「最近さ、元気ないよね、アイ」
「!…そ、そんなことないですよ、先輩」
「いや…俺も思ってましたけど…ちょっと顔色悪いですよ、先生?」
「う…」
いつもの授業終了後のお茶会の風景。普段ならば、気楽な話に花が咲くところなのだが…。
「ねえ?なんかあったの、アンタ?もしや失恋とか?」
「え!」
「アイ先生!ほ、ほんとですかぁ」
「ち、ちちち違います!」
「じゃ、なによ?」
「う…実は…」
アイの話を要約すると─。どうも最近、身辺に妙な気配がするようになった。
最初こそ、気のせいかと思っていたものの、度重なる無言電話、荒らされた郵便物etc…。
その被害はエスカレートしていくばかりで、さすがに参っているという。
「アンタそれ、確実にストーカーじゃん!警察に被害届とかは…」
「さ、さすがにそこまでは…」
「ダメじゃん、そんなの!そういうのでさ、ヤバイ目にあっちゃう子、
いっぱいいるんだから!下手したら、殺されちゃう子だっているんだよ!」
「す、すいません、先輩」
いつになく熱い中村の言葉に思わずうなだれるアイ。
「アンタが謝ってる場合じゃ…それよりさ、身に覚えとかないの?」
「それが…さっぱりで。あたし、普段、マサヒコ君以外の男の人とそんなに接触無いし…」
それはそれで女の子としては哀しい話ではある。
「しかし…女をなめやがって…許せん…」
中村はメラメラと闘志を燃やしていた。こうなったときの彼女を止めるものは、ない。
§

「マサヒコ!」
「は、はいっ!…じ、自分は誓ってなにもしておりません!」
中村の凄まじい形相に圧倒されたマサヒコはなぜか軍人口調で答えた。
「馬鹿!いい?アイをストーキングしてやがる、最低の腐れチ♯ポ野郎を、
徹底的に叩き潰してやるッ!手伝いなさい!わかるわねッ!」
「は、はい、喜んで!」
今度はチェーン系居酒屋の店員のように直立して答えるマサヒコ。
「おおまかな作戦はあたしの頭にあるわ。あとは細部を詰めるだけね…。
それとアイ、あんたしばらくあたしの部屋に泊まること。いい?わかったわね!」
「は、はい先輩!」
普段は迷惑大王だが、いざというときには頼れる先輩であることも間違いないのである。
「せんせぇ〜、あたしは…」
「…あんたは、なんもしなくていいよ」
─そしてその日の夜。マサヒコは、携帯で中村と“作戦”について、話し合っていた。
「…わかったわね?作戦決行は、今度の土曜日。いったんアイは部屋に帰って、
そっからあんたと待ち合わせて町をウロウロするわけ。んで、おびき寄せて…ガツンよ」
「ハイ…でも、大丈夫なんですかね?囮作戦って。俺はともかく…アイ先生に危険が…」
「いざってときは、アンタがアイを守るの!アンタの股ぐらにブラさがってるのはなに?
飾り?風鈴?男ってのは…、女を守ってなんぼでしょうが!!!」
「…ひ、はい」
中村の怒りの矛先が自分に向かってしまい、思いっきりビビるマサヒコ。
「とにかく!こういう陰険で自己チューなF*ck野郎は、逆に自分が罠にハメられてるって
思わないもんよ。だから、囮作戦で現れたところを…ブッ殺す!!いい?わかった?」
「は、はい!死力を尽くす所存であります!」
「よろしい!では、健闘を祈る!」
深夜にもかかわらず、異常にテンションの高い会話が終わり、ぐったりと横になるマサヒコであった。
§

