「おはよう!おにいちゃん」
「………おはよう、ユーリちゃん」
「どうしたの?元気ないよ?」
「……………夢じゃなくてマジだったんだ、って思って」
「あ、ひどいよぉ!後悔してるんだ」
「後悔、するさ。だって君はウチの事務所の大切なアイドルで、まだ未成年なんだし」
「未成年って言ってももう15歳だよ、私?
処女喪失には少し遅いくらいだってシホちゃん言ってたし」
「アイツの言うことを真に受けちゃダメだって……世間的には君みたいな15歳の女の子と、
俺みたいな成人男子が関係を持っちゃうと淫行っていう立派な犯罪に」
「犯罪じゃないよ。無理矢理されたわけじゃないし、
それにユーリとおにいちゃんは5年も付き合ってるんだし」
「付き合うってねえ……君と俺はマネージャーとタレントの関係であって、
おまけにあの頃の君はまだ小学生で10歳だったんだから」
「でもあの頃からユーリはお兄ちゃんのこと好きだったんだもん」
「え?」
「やっぱり気付いてなかったんだ〜〜?うふふ、ドンカンだよね、お兄ちゃんは。
でもそういうところも好きなんだけど」
そう言って悪戯っぽく微笑むユーリ。
ヒロキは――やれやれ、と痛む頭に手を置いて嘆息するしかなかった。

――トリプルブッキングがデビューしてから、5年近い月日が流れていた。
その間の、山あり谷ありの芸能活動、そしてヒロキの奮闘については省く。
最近のTBはユニットとしてより個々での活動が目立つようになっており、
メンバーそれぞれ人気アイドルの仲間入りをしていた。

カルナは学業と芸能活動を両立させ、高校卒業後は東栄大学に合格した。
最近は年齢に似合わぬ落ち着いた言動と現場を仕切る能力の高さを買われて
教養番組や報道番組のアシスタントを多く務めるようになり、
知性派アイドルとして特に中高年の男性に人気を集めていた。

元々勉強は大の苦手だったシホだが、努力の結果なんとか小笠原高校に進学した。
そしてある深夜のお笑い番組に出演したときに例のごとく下ネタ発言を連発し、
おまけに噛み癖まで連発したのだが(もちろんヒロキはその現場で頭を抱え込んだ)、
司会のベテラン芸人に妙に気に入られてその後も度々番組で起用されるようになり、
現在では下ネタ系ぶっとび発言の多いアイドルとしてバラエティ番組で重宝されていた。

そして、ユーリである。TB結成時より芸能歴の長さからか妙に大人びた魅力のあった彼女は、
幼女好き層のみならず一部のカルトアイドルマニアの熱狂的な支持を受ける存在だった。
年齢を重ねる毎にその小悪魔的な魅力は更に磨きがかかり、
今では正統派のアイドルとしてTBの三人の中で最も人気を集める存在となっていた。

(しかし……あのユーリちゃんが……)
昨日のあの出来事を、ヒロキは呆然と思い出しながらユーリを見つめた。
シーツで体を隠しながら、彼女は楽しそうに彼を見つめ返している。
ヒロキは罪の意識に苛まれながら、甘い記憶を思い起こしていた。
すらり、と伸びた手足に、これから豊かに実ることを予感させる可愛らしい乳房。
腰回りはほっそりとくびれ、肌は新雪のように白くきめ細やかだった。
少女だった頃からずっと彼女の成長を見守ってきたヒロキにしても、
それは魔法にかかったかのような――信じられないとしか、形容できないものだった。
「あ〜〜〜、おにいちゃん昨日のこと思い出してるな〜〜、えっちぃ」
「…………」
ヒロキの表情を鋭く読みとったのか、からかうようにユーリが微笑みかける。
だが頭の中身を悟られたことに焦る余裕すらなく――ヒロキは、なおも呆然としていた。
そんな彼のことを悪戯っぽく、しかし愛おしそうにユーリは見つめ続けている。
§


彼女のそうした小悪魔っぽい表情は、
あどけなさの残る愛らしい顔立ちと不思議に調和していた。
長年付き添ってきたヒロキでさえもぞくり、とさせるほどに。
(はぁあああ………なんでこんなことになっちゃったんだ?)
それは全て、ユーリのワガママから始まったのだ。
そして断り切れなかった自分の優柔不断さに、腹が立っていた。

