日登る国設定その2

天下分け目の関が原の合戦による天下統一よりも1/4世紀早い日本の統一が、世界史にどのような影響を及ぼすでしょう。
欧州では、世界帝国スペインが傾きだしています。
一時代を築いたポルトガルも何時スペインに飲み込まれるか、戦々恐々です。
イギリスはこれから、オランダはまだ対スペインに対して独立を挑もうかと言う時点です。
ここで鍵を握るのは、スペインです。
佐藤御大の信長さんのお話でも、フィリップ二世が欧州情勢の安定の為に対英戦よりもアジア植民地化を推進したとあります。
しかしその為には、フィリップ二世の目が英国に向くのを変えねばなりません。
有名なスペイン無敵艦隊が英国に敗れるのは1988年です。
また、オランダはスペインとの独立戦争が始まります。
これは、1568年に開始され、間に休戦を挟みながら、オランダ独立まで80年近く戦争が続きます。
ここで、1573年に日本が織田将軍家の下に一つにまとまった事が効いていきます。
イギリスとの対決まで15年、オランダ独立戦争は、始まっていますが1579年にはナントの和約が成立していますから、まだスペインの方向を変える事は不可能ではないでしょう。

このような状況下で、九州にて奴隷売買が取り上げられます。
日本人が、海外に奴隷として売られていっていると言う事実は、信長さんを激怒させました。
また、将軍としての権威を確立する為にも、ホンの小さな地域に対して、不必要な大軍が差し向けられます。
キリスト教と言う名目での布教活動と裏で人身売買を行うスペイン系に対する印象は最悪となっております。
結果、この世界では起こらなかった、史実の叡山焼き討ちに比する事のできる、カソリック教徒の虐殺が行われました。
ただ、この次期の信長さんの行動は、道三の薫陶を受けていますので、相手の恨みを買う事の利害が良く判っています。
そして、何よりも情報収集の重要さを認識しています。
世界に対するアンテナを張り巡らす事の重要性を認知していますので、海外情報を手にした日本人、日本に様々な情報をもたらす南蛮人や、中国人を優遇していると言う側面は維持しています。
そして、その結果、欧州でのカソリックとプロテスタントの軋轢も情報として理解しました。
他の国内の宗教に対する態度と同様、両方の意見を聞いて、自分で判断すると言う、現実主義の信長さんは、この世界でも同じです。
その結果、カソリック教徒の排除をしながらも、英国やオランダ系の欧州人は保護されました。
要は、宗教は現世世界に口を出すべきでないと言う信長さんの方針が海外宗教にも適用されたのでした。

配下となった、毛利勢はその水軍を派遣し、九州方面から逃げ出そうとするカソリック教徒、勿論その中に含まれるスペイン・ポルトガルの宣教師も捕まえようとしました。
ところが、ここに、一隻のガレオン船が登場します。
フィリピンに本拠を置く、スペイン総督が派遣した救援船でした。
この当時、沿岸海軍でしかない毛利水軍では、当然ながら、ガレオン船に対抗できる筈も無く、
並み居る大安宅、安宅船を蹴散らし、見事逃げ出した宣教師を救って去って行きます。
総大将として、それを目にした信長さんの衝撃はどのようなものだったでしょう。
そう、それは丁度石山本願寺包囲にて、九鬼水軍が蹴散らされたのを何倍も拡大したようなものでしょう。
ちなみに、この世界ではこれも起こっていません。
従いしまして、信長さんは、鉄甲船も作っておりません。
結果、ここから、史実の九鬼水軍に製作を命令されたように、
「あのガレオン船に勝てる船を作れ!」
と言う命令が、毛利水軍に発せられます。
さあ大変です。
九鬼水軍の鉄甲船のとは比べ物もならない程の予算と人員が投入されます。
日本の国家を挙げてのプロジェクトです。
しかも、気鋭の将軍様のご命令となれば、逆らうなんてとてもとても出来ません。
東南アジア一帯から、南蛮人の船大工はさらって来るわ、遠く欧州まで調査に出向く連中もいます。
情報に金を払う事に何ら躊躇しない、信長さまは、持ち帰った情報・人材に対して惜しげもなく報酬をばら撒きます。
一年後には、見よう見まねで、ガレオン船らしきものが出来上がります。
まだ、この時点では、航海士等は、お雇い外人ですが、日本人がその要衝を占めるのも時間の問題でしょう。
なぜなら、スペイン総督が動き出したからです。
九州から叩き出された宣教師達は、野蛮な日本国のノブナガと言う将軍が、キリスト教徒を迫害していると大声で叫びました。
その声は、いずれ本国に届きます。
そして、丁度オランダ問題が一段落したフィリップ二世が、ローマからの声も無視できず、
無敵艦隊の一部、と言っても新たに4隻程ですが、を東洋へ派遣する事を決めます。
そして、一年と少しした頃、スペイン総督の命令で、この4隻は九州に姿を現しました。
彼らは、制裁すれば良いわけですから、九州沿岸の都市を適当に砲撃し、何箇所かの街を略奪して行きます。
流石に、信長さまに話が伝わると、すぐさま新鋭の毛利水軍に出動命令が届きます。
スペインの艦隊の驚きは如何様だったでしょう。
彼らは、当初英国あたりの艦かと思ったのですが、操船はへたくそだし、大砲は当たらない事にあきれ返り、折角毛利水軍が用意した、日本式ガレオン船は、殆ど戦力として役立たず、沈められてしまいます。
結局、スペイン艦隊は、更に何箇所かに砲撃を加え、悠々とフィリピンに戻って行きました。

