最終更新: kyo_miyato 2017年04月28日(金) 18:03:51履歴
琵琶湖疏水は琵琶湖と京都を結ぶ水路で、明治18年(1885)に着工し、同23年(1890)に完成した。竣工を祝して( 71 )が並び、大文字が点火されるなど、市中は喜びに沸いた。 この大事業を強烈な推進力で実現させたのは、第3代京都府知事の( 72 )と工事主任に抜擢された若き技術者の( 73 )であった。また、測量主任の( 74 )や、疎水計画全体の調査などを行った農商務省の南一郎平の名も忘れてはならない。 疎水の大津三保ヶ崎と京都蹴上の間には3本のトンネルが掘られ、それぞれの出入口や内部には著名人による扁額が掲げられている。このうち第1トンネルの西口には山県有朋の揮毫による「( 75 )」の文字が残る。 疎水は当初水車による動力確保を目指していたが、京都商工会議所の初代会長であった( 76 )らの渡米視察により、途中から水力発電に切り替えられた。これによって、明治24年(1891)に蹴上発電所が完成。この電力を使って日本最初の市街電車が、塩小路高倉と( 77 )の間を走った。 蹴上の船溜りを出た疎水は分岐し、東山山麓を北流するルートと、市街地を南下して伏見に至るルートに分かれる。北流する疎水は、南禅寺の境内に造られた「( 78 )」を通って、哲学の道と並流し、聖護院や北白川一帯を潤して松ヶ崎で南折する。この分線は、北が高い京都の地勢に逆らって北流することで知られる。 京都百年の大計として行われた琵琶湖疎水建設は、当時の日本の技術の粋を集めた国家的事業であった。平成元年(1989)、事業を記念して「( 79 )」が開館し、同8年(1996)には、関連施設12ヵ所が国の( 80 )に指定された。平成22年は「疎水完成120周年」にあたる。 |
(71) 琵琶湖疏水は琵琶湖と京都を結ぶ水路で、竣工を祝して( )が並び、大文字が点火されるなど、市中は喜びに沸いた。
(72) この大事業を強烈な推進力で実現させたのは、第3代京都府知事の( )と工事主任に抜擢された若き技術者の( 73 )であった。
(73) この大事業を強烈な推進力で実現させたのは、第3代京都府知事の( 72 )と工事主任に抜擢された若き技術者の( )であった。
(74) また、測量主任の( )や、疎水計画全体の調査などを行った農商務省の南一郎平の名も忘れてはならない。
(75) 疎水の大津三保ヶ崎と京都蹴上の間には3本のトンネルが掘られ、第1トンネルの西口には山県有朋の揮毫による「( )」の文字が残る。
(76) 疎水は当初水車による動力確保を目指していたが、京都商工会議所の初代会長であった( )らの渡米視察により、途中から水力発電に切り替えられた。
(77) これによって、明治24年(1891)に蹴上発電所が完成。この電力を使って日本最初の市街電車が、塩小路高倉と( )の間を走った。
(78) 蹴上の船溜りを出た疎水は分岐し、北流する疎水は、南禅寺の境内に造られた「( )」を通って、哲学の道と並流し、聖護院や北白川一帯を潤して松ヶ崎で南折する。
(79) 平成元年(1989)、事業を記念して「( )」が開館し、同8年(1996)には、関連施設12ヵ所が国の( 80 )に指定された。
(80) 平成元年(1989)、事業を記念して「( 79 )」が開館し、同8年(1996)には、関連施設12ヵ所が国の( )に指定された。
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