そして、土曜日の昼下がり─。
「え〜っと、あ!ごめん…マサヒコ君、待った?」
「い、いえ…全然」
少しぎこちなく、言葉を交わすふたり。待ち合わせ場所は、とある駅ビル前。
「別人かと思っちゃったよ…今日のマサヒコ君、大人っぽいカッコだね」
「え?ああ…一応、先生の相手役ってことなんで、それらしく見えるようにって、
中村先生が知り合いから服を借りてきてくれて。…似合ってませんか?」
「う、ウウン…ちょっとね、見違えちゃった」
そう言って、少し目を細めるアイ。
ソフトレザーのボトム、ダークレッドのTシャツの上には軽めの麻のジャケット、
胸元にはシルバーのアクセサリー。確かに、普段のラフな…というか、
服装にほとんど無頓着なマサヒコを見慣れたアイにしてみれば、
今日の彼が別人のように見えるのも仕方のないところである。
(背が伸びたのもあるけど…マサヒコ君って、こうして見ると、結構…)
「じゃ、じゃあ…せんせい」
「あ…はい」
どこかおずおずとした感じで…ふたりは腕を組むと、駅前の人混みの中を歩き出した。
「えっと…マサヒコ君?まずどこ行こっか?」
「あ…すいません、何も考えてませんでした。中村先生には、
デートっぽく見られるように、適当に街を流して歩けってだけ言われてたもんだから…」
「あ…そっか。ゴメンね、あたし男の人とこんな風に歩いたことないから…」
「いえ、いいですよ。俺だって…女の人とふたりっきりで街を歩いたことないんですから」
ふたりは、ほとんど同時に苦笑していた。確かに、年頃の男女の会話としては少し情けない。
「えっと…、映画館なんてどうですか?」
「あ!ウン。映画行きたい!あたしね、みたい映画があるんだ!」
「じゃ、行きますか…その前に、中村先生にメールして…」
§

<to中村先生>
<映画館へ向かいます>
返信は、すぐだった。
<from中村先生>
<了解。現在、アンタたちを追跡中だがそれらしき人影は見つからない。
なお、映画館の中では絶対にアイを通路側に座らせず、周りの人間に注意すること>
「…しかし、あの人って…」
「?どうしたの、マサヒコ君?」
「い、いや、なんでもないんです」
あたりを見渡してみても、中村らしい人影は見つからない。玄人はだしの、完璧な尾行である。
(…いったい、昔、何やってたんだか…探偵顔負けだぜ…)
マサヒコは、改めてこの人だけは敵に回すまいと誓うのであった。
“∬♯”
再びメール着信。
<from中村先生>
<キョロキョロするな、馬鹿。バレるだろ>
(…刑事か、あんたは)
心の中でつっこむマサヒコ。
§
映画館は、7割方の入りだった。アイの見たかったという映画は、
ニューヨークを舞台にしたコミカルなラブストーリーで、アイは楽しそうに笑い転げていたのだが…。
隣のマサヒコは気が気でなかった。さきほどの中村からのメールのとおり、
周囲に細心の注意を払っていたからである。
(ふたつ後ろの席のメガネの男…左みっつ隣の、スカジャン…全員、怪しく見えてくるな)
映画が終わる頃には、ヘトヘトに疲れてしまったマサヒコであった。
§

「あ〜、面白かったね♪マサヒコ君!」
「は、はあ…」
(気張ってたから…内容なんてほとんど覚えてねーよ、俺)
「よし!おなかもイイ具合で空いてきたところで、ランチにしよっか。最近読んだ雑誌でね、
このあたりに新しくできたパスタのお店が美味しいって載ってたんだ♪」
「は、はあ」
どうも囮捜査という本日の目的を忘れ、アイは完全にデート気分満喫モードに入っているようだ。
なんだかなあ、と思いながらもマサヒコは再びアイと腕を組んで映画館をあとにした。
(…でもしばらく暗かったもんな、先生。久しぶりに…明るい表情になってくれたのは、いいことか)
そう言えば、ここのところこんなウキウキとした表情のアイを見ていなかったことに気付いた。
「?ふふ、どうしたの、マサヒコ君?」
見つめていたマサヒコに、アイは微笑みを返した。
その表情に、張りつめていた緊張感がときほぐれるのだった。
店はこじゃれた雰囲気ではあるものの、値段もさほど高くなく、味も評判通りだった。
アイは嬉々とした表情で、メニューにあるパスタを上から順に胃袋に納めていく。
「ふふ〜♪美味しいね、評判通りだね、マサヒコ君」
「ははは…相変わらずいい食べっぷりですね、先生」
「だって、すっごく美味しいんだもん、ここのボンゴレパスタ」
にこにこと、本当に美味しそうに食べるアイ。
(そうだなあ…。やっぱりアイ先生は、こういう顔が一番似合うよなあ…)
春の日だまりのような、という形容がぴったりなアイの笑顔。
だが、それを曇らす卑劣な人間が今もすぐそばに潜んでいるかもしれない─。
そう思うと、マサヒコは強い怒りがふつふつと湧いてくるのだった。
「?どうしたの、マサヒコ君?美味しくないの?ペペロンチーニ」
「い、いや、なんでもないんです」
自然に表情が険しくなっていたようだ。マサヒコは、アイに指摘されて少し慌てた。
§