この時、本拠地安土に居た、そう信長さんの本拠は安土であり、大阪には城はありません、信長さんは、
「であるか。」
とだけ言って、天守に篭もってしまったとか言われております。

この時点まで、信長さんは別に天下布武を更に海外に広げようなどと言う馬鹿なことは考えていませんでした。
そりゃそうです。
国内にはまだまだ有力な大名も残っていますし、将軍となって、一番の課題は新しい国づくりです。
内政重視の政策、不用となった各大名の兵力削減、検知などの土地管理等等、やる事は一杯あります。
ところが、スペインの制裁措置が、日本の方針を大きく変えてしまいます。
そして何よりも、将軍様の威信に傷が付きました。
これは、何とかしないと、安心して信忠に国を譲れません。
それに、今回は嫌がらせ程度ですが、また来ない保証はありません。
信長さんは、国家方針を大幅に変更せざるを得ませんでした。
そして、それはどの大名家からも当然の事と受け取られます。

そう、今度は国を挙げての海軍の建設が始まりました。

四年後、オランダ問題や、最近生意気になりつつある英国の扱いに頭を痛めているフィリップ二世の下に、驚愕の知らせが舞い込んできます。
フィリピンが占領されたのでした。

フィリップ二世にすれば、東洋での日本などの事は、最早忘れ去られた事でした。
実際に、十分な制裁を行ったガレオン船も無事本国に戻って来ており、それ以降、日本国からの苦情は上がっていなかったのです。

ところが、日本はその四年間の間に、日本式ガレオン船改をなんと、150隻以上用意したのでした。
信長さんの直轄領、博多、堺、伊勢、舞鶴、名古屋、小田原、東京(信長さんが、将来の首都の予定地として選んだ地点です)の港で一年間に各三隻ずつの建造にて、63隻の建造。
そして、有力8大名がそれぞれ9隻ずつ72隻、併せて155隻のガレオン改です。
武士の多くは、これらの船の操船を無理やり義務付けられ、三年の間に、立派な海軍が誕生したのでした。
ちなみに、船はその後も作られていますが、最後の一年は艦隊行動の訓練がその主たる目的で、作り上げられた船の目的は別でした。

そして、最初に攻撃されたのは、フィリピンでしたが、次に攻撃された地点を聞いて、フィリップ二世から血の気が引く事になります。

そう、信長さんは、情報を重視される方でした。
スペインの富の源泉がどこかを調べ上げる事など造作も無い事です。
そして、行動力の塊である信長さんに、敵の資金源を断つ事を躊躇う理由はありません。

1578年、中央アメリカから南アメリカのスペイン領は、織田艦隊に蹂躙されたのでした。
2007年03月19日(月) 00:55:48 Modified by spacefinalfrontia




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