米内ですがハルノートを受諾しますた その4

その4:内戦がはじまりますた

小林盛夫は、行進する兵隊達を見かけて足を止めた。
場所は市ヶ谷の靖国通り途上である。2月半ばの冷え込んだ朝、数日前に降った雪が道のそこここにぬかるみを造り、まだ日陰には泥と混じった白いものがちらほらと残っている。時刻は朝6時過ぎだろうか。
そこに、カーキ色の軍装の上から白襷をかけた兵隊が、二列縦隊で歩いてくる。
盛夫がこんな時間に外を歩いていた理由は、贔屓の客と久しぶりに痛飲して朝帰りの途中であるからだ。日米の対立も回避され、4年以上も続いた支那事変も漸く終わりが見えてきた。昨日の新聞には、米国国務省の斡旋で蒋介石の重慶政府と非公式会談が始まったという見出しが躍っており、漸く殺伐とした世の中が終わる、これで一安心だと盛夫も同業者も客も、一同安堵の気持ちで酒を酌み交わした。その翌日である。
雪こそ降っていないが、2月の寒空の下払暁を期して帝都を闊歩する陸軍兵士、その肩には歩兵銃、その背には白襷。それはまるで、6年前のあの日に見た光景が再び瞼に甦ったようにも思えた。あの3日間、彼は決起軍・麻布第三連隊の兵士として警視庁を占拠していた。あの時は、あれが反乱であるなどと露ほどにも思わなかった。命令が全て。一兵卒はそれに従うのみ。
だが、それを外から市井の人間として見つめる段になると、その光景がどれだけ異様なものであるかはっきりと知ることが出来る。黙々と近づいてくる兵士達。着剣し恐らくは実包を配布されているだろう。そういうとき、兵隊はいつも以上に無口になる。殺気ではないが、一種独特の空気が生まれるものだ。小林盛夫は、徴兵時代の経験から通りの先に見える兵士達にもその雰囲気をかぎ取った。
この先には何があった?そうだ、陸軍士官学校跡に遷った陸軍省と参謀本部だ。あの連中の狙いは、市ヶ谷だ。
「えれぇこった」
すぐに裏道に引っ込んだ彼は、一目散に通りを駆け戻っていった。何はなくとも一報くらいはしなければならない。持ち前の正義感に突き動かされた彼は、一張羅に飛び散る泥はねも気にせずに走った。
この小林盛夫、またの名は噺家・柳家小きんが市ヶ谷の陸軍省へと駆け込んだ時に、二月事変は始まったと言える。


襲撃は用意周到に行われた。
主体となったのは高崎の歩兵第十五連隊から抽出された部隊であったが、本命は東京港に密かに運ばれていた部隊だった。
南方総軍第二十五軍に編入されていた第五師団と第十八師団から選抜されたこの部隊は約2000人の規模であり、再編のためと称して内地へ戻され、このクーデタの主兵力として活用されたのである。その指揮を執っていたのは、第十八師団長・牟田口廉也中将。
兵員輸送手段を大々的に徴発可能であったこと、さらには歴とした将官が実行部隊にいるという事実は、これが二・二六事件のような一見少壮青年士官が暴発して起こしたような事件ではなく、非常に大きな広がりを持った陰謀であった事を端的に現していた。
しかし、その規模にもかかわらず反乱軍の手際は実に悪かったと言わざるを得ない。
参謀本部と陸軍省は占拠に成功したが、主たる標的である東条英機・大本営主席参謀長、小磯国昭・陸軍大臣、さらには予備役から復帰し新任なったばかりの石原莞爾・参謀総長も取り逃がしてしまった。さらに、麻布から出動した歩兵第一連隊と歩兵第三連隊は、即座に永田町の首相官邸と議事堂周辺、桜田門周辺の内務省、外務省、警視庁、司法省などを押さえた。宮城の警備には近衛師団が当たっていたが、府下に残留している部隊は支那へ出征している師団本隊の留守部隊に過ぎず、ただ宮城に陛下が鎮座ましましているという事実を後ろ盾に警備し果せているに過ぎない。
反乱軍はさらに増勢され、南方軍からの移送部隊約2万が府下を占拠した。また、中枢部で防備態勢を整えた防御側も、習志野の戦車第一連隊・第二連隊からの増勢を得てそれと対峙していた。
さらに、混乱は各地で同時多発的に起こっていた。
大阪では歩兵第八連隊のうち数個中隊が大阪城を占拠。
広島では留守第五師団の諸部隊が決起軍の行動を支持するとして兵営を占拠する事件が起きていた。
影響は、海軍にも及んでいた。
二・二六事件では反乱軍にその16インチの砲口を向けた戦艦長門が、東京湾に忽然とその姿を現していた。
しかし、今回はこの長門こそが反乱軍そのものであった。
独航で築地沖に姿を現した浮かべる鋼の城は、平文の無電で東京港周辺30km以内の大型艦船の航行を禁止する旨の通告を行った。その発信者は、聯合艦隊司令長官・嶋田繁太郎海軍大将。その電文には、『この度の決起軍の行動は政府首班の犯しつつある誤りを正し我が帝国の行く末をあるべき姿に正すものである』として反乱軍への同心を付記してあった。
海軍実戦部隊の実質的な最高責任者が独断で反乱部隊に加わる、その事実の影響は計り知れない。実際、多くの実働部隊ではいつ僚艦が反乱側に加わるのではないかとの推測憶測流言が飛び交い、数日間はとても鎮圧行動に出られる状況ではなくなっていた。
その裏には、やはり米内内閣になってからの急激な方向転換に不安を覚えていた将兵が多いこと、さらには、海軍左派かつ航空派と目されている米内の首相再任によって、海軍内の勢力図が大きく変わってしまった事への不満も大きかった。嶋田繁太郎などは、山本五十六に海軍大臣から蹴り落とされて聯合艦隊司令長官へと入れ替えになっただけに、それを屈辱的な左遷人事と受け取っていたと思われる。また、親しくしていた前軍令部総長・伏見宮博恭王に見限られたとの思いもあったのではないかと憶測されていた。
最終的に、混乱の中でさらに二隻の軍艦が長門の行動に合流することとなった。柱島で不遇を託っていた戦艦扶桑と山城であった。
結局、反乱軍は東京及びいくつかの主要都市で決起することには成功したものの、玉体を握る事ができなかった決起軍は、防衛側と対峙したまま要求事項を明らかにした。
『米内首相の退任。後継首班には近衛元首相』
『大陸撤兵の白紙撤回』
『日独伊三国同盟の堅持』
要するに、現米内政権がこの約二ヶ月間で打ち出した方針の全撤回、それが彼らの求めるものであった。


「それで。どうするつもりですか。」
横須賀沖に停泊した金剛の船内には、米内の他に、山本五十六、井上成美、小磯国昭、東条英機、石原莞爾といった現政権の主要メンバーに加えて、2人の軍人の姿があった。
「殲滅します。」
「海軍も同じく。」
非情そのものの声で答えたのは、山下奉文陸軍大将・第二十五軍司令官と、第一航空艦隊司令長官に新任された小澤治三郎海軍中将であった。
2008年01月21日(月) 11:41:53 Modified by chon1024




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