「ふふふ〜♪満足、満足♪」
「俺も、ごちそうさまです」
「じゃ、次は…ショッピングだね!行こ、マサヒコ君」
「あ、はあ」
すっかり主導権を握られ、リードされるがままのマサヒコ。
「え〜っと、あ!夏物のスカート欲しい!あとね、あとね…」
そして、きゃいきゃいと、とにかく上機嫌なアイであった。
§
「どう?マサヒコ君♪」
「え、ええ。似合いますよ、とっても…」
「どんな風に似合うか、具体的に言ってくれないとわかんないよ〜だ♪」
完璧に、バカップルの会話をするふたり。試着室から出てきたアイは、
涼しげな素材の純白のスカートをマサヒコに見せると、くるり、とひと回転してみせた。
「ああ…いいですね。すごく、清楚っていうか…高原の少女って感じで…」
「えへへ〜、まだ少女でとおるカナ?」
(いや…キレイですよ、ホントに…)
本当は、美少女とつけたかったマサヒコだが、さすがに照れくさくて言えなかった。
「じゃあ、次はあっち〜」
「はいはい…」
表面上は面倒くさげだが…、その実、今のこの状況をマサヒコも結構楽しんでいた。
「ってココは!?」
「えへへ〜♪水着もね、この夏用の、欲しかったんだ♪」
マサヒコには刺激の強い…強すぎる…時間となった。
「どう?ま・さ・ひ・こ・く・ん?」
「はあ…あの…その…か、可愛いですよ」
§

「水着?あたし?ど〜っちだ♪」
バカップルトーク、アゲイン。ペイズリー柄のツーピースを試着したアイは、今回もくるり、と回ってみせた。
「へへへ〜、ダイエットして良かった。夏に可愛い水着きられるように頑張ったんだから」
(先生ってでも、スタイル良いよな…あ、やべ)
そう、非常に大変なことになってしまったマサヒコ。
「今度、一緒に海やプールに行こうね♪♪マサヒコ君!」
「は、はあ…」
…それどころでは、ないのであった。その後も、バッグやら時計やら…。
とにかく、女の買い物というのはどうしてこんなに時間がかかるのかと痛感しながらも、
やっぱり一緒に楽しんでしまうマサヒコであった。
§
<from中村先生>
<相変わらず気配無し。…お前ら、もう少し緊張感を持て。
そろそろ帰宅準備せよ。なお、なるべく暗い道を選んで帰るように>
§
「あ、じゃあ先生、そろそろ…」
「え?あ、そうだね、もうこんな時間か…うふ〜ねね、いいね、デートって!楽しいね!」
「はい」
(確かに…楽しいかも)
疲れながらも、どこか心地よさをマサヒコが感じているのも確かであった。
繁華街を過ぎ、駅から満員の電車に乗っても─、マサヒコは警戒心を解かなかった。
常にアイをかばい、背中を抱きすくめるようにして、彼女を守り続けた。
そんなマサヒコの様子を、頼もしげに見上げるアイ。
(いつの間にか…男の子から、オトコっぽくなったんだナ…)
真剣な顔でマサヒコは周囲をうかがい、必死で自分を守ろうとしてくれている─。
アイは、こんな状況にもかかわらず、ひどく幸福な気分に包まれるのだった。
§

