【定義】
禅宗において、坐禅と戒法(禅戒)とは名前や本来の機能が異なっていても一体であるという説。とくに江戸期の日本曹洞宗で強調され、その後、明治時代の『修証義』編纂時にも再度強調された。現在では「教義」の中に入る用語である。なお、同様の表現として「禅戒一致」や「禅戒不二」などがある。
【内容】
例えば、天台宗では「乗戒一如」という法華一乗に戒法が全て包含されるという思想があり、浄土宗にも「念戒一致」という念仏に戒が包摂されるという思想がある。それと対応する曹洞宗の戒思想が「禅戒一如」である。淵源としては、道元禅師や瑩山禅師に、既に思想的な萌芽が見える。
このように、道元禅師は坐禅を行じているときには、戒が持たれないことは無いとしている。
瑩山禅師もまた、坐禅が戒定慧の三学を包摂する立場であったことを示している。この発想は、道元禅師『弁道話』に類似した考えが見えるものである。なお、曹洞宗では戒法を具体的な内容ではなく、心地戒といって理念的なものとすることで、坐禅で心地を明らかにすることから、戒律を護ることとは、坐禅に他ならないという考え方も出て来た。江戸時代に入ると、黄檗禅の到来で、戒法に対するアイデンティティーの一時的喪失を経験した曹洞宗の学僧達によって高唱されていく。その内容については「以て禅の中に戒有る故に、一にして二、戒の外に禅無し、二にして一」(『禅戒訣註解』)と主張されている。
【思想的内容】
江戸時代曹洞宗が輩出した学僧・万仭道坦師は、その著『仏祖正伝禅戒鈔』の序にて、禅戒の定義を行っている。
禅宗で伝えられている正しい仏法こそが禅であり、それを戒と呼ぶことから、端的に禅戒という語が導かれている。その意味では、いわゆるインドの釈尊以来の具足戒を受けることを意味してはいない。ましてや、曹洞宗の戒法は、高祖道元禅師も強調したように、三帰三聚浄戒十重禁戒(=十六条戒)と定められており、内容も宗義に従った独自の解釈が施されていくため、単純な禁止則としての戒法だと判断することはできない。
戒定慧の三学という言葉もあるように、通仏教的に戒法も禅定も行われていくわけだが、万仭師はあくまで禅宗は独自に体系を持つことを示しつつ、全く教家と違うわけでもないという不二而二という状況を説いていく。
【近代教学における「禅戒一如」について】
あくまでも、「近代教学」と付けたのは、江戸時代までの「禅戒一如」と、近代教学におけるそれとは、意味合いが異なっているためである。始めに結論からいえば、江戸時代までの「禅戒一如」は禅(坐禅)の絶対性の中に、自ずと戒(持戒)が包摂されていくものだったが、近代教学においては「安心論」の議論の中で、戒(受戒)による安心確立を在家化導として主張した後に、それを僧侶側にも展開しようとして失敗し、結果として、受戒の安心と坐禅の安心を統合する目的を通して「禅戒一如」になったのである。
明治時代の宗務当局は、明治9年(1876)から曹洞教会を作るための根拠を、条例の形で明文化したが、明治10年代には「随意説教」の時代が続いて混乱が続いた。それは、各々の布教師が自ら信じるところに随って、種々の教えを説いたことである。つまり、安心論・本尊論・修行論などの諸領域で、不統一が続いた。そして、混乱状況が続いた曹洞宗に、大内青巒居士が「曹洞扶宗会?」と『洞上在家修証義』を作って乗り込んできた時に、「四大綱領」もまた成立した。
そして、宗務当局へ登録される形で展開していた「曹洞教会」を呑み込む勢いで巨大化した「曹洞扶宗会」は、明治22年の「第三次末派総代議員会議」で「洞上在家化導標準」が可決され、改めて曹洞宗務局に統合されて『洞上在家修証義』は両大本山貫首によって校正・改題されて、明治23年(1890)に『曹洞教会修証義(以下、『修証義』)』として公布された。なお、議決された「洞上在家化導標準」とは、次のような内容である。
洞上在家化導標準
一 曹洞扶宗会編纂に係る洞上在家修証義を採収して、曹洞教会会衆安心の標準とすること。
一 洞上在家修証義は、緻密の修正を加ひて、両本山現董貫首の撰述と為し、宗規の正式に拠つて頒布すること。
