紺碧の艦隊プライベートエデッション 運命の開戦3

 運命の開戦3

『撃墜王』は地上が遠ざかるのを見て心安らぐものを感じた。
 重力から解き放たれ、翼は無限に青い空へと昇っていく。
 たまらない快楽だった。この為に自分は生まれてきた。そう思える瞬間だった。
 地上においてきた諸々の悩み事はどれも性質の悪いものだったが、飛んでいる間は忘れることが出来た。飛んでいる限り、彼は自由だった。
 発動機の唸りは猛々しく、快調そのものだった。しかし、彼は念のために油温と排気温度を確認し、異常がないことを確認した。少し排気温度は高いが冷えつつある。冷却のためにフル稼働している強制空冷ファンの高周波音は耳障りだったが、高性能の代償としては安いものと言えた。
 水平飛行で十分な加速を得たことを確認した『撃墜王』はストットルを開き、垂直上昇に入った。
 東亜重工製「RA160E」14気筒1800馬力発動機は一際甲高く鳴いた。
 RA160Eは『科学大臣』が完全監修の上で開発された大日本帝国初の2000馬力級空冷エンジンだった。
『科学大臣』と『勉強会』のメンバーは来るべき戦争に備え対米戦の準備を進めていたが、その中で最大の問題となったのが高出力航空機用発動機の未熟と高品位の航空機用ガソリンの供給問題だった。
 質はともかくとして量の確保については最初からある程度目処が立っていた。なぜなら満州に大慶油田があるからだ。
 逆行によって1950年代以降の歴史を知ることになった山本と『陸軍大臣』は共謀して満州事変以降に石油調査団を派遣し、大慶油田の発見を発表した。これによって山本と『陸軍大臣』の油田発見の功績により陸海軍内での発言力が大きく高まった。さらにアメリカに油田の協同開発を呼びかけ、これをもってアメリカに一定限度の満州の市場開放を行なうことで満州利権のステークスホルダーとしようとした。
 この作戦は半分成功し、半分失敗した。山本と『陸軍大臣』は油田発見によって帝国の燃料問題を解決した英雄となり影響力を拡大したが、政府は油田の独占を図り、アメリカが持ちかけた共同開発提案を全て拒否したからだ。
 世論も経済界も政府の方針を支持した。桂・ハリマン協定を明治政府が反故にしたのと同じことがおきただけだった。英霊の血で贖った土地をアメリカに売り渡すなどとんでもない。そんな見出しの記事が新聞紙上をにぎわせた。
 アメリカ政府は不快感を表明し、国際連盟は日本以外の全ての賛成をもって満州国の存在を否定した。大慶油田は日米の対立を煽り、国際社会での孤立を深めただけで戦争回避には何の役にも立たなかった。
 また、大慶油田は基本的に重油質で、航空機用のガソリン精製には不向きだった。大規模な熱攻法の採用と中国人労働者の人海戦術で石油採掘の目処はたったが、そこからガソリンを精製するのは容易ではなかった。また、原油から量産レベルで各種石油製品を『量産化』できる大規模な製油場も日本には存在しなかった。
 製油場の設備はドイツから丸ごと輸入することで解決されたが、熱分離で精製できるガソリンは70オクタン程度で、航空機に用いることはできない。ノッキングが頻発して発動機が破損してしまう。
 1930年代、高出力発動機の開発に必要不可欠な100オクタンガソリンを大量生産するのに必要な接触分解法(フードリー方式)のパテントはアメリカがもっていた。そのフードリー方式のプラントがカルフォリニアで完成し、生産を開始するのが1936年だった。当然だが、軍用以外には使い道のない100オクタンガソリンの製造ノウハウをアメリカが日本に輸出するわけがなかった。
 100オクタンガソリンの量産化は完全に挫折したかのように思われた。
 しかし、山本と『勉強会』のメンバーは諦めなかった。
 陸海軍の燃料技術部門の職員、関係者と民間企業の大同団結により、日本は次々に突破不可能と考えられていた関門を克服していく。
 史実において海軍はハイオクタンガソリンの研究については一日の長があり、水素添加法でハイオクタンガソリンを生産した実績を誇っていた。しかし、その研究成果は陸軍や民間には公開されず、海軍の独占的な監理下にあった。山本はハイオクタンガソリンの量産化のために燃料廠の反対を押し切り技術と研究成果を公開した。その結果、海軍の方式は生産効率が低く、まるで使い物にならないことが判明した。
 水素添加法は高温高圧化において水素と留分を反応させることでハイオクタンガソリンを生産する技術で、純粋な水素の大量生産と高温高圧を実現するための容器(高圧菅)の製造がネックになっていた。その全ての用件を実験室レベルなら海軍は製造できたが、大量生産は不可能だった。そこで慌てて海外からの技術導入が行なわれることになった。