(そうだよね…初めて会ったときは…あたしよりずっと背も低くて、全然子供だったのに。
今じゃあたしをこんな風に守ってくれてるんだもんね、マサヒコ君は…)
そう、2年前のアイとマサヒコなら、アイの目線はもっと下だった。
だが、今はほんの少しだがアイが見上げるまでにマサヒコは成長した。
そして、男性経験皆無なアイだが…いや、皆無だからこそ、
彼女にも白馬の王子様幻想は強くあるのである。
自分でも気付かないうちに、マサヒコへ向けるアイの視線は恋する乙女のそれになっていた。
§
「…結局、電車では空振りか…」
最寄り駅を降り、アイのマンションへと歩くふたり。だがマサヒコは、警戒したままだ。
中村の指示通り、なるべく人気のない暗めの道を選び、周囲を絶えずうかがっていた。
“∬♯”
と、またも中村からのメール着信。
<from中村先生>
<あんたたちの後ろに、怪しげな男がふたりいる。このままではどちらか絞りこめそうにないので、
思いきって先にあるはずの公園に行って誘い出してみるってのはどうだ?賭けかもしれないが…>
危険なのは確かだが、ここまでやってなんの成果も無かったときには、
最悪今後被害がさらにエスカレートする場合も考えられる。中村の言う“賭け”に、
一理あることは理解しつつも、アイの安全を考えさすがに躊躇するマサヒコであった。
(だけど…ここは、イチかバチかか…)
意を決したマサヒコは、中村にメールを打った。
<to中村先生>
<了解。先生の安全を第一に考えるが、賭けてみましょう>
着信。
<from中村先生>
<OK。公園では、カップルらしくイチャついたふりをせよ。ただし、気は抜かないこと>
§

中村のメールにあった公園は、それからしばらく歩いたところにあった。
マサヒコは、中村の作戦をアイに耳打ちすると、一緒にほの暗い公園の中へと入っていった。
電灯に照らされるようにしておあつらえむきのベンチがあり、ふたりは緊張しながら腰をおろした。
「…先生?」
アイは、マサヒコの手を握りながら表情を硬くしていた。
が、それはそうだろう。ここしばらくストーカーから受けた数々の嫌がらせ。
その相手が、今、そばに来ているのかもしれない─。アイの心は今、恐怖に支配されていた。
“ぎゅっ”
「ま、マサヒコ君?」
マサヒコが、強く─強く、アイの手を握りかえし、笑みを向けた。
主体性がない、流されやすい、と言われ続けた彼が、アイに初めて見せた男らしい笑顔だった。
「大丈夫…大丈夫です。俺が、絶対に…先生を守ります」
マサヒコとて、恐怖を感じていないと言ったら嘘になる。だが、それ以上に─。
この人を、アイの笑顔を守らなければならないという使命感がそれに勝っていた。
それは、今日一日ずっと一緒にいて…太陽のような笑顔に触れていて、強く思ったことだった。
「マサヒコ君…」
そしてアイも同じようにマサヒコの手を握ると、まだ少し強ばってはいたものの、微笑みを返した。
(大丈夫…怖いけど…今のあたしの隣には…マサヒコ君がいてくれる…)
今この風景を、なにも知らない他人が見たなら─。
恋人同士の微笑ましい語らいに見えたかもしれない。
しかしこの瞬間も、マサヒコの心の中には卑劣なストーカーへの怒りが燃えさかっていた。
「…?」
アイの視線が、ゆらり、と動く人影をとらえた。
「…マサヒコ君…あれ…」
小声でアイが囁く前に、既にマサヒコの目もその人影を認めていた。
§

