曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

菩薩が持つ広大なる悲心のこと。この場合の悲心とは、衆生の苦しみを抜くことをいう。
但し仏菩薩の大悲は利生を以て本とす。 『正法眼蔵随聞記

また、天童如浄禅師阿羅漢辟支仏の坐禅には大悲が欠けていると評しつつ、仏祖の坐禅は大悲を先とし一切衆生を度するための坐禅であると明示する。
和尚或る時示して曰く、羅漢と支仏の坐禅は、著味せずと雖も、大悲を闕く。故に仏祖の大悲を先と為して、誓って一切衆生を度する坐禅に同じからず。西天の外道も、亦坐禅す。然りと雖も、外道には必ず三患有り。謂ゆる、著味、謂ゆる、邪見、謂ゆる、驕慢なり。所以に、永く仏祖の坐禅に異なる。又、声聞の中にも亦、坐禅有り。然りと雖も、声聞、慈悲は乃ち薄し。諸の法中に於いて、利智を以てしても諸法実相に貫通せず、独り自身のみ善くて、諸の仏種を断ず。所以に、永く仏祖の坐禅と異なるなり。謂ゆる、仏祖の坐禅は、初発心より、一切諸仏の法を集めん事を願う。故に坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生を捨てず、乃至、昆虫にまでも、常に慈念を給して、誓って済度せんことを願い、或ゆる功徳を一切に回らし向けるなり。この故に、仏祖は、常に欲界に在って坐禅弁道す。欲界の中に於いても、唯だ瞻部洲のみを最たる因縁と為し、世世に諸の功徳を修して、心の柔轜なることを得ればなり。 『宝慶記』第31問答

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます