【定義】
現前成就の略。それそのものが現れたとき、そこに一切がありのままに現れていること。
【内容】
道元禅師は、一切の存在が現成しているときは、それぞれ単独的存在であることを、『坐禅箴』にて明らかにしている。いわば、道元禅師の坐禅とは、この現成という機関そのものへの直観を含む。現成とは「現」そして「成」という2つのはたらきが不断に行われることである。単純な「現れ」と解釈することは出来ず、常にその現れの先験的過去をも直観しなくてはならない。
現前成就の略。それそのものが現れたとき、そこに一切がありのままに現れていること。
【内容】
道元禅師は、一切の存在が現成しているときは、それぞれ単独的存在であることを、『坐禅箴』にて明らかにしている。いわば、道元禅師の坐禅とは、この現成という機関そのものへの直観を含む。現成とは「現」そして「成」という2つのはたらきが不断に行われることである。単純な「現れ」と解釈することは出来ず、常にその現れの先験的過去をも直観しなくてはならない。
仏々の要機、祖々の機要。不思量にして現じ、不回互にして成ず。不思量にして現ず、其の現、自ずから親しし。不回互にして成ず、其の成、自ずから証なり。其の現、自ずから親しし、曾つて染汚無し。其の成、自ずから証なり、曾つて正偏無し。 『正法眼蔵』「坐禅箴」巻
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このページへのコメント
> 道元禅師は天然自性本来の面目現成ということを言っていますが、これは要するに、一見本質的なものと解釈しがちな、天然自性本来の面目というものも決して本質的なものでなく、あくまで現成しているもの、つまり因縁生起しているものであるという消息を単純に言っておられるのだと思います。
違います。現成とは、ただの「現れ」です。今貴方の目の前にある事象、そのことです。そして、その現れが絶対の事実であることから、「成=証」とされるのです。因縁生起しているという「教義」を問題にしているのではありません。今少し、『正法眼蔵』を読んでから、再度コメントしてみてください。特に「即心是仏」巻辺りは参考になると思いますよ。
> 無形 さん
> 現成とは因縁生起して現にそう成っているということでしょう。
違うと思います。
因縁生起という、一定に還元できる法則を元に発想しているようでは、75巻本系統『正法眼蔵』は読み切れないでしょう。実際に如何です?因縁生起で「説明した気になっている」感じでしょうかね。
> そもそも諸行無常諸法無我といい、一切の現成は因縁生起であり(諸行無常)故に一切は無自性であり(諸法無我)、これを空というのであって、単独的なものはそもそも存在しえないという事が仏陀の教えるところである以上、現成が単独的なものという見解は同意しかねます。
単独的という表現をせざるを得ないのは、「現成」の機構に「不回互」が入っているからです。つまり、仏陀の教えるところなど、その仏陀をどこに設定するかで全く変わってしまいますが、おそらく貴方が想定する仏陀と、曹洞宗で考える仏陀とは違うのです。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/
現成とは因縁生起して現にそう成っているということでしょう。
そもそも諸行無常諸法無我といい、一切の現成は因縁生起であり(諸行無常)故に一切は無自性であり(諸法無我)、これを空というのであって、単独的なものはそもそも存在しえないという事が仏陀の教えるところである以上、現成が単独的なものという見解は同意しかねます。
道元禅師は天然自性本来の面目現成ということを言っていますが、これは要するに、一見本質的なものと解釈しがちな、天然自性本来の面目というものも決して本質的なものでなく、あくまで現成しているもの、つまり因縁生起しているものであるという消息を単純に言っておられるのだと思います。