「絶対に…絶対に、俺から離れないで下さい」
アイの体をしっかりと抱くマサヒコ。
「う…うううぅ…」
見た目はごく普通の男だった。道で通り過ぎても、記憶に残らないだろう。
だが…その男の目には、はっきりと狂気の色があった。
「アイちゃんに…アイぢゃんに…お、おう゛ぁえは…」
男は、最後は聞き取れないような言葉を叫ぶと…。きらり、と光るものを取り出した。
電灯の光をうけて輝いたのは、一昔前に流行った、バタフライナイフ。
「う゛ぁあああがやろぉおおおおおお!」
絶叫すると、男はふたりの方へと体を踊らせ、つっこんできた。
「危ない!先生!」
“ドンッ”
全身でアイの体に覆い被さったマサヒコの肩に、ナイフが突き刺さった。
(冷て…)
痛さは、感じなかった。一瞬、肩に冷たい風が通り抜けたような─。そんな感触を覚えていた。
「…」
マサヒコは、男を睨んだ。痩せた男だった。顔立ちはむしろ端正な部類だろう。
力が強そうにも見えない。しかし…この男は、アイを恐怖のどん底に追いつめた男だった。
「う゛ぁ、う゛ぁ、なにみてる、てめえええええ!」
男は、再び叫ぶとナイフを高くかざした。
(来る!)
マサヒコはアイを逃がし、男の攻撃をかわそうとしたのだが…。
その瞬間だった。マサヒコとアイは、上空から黒い爆弾のようなものが男の背に突き刺さるのを見た。
「せ、先輩!?」
「な、中村先生?」
§

「ふう。正義の味方登場ってとこね…大丈夫、マサ?アイ?」
「は、…はい」
「マサ、良くアイをかばってくれたね…あとは、あたしに任せな」
そう言うと、中村はまだ呻き声をあげている男の背中に、鋭い蹴りを素早く何発か入れた。
「が!」「げ!」「ぐほ!」
そのたびに短い叫び声をあげる男だが、中村にはなんの躊躇もない。
髪を掴み、ねじり上げると、顔面に再び矢のようなミドルキック。1発、2発、3発…。
「げ!」「ば!」「うが!」
たまらず体をよじって逃げようとする男だが、中村が逃がすはずもない。
体を半回転させると、正確に男の口の中に革靴を叩き込んだ。
“ばきゃあッ!”
「ぎゃあァァァァァァ!!!!!」
恐らく、何本か歯が折れたのだろう。砕けるような音とともに男の口から鮮血が溢れた。
しかし、中村は氷のような表情で足先を男の口の中に突っ込んだまま、その喉奥を蹴りあげた。
「は…ばが…」
そのまま男は崩れ落ちたが、中村は容赦なくその顔面に蹴りを入れ続けた。
その様子を呆然と見守るマサヒコとアイだったが─しばらくしてマサヒコが気付き、叫んだ。
「な、中村先生!やばいっすよ、それ以上やっちゃうと、最悪死んじゃいますって!」
「ふん…死ねばいいのよ、こんな糞野郎。マサ、こいつの下半身剥ぎな」
「え?…な、なにをする気ですか?」
「知れたこと。歯が折れたみたいだろ?口の中が寂しいだろうから…。
こいつの持ってたナイフでタマとサオを切り落として、口ん中つっこんでやろうと思ってね」
「!!!」
男だけでなく、アイとマサヒコも慄然とした。今の中村なら、本気でやりかねない。
「せ、せんぱい、そこまでは…」
「あら、優しいねえアイは。あたしが前にストーカーと戦ったときは両手両脚の爪を全部剥いで…」
§

「ぶぶぶ…ぶみません!ゆ、ゆるびてくだばい!も、ぼう、アイさんびは、ちかぶきません」
「ふん…どうする?マサのケガも、たいしたことないみたいだし…」
事実だった。アイが半ベソをかきながら先程からマサヒコの負傷部を確認していたのだが…。
危険な血脈部分に刺さったわけではなかったらしい。出血は既になく、凝固しようとしていた。
「警察には…さすがにここまでやっちゃったら行けないですね」
「けっ。あいつらなんて、事件が起きてからしか動けないんだから…」
(だから…あんた、過去になにがあったんだ?)
そう思うが、さすがになにも聞けないマサヒコであった。
「あたしと…どこで会いました?」
アイは、ゆっくりと子供に諭すように男に話しかけた。虚ろな瞳のまま、男が答えた。

大学の一般教養の授業でアイとたまたま席が隣になったことがあったという。
男が消しゴムを落としたときに、アイが拾ってくれて…。
そのとき見せたアイの笑顔が忘れられずに尾け回すうち、行為がエスカレートしていったという。