よって、「在家化導」として『修証義』が編集されたため、この段階では当然に「在家化導」のためのテキストであると、誰もが疑っていなかったと思われる。『修証義』成立後、最初に刊行された解説書である青巒居士の『修証義聞解』では、次のように指摘している。
このように、『修証義』成立と、「扶宗会」の宗務局統合までの青写真を描いたであろう青巒居士は、『修証義』及び「四大綱領」をどこまでも、「曹洞宗在家安心の標準」であると定義した。そして、安心確立のための行は受戒だけで良いと考えていた。ところで、「洞上在家化導標準」文中に見える「曹洞教会会衆安心の標準」の語について、『修証義』の主校正者である滝谷琢宗禅師は「在家化導標準」であった文脈に添わずに、「曹洞教会会衆」は「四衆」であり、『修証義』は「四衆の安心」だと主張された。
この一文を見る限り、滝谷禅師は意図的に「洞上在家化導標準」であった『修証義』を、「四衆安心の書」に切り替えられた趣旨が理解出来よう。更に、次の一節も見ておこう。
滝谷禅師は重ねて、以上のように主張され、『修証義』は「一の巻の正法眼蔵」であると断言し、その権威化を図られた。これは、例えば、青巒居士が次のように述べていることと対比すると、その位置付けの違いが顕著となる。
つまり、『修証義』とは、『正法眼蔵』からの「断章取義」文献であって、両者の意味内容には相互関係が無いとしており、これは滝谷禅師も部分的には認めておられたが、敢えて、先の如く『正法眼蔵』そのものであると断言したのである。そこで、当初「在家化導」のためのテキストとして作られたはずの『修証義』を、「四衆安心」のためのテキストに切り替えたことによって、「禅戒一如」が必要になったのである。奥村洞麟著『宗門秘史曹洞宗政末派運動史』(公正社・1929年)の附録を見ると、滝谷禅師の手になるとされる「曹洞宗革命策」が掲載され、その当時に滝谷禅師が考えていた改革案とは、両大本山を廃止して別個に新本山を作り、その新本山に議会機能や宗務局機能も入れ込んでしまうことで、曹洞宗を1つに纏めるという完全な中央集権の発想であった。このことから類推すると、『修証義』が「在家化導」に限定されると、宗門内に「安心」が少なくとも二種以上となって不統一であるため、一本化を目指して先の『修証義筌蹄』に見える一文になったとも考えられる。この後の宗務当局は、『宗制』を見る限り、『修証義』を在家教化のためのテキストとして位置付け、受戒を重んじるが、『修証義』における安心論への疑義は、特に滝谷禅師遷化後の明治30年代に入り、宗門内部から次々と噴出した。同時代的にこの様子を見ていた青巒居士は、最晩年の著作(実質的に絶筆)でこのように書いている。
1918年(大正7)に死去した青巒居士の晩年は、宗乗と『修証義』との対立を感じて、同書の研究を改めて行う必要を感じていたのであった。そして、『修証義』における「安心論」の混乱を鋭く指摘した記事として、「修証義に就いて」が知られている。本論は1905年(明治38)当時の雑誌『和融誌』(九―七)に掲載され、投稿したのはペンネーム・虚白氏という人である。同論は、『曹洞宗選書』「第五巻・教義編」の解説に全文が掲載(327〜332頁)されているが、以下に要約する。
・論じたいのは『修証義』そのものの是非ではなくて、安心論。
・本宗は純然たる坐禅をもって修証の根底としており、在家・出家斉しく得脱の中心としていたことは、明白なる事実。
・坐禅と『修証義』との関係は如何?本宗安心の中心点は、禅定か?受戒か?
・『修証義』は元々在家化導であったはずが、滝谷禅師によって「四衆」の安心の書となった。
・『修証義』が安心の書であれば、本宗では坐禅は不要のはずだが、各僧堂では、未だに禅客を養成している。
・坐禅と受戒とが併存し、各々の機に随って好む方を用いれば良いというのでは、「一宗の安心に二途の標準と方法を立つるもの」であり、「中心点を求められない」こととなり、「不統一の宗教」となってしまう。
・本宗安心の中心は?と問うと、諸師は、「修証義は坐禅に入るの階梯に過ぎず」というもの、「坐禅は畢竟受戒入位に於て尽せり」というもの、「両者以外に中心点の存するとなし、言詮不及意露不到、説明の限りに非ず」というもの等がいた。
・他にも、教導講習院では、称名統一(後の本尊唱名論)が議決されたが、それと先の坐禅や『修証義』との関係はどうなるのか?
