「う………あぐ……痛タタタタタ……」
ぼんやりと霞みがかかって……でも、頭ん中でちっちゃいセミが暴れてるみたいな……
間違いない。―――間違いなく、二日酔いだった。久しぶりだけど、ちっとも懐かしくない感覚。
(昨日は……15年ぶりの同窓会があって……それで……二次会か三次会で、
岩隈君と金田君と有銘君と福盛君に告白されて……全員その場でフって、
それで盛り上がって、戸田さんや女同士でワイワイ言いながらしこたま赤ワイン飲んで……)
旧型の、起動の遅いパソコンがやっとスタンバイするみたいに、徐々に徐々に記憶が蘇ってきた。
そうやって、のろのろと思い出している間………頬に、瞼に、額に、手のひらをのせてチェック。
うん、大丈夫。覚えてないけど、クレンジングはしてたみたい。そう思いながら、苦笑した。
……まったく、記憶を無くしてこんだけ酷い二日酔いだってのに。
一番最初にすることが化粧を落としたかどうかの確認なんだから、女ってなんだか罪深い。
(……それから的山さんがお姉様と濱中先生を呼び出して、ミサキちゃんとも四次会で合流して…)
ずきん、と胸が痛んだ。無理矢理、自分が忘れようとしていたことを――そのとき思い出していた。
(小久保……君……)
頭を左右に振った。まだ、ズキズキと痛むけど、そんなものなんでもなかった。
忘れたはずだった。もう笑い話にできるはずだった。なにしろ15年も前のことだ。
今さら、初恋の人に会ったって―――その人が親友と結婚して、幸せそうな顔をしていたって―――
全部、平気なはずだった。ふたりの結婚式に出られなかったのは……未練なんかじゃなく、
本当に……本当に、大口の契約があってカナダに出張中だったからだし、
それに私だってあれからはモテまくったし、恋の五つや六つや七つくらい……
「ああ、コンチクショー!!!!!」
情けない。ドツボにはまりそうになった私は、声を張り上げた。
「あ!痛ッ!たたたた!」
でもそれは、二日酔いの頭ん中でドラがぐわんぐわんと響いて頭痛を酷くするだけだった。
(馬鹿だ……わたし、馬鹿だ……)
忘れるはずがなかった。忘れられるはずが……なかった。
だって……あんなに、小久保君が、想像以上に……イイ男になっているなんて。
……違う。想像できてたんだ。昔っから、小久保君は……顔が良いだけじゃなくて……
性格も優しくて……絶対、この人は……イイ男になるって、誰もが思ってた。
それなのに……想像、できてたのに……会って、あんなに心が乱れるなんて、私は、私は……。
(………バカだ………)
もう一回、呟いた。そうだ。私は、バカだ。
「くぅぅぅぅ……しかし……それより……」
むくり、とからだを起こし、部屋の様子をうかがった。
……散らかっている。いや、人が住む部屋と思えないくらいの惨状、と形容した方が良いだろう。
なにせ年末の殺人的なスケジュールをこなしながら同窓会に間に合わせるべく、
限界まで仕事を詰め込んでいたのだ。部屋は見るも無惨な荒れ放題になっていた。
学生時代はこれでもキレイ好きで通っていたのだから泣きたくなってくる。
「………水……」
カラッカラに喉が渇いていたことに、今さら気付いた。のろのろと、ベッドの中から立ち上がると―――
「……………へ?」
全裸だった。慌てて周りを見渡すと……ああ、情けない。同窓会に行くっていうのでちょっとだけ……
ええ、認めますとも。"ちょっとだけ"気合いを入れて身につけた、
ワインレッドのおそろいのショーツとブラが枕の向こうに散乱していた。
………とにかく、それらの物体は見ないことにして……記憶から消して………
痛む頭を抱えて、全裸のままリビングの方へ……一歩を………
