戦前の皇民化政策など可愛く思える。
キンスキーはその成功例だ。外見はドイツ系ロシア人。しかし、その内面は畳と炬燵とみかんを愛する普通の日本人中年男性。ぶっちゃけありえない。
彼の先祖はウクライナの黒土を駆け抜けた東方騎士団に違いない。
炬燵でみかんを食べるキンスキーを見たら卒倒することだろう。
「どうかされましたか？」
「いいえ。何でもありません」
永遠に続くかと思われた通路が終わる時がきた。
キンスキーは分厚いハッチを開く。区画ごとに設けられた水密ハッチの数は途中で数えるのをやめていた。膨大な数の水密区画だった。
流れ込む風は潮の香りがする。
私は陽射しに手で傘を作った。蛍光灯に慣れた目には陽光が少し強い。
甲板から見下ろす海は空から見た時と同じ色だ。深い青。艦首の切り裂いた海は左右に白く引き裂かれていた。
ここは艦橋直下の上甲板だった。一段高いところになっている。
「どうぞこちらへ。本艦の兵装についてはどの程度ご存知ですか？」
「ネットで調べられる範囲ですね」
「そうでしたか。では、あれがなんだかわかりますか？」
キンスキーが指差したのは甲板に並べられたＶＬＳだった。見た目は風呂場のタイルに近い。
「フォールト長距離対空ミサイルのＶＬＳですね」
「正解です。本艦は８連装リヴォルバー発射機を１２基集中配置しています。誘導用のレーダー、つまりイルミネーターは改良型に更新してありますので、射程距離は１５０ｋｍを超えています。本艦にはイルミネーターが２基装備してありますが、このイルミネーターで同時誘導可能なミサイルは６発です。つまり、本艦は同時に１２個の対空目標を攻撃することが可能なわけです」
「アーレイ・バーグ級と同じですね」
アーレイ・バーグ級イージス巡洋艦の多目標同時攻撃能力は１２だ。タイコンデロガは１８発。装備するイルミネーターの数で大きな差が出る。
「そのとおりです。しかし、ミサイルの射程距離はこちらが上ですし、発射方法もより進んだものを採用しています。コールドランチは分かりますか？」
「分かりますよ。ＶＬＳから不燃ガスを使ってミサイルを発射する方法ですね？」
「正解です」
西側のスタンダードの発射システムはホットランチだ。ＶＬＳの中でロケットエンジンに点火する。バックブラストでＶＬＳは火の海になる。甲板から火柱が立つ映像をよくＴＶで見る。よってＶＬＳは耐熱、耐衝撃性が必要になる。結果として余計な重量がかさむことになる。
それに対してフォールトは不燃性ガスでミサイルを押し出し、ロケットエンジンを空中で点火する。利点はＶＬＳを簡素化できることだ。それに尽きる。
「また、本艦は前年に施した改装により、新型のクラブＮ対地対艦巡航ミサイルを装備しました。これも垂直発射、コールドランチを採用しています。冷戦時代に開発されたグラニート重対艦ミサイルは優れた対艦攻撃兵器ですが、アメリカとの全面戦争が起きる可能性が皆無になった今では無用の長物となっております。グラニートを撤去したスペースにクラブＮのＶＬＳを設置しましたところ、クラブＮの搭載数は８０発になりました」
「アーセナルシップ？」
「それが本艦の存在意義です。現時点において、本艦は世界最強の対艦、対地攻撃用水上戦闘艦艇といえます。まぁ、他にもいろいろと変わっています。対潜ミサイルも新型のもとになっていますし、ＣＩＷＳも全てカシュタンになりました。個艦防空ミサイルも新型を積んでいます。レーダーも最近流行りのフェイズド・アレイ式になりました。あまり意味のない想定ですが、相手がイージス艦でもタイマンなら本艦の圧勝は間違いありません」
本当に意味のない想定だった。イージス艦は空母の護衛艦だ。キーロフ級とタイマンを張るような船ではない。そもそも水上艦艇とはタイマンで戦うようなものではない。
「とはいえ、これからはああいう船の時代でしょうな」
キンスキーは視線をずらして言った。
私もその方向を見た。キンスキーは併走するフリゲート艦を見ていた。
最近就役したばかりの新造フリゲート艦だった。陽炎級フリゲート。冷戦中に大量建造したクリヴァク級フリゲートの後継艦だった。