 この分野で先進的なのはドイツだった。IGファルベン社はベルギウス法(水素添加法)によって石炭から人造石油を量産化していた。アメリカからの技術移転が不可能になったことから日本はドイツにそれを求め日独伊防共協定の締結など友好ムードも手伝って、比較的簡単にフレンドリープライスで水素添加法のノウハウは手に入った。またプラントを輸入、さらに国産化にも成功する。高温高圧を維持すための高圧菅は海軍の大口径砲製造設備を転用することで賄うことが可能だったからだ。戦艦大和の主砲製造に利用されるはずだった設備と鋼鉄は高圧菅の量産にまわされ、ここに戦艦大和の建造は完全に葬りさられることになる。
 これで92オクタンのガソリンの量産化には成功した。
 しかし、まだ100オクタンには手が届かない。
 このころになるとガソリン製造中に発生する廃ガスから原料ガスを回収し、精製することでイソオクタン(100オクタンガソリンのこと)を製造できることが判明していた。アルキレーション法によるイソオクタンの生産は廃ガスを利用するという性質上、大規模な製油設備がなければ成り立たないが、ドイツから輸入した製油場ならそれが可能だった。イソオクタンをそのまま燃料として用いることは生産量の点から不可能だったが、92オクタンガソリンにブレンドすることで量産ガソリンの平均オクタン価を向上させることは可能だった。
 こうして製造されたイソオクタンを92オクタンガソリンにブレンドすることで、オクタン価は96まで向上した。
 さらにこれに4鉛エチルを添加することでついに日本は100オクタンガソリンの製造に成功する。ただし、4鉛エチルの生産量には限りがあり、これがボトルネックになったことで100オクタンガソリンを全部隊に供給することは不可能だった。
 それでも96オクタンガソリンを常用できることは史実のそれに比べて格段の進歩である。ドイツが87オクタンガソリンを常用していたことを考えれば枢軸国最高の燃料環境と言えた。大日本帝国の総力を結集することができれば、ここまでのことは可能だったのだ。ガソリンと並んで日本製発動機の性能低下の一因となっていた潤滑油も原油精製の過程で製造されるパラフィンから高品質なものが生産されるようになり、潤滑油を必要とする工業製品の稼働率向上に大きく貢献していた。
 あとはその高品位燃料を活かした高出力発動機の開発だけだった。
 逆行前は自動車メーカーの社長でありながらF1用エンジン開発を監督した『科学大臣』にとってこの種のエンジン開発はお手の物だった。『科学大臣』は自動車業界だけではなく、航空産業にまで進出をもくろんだ野心的な一流のエンジニアだった。そして、F1用のエンジンを空冷でつくろうとしたほどの空冷マニアだった。
 したがって、新型エンジンは当然のように空冷となった。
 エンジンの高出力化には高回転化、高圧縮化、ブースト圧の増大、排気量の増大のいずれかが複合的に用いられる。
 この中でもっとも単純なのが排気量の増大だった。エンジンを大型化し、シリンダーの数を増やせば排気量は増大する。しかし、当然ながらそうした発動機は前面投影面積が増大し、空気抵抗が増える。図体が大きくなる。重くなる。利点は多くない。しかし、RA160Eはその最も単純な解決法を採用し、1800馬力の高出力を実現した。
 中島や三菱など既存の発動機メーカーが既存のエンジンを18気筒化し、高回転と高圧縮、ブーストアップで小型軽量の発動機を開発しようとしたのとは対照的と言えた。
 中島や三菱の採った方策は技術的に見て必ずしも間違いとは言い切れないし、既存の発動機をベースにした発動機開発は堅実な発想と言える。陸海軍の航空行政関係者もこの方針を支持した。前面投影面積の縮小と軽量化が高速戦闘機開発の最善手であると信じられていたからだ。それを最も確実に得るには既存の14気筒発動機ベースに18気筒化するのが最良である。
 しかし、既存の発動機が自動車用エンジン程度しかない東亜重工ではその手法を採用することができなかった。また、『科学大臣』のプライドがそれを許さない。
 幾つかの悪戦苦闘とドラマと奇跡の果てに完成したRA160Eは陸海軍の審査をパスして採用されたが、それは爆撃機用としてだった。陸海軍は共に戦闘機用の発動機は小型軽量でなければならないと考えていたし、多くの航空機設計者も同じだった。