「ん?」
……おかしい。久しぶりのこの感覚……下腹部が、ちょっと熱い。
生理のときの熱さにちょっと似てるけど、それと違うのは……あそこが、開いてる感じ……
「…………まさか………」
最悪の想像をして、吐き気がしてきた。30歳にもなって、純潔ぶるほどアホじゃない。
けど。だけど。基本的に私は、古くさいかもしれないが、
キチンとお付き合いした人としか今までにしたことがない。手順を踏まずにセックスするなんて論外だ。
見ず知らずの男と肌を重ねるなんて危険を冒すことは絶対イヤだし、できない。
でも……でも、この下腹部に残る熱さと、股間になにか挟まったみたいなこの感じ……
§


(まさか……まさか……同窓会のあの、躁病気味の浮かれた雰囲気に飲まれて……)
ぞっとするような想像が次から次へわいて出てくるのを慌てて振り払うと、
とにかく水を求めてリビングに向かった。足が、鉛のように重い。
いや、足だけじゃない。腰も、胸も、肩も、頭も……鎖で鉄球をつけられたみたいに、重かった。
「水……」
砂漠で水を求めて彷徨う亡者のように……のろのろと、リビングに向かった。
毛布やら段ボールやら書類やらが散乱していたけど、今さら気にならなかった。
"こくッ……こくっ"
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一息に飲み干す。
………美味しい。こういう時に飲む水って、なんでこんなに美味しいんだろう。
やっと一息ついて、ふぅ、と小さくため息をついた、―――――そのとき。

「ん……んんぅ」

物陰から……低い、男のものらしい呻き声が聞こえてきて飛び跳ねた。
(え?え?まさか……昨日、ヤっちゃった相手?誰……誰よ?)
動転して、思わず隠れようとした………んだけど。
「いい………いて………痛てて!うわ、最悪……頭いてえッ!!!」
「こくぼ……くん?」
立ち上がって姿を見せたのは――全裸の、小久保君だった。
痩せているけど適度に筋肉のついた、白い……女の子みたいに滑らかな、産毛も見えないくらいの胸。
すらり、としているけど細くはない、長い腕。それに……あの頃より、ずっと広く、逞しくなった肩………。
声をかけることも忘れ、一瞬、小久保君の裸体に見惚れた。
「!!!!うわ!!若田部、お前はだか!裸!ハダカ!」
私の姿を見ると、慌てて目を背けて叫ぶ小久保君。………正直、ちょっと傷ついた。
私のハダカって、その程度の………って、え?
「きゃ、キャアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
二日酔いで痛む頭のことも、隣近所への迷惑も全部どこかにすっとばしてヴォリューム全開で叫んだ。
まあどうせこのマンション、完全防音が売りで高かったんだから……ってそういう問題じゃないか。
そうして全裸の小久保君と全裸の私は、とりあえずお互いの姿を見ないように―――
キッチンとリビングにそれぞれ身を潜めるようにして会話を続けた。
ふたりとも酷い二日酔いで記憶もところどころ飛んでいたけど、
ジグソーパズルのピースを合わせていくみたいに昨日の記憶が蘇ってきた。
四次会で小久保夫妻と合流した頃には、もうみんなヘベレケで……
結局そこのお店から一番近かったお姉様のお家(まあつまりは、豊田夫妻の新居)
に全員集まって、そこから帰っていったらしい。
もうグロッキーだったミサキちゃん、濱中先生、的山さんはとりあえず豊田邸に泊まって、
「どうしても帰る、明日の午後から仕事がある」って言い張った私を、
一番大丈夫そうだった小久保君が送っていってくれたっていうのがコトの顛末らしい。