「…最低だな、あんた」
ぽつり、とマサヒコが呟いた。彼がそんな言葉を使うのを、アイも中村も初めて聞いた。
「先生の…笑顔を好きになったんだろ?あんたは…先生の、最高の笑顔を奪おうとしたんだ」
「う…う゛う゛う゛う゛う゛」
男が、泣き出した。目の中からは、さきほどにあった狂気の炎が消えていた。
「ガキじゃあるまいし、泣いたって許されるわけじゃねーぞ?コラ!
まあいい…。今度、アイに近づいたときはおまえが死ぬときだ。覚えとけ!」
そう言うと、中村はもう一回男の腹に蹴りを入れた。男は、もう声をあげようともしなかった。
「じゃあ、アイ…」
「はい…ありがとうございました。それより…マサヒコ君」
「はは。大丈夫です…大丈夫ですよ、先生」
§

後日、舞台は変わってアイのマンション。三人は和やかにお茶を飲んでいた。
「今回は…ありがとうございました、先輩、マサヒコ君」
ぺこり、と頭を下げるアイ。
「いいってことよ。アイが無事ですんだんだし…」
「実際戦ったのは中村先生で、俺はただやられただけだし」
「そんなこと…ホントに、ありがとうマサヒコ君、先輩」
再びぺこり、と頭をさげるアイ。中村とマサヒコはどちらも照れくさそうにしていた。
「でもさ、マサ…あたし、ちょっと感動したよ」
「え?」
「頼りない小僧だとばっかり思ってたけど…アイをしっかり守ったもんね。
あたしからも礼を言う。アイを守ってくれて、ありがとう」
「そ、そんな…」
予想外に率直に頭を下げる中村。あの日、男と戦った悪鬼羅刹のごとき姿とは
とても同一人物とは思えないその様子に、マサヒコは慌てた。
「い…いや、礼を言うのはこっちの方です。全部、中村先生のおかげですよ…」
「ううん…ねえマサ?あの日の前にさ、あたし…偉そうなこと言っちゃったの、覚えてるかな?」
「…」
「男は、女を守ってナンボだってね。でも本当に、あそこまでマサがやってくれるなんて思わなかった。
あんた、もう立派な男だよ。ははは、あたしの周りのフニャチン野郎どもに見せてやりたいくらいだった」
(…あの…表現がいちいち、アレなんですが…)
そう思いつつも、誉められているのに変わりはない。マサヒコはこそばゆい思いを味わっていた。
「でね、アイ…こんなこと言いたくないんだけど」
「はい、先輩」
「あんた、隙がありすぎなんだよ。だから、あんな野郎が寄ってくるってのも…ありそうなんだよね」
「…」
§

「ハッキリ言うよ?あんたって結構可愛いのに全然スレてないっていうかさ。
あの手の奴にしたら、格好の餌食になりそうなタイプなんだよね」
「中村先生!言い過ぎです!先生はなにも悪くない…むしろ被害者じゃないですか!」
思わずマサヒコは言ったが、中村は頭を左右に振ると、なおも続けた。
「マサ…アイが悪くないってのはあたしだって十分わかってるよ?でもね、
ああいう奴らってのは…アイみたいな女の子を見つけると、舌なめずりして近づいてくるのよ」
「マサヒコ君…いいの…あたしも先輩の言ってることは…わかってるつもりだから…」
うつむきながら、声をふりしぼるようにして言うアイ。
「…ま、アイ。あたしもあんたを非難するつもりはないんだ。悪いのは、100%男の方よ。
でも…気を付けて欲しいんだよね。あたしも…あんたのことが、心配なんだ」
マサヒコは、感心していた。普段は理不尽大王でひねくれたことしか言わない中村だが、
アイのことを考え、意外なほどストレートな言葉でその思いを表現することもできるのだ。
「はい、先輩。ありがとう…ございます」
アイにも、そんな中村の気持ちはしっかり伝わっていた。彼女を見る目には、信頼の色があった。
「ん…ま、そんだけよ、あたしの言いたいことは。さて…リンコの授業にでも行こうかね」
普段の自分に似合わない発言に、彼女も照れていたのだろう。
誤魔化すようにそう言うと、そそくさとアイのマンションを後にした。
「じゃ、じゃあ…先生、授業をお願いします」
「う、ウン」
事件後しばらくは、中村かマサヒコが交代でアイの部屋に詰めることになっていた。
授業のある日はマサヒコ、そうでなければ中村が。中村は夜、アイの部屋で寝泊まりまでしていた。
(なんだかんだ言って…あの人って、すげえよな)
授業を受けながら、マサヒコはそんなことを思っていた。
確かに、先輩とはいえそこまで他人の世話を見るというのは中村の意外な一面であった。
授業は滞りなく進んだ。いつになく熱心なアイの指導に、マサヒコも力が入る。
が、授業が終わると─うつむいたまま、ぽつり、とアイが呟いた。
§

