【平安京について】
(1) 延暦13年(794)、桓武天皇は( )から平安京に新しい都を遷した。
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(ア)長岡京
(イ)平城京
(ウ)難波京
(エ)藤原京
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《解答》長岡京 公式テキスト[増]19ページ/[新]13ページ
《要点》延暦13年(794)10月、桓武天皇により長岡京から平安京に遷都/わずか10年前に平城京から長岡京に都を遷したばかり ※早良親王の怨霊の呪いから逃れるため
(2) 平安京は中国唐代の( )をモデルとして計画的作られた都市である。
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(ア)紫禁城
(イ)南京城
(ウ)統万城
(エ)長安城
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《解答》長安城 公式テキスト[増]22ページ/[新]14ページ
《要点》平安京は唐(現在の中国)の時代の大都市「長安城」をモデルとして計画的作られた北闕型(ほっけつがた)都市/その規模は長安城のわずか3分の1の過ぎなかったが、南北約5.2km、東西4.5km
(3) 平安京の中央には、都城南端の正門である( )から大内裏へまっすぐ通じる朱雀大路が施設された。
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(ア)羅城門
(イ)朱雀門
(ウ)南大門
(エ)建春門
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《解答》羅城門 公式テキスト[増]20ページ/[新]12ページ
《要点》平安京の中央には道幅85mにも達する朱雀大路が南北に貫く/その南端にある正門は羅城門/大内裏へと行きついた門は朱雀門
(4) 平安京の地相は「北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎」といわれているが、この北の玄武は( )とされている。
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(ア)鞍馬山
(イ)船岡山
(ウ)比叡山
(エ)吉田山
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《解答》船岡山 公式テキスト[増]22ページ/[新]14ページ
《要点》平安京の場所を決める際には「四神相応」と呼ばれる地相(立地に関する占い)が用いられた
それぞれの方角には「北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎」という守護神が存在するというもの
候補地の葛野郡周辺は北に大山(船岡山)、南に大池(巨椋池)、東に大川(鴨川)、西に大道(山陰道)が存在したため新都に相応しいとされた
(5) 平安京は大路と小路によってブロック毎に区切られていた。この碁盤目状の都市区画制度を( )という。
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(ア)短冊制
(イ)縦横制
(ウ)辻子制
(エ)条坊制
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《解答》条坊制 公式テキスト[増]22ページ/[新]15ページ
《要点》平安京はモデルとされた長安城と同様に京域内を碁盤の目のように大路と小路と呼ばれる道路でブロックごとに区切られた ⇒ このような都市区画制度を「条坊制」という
その単位は、一条=四坊・一坊=四保・一保=四町(一条=六十四町)として整備(1町=約120m四方)
【幕末維新について】
(6) 京都守護職であった松平容保率いる会津藩は、( )を本陣とした。
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(ア)真如堂(しんにょどう)
(イ)壬生寺(みぶでら)
(ウ)金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
(エ)本法寺(ほんぽうじ)
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《解答》金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) 公式テキスト[増]41ページ/[新]49ページ
《要点》文久3年(1863)に上洛した清河八郎ら浪士組は分裂 ⇒ 近藤勇や芹沢鴨らは京都守護職であった松平容保(まつだいら かたもり)率いる会津藩が預かる
その本陣は金戒光明寺に置かれ、尊王攘夷派の取り締まりを任された ⇒ その後、この一団が「新選組」となる
(7) 元治元年(1864)、新選組が尊王攘夷派の長州藩士らが会合する三条木屋町西入の旅籠( )を襲撃した。この事件をきっかけに、禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。
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(ア)成田屋
(イ)播磨屋
(ウ)池田屋
(エ)近江屋
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《解答》池田屋 公式テキスト[増]42ページ/[新]50ページ
《要点》元治元年(1864)6月、三条小橋の旅籠「池田屋」に集まっていた尊王攘夷派の長州藩士らが新選組の襲撃を受け、多くの死者と逮捕者を出した
この会合では新選組に逮捕され拷問を受けていた、倒幕派のアジトとされた枡屋喜右衛門の主人であった小高俊太郎を奪還するための作戦会議とされている
この襲撃を一般に「池田屋騒動」(または池田屋事件)といい、これをきっかけに翌月の「禁門の変」(蛤御門の変)が勃発
(8) 伏見区にある船宿である寺田屋で( )が幕吏に襲撃されたが、後に妻となるお龍の機転によって難を逃れたエピソードが残っている。
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(ア)坂本龍馬
(イ)近藤勇
(ウ)中岡慎太郎
(エ)佐久間象山
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《解答》坂本龍馬 公式テキスト[増]44ページ/[新]53ページ
《要点》慶応2年(1866)1月、伏見にあった船宿「寺田屋」に薩長同盟の仲介の大役を果たしたばかりの坂本龍馬に対して、伏見奉行が差し向けた幕吏が襲撃
それを察知した女中のお龍(のちに龍馬の妻となる)が機転を利かせて、難を逃れたというエピソードが残っている
(9) 慶応3年(1867)、徳川慶喜は( )で大政奉還を行った。
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(ア)京都御所
(イ)二条城
(ウ)伏見城
(エ)淀城
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《解答》二条城 公式テキスト[増]38ページ/[新]44ページ
《要点》慶応2年(1866)12月に徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けた ⇒ 翌年(1867)10月には政権を天皇に返上する「大政奉還」の舞台となった
(10)( )は、慶応4年(1868)正月に始まった戊辰戦争の発端となった。
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(ア)山崎の戦い
(イ)鳥羽・伏見の戦い
(ウ)島原の乱
(エ)五稜郭の戦い
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《解答》鳥羽・伏見の戦い 公式テキスト[増]38ページ/[新]53ページ
《要点》慶応4年(1868)1月、攻勢を強めた薩摩藩や長州藩を中心とする「新政府軍」は、現在の城南宮西側にある鳥羽離宮公園付近で旧幕府軍に対して宣戦布告
この戦いでは特に伏見の中心部で、御香宮に本陣を構えていた薩摩軍と、南方の伏見奉行所に陣取った新選組との間で激戦
さらに戦場は京都から東へ北へと移り、最後は翌明治2年5月に函館の五稜郭へと続く一連の攻防である「戊辰戦争」の発端となった
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