☆ただし、以下のワードについては、小論文内に必ず含むこと
- 譲位の契機となった事件
- 上皇の中宮で社寺や伝統文化の復興に尽力した人物
- その時代に活躍した文化人のうち「風神雷神図」(国宝)を描いた画家
- 立花会の指導的役割を果たした華道家
- 上皇が造営した山荘
解答チェック
《解答例》 ※これらのポイントうち、赤字のキーワード部分を含む解説を適正に記述することができて正答 公式テキスト[増]34・36・192ページ/[新]40・43・241ページ
◦ 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は安土桃山時代終盤の文禄5年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年(1611)に15歳で皇位に着いた。
◦ 一方、関ヶ原の戦いに勝利して天下の覇権を制した徳川家康は、江戸幕府を開き朝廷に対しても抑制策を図った。同18年には、「公家衆法度」「勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)」を制定。
その2年後には「禁中並公家諸法度」を発布した。
◦ それと時を前後するように江戸幕府も二代秀忠の時代になると和睦に向けて画策をはじめ、元和6年(1620)に秀忠の娘の和子(まさこ)が後水尾天皇の女御(にょうご)となり、寛永3年(1626)
には二条城行幸を秀忠と家光が上洛して迎えるなど公武和合の一旦も垣間見えていた。
◦ それにも関わらず、朝廷への圧迫と統制に対して鬱屈とした後水尾天皇は、寛永6年(1629)に幕府の意向を反故にしてわずか7歳だった二女の興子内親王に譲位した。
◦ ちなみに“紫衣”とは紫色の法衣や袈裟のことで、古くから高僧の着衣を示していた。これに対し、幕府は「勅許紫衣法度」によりこれを禁じたが、後水尾天皇は聞き入れず紫衣着用の勅許を与えた。
このことが一連の幕府と朝廷の対立のきっかけになったことから、象徴的に「紫衣事件(しえじけん)」と呼ばれている。
◦ その一方で中宮となった和子は、天皇譲位を機に院号宣下を受け“東福門院”の号を賜った。また、兄である三代将軍家光との関係も良好で幕府とも折り合いを図って潤沢な資金提供を受け、
衰退していた京都の社寺や伝統文化の復興に尽力した。
◦ そんな混迷の時代に活躍したのが、建仁寺所蔵「風神雷神図」屏風(国宝)などで知られる俵屋宗達である。宗達は桃山文化を代表する絵師であり、本阿弥光悦とともに“琳派”と呼ばれる
大胆な構図をモチーフにした画派の祖ともいわれている。
◦ この時代の主要な文化人としてもう一人忘れてならないのは、後水尾天皇に召されて禁裏の花会を指導し、「立華(りっか)」を大成したことで知られる二代池坊專好である。
◦ 幕府の朝廷圧迫政策を不満として自ら退位した後水尾上皇は、退位から四半世紀が過ぎた承応4年(1655)になって隠棲の地を洛北に求めて広大な山荘「修学院離宮」を造営した。
この山荘は4年後の万治2年にはほぼ完成していたが、造営にあたっては上皇自らがプランを練っていたと文献にも記されている。
コメントをかく