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【定義】

「了」とは、明らかなという意味を持つため、明らかな義理を持つ経典という意味である。ブッダの真意が説き尽くされた教えや経典を指し、一方で方便に留まるとされる場合には「未了義」「不了義」などという。しかしながら、各宗派の教義体系の中で、真意と方便とを分けていくため、何をもって了義とするかは、各宗派内に於いてのみ適用される。また、初めから「了義」という名称でもって編まれた経典(例・『円覚経』)もあるが、比較的後代の成立で、偽経の可能性も高いものが多い。

【内容】

所依の経典がないとされる禅宗に於いても、了義・未了義の問題が発生したことがあり、例えば天童如浄禅師は、『宝慶記』の第5問答と第17問答に於いて、了義経を見るべきであるとしたが、その見解を受けて弟子の道元禅師が、了義経の定義を聞いたことに対して、以下のように答えている。
堂上和尚、示して曰く。了義経とは、世尊の本事・本生等を説きたまえる経なり。其の往昔の縁、或いは名字を説くも、未だ其の姓を説かず、住処を説くと雖も、未だ寿命を説かざるは、則ち未了義なり。劫・国・名・姓・寿命・眷属・作業・奴僕等を説き了りて、説かざることなきを、了義と名づくるなり。 『宝慶記』第17問答

さらに、以上のご見解を受けてのことと拝察されるが、瑩山禅師も次のように示される。
此修多羅と謂ふは、正真大乗経なり。同く仏説なりと雖も、大乗経に非ざれば誦することなし。了義経に非ざれば依ることなし。此大乗経といふは、纎塵を払ふと説かず、妄想を除くと言はず。了義経といふは、必ず理を尽し妙を尽すのみに非ず、即ち其事を尽し来る。謂わゆる事を尽すといふは、諸仏の発心より、菩提涅槃に至り、三乗五乗を説き来て、劫国名号、皆以て尽さずといふことなし。此を了義とするなり。然れば仏経は是の如しと知るべし。 『伝光録』第10章

ここからすれば、だいたい了義経の意義については、『宝慶記』に匹敵し、何をもってその具体的内容とするかは示されていないが、結果的に【定義】で示した内容について繰り返し示されていると理解できよう。

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