日本は基本的にソビエト海軍と同一の艦艇を装備していた。そうでなければ、有事の際に相互連携に支障がきたすからだ。装備を改造、改良することはあっても基本的にフレームには手を入れない。
しかし、陽炎級フリゲートはロシア海軍には装備されていない。個々の装備はともかく、船体は全て独自設計だ。
陽炎型は３０００ｔ級の汎用フリゲートだ。満載でも３６００ｔ程度の排水量。艦隊のワークホースとなるべき汎用艦。そこはクリヴァク型とさして変化はない。変化したのはその外見だ。平滑な平面で構成された船体は高いステルス性を備える。対艦ミサイル、対空ミサイルもＶＬＳで発射する。艦砲もステルスシールドを備えていた。
艦名からして冷戦時代ではありえない船だった。陽炎の名はソビエト海軍を震撼させた帝国海軍甲型駆逐艦のリメイクだ。冷戦時代なら、国防省の役人の首が景気よく飛ぶ。言葉どおりの意味で。
新造フリゲート艦は人民海軍の新時代の到来を告げていた。
そして、キーロフを追い抜いていく。さらに離れていく。
私はその時になって何かがおかしいことに気づいた。
肌がざわついた感じがする。女の勘は危険を告げていた。よく当たる自慢の勘だった。
いつの間にか現れた水兵から耳打ちを受けていたキンスキーは顔を上げて言った。
「ミス・オーウェン。艦長がよろしければ艦橋に来てくださると幸甚であると申しています」
私は軽く首肯することで返事とした。
軍隊における丁寧な言葉遣いとは、実質的な命令を意味する。
冷戦終結後、最初に東シナ海油田に手を付けたのは南中国だった。
９０年代に海底探査を繰り返し、日中中間線に近い海域で春暁、断橋、天外天、平湖、冷泉、龍井のガス田（油田）を定めて採掘リグの建設を進めた。
日本の対応は出遅れた。省庁間の縄張り争いがその主因だ。しかし、より根本的な原因は他にあった。原油や天然ガスをロシアから友好国価格で買える日本にとって東シナ海の油田はさして旨味のある事業ではなかった。足りない部分は中東から買えば済む。ロシアと共同開発したサハリンのガス田、油田もある。
不健康な責任の擦り付け合いの末に日本は開発中止と共同開発を打診した。例え経済的に儲けがなくても東シナ海の南中国の覇権拡大は阻止しなければならなかったからだ。もちろん、反中世論の沸騰もある。
しかし、南中国はそれを無視して開発を強行した。石炭以外のエネルギー資源に乏しい南中国は中東以外からのエネルギー資源確保を国策として推進していたからだ。大慶油田を有する北中国から輸入は大慶油田の生産力減衰により先細りになっていたし、ロシアからの輸入もインフラの未整備で進まない。特に陸路の場合は北中国を経由しなければならないのが致命的だった。
よって東シナ海油田の開発はエネルギー国産化の切り札として南中国の一大国家事業となった。もちろん日本との共同開発を推す声もなくはなかった。しかし、政治的な事情がそれを許さなかった。ＧＮＰでカナダを抜いて世界第３位に浮上した南中国は国民にとって分かりやすい、具体的な目で見える形での国威高揚のイベントを必要としていた。
祖国統一は残念ながら短期的には不可能だった。ロシア人は緩衝地帯として北中国を手放すことは絶対にありえなかった。中国統一は在中米軍の北上を意味している。それを避けるためだけに北中国を半世紀も支援してきたのだ。
また、北中国にとっても力関係から完全な吸収合併以外に道のない祖国統一は受け入れられるものではない。そもそも経済的に立ち遅れている北中国を併合した場合、経済的に共倒れになる可能性が高かった。ほぼ確実といってもいい。当面は北中国の改革解放路線を支持し、援助を与えるしか道はなかった。
では、他にどのような道がありえるのか？
台湾は論外だった。日清戦争で日本帝国に不当に奪われた台湾の正当な領有権をもつのは中国だが、それを主張することは台湾政府との全面的な対決を意味している。日本帝国の正当後継者を自認する台湾政府はアメリカと同盟を結ぶ西側諸国の一員だった。アメリカは中国の同盟国でもある。中国と台湾の関係悪化はアメリカにとって愉快な話ではない。歴史的に友好関係にあるとはいえないが、台湾を併合するという選択肢は政治的、軍事的、経済的にありえない。リスクが大きすぎる。