「う……そこまではイイわ……でも、なんで私と小久保君が、ふたりとも………は、ハダカなのよッ!!」
「……だから、俺に聞くなって……あテテテテ、俺も全部は覚えてないんだけど……」
「………けど?」
「……部屋まで送って、帰ろうかと思ったんだけど、お前が……その………」
「…………私が、どうしたって言うのよ」
「…………いや、送ってくれた礼にコーヒーを飲んでけ、って。俺は、いいって言ったんだけど……」
「……けど?そればっか、さっきからしつこいよ……男らしく、はっきり言いなさいよ!」
「…………なあ、マジで覚えてないの、若田部?」
「…………覚えてないから聞いてんの。いいから言いなさいよ」
『飲んでいけ!飲まないと、私を送りオオカミしたあげく、生で中出ししたってミサキちゃんに言うぞ!』
「※='$%Rはああああああ?????????」
「………だから、覚えてないのか?お前、俺がいくら止めても玄関で絶叫するもんだから、
ご近所さんのこともあって慌ててお前んちに………」
―――最悪だ。これ以上最悪な再会があったら、教えてもらいたい。思わず、髪を掻きむしった。
小久保君がこんな嘘をわざわざつくタイプだとは到底思えない。
間違いなく、私の言ったことなのだろう。なぜか喉の奥がひりひりと痛くなってきた。
§


「で、でも……それとハダカになんの関係が……」
「俺が覚えてるのは、お前がなぜかコーヒーじゃなくてウィスキーやらワインを持ってきて、
『飲め!飲まないと、言うぞ!』って一緒になってガンガン飲みまくったとこまでだけど……」
………訂正。さらに最悪な再会があった。今ここに。
「なあ……若田部?なんでもいいけどさ、時間大丈夫なのか?
確か昨日は今日の午後から仕事があるから帰るって……」
……仕事?ああ、そうだった。午後からインボイス貿易と確か輸入木材の件で打合せが……
時計を見ると既に10時半を回ろうとしていた。ウチはフレックスだし、
会社に行こうと思えばまだ間に合う。身支度を整えて打合せの準備を少しする余裕もあるくらいだ。
ただ、とてもじゃないけどその気力が無い。…………決めた。今日は、休む。
どうせ有休は腐るほど……いや、本当に毎年余ってほとんど切捨ててるんだから。
今日の打合せくらい、課長と後輩にやってもらおう。それくらいの権利、私にあるはずだ。
あっさり勤労意欲をポイ捨てした後、所在なさげにしている小久保君に声をかけた。
「小久保君……悪いんだけど、多分携帯向こうの部屋なのよ。服も着たいし、
こっち見ないように壁の方を向いててくれる?その間にベッドルームに行くから」
「あ、ああ……ゴメン……」
素直に私の言葉に従って、べったりと壁に体を貼り付けるようにする小久保君。
………悔しいけど、やっぱり可愛い。それに……久しぶりに見る、男の広い、背中。
――――おお、いけない。またもトリップしそうになっていた。
慌ててベッドルームに向かうと、とりあえず下着とバスローブを着込んだ。
………一応、それなにり気合いの入ったやつだ。……もしものコトがあったらとかじゃなく、
あんまりその……これ以上、初恋の人に情けない姿を見せるのは……
(ん?ちょい待ち……さっき私……)
思い出した。さっき小久保君が見たのは、完全ノーメイクで全裸の私だった!!!!!
へなへな、とその場にへたりこむ。残酷だ。神様はこれ以上ないくらい、残酷だ。
今でも忙しい合間をぬって週一でジムに通ってるし、スキンケアにも気を付けてるつもりだけど、
さすがにシャワーの水も弾く、十代の肌ってわけにはいかない。
おっぱいだって最近、ちょっと重力に負けつつ………って、ああ!なんてことだッ!!!