「ねえねえおにいちゃん、おにいちゃんのお部屋見せて!」
「だから現場ではその呼び方は止めなさいって………って俺の部屋?」
「ウン!あのね、お仕事で男の子のお部屋のお片づけしなきゃいけないの!」
「部屋って……ああ、あの企画のことだよね?」
「そう。ユーリ、男の子のお部屋なんて入ったことないから」
それは『プチ変身計画!モテない君をアイドルが改造』という、とある番組の人気コーナーだった。
毎週素人男性の服装や髪型等を週替わりで人気アイドルが改造していく、という企画で、
ユーリは番組に募集してきた男子大学生の部屋をコーディネートすることになっていた。
「だからって……なんで俺の部屋なんだよ?」
「だ・か・ら!頼める男の人なんて、おにいちゃんくらいしかいないんだもん。ね、お願い!」
(まあ確かに……ユーリちゃんがヘタに他の事務所の男の子とかに頼んだりしたら、
大問題だしな。最悪そいつがユーリちゃんに手を出したりしたら、俺もクビだし)
冷静に考えてみれば、ユーリがヒロキを頼るのはもっともな話ではあった。
「……ま、気は進まないけど分ったよ。ただし分ってるだろうけどこの事は番組内は勿論、
カルナちゃんやシホにも内緒だよ?アイツら絶対変な風にとるだろうし」
「ウン!ありがとう、おにいちゃん」
(それだけじゃなくて……シホまで俺の部屋を見たいとか言い出すかもしれないしな。
ま、ユーリちゃんだけなら大丈夫だろ、この子案外しっかりしてるし……)
だが、そんなヒロキの思惑は―――結果として、裏切られるのであった。
「じゃ、今日はこの撮影で仕事終わりだから。おにいちゃんも今日は直帰だから良いよね?」
「!?え?今日いきなりなの?」
「だってあの企画、来週だよ?もう時間ないし」
「い、いや、だって俺の部屋散らかってるし、ちょっとは片づけないと」
「ダメだよ、おにいちゃん。汚い部屋をユーリがお片づけしてあげる、ってのがテーマなんだよ?
ご奉仕プレーみたいなものなの!おにいちゃんがお部屋をキレイにしちゃったら意味ないんだもん」
「……分ったから、ご奉仕プレーとか言わないで。どうせシホの仕込みなんだろうけど……」
はああ、と溜息をつくヒロキ。TB結成時から、
シホのエロネタにユーリがさらにボケで重なってきてカルナかヒロキがツッコミを入れる、
というのが4人の基本パターンではあった。
だがあの頃の意味が分っているのかいないのか、という年齢のユーリではない。
現在の彼女は大人未満少女以上の危うい魅力に満ちた、美少女なのである。
彼女の際どい言動は、正統派アイドルとして売り出している事務所としても、
マネージャーであるヒロキとしても、非常によろしからぬものなのだった。
「えへ、ごめんなちゃい、おにいちゃん!」
「………上目遣いで猫のマネしても、ダメだよ」
「にゃ〜〜、萌え狙いだとか言ってこのポーズの特訓させたのはおにいちゃんなのにぃ!」
「仕事として、だよ、それは。とにかく、やっぱ片づけてからじゃないと」
「や!ユーリ、汚いおにいちゃんの部屋を綺麗にするの!」
「だから、その呼び方止めろっての」
ヒロキにしてみれば周囲のスタッフから奇異の目で見られるのを避けたいだけなのであるが。
「しかし相変わらず仲が良いですね、あのふたり」
「デビューからずっとだしね。TBは個性派揃いだから井戸田さんも大変だ……」
実は心配するほど、現場における彼の評判は悪くなかった。
アクの強いシホ、おとなしそうに見えて扱いの難しいカルナ、ワガママの多いユーリという三人に、
デビュー以来振り回されながらも誠実に仕事をこなして売れっ子にしてきたヒロキは、
現場スタッフからそれなりの信頼を集めるようになってきていたのだった。
「やぁあああん、おにいちゃんがいじめるぅ!」
「分った!分ったから!」
§