「ごめんね…マサヒコ君。あたし…先生失格だよね」
「え?」
「マサヒコ君と先輩が…必死であたしを守ろうとしていてくれたのに…。
あたし、バカみたいに浮かれて…マサヒコ君なんて、受験生っていう大事な身なのに」
「そ、そんなこと…」
「ううん…ごめんね…ダメな先生で…ほんとうに…ごめんね…」
アイの両目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「先生…」
マサヒコは、自分がもどかしかった。言葉を探しても、なかなか出てこなかった。
が、ただひとつだけわかっていること。─それを、必死に考え、口にした。
「嫌です」
「え?」
「こんな風に…先生が…悲しんでいたり、泣いていたりするのを見るのは、嫌です」
「…」
「俺は…先生の笑ってる顔を見ていたいんです。あのときも言いましたけど俺は…先生を…」
一息ついて、マサヒコは自分の気持ちを確かめるように言い切った。
「守ります。絶対に。これからも…ずっと」
「マサヒコ君…」
マサヒコは、そのままアイを抱きすくめた。アイの涙の暖かさが、肩から伝わってきた。
「…」
「…」
どれくらいそうしていただろうか。アイが、少しかすれた声で言った。
「マサヒコ君の気持ちは…嬉しいけど…あたし…六つも年上だし…。
それに…こんな女とかかわってたら、マサヒコ君、ダメになっちゃうよ…」
「…先生は、俺が嫌いですか?怖いですか?年下だから…頼りないですか?」
「そんなことない。あたしだって…マサヒコ君は好き。でも…」
§

「…考えたんです、あのあと」
「…なにを?」
「このまま俺が中学を卒業して高校生になったら…。今みたいに先生と会えなくなる。
そんなのは嫌なんです。俺は…俺は、先生を失いたくない」
言い終わると、マサヒコはアイを強く抱きしめた。
(マサヒコ君…)
アイは押しつけられてくるマサヒコの体の硬さを強く感じていた。
たくましいとは言い難い、まだ男になりきっていない薄い胸板。だがそこからアイは、
─この世界から守られているかのような、大きな安心感を得ていた。
「マサヒコ君…あたしで…いいの?」
「はい…先生じゃなきゃ、ダメです」
「…ねえ、マサヒコ君?」
「はい」
「今度…またデートしてくれる?」
「先生がまた元気になって笑ってくれるんなら…どこへでも」
まだ涙がとまらず、頬を伝っていたそれも乾かないまま…。アイが、にっこりと微笑む。
その笑顔を見て、マサヒコはそのまま─アイと唇を重ねた。
「…マサヒコ君、あのね…」
少しして、唇を離すとアイが言った。
「なんですか?先生」
「ファーストキス…なんだよね、あたし」
「…えーっと、俺もです」
「ふふふ…お互い初めて同士なんだ。いいね、そーゆーのって。
あの…年上で、可愛くなくて…ダメダメなあたしだけど…大切に、してくれる?マサヒコ君」
「はい。先生の…笑顔を見ていたいから…大切にします。頑張ります」
ふたりは互いに見つめ、微笑みあった後…もういちど、唇を重ねた。
§

傷 後編

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