 馬鹿げた話だった。それならば、ドイツのFw190やF4Uのような大直径空冷エンジンを搭載した高速戦闘機の存在を説明できなくなる。
 もちろん、海軍の審査をパスした時点ではそのどちらも存在しておらず、スピットファイヤやメッサーシュミットのような液伶高速戦闘機が幅を利かせていたのだから空冷エンジンで高速戦闘機を開発にするには前面投影面積を少しでも縮小しなければならないと考えたのも無理のないことと言える。
 しかし、『科学大臣』はこうも思った。
 それは創造性の欠如なのではないか?と。
 スピットファイヤやメッサーシュミットのような液伶高速戦闘機に憧れるのは分かる。他にサンプルがないのだから、それ以外の方法がないと思ってしまうのも無理はない。しかし、高速戦闘機を成立させるメソッドはそれだけではないはずだ。誰かの後追いをしている限り、決してそれに追いつくことはできない。『科学大臣』はそう考えた。
 前面投影面積の少ない液伶高速戦闘機が速いから、前面投影面積を減らせば高速戦闘機ができると考えるのはあまりも技術に対する認識の底が浅すぎる。
 RA160Eは前面投影面積の削減と軽量化至上主義に凝り固まった陸海軍と全ての航空機設計者に対する痛烈なアンチテーゼだった。
 そして、皮肉なことにRA160Eを搭載する筐体こそ前面投影面積削減の権化のような設計思想に基づいて設計された14試局戦(雷電)だった。もっとも14試局戦の設計に使える高出力発動機はその設計開始時点でRA160Eしかないのだから、それ以外の選択肢は存在しないと言えた。
 14試局戦は支那戦線でSB中型爆撃機の奇襲によって大損害を受けていたことから対爆撃機迎撃用の迎撃用高速戦闘機として計画された。
 主任設計者は零戦の生みの親、堀越二郎が選ばれ、ほぼ零戦の設計チームとほぼ同じメンバーで開発は始まった。ここでほぼと断ったのは、エンジン回りの設計を補佐するために『科学大臣』自らが14試局戦の設計チームに参加していたためである。
 RA160Eは同時期に完成した日本製発動機にない幾つかの特徴を備えており、14試局戦の開発は事実上、RA160Eを機体とマッチングさせる悪戦苦闘だったと表現できる。
 例えば、RA160Eは同時期の他社製のエンジンにはない高い高空性能を誇っていた。RA160Eが備える1段3速機械式過給機は全開高度7000mを誇り、従来の日本製航空機の全てが高度5000m以上では性能低下をきたすのに対してRA160E装備機ならば高度7000m以上の高高度戦闘が可能になる。これは従来の航空機に対して常に高度優位を以って対処できることを意味する。
 高度が上がれば空気が薄くなるのは道理であるが、空気が薄くなればその空気を利用して動力を取り出すガソリンエンジンはその機能を低下させるのも同じ道理であった。であるならば、薄くなった空気を圧縮してやればいいと誰かが考える。それが過給機であり、エンジンからパワーを導いてタービンを回すのが機械式過給機(スーパーチャージャー)で排気ガスの流速を生かしてタービンを回すのが排気タービン式過給機である。
 ここで問題になるのは、空気は圧縮されると過熱するという単純な自然現象である。
 加熱した空気をシリンダーに送り込み、そこにガソリンを噴射すれば当然ながらガソリンは発火する。通常、ガソリンエンジンで吸気が行なわれるのはピストンが最も下がったタイミングであるので、そこで爆発が起こればピストンが壊れてしまう。
 これがノッキング(過早爆発)と呼ばれる現象で、圧縮され加熱された空気がガソリンをプラグによる点火以前に発火させてしまうことによって発生する。
 これを防止するためにノッキング耐性を持つガソリンが必要になる。それがハイオクタンガソリンだった。誤解を恐れず敢えて述べるのならば、ハイオクタンガソリンとは『燃えにくい』ガソリンなのだ。
 最高品位の100オクタンガソリンがあれば、過給された空気をそのままシリンダーにぶち込むような暴挙も可能になるが、日本が常用できるガソリンは96オクタンが限界だった。
 よって、ノッキングを防止するために小細工が必要になる。中島と三菱は水メタノール混合液をシリンダーに噴射し、気化冷却することでこれをクリアーしようとした。水メタノール噴射と96オクタンガソリンを組みあわせ、100オクタンガソリン相当のブーストアップが可能だと考えたのである。しかし、電子制御技術もない1940年代に全てのシリンダーに均一に噴射を行なうのは至難の業だった。史実においてもシリンダーごとの冷却のムラによって出力が安定せず、その調整はどんな熟練した整備員でも手を焼いた。水メタノール噴射はアイデアとしては優れていたが、実用性が乏しく、発動機の信頼性を低下させただけだった。