同様の理由で台湾海軍が睨みを効かすスプラトリー諸島への進出も不可能だった。脆弱なベトナム海軍と違って台湾海軍は帝国海軍の伝統を引き継ぎ、精強を以って知られている。隔年のリムパック演習でそれを何度も思い知らされている。
ベトナムはスプラトリー諸島の領有権を巡って見解の相違はあるものの、南ベトナムの共産主義政権を打倒したベトナム戦争以来の友好国だった。この方面への進出もリスクが大きすぎた。
チベットは今や大国として浮上しつつあるインドとの緩衝地帯として無くてはならない国になりつつある。インドは伝統的に日本の友好国であり、兵器ビジネスでも深い関係にある。そもそも２１世紀にもなって国連加盟国のチベットに武力侵攻しようものなら、国際社会が黙っていないだろう。特にアメリカが。湾岸戦争やユーゴ空爆が良い例だ。これも却下。
残った選択肢の中で何らかの展望が開けそうなのは、東シナ海だけだった。
中国には国連海洋法条約により東シナ海の大陸棚における資源開発を行う正当な権利がある。これなら国際的にも大義名分が得られる。経済的なメリットも大きい。歴史的に反日感情の根深い日本が相手なら国内世論の支持も得られやすい。
国政選挙が近づくたびに盛り上がる反日キャンペーンは今や政治的常套手段に近い。東シナ海で日本人が対抗姿勢を明確にすればするほど現政権の支持率は上昇する。全く結構な話だった。
最終目標は既成事実を積み重ね、沖縄トラフまで排他的経済水域を拡大。東シナ海の海洋支配を確固としたものとすることである。それに必要な海軍拡張の財源は南北の緊張緩和で余裕の生じている陸軍を削減することで賄われる。
しかし、今のところ東シナ海の覇権拡張はあまり上手くいっていない。
「中国艦、離れまーす！」
艦橋の見張り員が叫んだ。
キーロフ級重原子力ロケット巡洋艦の艦橋は巨大だ。怒鳴るような叫びもそれほど強く響かない。
「機関半速、取り舵２０」
しかし、艦長の声は不思議とよく響いた。
それに答える操舵手の声もだ。
「ヨーソロー」
禁じられたはずの帝国海軍用語で答えた操舵手が木製の舵輪を傾ける。
２００００ｔを超える巨艦は海面をドリフトしつつ旋回に入る。中国艦に向かう接近コースに乗る。相手は南中国の主力艦、神盾級ミサイル巡洋艦だ。
アーレイ・バーグ級イージス巡洋艦に似たスマートな艦橋は既に手に取るほど近い距離にある。危険なほど近距離。相手の傾斜が目視できる程度の距離。船の大きさ故に速度はあまり感じない。しかし、時速４０ｋｍ近い速度で二つの船は接近していた。引かれあうように船腹が近づいていく。神盾は速力を上げて接触を回避しようとする。しかし、間に合わない。衝突する。
「機関ちょい微速、取り舵１２、いや１３」
動揺など微塵も感じさせない艦長の声。
操舵輪が小さく傾く。栄光は艦首を中国艦に向ける。艦首から突入する態勢。そうとしか思えなかった。しかし、頭を振ったことで生じた微妙な抵抗が栄光を大きく失速させた。中国艦の加速が間に合う。栄光の巨大な艦首が中国艦の艦尾をかすめる。飛び移れそうなほどの近距離で艦首と艦尾がすれ違う。
ドリフトしつつ、栄光は神盾の左に出た。
ＢＧＭにユーロビートが流れていないことが不思議だった。気分はイニシャルБ。８６年式トラバントで西側のスポーツカーをドラテクでぶち抜く不可能設定の漫画だ。ちなみに全巻持っている。
艦長の巧妙な操艦に中国艦は完全に翻弄されていた。
競艇のボートのように高速ドリフトする栄光はぴたりと神盾の旋回の内側に張り付いて離れない。逃れることを許さない。
私は借りた双眼鏡で中国艦の艦橋を見た。
右往左往する人影が見える。もちろん、それはこちらも同じだ。艦長以外は顔面の色がおかしいことになっていた。艦長以外はまともな人間だ。
巡洋戦艦に分類されるキーロフ型原子力巡洋艦に比べれば、イージス巡洋艦はふたまわり小さい。まるで猫と鼠の喧嘩。ネコにとって狩りは娯楽だ。鼠を虐め殺すように中国艦を翻弄する。