なお、同論に対しては反論も行われ、例えば、釈尊中心主義の法王教を設立したことで知られる高田道見師(愛媛瑞應寺などに住す、1858〜1923)は、同年の『和融誌』(九―九)に「修証義の疑難を読む」という論考を投稿した。そこでは、一貫して、受戒はあくまでも入法の階漸であり、坐禅こそ最上の立場であると主張した。先の「修証義に就いて」で指摘する「修証義は坐禅に入るの階梯に過ぎず」に近いと思われる。そして、宗門当局の態度としては、明治39・44年に改定された『宗制』に編入された「曹洞宗布教規程」において、次のような一節を見ることが出来る。
つまり、「布教」の標準に『修証義』を置き、化導(在家化導)の画一化を図る態度を採ったのである。そして、宗務当局として、本格的に「禅戒一如」を導入した見解として、次の文脈を見ておきたい。
本書にはまだ、「禅戒一如」という用語は見えないものの、ほぼその導入が出来ている様子が分かる。そして、明らかに制度上「禅戒一如」が見られるようになったのは、政府が「宗教団体法」を昭和15年に施行したの受けて、改めて政府に宗教団体の認可を受けるために提出された昭和16年の『宗制』である。
本条文は、いわゆる教義として「四大綱領」が明文化されたことで有名だが、「禅戒一如」もこの時に入った。そして、第二次大戦が終わった後の『宗制』でも、これらの語句は残って現状に至る。
禅宗において、坐禅と戒法(禅戒)とは名前や本来の機能が異なっていても一体であるという説。とくに江戸期の日本曹洞宗で強調され、その後、明治時代の『修証義』編纂時にも再度強調された。現在では「教義」の中に入る用語である。なお、同様の表現として「禅戒一致」や「禅戒不二」などがある。
【内容】
例えば、天台宗では「乗戒一如」という法華一乗に戒法が全て包含されるという思想があり、浄土宗にも「念戒一致」という念仏に戒が包摂されるという思想がある。それと対応する曹洞宗の戒思想が「禅戒一如」である。淵源としては、道元禅師や瑩山禅師に、既に思想的な萌芽が見える。
坐禅の時何の戒か持たれざる、何の功徳か来らざる。 『正法眼蔵随聞記』巻2
このように、道元禅師は坐禅を行じているときには、戒が持たれないことは無いとしている。
又坐禅は、戒定慧に干かるに非ず、而して此の三学を兼ねる。謂わく戒は、是れ防非止悪、坐禅は挙体無二と観ず、万事を抛下して、諸縁を休息して、仏法世法を管せず、道情世情双べ忘じて、是非無く善悪無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。定は是、観想無余なり。坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。慧は是、簡択覚了なり。坐禅は所知自ら滅し、心識永く忘ず、通身慧眼にして、簡覚有ること無く、明らかに仏性を見て、本迷惑せず、意根を坐断し、廓然として瑩徹す、是、慧にして慧相無し、慧相無きが故に大慧と名づくなし。諸仏の教門、一代の所説、戒定慧の中に総べ収めざるは無し。今坐禅は戒として持せざるは無く、定として修せざるは無く、慧として通ぜざるは無く、降魔成道、転輪涅槃、皆、此の力に依る、神通妙用、放光説法、尽く打坐に在るなり。 『坐禅用心記』
瑩山禅師もまた、坐禅が戒定慧の三学を包摂する立場であったことを示している。この発想は、道元禅師『弁道話』に類似した考えが見えるものである。なお、曹洞宗では戒法を具体的な内容ではなく、心地戒といって理念的なものとすることで、坐禅で心地を明らかにすることから、戒律を護ることとは、坐禅に他ならないという考え方も出て来た。江戸時代に入ると、黄檗禅の到来で、戒法に対するアイデンティティーの一時的喪失を経験した曹洞宗の学僧達によって高唱されていく。その内容については「以て禅の中に戒有る故に、一にして二、戒の外に禅無し、二にして一」(『禅戒訣註解』)と主張されている。
【思想的内容】
江戸時代曹洞宗が輩出した学僧・万仭道坦師は、その著『仏祖正伝禅戒鈔』の序にて、禅戒の定義を行っている。
如来の正法、迦葉に相伝して自り以降、二十八代次第に相承し、少林大師に至る。その所伝の法をもって、仮に名づけて、正法眼蔵涅槃妙心といい、一大事因縁といい、威音那畔の最大事という。即ち是れ、禅を名とし、戒を号とす。禅戒の称由を設くる所以なり。 『曹洞宗全書』「禅戒」巻455頁、原漢文