「しかしワガママな姫を持つとじいやは大変やね、井戸田クン」
「あ!おはようございます、福本さん」
「わ〜〜い、福本さんだ!」
現れたのはTB初のグラビア撮影の仕事を一緒にして以来、
TBとは多く仕事で絡むようになったベテランカメラマン・福本だ。
「あはは、おはよう、ユーリちゃん。一年ぶりやけどまた一段とキレイになったねえ」
「えへへ、ありがとうございますぅ♪」
「あんま誉めないで下さい、また調子に乗るから」
「ぶぅ〜〜〜、ひどいマネージャーですよね、福本さん?おにいちゃんたらいつもこうなんですよ?」
「だからその呼び方は!」
「あははは、まあまあ、マネージャーさんとタレントさんの仲がよろしのはエエこっちゃで。
ま、旧交をあっためるのはこれくらいにして、撮影にしよか」
「はい!」
カメラマンやディレクターによってはテンションの差が出やすいタイプのユーリだが、
旧知の上タレントを乗せるのが巧い福本とあってかこの日の撮影はスムーズに進んでいた。
「――ああシホ?明日の『行列の出来る包茎相談所』の撮影だけど、
いつも通り東出さんの天然パーマネタをイジるようにね」
「分った。ねえねえ、東出さんって亀頭みたいな髪型ですよねって突っ込みを返すのは」
「ダメに決まってんだろうが!」
「――カルナちゃん?明後日の『まらちんのあそこまでイって委員会』なんだけど、
小田島さんには極力絡まずに三禿さんに上手く絡むようにね」
「分りました。宮地さんと橋本さんとはどう絡めば?」
「宮地さんは多分普通に絡んでも大丈夫だと思うけど、
橋本さんは絡みにくいだろうから適当に弁護士か子だくさんのネタで」
「確かにあの人、絡みにくいですね。下らない冗談ばっかり言ってると思うと突然鋭いこと言ったり」
「ま、大変だとは思うけどさ。そのあたりは君が頑張って……」
いつもならつきっきりで撮影を見守るヒロキだが、
カメラマンが福本のときは安心してユーリを任せることができるため、
合間を見つけてはカルナとシホのふたりに携帯で仕事の指示を与えていた。
「はい、カット!いや、相変わらず良かったよ、ユーリちゃん。お疲れさん」
「………ありがとうございます、福本さん」
「で、久しぶりやし、もし良かったらこれから井戸田クンも一緒にゴハンでもどう?」
途中まで上機嫌だったユーリだが、撮影が終わると表情が曇り出した。
気遣った福本が食事に誘うが―――
「………いえ、すいませんけど………今日は」
依然表情は晴れないまま――むしろ、険しくさえなっていった。
「?いいじゃん、ユーリちゃん。これが今日最後の仕事なんだし、ゴハンくらい……」
「今日は、帰るの!」
吐き出すようにヒロキに言い捨てると、そそくさとスタジオを後にするユーリ。
呆然と彼女の後ろ姿を見つめていたヒロキだったが、我に返ると慌てて周囲のスタッフに言った。
「あ、みんな、今日はお疲れ様でした、ゴメンね、ちょっとユーリちゃん調子悪いみたいで」
「「「は〜〜〜い、お疲れ様でした〜〜」」」
アイドルが撮影中に突然気分を害したりすることなど、日常茶飯事なのだろう。
ヒロキの心配をよそに、現場スタッフの反応は淡々としたものだった。
「すいませんね、福本さん。相変わらずあの子お天気屋で」
「あははは、エエんよ、井戸田クン。ボクはユーリちゃんのエエところもちゃんと分ってるつもりやし」
スタッフ一人一人に丁寧に謝り、最後に福本にも頭を下げるヒロキだが、
福本は気分を害した様子も無く、逆にヒロキを慰めるかのような口調だった。
「いえ、でもホントありがたいですよ。ユーリちゃんって結構難しいタイプなんですが、
福本さんにはすごくなついてますからね。正直今日の撮影だって福本さんだから」
「井戸田クン、それ以上は言うたらアカンよ?あの子はキミとこの大切なタレントさんなんやから」
「あ………はい、すいません」
福本の鷹揚な態度に、意識しない内につい気が緩んでしまっていたのだろう。
愚痴っぽい言葉を口に出しそうになったヒロキだが、福本は一転、真顔になって彼を諭した。
業界の大先輩にそんな気を使わせた自らの浅薄さに、ヒロキは自分を恥じるしかなかった。
§