「中国艦、増速しまーす」
見張りの声は遊戯の終わりを告げていた。
中国艦は加速して舵を右に切った。中間線の向こう側へ逃亡するコース。追撃の許可は出ていない。栄光にとって楽しいゲームは終わりだった。
「根性なしめ」
ぼそりと艦長が呟く。
しかし、艦橋の空気は安堵のため息に近い。２００００ｔ超の巨艦でロデオをやりたい人間は少数派だ。少数どころか存在さえ疑わしい。
私は正気の存在が疑わしい艦長の顔を見た。叔父の顔だ。父によく似ている。私はいやな気分になった。父も私の知らないところでこんなことをしているのだろうか？その可能性は否定できない。
「どうだったかな？」
父親そっくりの顔をした叔父は笑顔で言った。
どうもこうもない。
「その、たぶん、大変貴重な体験ができたと思います」
「そうだろう。そうだろう。これが国防の最前線なんだ。叔父さんはいつもこうして日本の海を守っているんだよ」
「なんというか、その、お疲れさまです・・・」
私は軽い気後れを覚える。
２００００ｔ超の巨艦でロデオをすることが国防だとは思えなかったが、当事者がそう言うのならそうなのだろう。私はそう思うことにした。
確かに、発砲を禁じられていれば体当たりぐらいしか方法がないことも確かだった。２０００ｔ超の巨艦で体当たりすれば、大抵の相手は大破を免れないだろうが。
南中国のイージス艦は距離をとって栄光と併走していた。中間線の向こうはこちらが手出しできない安全圏。それを知っている動きだ。その一線さえこなければこちらができることは何もない。
もっとも中間線など曖昧なものだ。南中国は公式には中間線の存在を認めていない。ゆえに越境してくる中国海軍の艦艇はあとを絶たない。それを放置すれば、中国艦はさらに沖縄に近いところまで接近してくるだろう。
栄光はそうした中国艦の監視と排除を任務としていた。
２００００ｔ超の巨艦はその任務には最適だった。巨大な船体と要塞のような上部構造からなるキーロフ級原子力巡洋艦は存在だけで相手を萎縮させる何かがある。イージス巡洋艦には不可能な業だ。旧来的な美的感覚からすれば、イージスシステムの構成要素、ＳＰＹレーダーを装備した神盾級イージス巡洋艦は明らかに兵器としての迫力に欠けた。
これは典型的な砲艦外交以外の何者でもなかった。当然、栄光の示威活動は南中国の猛烈な反発を呼んでいた。総統が大使を呼びつけて抗議することも珍しくない。
しかし、それは彼らがそれ以上できることが何もないことを示している。行動ではなく、言葉が先立つということはそういうことだ。
中国艦で光が瞬いた。規則的な点滅を繰り返す。発光信号だった。
「中国艦から発光信号。本文。貴艦ノ正気ハ何処二有リヤ？全世界ハ是ヲ知ラント欲ス。返信されますか？」
「当然だ。返信。馬鹿メ。以上だ」
「は？」
通信士は思わず聞き返した。
「馬鹿メ、だ。何度も言わせるな」
苛立った艦長の声で通信士が顔を青くした。
彼は何も悪くない。私はそう思った。
栄光の返答に対する中国艦の返事はストレートだった。私は神盾の主砲の砲身が消えていることに気づく。もちろん、折れてしまったわけではない。こちらに砲口を向けているから見えないだけだ。今は砲身の代わりに砲口が見える。
「いいぞ、楽しくなってきた」
艦長は無闇に好戦的なことを言った。
自重して欲しい。私はそう思った。他のクルーもそう思っているに違いない。そういう顔をしていた。迷惑な話だった。
日中の不健康な対立は歴史問題を絡めて異常な盛り上がりを続けている。戦争にはなりそうにない。しかし、和解には程遠い感情的な対立構造。負の連鎖反応。失われた共和国憲法９条を信仰する９条の会の言うことは案外正しいかもしれなかった。武器を捨てるだけで平和が来るとは思わないが。
こんなことが何時まで続くのか？
先のことを考えると憂鬱な気分になる。海の色に近い。まっさらな、深いブルー。
続く？
2007年12月22日(土) 00:30:07 Modified by suzukitomio2001