禅宗で伝えられている正しい仏法こそが禅であり、それを戒と呼ぶことから、端的に禅戒という語が導かれている。その意味では、いわゆるインドの釈尊以来の具足戒を受けることを意味してはいない。ましてや、曹洞宗の戒法は、高祖道元禅師も強調したように、三帰三聚浄戒十重禁戒(=十六条戒)と定められており、内容も宗義に従った独自の解釈が施されていくため、単純な禁止則としての戒法だと判断することはできない。
教家の所謂、戒・定と、名は同じくし趣を異とす、源は一なるも流れを別とす。その別はまた、毫釐も差有れば、天地はるかに隔たる。その一はまた、経の一字を離れれば、かえって魔説に同じ。 『曹洞宗全書』「禅戒」巻455頁、原漢文
戒定慧の三学という言葉もあるように、通仏教的に戒法も禅定も行われていくわけだが、万仭師はあくまで禅宗は独自に体系を持つことを示しつつ、全く教家と違うわけでもないという不二而二という状況を説いていく。
【近代教学における「禅戒一如」について】
あくまでも、「近代教学」と付けたのは、江戸時代までの「禅戒一如」と、近代教学におけるそれとは、意味合いが異なっているためである。始めに結論からいえば、江戸時代までの「禅戒一如」は禅(坐禅)の絶対性の中に、自ずと戒(持戒)が包摂されていくものだったが、近代教学においては「安心論」の議論の中で、戒(受戒)による安心確立を在家化導として主張した後に、それを僧侶側にも展開しようとして失敗し、結果として、受戒の安心と坐禅の安心を統合する目的を通して「禅戒一如」になったのである。
明治時代の宗務当局は、明治9年(1876)から曹洞教会を作るための根拠を、条例の形で明文化したが、明治10年代には「随意説教」の時代が続いて混乱が続いた。それは、各々の布教師が自ら信じるところに随って、種々の教えを説いたことである。つまり、安心論・本尊論・修行論などの諸領域で、不統一が続いた。そして、混乱状況が続いた曹洞宗に、大内青巒居士が「曹洞扶宗会?」と『洞上在家修証義』を作って乗り込んできた時に、「四大綱領」もまた成立した。
そして、宗務当局へ登録される形で展開していた「曹洞教会」を呑み込む勢いで巨大化した「曹洞扶宗会」は、明治22年の「第三次末派総代議員会議」で「洞上在家化導標準」が可決され、改めて曹洞宗務局に統合されて『洞上在家修証義』は両大本山貫首によって校正・改題されて、明治23年(1890)に『曹洞教会修証義(以下、『修証義』)』として公布された。なお、議決された「洞上在家化導標準」とは、次のような内容である。
洞上在家化導標準
一 曹洞扶宗会編纂に係る洞上在家修証義を採収して、曹洞教会会衆安心の標準とすること。
一 洞上在家修証義は、緻密の修正を加ひて、両本山現董貫首の撰述と為し、宗規の正式に拠つて頒布すること。
よって、「在家化導」として『修証義』が編集されたため、この段階では当然に「在家化導」のためのテキストであると、誰もが疑っていなかったと思われる。『修証義』成立後、最初に刊行された解説書である青巒居士の『修証義聞解』では、次のように指摘している。
此五章の中で、何れが劣り、何れが優ると云ふことは有りませんけれども、尤も肝要とするのが第二章懺悔滅罪から、第五章の行持報恩までが修証義の四大原則で、謂ゆる曹洞宗在家安心の標準は、此四章に在る。前の第一章総序と云ふのは、仏教総体の上の話で、何宗の安心起行でも、普通に心得ねば成らぬ事柄で有りますから、先づ是れは曹洞宗の専門と云ふ訳では無い。曹洞宗の専門は全く懺悔・受戒・発願・行持の四大原則に在ると心得ねば成りません。偖、又、此四大原則の中で更に本末を分けて見れば、第三章の受戒入位が本になりて、外の三章は受戒入位の前方便と後の実行とに成りますから、約めて申せば、曹洞宗の在家安心は唯受戒の一つじやと申さねば成りません。何ぜかと申しまするるに、凡そ仏教の目的と申すものは他にはありません。我われお互ひが仏に成ろうと云ふまでの事です。 『修証義聞解』7〜8頁
このように、『修証義』成立と、「扶宗会」の宗務局統合までの青写真を描いたであろう青巒居士は、『修証義』及び「四大綱領」をどこまでも、「曹洞宗在家安心の標準」であると定義した。そして、安心確立のための行は受戒だけで良いと考えていた。ところで、「洞上在家化導標準」文中に見える「曹洞教会会衆安心の標準」の語について、『修証義』の主校正者である滝谷琢宗禅師は「在家化導標準」であった文脈に添わずに、「曹洞教会会衆」は「四衆」であり、『修証義』は「四衆の安心」だと主張された。