「まま、せやけどしゃあないわね、相手は女の子っちゅう、
我々男が何千年かかっても手に負えん魔物やし。………ところで井戸田クン?」
ぐい、と福本が井戸田の袖を引っ張ると、耳元で囁いた。
「こんなこと、ここで聞くのはマナー違反なんやろうけど……カルナちゃんとは……」
「……キチンと、終わってます。すいません、色々ご心配をおかけして」
悄然と、ヒロキは答えるしかなかった。
―――カルナとヒロキは、つい半年ほど前まで、恋人同士だったのだ。
勿論、それがこの業界の禁を破ることなのはお互い承知の上で。
最初にその事実を知ったのは他ならない目の前の福本だったが、
彼はそれを旧知の仲である事務所社長の柏木レイコに告げるようなこともせず、
逆にその後もヒロキの相談に乗ってくれるなど、若いふたりの恋を応援さえしてくれていた。
ヒロキはそのことを思うと、申し訳無さでいっぱいになってしまうのだった。
(もし……もし、福本さんがその気になれば)
TBの人気が上昇した頃に、ふたりのことを写真週刊誌に売ることはたやすいはずだった。
そうなれば勿論ヒロキはクビであり、タブーを破った人間として業界に戻ることも許されないだろう。
「ゴメンな、井戸田クン。辛いことを思い出させたみたいで……せやけど、その後カルナちゃんとは」
「大丈夫ですよ。仕事上のパートナーに戻っただけですし。最初は確かに気まずかったけど……
有り難いことに仕事が忙しくて、意識することも少なくなりましたし。今じゃ普通にやってますよ」
「なら………エエねやけど」
福本はなおも心配そうな表情でヒロキを見ていた。ふたりの仲を初めて知った人間が、
業界内でも性格の良さで評判の人物であるという幸運に、ヒロキは改めて感謝していた。
「それより、今はユーリちゃんやで。余計なお世話やろうけど、彼女にもしっかりフォローしとかんと」
「あ、はい。まあ一応叱っておきますけど、そのあたりはしっかり」
「あと、あのね、井戸田クン?……ユーリちゃんを、あんま子供扱いせん方がエエと思うよ」
「え?」
「多分……あの子、気付いてるわ」
「?………あ!!え、え?そ、それって?」
周囲に聞かれないように小声で話してくれた福本だが、
ヒロキは彼の言葉の含む意味を察し、思わず驚愕の声を上げてしまっていた。
「なんとなくやけど……前からそう思っててん。今日のこともそれと関係があるかもしれん」
「で、でも……それとユーリちゃんが不機嫌になるのとなんの関係が」
「ま、そのうち分ると思うけど………気を付けてな、井戸田クン」
「は……はい」
福本の言わんとすること、それは―――
(まさか……まさか、ユーリちゃん……俺とカルナちゃんのことを)

帰りの車中、ユーリはずっと無言だった。
「まあさ、色々気に入らないこととか多いかもしれないけど……
それでも仕事なんだから、少しは我慢しようよ。それに今日は福本さんとの仕事だったろ?
ユーリちゃん、福本さんとまた会えるのをずっと前から楽しみにしていたじゃないか」
「………………」
「俺だって、福本さんのことはすごく好きだし、この世界の大先輩だしね。考えてみなよ?
君が調子悪そうだと思って、わざわざ食事に誘ってくれたんだよ?あの人だって、ヒマじゃないのに」
「………………」
いくらヒロキが言葉を投げかけても、ユーリは俯いたまま目を上げようともしなかった。
バックミラーには、彼女が右の親指の爪を噛んでいる姿が映っていた。
ユーリの不機嫌さが最高潮になったときだけにする、クセだ。
「それ、止めろ」
ヒロキの言葉に、びくッ、とユーリの体が震えた。
「君が……気持ち良く仕事できなかったっていうのは、マネージャーである俺の責任だ。
そのことで、俺を責めるのは、良い。だけど、福本さんにあんな態度をするのは、許さない。
それに、そのクセ………いくら言っても直らないけど、子供っぽいよ。少しは大人になりなさい」
言葉を投げかけてくれれば――直接不満を言ってくれれば――そう思っていたヒロキだが、
ユーリの周囲を拒絶するような態度にさすがに苛立ってしまい、つい強く叱ってしまっていた。
ヒロキの冷えた怒りを感じたのだろう。幼子のように、シュンとしてしまうユーリ。
§