完全に逆ギレ状態になった私は、枕元にあった携帯の短縮を回して会社に繋いだ。
「……はい、フルキャスト商事、商務部の一場ですが……」
「あ、ちょうど良かった。一場君?私。若田部だけど……ゴメン、今日体調最悪でさ。
悪いんだけど、午後のインボイスさんとの打合せに行けそうにないんだ。
君と野村課長でお願いできない?資料は私の机の右のキャビネに全部揃ってるし……」
「え?こ、困りますよ先輩!だって俺課長と組んだことないし、なに話していいのかわかんないし……」
「………いいから。こういう時くらい、上司を頼んなさい。使いなさい。
何のために普段あの人のうんざりするくらいしつこい、小言やボヤキを聞いてると思ってんの?」
「……で、でも……」
「あ〜〜〜もういいから!今日若田部は頭痛と生理痛と腰痛と虫歯と吐き気と胃痛で休むって!
そう言っておきなさい!わかった?いいわね!」
いつまで学生気分なんだか、男のくせに情けない声を出す後輩を一喝した後、
有無を言わさずに携帯を切った。罪悪感はあったけど………ちょっと、スッキリした。
「さすがだな、若田部……」
感心したように、向こうの部屋で小久保君が呟いている。……!聞かれてたのか……
「なによ………どうせ色気がないとか、おっかない女だとか思ってんでしょ?」
「ん?いや、そんなことないさ。人の上に立つっつーか……人を使うっつーか……
そのうえで上司や相手と上手くやりながら仕事をこなすのって、大変じゃん?お前は良くやってるよな」
つん、と鼻の奥で音がした。……ああ、あの頃と……この人は、全然変わらない。
優しすぎるくらいに優しくて……私が一番欲しい言葉を……下心無しで、かけてくれる。
「小久保君も……やっぱり職場では部下とかいるんだよね?」
「ん?ああ、そうだね。難しいよな……ミスしたときにフォローしたり、叱ったり、諭したり……」
確か、小久保君は大学を卒業した後、地元の県庁で働いているはずだ。
彼らしいといえば彼らしい、華やかじゃないけど確実な生き方。昨日の同窓会でも、
最近発覚した公務員の汚職のニュースにかこつけて、からかわれていたりしたけど……
ただ苦笑するだけで醜い弁解もしない、その態度は本当に小久保君らしかった。
§


「はぁ………これでもさ、結構大変なのよ。有能ではあるんだけど、
ゲーム感覚でしか仕事をしない新卒のコを褒めたり叱ったりしながら使うのも、
他人の批判と愚痴しか口から出てこない、嫌味な上司を相手にするのも」
「………確かに大変なんだな……ま、大丈夫だよ、若田部ならさ」
「………根拠も無く、そんな簡単に慰めないでよ……」
「ん?ああ、わりい……でもさ、昔っからなんとなく、若田部は大丈夫な人だって感じがするんだよな。
別に美人で頭が良くて強いってだけじゃなくて、人間的に大丈夫っつーかさ」
「……私だって………」
そんな強い人間じゃない、と言おうとして飲み込んだ。
多分……小久保君は、わかってる。私が今、結構弱ってることを。
そして私がさっきみたいにカッコ悪く逆ギレしていても、それを受け入れてくれている。
「………ところで小久保君?そう言えばミサキちゃんに連絡……」
「ああ、そうだね……って俺の携帯……」
ガサゴソと、小久保君が探す音がした。………彼が来るんだったら、もう少し片づけておけば……
そう後悔しても、もう遅い。目の前に広がる荒野を見ながら、溜息しか出なかった。
「ああ……ゴメン、ミサキ。うん、今若田部んち。昨日俺も気持ち悪くなって泊めてもらって……」
!!!なんてことだ。隠すこともなく、小久保君は馬鹿正直にミサキちゃんに話してしまっていた。
「ちちっち、ちょっと、小久保君!」
慌ててリビングに突撃して、彼の手から携帯をひったくる。
「!!イテ!いきなりなにすんだよ、若田部」
裸のまま情けない表情をする小久保君を無視して、受話器の向こうの親友にまくし立てた。
「ゴメン、ミサキちゃん!私が気持ち悪くなって吐きまくったのを、
小久保君が心配して泊まってくれたの!!ち、誓って変なことはないから!大丈夫だから!!