此修証義を以て偏に在家を化導する標準に定めたるものゝ如く思ふ輩もあるべければ、右等の惑ひ無らしむるため、洞上在家と言ずして明に曹洞教会の四字を冠ぶらせたり。抑も曹洞教会の組織は、未だ完全には至らざれども、兎に角に出家在家の隔てなく、闔宗一万三千余の寺院と、之に帰依し付属する檀越信徒とを以て一大団結を企図するものなれば、寺院は悉く教会所にして住職は多分会頭なり。而して比丘比丘尼優婆塞優婆夷を普く会衆と為し其帰結する処の正依安心は、能化所化等く此修証義を標準とすべしと云ふことを標題に於て顕はしたるなり。 「緒言三項・第一項」、『修証義筌蹄』2頁
この一文を見る限り、滝谷禅師は意図的に「洞上在家化導標準」であった『修証義』を、「四衆安心の書」に切り替えられた趣旨が理解出来よう。更に、次の一節も見ておこう。
総じて修証義全篇は、高祖大師の御言ばにして正法眼蔵の露現なり。たとひ甲の巻より一段を摘摂編纂せしものなりとも、全篇は一の巻の正法眼蔵にして、高祖大師吾人に遺教し玉へたる修証安心の法門なりと確信すべし。 「緒言三項・第三項」、『修証義筌蹄』8頁
滝谷禅師は重ねて、以上のように主張され、『修証義』は「一の巻の正法眼蔵」であると断言し、その権威化を図られた。これは、例えば、青巒居士が次のように述べていることと対比すると、その位置付けの違いが顕著となる。
第一章、生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、これから先きは悉く承陽大師の御詞を、正法眼蔵の中から萃き集めて一篇の文章に綴つたので有りますが、謂ゆる断章取義と申す様なわけで、本篇を綴るに必要な御詞ばかり萃たので有りますから、眼蔵の上で前後連続して居るときの意味とは余程その様子の違う所も多い。然るに之を眼蔵の御詞で有るからと云て、一々眼蔵の本文に立戻りて御話をすることに成れば、修証義が末に成て、眼蔵の方が本に成る様なことが出来る。それでは修証義の本意で無い。 『修証義聞解』16頁
つまり、『修証義』とは、『正法眼蔵』からの「断章取義」文献であって、両者の意味内容には相互関係が無いとしており、これは滝谷禅師も部分的には認めておられたが、敢えて、先の如く『正法眼蔵』そのものであると断言したのである。そこで、当初「在家化導」のためのテキストとして作られたはずの『修証義』を、「四衆安心」のためのテキストに切り替えたことによって、「禅戒一如」が必要になったのである。奥村洞麟著『宗門秘史曹洞宗政末派運動史』(公正社・1929年)の附録を見ると、滝谷禅師の手になるとされる「曹洞宗革命策」が掲載され、その当時に滝谷禅師が考えていた改革案とは、両大本山を廃止して別個に新本山を作り、その新本山に議会機能や宗務局機能も入れ込んでしまうことで、曹洞宗を1つに纏めるという完全な中央集権の発想であった。このことから類推すると、『修証義』が「在家化導」に限定されると、宗門内に「安心」が少なくとも二種以上となって不統一であるため、一本化を目指して先の『修証義筌蹄』に見える一文になったとも考えられる。この後の宗務当局は、『宗制』を見る限り、『修証義』を在家教化のためのテキストとして位置付け、受戒を重んじるが、『修証義』における安心論への疑義は、特に滝谷禅師遷化後の明治30年代に入り、宗門内部から次々と噴出した。同時代的にこの様子を見ていた青巒居士は、最晩年の著作(実質的に絶筆)でこのように書いている。
今此の曹洞宗に於て一篇の修証義を以て布教の標準とすると云ふに就ても、其の修証義の取り扱ひぶりに就ては、啻(ただ)に諸宗各宗に超越することが出来ないばかりで無く、或は自宗の上に於て身心脱落脱落身心を主義として只管打坐を勉めるといふ仏祖屋裏の宗乗と、修証義との趣意とが衝突するやうなことに成るかも知れぬ。此に於て修証義の取扱ひ方を研究することが、誠に最大急務である。 『修証義講話』16頁
1918年(大正7)に死去した青巒居士の晩年は、宗乗と『修証義』との対立を感じて、同書の研究を改めて行う必要を感じていたのであった。そして、『修証義』における「安心論」の混乱を鋭く指摘した記事として、「修証義に就いて」が知られている。本論は1905年(明治38)当時の雑誌『和融誌』(九―七)に掲載され、投稿したのはペンネーム・虚白氏という人である。同論は、『曹洞宗選書』「第五巻・教義編」の解説に全文が掲載(327〜332頁)されているが、以下に要約する。
・論じたいのは『修証義』そのものの是非ではなくて、安心論。
・本宗は純然たる坐禅をもって修証の根底としており、在家・出家斉しく得脱の中心としていたことは、明白なる事実。
・坐禅と『修証義』との関係は如何?本宗安心の中心点は、禅定か?受戒か?