(ちょっとキツすぎたかな?でも、やっぱり変だな。最近のユーリちゃん、割合調子良かったし……
それに、今日の相手は福本さんだったのに。やっぱりカルナちゃんと俺のことを……)
頭の中で色々と思案を巡らせるヒロキだが、いきなりカルナとのことを問うわけにもいかず、
それ以降無言になってしまい―――叱られたのがショックなのか、ユーリも無言のままだった。
「じゃ、今日はマンションまで送りで良いね?」
長く続いた沈黙をようやく破ったのは、ヒロキの事務的な発言だったが――
「…………ダメ」
ユーリから帰ってきたのは、小さな、しかし強い意志のこもった拒絶の声。
「?事務所に忘れ物でもしたの?」
「………忘れてる」
「…………?……あ、もしかして……」
「おにいちゃんの、お部屋」
「でも君の調子が悪いなら、別に今日でなくても」
「ダメ。だってあの番組の収録、来週だし。今日くらいしか時間ないでしょ?」
「……まあ、そうなんだけど」
気まずい雰囲気のまま、ユーリを自分の部屋に入れることも気が進まなかったが、
それ以上に―――今更ながら、ヒロキは気付いた。
(やべ……多分、カルナちゃんの気配の残るものとかは無いはずだけど……)
一応別れたときにカルナの持ち物は全て処分したはずだった。
だが多くの読者諸氏も経験があるだろうが――女の子というのは不思議なもので、
男の気付かないところから過去の女の子の気配を嗅ぎ取るものである。
深い考えもなくユーリの願いに応じてしまった自分の軽率さを、今更ながら悔やむヒロキであった。
「でも……」
「じゃなきゃ、この前番組で無理矢理メアド教えてきたコンドームブーツの篤さんに、
お部屋のお掃除させてってお願いしちゃうもん」
「(んなことがあったのか……)わ、分ったよ。その代り、そのメアド、即消去してよ?」
「………分った」
女癖の悪さで評判のお笑い芸人の名前を出されては、ユーリの言うことを聞かざるを得ない。
はああ、と心の中で盛大に溜息をついてクルマを自分のマンションまで回すのだった―――

「結構立派なんだね、おにいちゃんのマンション」
「声出すなって、バレたら大事なんだから」
ユーリをこのまま部屋に招き入れることが危険なのは、ヒロキも十分承知していた。
車をマンション近くの駐車場に停め、車内でユーリに帽子とメガネをかけさせて変装させた。
(事務所にバレたらクビは無くても減給ものだよなあ……それとさっきの駐車料金、
経費で落ちねーよな……最近三瀬さん厳しいし……あ〜〜あ)
セコイ事を考えながら、ヒロキはオートロックを解除した。
まだキョロキョロしているユーリの手を握って引くと、エレベーターの中へと導く。
「分ってるだろうけど、部屋の前で誰かに会っても、絶対に」
「声を出しちゃダメなんだよね?分ってるよぉ」
(ふぅ………機嫌が少し直ってくれたのは、良いんだけど)
それでも、まだ危険が去った訳ではない。なにしろ有銘ユーリと言えば、
人気急上昇中のアイドルなのだ。今この瞬間も、写真週刊誌が監視しているかもしれない――
そんな最悪の可能性を考えて、手のひらに汗を滲ませるヒロキ。
(もし……こんなことが原因でこの子の将来を潰してしまったら、俺はマネージャーとして……)
「おにいちゃん……緊張してるの?すごい汗。それに、右手」
「あ……ゴメン、ユーリちゃん、痛かった?」
緊張からか、握っていた右手につい力をこめてしまっていたようだ。
慌ててユーリの手をほどこうとするが、彼女はしかし、ヒロキの手を離そうとはしなかった。
「ゴメンね……おにいちゃん、今日はユーリ、ワガママばっかり言って」
「……仕方が無いよ。人間誰でもイライラするときはあるし。でもね、ユーリちゃん?
不満をぶつける相手は、俺だけにして欲しいんだ。福本さんやシホやカルナちゃんみたいに、
ユーリちゃんのことが好きな人たちなら分ってくれるだろうけど、みんながそう言う訳じゃないからさ」
「ウン……ゴメンなさい、おにいちゃん。あの……おにいちゃん?」
「?なに?」
§