本当にゴメン!ねえ、聞いてる?」
「………あの、アヤナちゃん……私も二日酔いで気持ち悪くて……そんな大きな声だされると……」
「あ………そうだね、ゴメン……」
受話器の向こうから、普段のあの可愛い声を3オクターブほど下げた、
ミサキちゃんのかすれ声が聞こえた。私はただひたすら謝り続けていた。
「いいからいいから。それより……ねえ、昨日言ってたこと、本気なの?で、どうだった?」
「え?」
…………昨日、言ってたこと?えっと………仕事関係の愚痴、男関係の愚痴、それに………
「?ねえ、もしかして覚えてないの?」
「………ゴメン」
「別にいいよ。なんだか今日は謝ってばっかだね、アヤナちゃん……
ふふ、でもアレが本気なら……後で考えておくし、ウチの人にも言っておくから」
「???」
ダメだ、さっぱり思い出せない。にしても……ミサキちゃんにしては珍しく、
妙に悪戯っぽい言い方が気になる。それに小久保君にも言っておくって?
彼にも関係のあることなんだろうか?
「まあ、そのことは後々のお楽しみってことで。あのね、アヤナちゃん?
これから濱中先生と中村先生とね、横浜のリンちゃんちに遊びに行くことにしたんだ。
マサちゃん一日貸すから、せいぜいこき使ってあげてね?」
「は?ちちちち、ちょっと待ってよ、ならみんなで一緒に……」
「ダ〜〜〜メ。さっきマサちゃんに聞いたけど、アヤナちゃん今日お休みとったんでしょ?
お引っ越しの準備がなかなか進まないって言ってたじゃない。男手があると結構重宝するよ?」
「!そう言えばそんなことも……ででで、でも、なんで私と小久保君だけ……」
「うふふ……本当に覚えてないんだね、アヤナちゃん?ま、とにかくそう言うことで。
マサちゃんにも言っておいてね〜〜〜♪」
妙に楽しげにそう言うと……ミサキちゃんは、電話を切ってしまった。
呆然としている私の横で、小久保君が怪訝そうな顔をしている。
「?どうしたんだ、若田部?」
………結婚したミサキちゃんの余裕って奴か?私の家に昨晩泊まったっていうのに、
本当に……これっぽっちも心配していなかった。それに色々と秘密にされたうえ、
私だけのけ者にされたみたいで、正直ちょっと腹が立ち始めていた。
……決めた。奥さんの許可が出たんだ、そのとおりにしてやろうじゃない。
§

「?若田部、ミサキの奴、なんて………」
「手伝いなさい、小久保君」
「は?」
「ミサキちゃんはね、これからお姉様たちと一緒に的山さんちに遊びに行くんだって」
「ひ?」
「そんで貴方は、私の引っ越し要員として貸して頂けることになったの」
「ふ?」
「さて、と……それじゃさっそく朝ご飯を作るから、軽く腹ごしらえを済ましたらさっそく荷造りをしましょうか」
「へ?」
―――訳が分らない、そんな表情で呆然としている小久保君を尻目にキッチンに向かう。
リビングやベッドルームは壊滅的な状況だが、ここだけは清潔に保たれているのが救いだ。
二日酔いから完全に回復したわけじゃないから、味の濃いものはお互いちょっとムリだろう。
パスタを茹でる間にニンニクと唐辛子を少量刻んでオリーブオイルで炒め、
茹で上がったパスタとベーコンを加えて薄く塩胡椒で味付けして皿に盛ると軽く粉チーズを振った。
コーンポタージュスープを温め、トマトとレタスをカットしてさっさとサラダボウルに盛りつける。
「はい、小久保君……食欲は無いかもしれないけど、とりあえず……」
「ああ、わりいな……若田部……」
私が料理している間、なんとか自分の衣服を見つけたらしい小久保君が
クシャクシャになった白いワイシャツとスラックスという姿で情けなさそうにテーブルに座った。
…………ズルイ。
素肌にクシャッとしたワイシャツ、それだけなのに、すごく色っぽい。
あの頃の小久保君にも、大人になりかけのなんとも言えない色気があったけど……
今の小久保君には、大人の男の色気があった。
…………ズルイ。
「ん、旨い。久しぶりに若田部の手料理食うけど、相変わらず旨いな」
「………止めてよ、昔同棲してたカップルみたいな言い方」
「ああ、わりい。でもさ、中学生の頃若田部、俺にクッキーとかくれたじゃん?