・『修証義』は元々在家化導であったはずが、滝谷禅師によって「四衆」の安心の書となった。
・『修証義』が安心の書であれば、本宗では坐禅は不要のはずだが、各僧堂では、未だに禅客を養成している。
・坐禅と受戒とが併存し、各々の機に随って好む方を用いれば良いというのでは、「一宗の安心に二途の標準と方法を立つるもの」であり、「中心点を求められない」こととなり、「不統一の宗教」となってしまう。
・本宗安心の中心は?と問うと、諸師は、「修証義は坐禅に入るの階梯に過ぎず」というもの、「坐禅は畢竟受戒入位に於て尽せり」というもの、「両者以外に中心点の存するとなし、言詮不及意露不到、説明の限りに非ず」というもの等がいた。
・他にも、教導講習院では、称名統一(後の本尊唱名論)が議決されたが、それと先の坐禅や『修証義』との関係はどうなるのか?
なお、同論に対しては反論も行われ、例えば、釈尊中心主義の法王教を設立したことで知られる高田道見師(愛媛瑞應寺などに住す、1858〜1923)は、同年の『和融誌』(九―九)に「修証義の疑難を読む」という論考を投稿した。そこでは、一貫して、受戒はあくまでも入法の階漸であり、坐禅こそ最上の立場であると主張した。先の「修証義に就いて」で指摘する「修証義は坐禅に入るの階梯に過ぎず」に近いと思われる。そして、宗門当局の態度としては、明治39・44年に改定された『宗制』に編入された「曹洞宗布教規程」において、次のような一節を見ることが出来る。
布教の標準は、曹洞教会修証義に依遵し、化導の画一を紊すべからず。
つまり、「布教」の標準に『修証義』を置き、化導(在家化導)の画一化を図る態度を採ったのである。そして、宗務当局として、本格的に「禅戒一如」を導入した見解として、次の文脈を見ておきたい。
修証義の中心は無論受戒入位であるが、世人修証義に禅の説かれてない事を云々する者がある。成程禅と云ふ文字はない。然れども本宗所伝の戒は禅戒である。禅即戒、戒即禅であるから、説く所の戒は悉く禅の所談である。〈中略〉されば戒は禅門の一大公案である。依つて戒の一條一條を開示し悟入するのが、禅戒の精神である。 曹洞宗務院教学部『曹洞宗宗意綱要』(昭和9年)31〜32頁
本書にはまだ、「禅戒一如」という用語は見えないものの、ほぼその導入が出来ている様子が分かる。そして、明らかに制度上「禅戒一如」が見られるようになったのは、政府が「宗教団体法」を昭和15年に施行したの受けて、改めて政府に宗教団体の認可を受けるために提出された昭和16年の『宗制』である。
第五条 本宗の教義は、釈迦牟尼仏並に高祖及太祖の正法に随順し、懺悔滅罪、受戒入位、発願利生、行持報恩の四大綱領に則り、禅戒一如修証不二の大道を実践し、四恩に奉答するに在り。
本条文は、いわゆる教義として「四大綱領」が明文化されたことで有名だが、「禅戒一如」もこの時に入った。そして、第二次大戦が終わった後の『宗制』でも、これらの語句は残って現状に至る。
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