「あの……あのね、私」
"ウィ〜〜〜ン" 
なにか言葉を継ごうと迷うユーリだったが、それはエレベーターの扉が開くまでに間に合わなかった。
ヒロキはユーリが何か言おうとするのを制して素早く周囲を見渡し、手を引いて駆けだした。
部屋の前に着くとはやる心を抑えながら鍵を回してドアを開け、
先にユーリを部屋へ入れて隠れるように自分も部屋の中へ入った。
"カチッ、ガチャッ"
内鍵とチェーンキーをかけて玄関照明のボタンを押すと、ようやく一息ついたような気分になった。
「ゴメンね、ユーリちゃん。急いじゃったけど、大丈夫?」
「う、ウン。大丈夫」
ヒロキの迅速な行動に、目をパチクリさせながら答えるユーリ。
しばし呆然としていたが―――やがて、気付いたように玄関を見渡した。
「ふぅ〜〜ん。外で見たより、狭いんだね。ワンルームみたい」
「ああ。実はココ、前にマイちゃんが住んでたところでさ。
防音とセキュリティはしっかりしてるんだけど、広さは大したことないんだよね」
「?マイちゃんが?」
「うん。あの子がそこそこ売れ出してココじゃ手狭だし違うところに移りたい、
って言い出したときにちょうど俺も引っ越しを考えてて。社長の薦めもあったし、
ここなら職場にも近いし良いかな、って思って引っ越したってワケ」
「ふぅん………あ、お邪魔します」
「ああ、今更だけど、どうぞ。汚い部屋だけど」
狭い玄関で苦労しながらなんとかブーツを脱ぎ、ヒロキの案内に続いて部屋へと入るユーリ。
「へえ〜〜〜、これがおにいちゃんの部屋……」
「………汚いだろ?」
「汚くは、ないよ。ウン、確かにキレイじゃないけど」
「………どっちなんだよ」
ひとりだけ得心のいったようにうんうん、と何度も頷くユーリを横で見ながら、苦笑するヒロキ。
―――確かに、お世辞にも綺麗な部屋とは言えなかった。
下着や靴下が床に脱ぎ捨ててあったり、ゴミが転がっているわけではなかったものの、
書きかけの企画書らしきものがそこら中に散らばり、
CDや雑誌も整理されて収納されるわけでもなく床の上に平積みの状態だ。
ジャケットやジーンズといった衣類も無造作にパイプハンガーにまとめて吊されていた。
「うん、でもこれくらいの方がお片づけにはちょうど良いよね。よし!
それじゃ、おにいちゃん、雑巾とバケツと掃除機を貸して!」 
「あ……ああ。いいけど」
こうなってしまえば、最早ユーリのペースである。彼女の言うがまま、
ヒロキが掃除用品を急いで集めると、ユーリはテキパキと雑誌や企画書をまとめ始めていた。
「ねぇねぇ、大切な雑誌とかプリントとかはあるの?」
「いや……そこいらは君たちのことが掲載されてる記事をスクラップするために買った雑誌だけど、
全部処理済みだから捨てても大丈夫だと思う。雑誌以外は没った企画書ばっかのはずだし」
「分った。じゃ、まとめるからヒモとかちょうだい」
「ああ……」
普段はどちらかといえばおっとりした感じのユーリだが、
元々は下町育ちで、スイッチが入ってしまえばこの通りチャキチャキした子なのだ。
生き生きとした様子で部屋を片づけているユーリを見ながら、ヒロキはぼんやりとそう思っていた。