 RA160Eはその反省により、過給機を経て圧縮、加熱された空気を冷却するのにインタークーラーを用いた。インタークーラーも水メタノール噴射も吸気温度を下げるという点では効果は同じである。結果は上々で、水メタノール噴射装置と同等の効果があると判定され、中島と三菱のエンジン技術者を驚愕させた。
 問題はインタークーラーの配置だった。水冷エンジンのラジエターのような巨大なインタークーラーを機体のどこに押し込むかが最大の難問となった。
 この問題を解決したのは『科学大臣』だった。逆行前の知識を生かし、機体下面にバルジを設置、ここにオイルクーラーとインタークーラーをまとめて設置するように提案した。これはP−51や3式戦飛燕のラジエター配置と同じだった。雷電の紡錘形の胴体は横幅が広く(史実では中でトランプが出来ると揶揄されるほど広かった)機内ならダクトを配置するスペースは十分に確保できる。
 堀越技師はこの配置に徹底的に反対したが、風洞実験の結果を見て考えを変えた。空気取り入れ口を機体から僅かに離して設置したのもP−51のラジエター配置を真似たものである。
 また、ダクトに流れる高温の圧縮空気は高高度で暖房の役割を果たした。他の戦闘機が高高度で電熱服を着用しなければならなかったのに対して、雷電のパイロットは半袖で操縦することができた。14試局戦はパイロットの生存性を高めるためにバスタブ型装甲を採用し、パイロットの全周を装甲化していたので、14試局戦のパイロットはサウナに入りながら戦闘をしていると零戦のパイロット達から揶揄されることになる。
 紡錘形に成形された機体は空気抵抗を最小限に、そしてVDM電動式4翅可変ピッチプロペラはエンジンのパワーを最大限にまで引き出して14試局戦を空の高みへといざなっていった。
 できたてほやほやの最新鋭機。それも試作機を『撃墜王』は手足のように操っていた。上昇性能は零戦の比ではなかった。最高速力は零戦のそれを140kmも上回っている。つまり最高速力は時速670kmだ。この速力を上回る戦闘機は今のところ太平洋上に存在しない。
 しかし、やはり視界は悪かった。速力を追求したレーサー機のようなコクピットに座っていると湯船の中にいるような気分にさえなる。零戦の視界の広さに慣れたパイロットはこれを苦にするだろう。『撃墜王』はそう思った。
 それでもなお、その欠点を承知してなお、パイロットの金きり声のような反対意見を承知してなお、山本と『勉強会』が14試局戦の配備を急いでいるのは、晴天の空に一筋の飛行機雲を引いて飛ぶ空の要塞を心の底から恐れているからだ。
 14試局戦、仮称『雷電』の戦うべき敵は成層圏の只中にいた。
「オヤド、オヤド。こちらカラス。目標を発見した」
 地上の電探監視哨に無線機で連絡を入れながら『撃墜王』はB17と並走するコースに機体を乗せた。
『撃墜王』は油断なく四方に気を配り僚機が追随してきているか確認した。
 僚機は『撃墜王』のやや下方に占位して、『撃墜王』の背後をカヴァーしていた。後方の心配は全くなかった。
 しかし、『撃墜王』は用心に用心を重ねて地上の電探監視哨に伺いを立てることにした。
「オヤド、オヤド。こちらカラス。通報のあった目標を発見した。B17だ。1機。高雄方面に向かう。他に反応はないか」
「カラス。こちらオヤド。他に反応はない。それだけだ」
 便利になったものだと『撃墜王』は思った。
『撃墜王』が逆行してくる前は、この時期の台湾にはこのような迎撃管制システムは存在していなかったはずだった。それどころか、こうして地上や僚機と無線で連絡を取り合うことさえできなかった。電子産業の立ち遅れから無線機の性能が著しく低く、エンジンを回すとエンジンから発生する電磁ノイズによってまるで聞こえなくなった。
 しかし、これがもう欧米では当たり前なのだから、恐れいってしまう。
 逆行前に戦った大東亜戦争で祖国がどれだけ時代遅れな装備と認識で戦っていたと思うとやりきれない気分にさせられる。
 しかし、後悔はない。自分は常に全力で戦い続けてきた。1945年8月18日の最後の迎撃戦闘の日まで、ずっとだ。悔いを残すようなことは何もなかった。
 敗戦を迎え、昭和帝が逝き、平成を迎えて脳溢血で死ぬまでその信念は変わらなかった。