それになにかあるとお前んちでパーティーやったり………そんときのことなんてもう覚えてないんだけど、
若田部の料理が旨かったってことだけはヤケに覚えてたりするんだよな。
はは、食い物の記憶って案外一番残るものなのかもな……」
………覚えていて、くれたんだ。そう、あの頃は……お礼だとかなにかにかこつけて、
小久保君にお菓子をプレゼントをしたりしてた。素直に……好きだって言えなかった私が、
それでも好意を示そうとした、切ない思い。でもそれは……気付かれることは、なかった。
「不思議だよね……」
「ん?なにがだよ?」
「普通あれくらいの年頃なら、私のプレゼントとか、ミサキちゃんのこととか、
周りもみんなそういうお年頃なんだから、噂になったりからかわれたりしても不思議じゃないのに。
全然みんな当たり前みたいにしてたよね。小久保君はどう思ってたの?」
「………?俺は単純にありがたいなと………」
………ダメだこりゃ。
「はあ、多分……男の子たちもそう思ったんだろうね」
「?あのさ、若田部、どういう………」
「小久保君本人がそれじゃ、周りもからかいがいが無いっていうか……そう思ったんだろうね」
「???」
今年で三十歳になろうとしてるってのに……小久保君の鈍さは全く変わってないみたいだ。
「ふう……これじゃミサキちゃんも苦労するよね………」
「??……良く分らないけど、とにかくゴメン」
それだ。素直に謝るから、こっちもそれ以上追及できなくなる。やっぱり、小久保君は、ズルイ。
「……ま、いいよ。朝ご飯の後かたづけ手伝って。それから、荷造り始めようよ」
「あ、ああ……」
パスタ皿、サラダボウル、フォーク、それにたまっていた食器etcを洗うのを小久保君に任せ、
私は食器の水気をタオルで拭き取ると食器棚の中へ納めていった。
なんだかこんなことを男の人とするのも久しぶりだ。
「意外に手際いいね、小久保君」
「ああ……普段手伝ってるからな」
§


「へえ……エライじゃない、でも共働きならそんなもんなのかしら?」
「ん〜〜〜、その代り料理とかはほとんどしないしな。
食器洗うのは学生時代バイトでやってて慣れてるし、嫌いじゃないからやってるんだけど」
「へえ〜〜、私は逆だなあ。作るのは好きだけど、洗うのは大嫌い」
そんな話を続ける。ちょっとずつギクシャクした空気がなくなっていった。
「よし、終わったね……それじゃ、小久保君、悪いけどお願い」
「ああ……でも荷造りってどうすりゃいいんだ?」
「安心して。実は要るものはほとんどベッドルームに運び込んであるの。
君が寝ていたリビングは全部捨てていいものばっかりだから。段ボールと紐はもう用意してるし」
「そう言えばここ、古雑誌とか切り抜きとか、そんなのばっかりだな」
私がだらしなくてただ単に散らかっていたわけじゃ……いや、それもちょっぴりあるけど、
ここしばらく少しずつ引っ越しの準備をしていたうちに部屋がこんな風になっていたのもあるのだ。
「それじゃ、私はベッドルームの整理に取りかかるから……
あ、でも小久保君のスーツ、汚れちゃうよね?今ジャージを出すから着替えて?」
「いや、いいよ。どうせこのスーツもここまでシワクチャになっちゃったらクリーニングに出さないとだし」
「いいから、ちょっと待ってて……えっと、多分小久保君のサイズなら入ると思うけど……」
クローゼットの奥からちょっと防虫剤臭い男物のジャージの上下を見つけてぽい、と手渡した。
「ああ……ありがとう、若田部。汚しちゃうかもだけどゴメンな」
ジャージの来歴について何も聞かないのは、小久保君らしい優しさなのか、鈍さなのか。
確かあれを置いていったのは………英智だったっけ?太陽だったっけ?