「どう?結構キレイになったでしょ、おにいちゃん」
「あ………ああ、そうだね、ありがとう、ユーリちゃん」
二時間ほども過ぎた頃には、ヒロキの部屋は見違えるほどキレイになっていた。
「へええ……案外広かったんだな、俺の部屋……全然気付かなかったよ」
「でも雑誌とかをお片づけして掃除機かけて雑巾がけしただけだもん。
せっかくのお部屋なのに、散らかりすぎだよ」
「ま、社会人ともなると色々忙しくてさ」
「言い訳しないのぉ!あとゴハンも作ったげるね」
「え?い、いいよ、そこまでは……」
§


「ダメだよ、今日はユーリのワガママでゴハン食べられなくなったんだから、おわびなの」
「でも……」
「いいの、作るの!」
ヒロキが止めるのも聞かず、ユーリはエプロンを着込んでキッチンをガチャガチャと物色している。
(はぁぁぁ……エプロン持ってきたってことは最初から計画してたな。結局、ユーリちゃんのペースか)
半ば諦めかけて彼女の後ろ姿を眺めるヒロキだが、未練がましく一応抵抗する。
「でも冷蔵庫ん中なんて、ビールぐらいでほとんど」
「大丈夫だよ。ユーリ、パスタとインスタントだけどミートソース持ってきてるし」
(やっぱり計画犯だったんだな……)
はぁ、と今日何度目になるのか分らない溜息をつくが、
既に鍋を探し出したユーリはその中に水を張って温め始めた。
「それじゃおにいちゃん、パスタ盛りつけるお皿の準備して」
「へいへい……」
完全に諦めたヒロキはユーリの言うがまま皿の準備をした。
じきに鍋の中の水は沸騰し、ユーリはパラパラと円の形に広げるようにパスタを入れた。
くっつかないよう箸で掻き混ぜ、固茹でになる前にインスタントのソースを入れてしばらく待つ。
「これくらいかな?よいしょ」
茹で上がりのタイミングで、笊にパスタをあけた。
水気を切り、ヒロキの準備したパスタ皿に盛りつけると一緒に温めたソースをかける。
「はい、簡単だけどできたよ、おにいちゃん」
「ああ、ありがとう。じゃ、いただきます」
ごくごく簡単に作られたパスタだが、意外に味は悪くなかった。
「へえ……おいしいな」
「ふふ〜〜♪ありがとう、おにいちゃん。このパスタソースね、
インスタントの割には結構イケるってシホちゃんやカルナちゃんにも好評なんだ」
「うん、お店並とは言わないけど、手作りって言われても信じちゃいそうなくらいだね」
「パスタは?ちょっと固かった?」
「いや、俺はどっちかと言えば固めが好きなんでこれくらいが」
「良かった〜〜♪私も固めが好きなんだけど、シホちゃんが柔らかめが好きなんで、
部屋で作るときは苦労するんだ」
「ああ、そっか。食事、当番制だもんね」
「ウン。でも一番味にうるさいシホちゃんが一番作らないんだけど」
「………まったくアイツは」 
顔を見合わせて苦笑するふたり。ギクシャクした感じはまだ完全には消えないものの、
少しずついつもの自然なふたりに戻りつつあった。
(そう言えば……カルナちゃんも、たまに部屋に来て飯作ってくれたな)
「………おにいちゃん?」
「え?」
回想モードに入りかけたヒロキだが、ユーリの声に気付いて視線を彼女にやると――
(げ…………)
思いっきり、キツく睨まれていた。
「あ、あの?ユーリちゃん、俺なにか」
「……………」
そのまましばらくヒロキを睨み続けていたユーリだったが―――
やがて目を伏せると、絞り出すような声で、言った。
「思い出してる………」
「な、なにを」
「おにいちゃん、カルナちゃんのこと、思い出してるんでしょ?」
「!?&!ゆ、ユーリちゃん?君、いきなり何を」
「なんで?」
「え?」
「なんで、ユーリのお仕事のときに、カルナちゃんに電話したの?」
「あ……さっきのこと?あれはさ、明日収録が入ってる番組の関係で」
「でも、おにいちゃんカルナちゃんと話してるとき、楽しそうだった……
私やシホちゃんと話してるときと、全然違った」
§

No Titleあかほん1:郭泰源氏 後編

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Wiki内検索

どなたでも編集できます