 しかし、帝国全体を見渡せば、果たしてアレがベストだと呼べる戦いだったとはとうてい思えなかった。あの戦争を歴史として客観視すれば、するほどその思いは強くなった。
 勝てないことは分かるが、もう少し何か、悔いの残らないような戦い方があったのではないか。ベストを尽くす方法が他にあったのではないか、特攻のような狂気に逃げる以外に冷静に真面目に戦い続ける術があったのではないか。そう思えるのだった。
 彼が『勉強会』に参加したのも、そうした生前の疑問に自分なりの答えを見つけるためだった。もちろん愛する祖国を守るという目的もある。やりなおしの人生でも、『撃墜王』は海軍を志し、戦闘機パイロットになり、この空にいる。
 しかし、歴史上の英雄や世界的大企業を作った社長、未来の内閣総理大臣と肩を並べて大戦略を考えるのは性にあっていなかった。自分の残した戦績は彼らに劣るところなど何一つない思っていたが、大上段から大戦略を述べ、国家の経営にまで口を出すようなことはとても出来そうにない。
 やはり、自分にはこうして前線で戦っている方が性にあう。『撃墜王』はそう思った。しかし、『撃墜王』が捕虜になるようなことがあれば取り返しがつかない。
 前線に出たい『撃墜王』と『勉強会』の妥協点が横須賀海軍航空隊でのテストパイロットというポジションだった。『撃墜王』は最新鋭機の運用データを得るという名目で台湾にまで遠征してきたのだ。
 B17は進路を変えることなく悠然と飛んでいるように見えた。
 しかし、真昼に一等星を見つけられる『撃墜王』の双眸は慌てふためくB17のパイロット達を映していた。
 当然だろうと思った。この高度で飛ぶB17を捕捉できる戦闘機を日本人が持っているなど、彼らの哲学では思いもよらぬことに違いない。
 まだ下界は海の上だったが、そろそろ陸地が見えるころだった。
 馬港にはフィリピン上陸部隊が集結している。それを写真に収めるのがこのB17の目的だろう。撃墜王はそう結論した。残された時間はあまり多くない。
 下の防空指揮所はまだ迷っているらしい。撃墜すべきか、否か。今のところ日米はまだ戦闘状態にない。
『撃墜王』の肝は決まっていた。
 断固撃墜すべきだ。ここで偵察を許して得られるものなど何もない。
『撃墜王』は僅かにスロットルを開き、ラダーを蹴って14試局戦とB17を交差させるコースに乗せた。
 B17は14試局戦の接近に驚いて発砲。旋回機銃を乱射した。
 しかし、12.7mm弾は14試局戦の手前でカーブして遥か後方へと消えていくだけだった。有効射程距離外だ。しかし、初めての実戦では敵が意外にも近く見えるものだった。
「こちらカラス、オヤド。B17から攻撃された。反撃を許可されたい」
 急横転でB17と距離をとって『撃墜王』は地上に報告した。
 これで地上の防空指揮所も肝を据えるしかなくなる。
 返答は意外にも早く来た。
「こちらオヤド。カラス。敵機を撃墜せよ」
 地上の防空指揮所は明確に目標を敵と呼んだ。
「了解、撃墜する」
 返事をするよりも早くスロットを全開にした14試局戦は突発的な加速を開始した。
 置き去りにされたB17はそのまま直線飛行を続けた。
 生き残りたいのなら、彼らはここで急旋回してフィリピンに戻るべきだった。在フィリピン米軍は貴重なB17の損失を避けるために、日本軍機との戦闘を回避するように命令していた。それは写真偵察に関する命令よりも上位に位置していた。機長の裁量で作戦を放棄して離脱しても、作戦放棄を咎められることは全くなかった。日本軍の戦闘機に捕捉された以上、ここで引き返すことは当然の判断といえた。もはや写真偵察が成功する見込みは全くないのだから。ここで反転していれば地上の防空指揮所はレーダーでそれを探知して、攻撃を中止させただろう。しかし、彼らはそうしなかった。彼らは生き残る最後のチャンスを自ら放棄と言えた。
 エンジン全開で加速した14試局戦は大きく右上昇旋回してB17の正面上方に回りこんだ。僚機はその後方に占位し、共に攻撃態勢にある。
 14試局戦はスロットルを絞りつつ緩急降下を開始。正面から突進した。彼我の相対速度はおよそマッハ1。対大型爆撃機攻撃においても最も有効とされる攻撃法だった。
 見る間に巨大化するB17に向かって『撃墜王』は吼えた。

「さァ、来い!」


 フィリピン侵攻作戦発動まであと2日
2007年06月21日(木) 23:01:42 Modified by ID:+MlOOvkmvg




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