どちらにせよ、今回小久保君が汚したらそのまま粗大ゴミ行き決定だ。
自分自身もジャージに着替え、ベッドルームに散乱している荷物の分類、荷造りに精を出した。
ただその前にファンデを軽く塗ってリップを薄く引いたのは……別にその、スッピンに自信がないとか、
なにかに期待してるとかじゃ……ない、と思う。……………そんなんじゃないってば……
「なあ、若田部……ちょっと聞いてもいいか?」
「ほ!………ななな、なによッ!」
「いや……こんなこと、聞いて良いものかどうか分らないから、答えたくなけりゃそれでいいけど。
このマンション結構新しいよな?それに賃貸じゃないんだろ?引っ越しってなんか不満でもあるのか?」
「………不満はないけど。アレ?小久保君、ミサキちゃんに何も聞いてないんだ?」
「?イヤ、あいつからはなにも………」
「そっか。実は私ね、今の会社来年で辞めるつもりなんだ」
「……引き抜きとかか?」
「ううん、違うの。え〜〜っとね、中2の夏休みにみんなで私の叔父さんの旅館泊まったの覚えてる?」
「?……あ、そういやそんなこと、あったかもな」
「その叔父さんなんだけど、子供がいなかったせいか昔っから私のことをすごく可愛がってくれてて……
ちっちゃい頃なんて、私を養女に欲しいって真剣にお父さんに言ったくらいだったんだって」
「へえ………もしそれが実現してたら、今頃若田部は旅館の若女将だったんだ?」
「ふふッ、かもね。結構歴史のある旅館なんだけど叔父さん夫婦ももう年だし、もう引退したいらしくて。
それでこの前頼まれたんだ。経営者としてで良いから旅館を私に継いで欲しいって」
「……それで若田部は?」
「悩んだけどね。今の仕事にもやりがいは感じてるし。でも……ここくらいが引き時かなあ、って。
ウチの業界ってさ、勤続年数短いうちにセミリタイアして、次に会社起こすとか普通なんだよね。
それだけのハードワークだし……私もそろそろちょっと一息つきたいとは思ってたし」
「ふうん……でも、旅館ったってどうなの?経営状態とかは大丈夫なのか?」
「ああ、そのへんは抜かりないよ。一応叔父さんたちからも資料を見せてもらったし、
それ以外にも個人的なコネクション使って少し調べさせてもらったんだ、実は。
収支的には超優良物件ってわけにはいかないけど、しっかりとした常連客がついてるし、
立地条件も良いし、まずまず今後の集客も見込めそうな感じで悪くはないよ。
温泉とか厨房なんかの設備投資もほぼ一段落しててムリをする必要もないしね」
「はあ……さすがだな、若田部……」
「ふふ、私だって不良物件押しつけられて、首が回らなくなるなんてゴメンだよ。
貯金もちょっとはあるし、最初は旅館経営に専念して、落ち着いてきたらゆっくりするつもりなんだ……」
§


小久保君にそんな話をしながら、でも私はなぜか妙な違和感を覚えていた。
(?……確か昨日、ミサキちゃんともこの話をした後で……)
そうだ、間違いなく……同じ話をして、その後で、私がなにかを言って、
ミサキちゃんがひどく驚いた顔をしていたんだ。私は怒るかな、と思ってたんだけど、
………あれ?確か?あれ?………どうしてもその後が………それで、ミサキちゃんは?

「……わかったよ、アヤナちゃん。あなたがもし本気でそう思うんなら、私は大丈夫。
だって私たちは友達だし、あなたの気持ちも良く分るから。でもあの人の気持ちも確認しないと……」

……ダメだ、肝心なところが……でも確か、その後……ふたりで小久保君に……
「???なあ、若田部……大丈夫?」
「ひッ!え、ええ……大丈夫よ」
またも妄想状態になっていた私を不審に思った小久保君が声をかけ、飛び上がる私。
でも……あれ?私、本当になにか重要なコトを?
「よし……だいたい荷造り終わったよ、若田部。どうしよ?部屋の掃除にかかる?
それともそっちの荷造り手伝おうか?」
「……こっち手伝って」
思い出しそびれたまま、私と小久保君は荷造りを続けた。
「そうそう、そこのチェアは傷つかないように新聞紙で包装して………」
「若田部、鏡や布団はまだ使うだろ?これはあとでだな?」
「そうね、そうするわ。……ふうん、結構引っ越し慣れてるじゃない、小久保君?」
「ああ……実は引っ越し屋のバイトも短期だけどやったことあるんだ、俺」
「!へえ、いっが〜〜い。でもそれは頼もしいわね」
「はは、こんなとこで役に立つとは思わなかったけどな……」
テキパキと小久保君が私の指示通り動いてくれたおかげで、悲惨だったベッドルームもかなり片づいた。
「よし、ここの部屋はまだとして、あっちのリビングの掃除機をかけて軽く雑巾がけしとこうか?
それにいくつもできたゴミ袋はどこに置いておけば………」
と言うか、彼は私の予想以上に出来る人だった。ふたりで夢中になって作業をしていたけど、
気付けば五時を回っていて……引っ越しのおおまかな準備は、ほとんど終わってしまっていた。
「………今日は無茶言って、手伝わせて……本当にありがとう、小久保君」
素直に……あの頃なら、なかなか言えなかったはずの感謝の言葉が口をついて出た。
「はは、別に良いんだよ……若田部の人生の新しい第一歩の手伝いができたんだ、光栄に思うさ。
……正直俺、お前に嫌われてたのかと思ってたから、なんだか嬉しいし」
「?!?き、嫌われてるって……なんで……」
「ん?いや、昨日久しぶりに会ったのに若田部なんだかヨソヨソしかったしさ。
それに……なんだかんだでミサキたちとは会ってたみたいなのに、俺とは昨日まで会ってくれなかったし」
違う―――会わなかったんじゃない、会えなかったんだ。嫌いになったわけでももちろん、ない。
「そんなんじゃ、ないよ……私は………」
ああ、どうしてだろう……頭の中で溢れ出てくるくらいなのに……
どうしても、それ以上………言葉が、出てこなかった。
「?……若田部、ゴメン、冗談だって……ちょっとミサキに電話していいかな?」
私が無言で頷くと、小久保君は決まり悪そうに携帯を取り出して話し始めた。
「うん……ああ、そう。もう終わり。で、ミサキは今どこ……?え?は?なに?」
………?なんだかもめてるみたい……?
「あの……若田部、ミサキの奴お前に代わってくれって……」
「?ミサキちゃんが?」
首をひねりながら小久保君が携帯を手渡してきた。受け取って、ミサキちゃんに話しかける。
「ミサキちゃん?私だけど……」
「あ、アヤナちゃん?どう、ウチの人?役に立った?」
「ウン、ありがとう。本当に……大感謝だよ。そろそろミサキちゃんも帰ってくるんでしょ?
お礼も兼ねて食事くらいふたりにご馳走したいんだけど……」
「ああ、いいのいいの、そんなこと。今日はリンちゃんちに泊まる予定だし」
「え?ちょ、ちょっと?なら、小久保君は……」
「その口ぶりだとまだしてないんだね?」
「?だから引っ越しの準備なら……」
§

再会の時〜十五年後の思い〜 後編

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