武闘派路線

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電網世界の制覇という西村の野望完遂のためには、2ちゃんねるの名を世に知らしめねばならなかった。

どんな手段を使っても。例え、それが悪名でも・・・

ここで唐突に本筋に関係のない話を入れます。
あれはもう10年以上前のこと。わたし(筆者)は本を買うためにとある都内大型書店のレジで会計をしてもらっていた。
あんなことさえ起きなければ、とうにわたしの記憶から忘れ去られていたであろう日常の一時である。
わたしがいた隣のレジにその男はやってきた。何の気なしにわたしはその男に目をやった。
20代後半ぐらいだろうか風采は茶色のシャツにジーパンを着た出腹の短髪、メガネ。
わたしはその男から尋常でない何かを感じた。

「この男、只者ではない。」

わたしはその男に注目した。見ると奇っ怪なことに全く同じ雑誌を2冊手にしている。

「これには何か重大な意味があるに違いない。」咄嗟にそう感じた。

表紙は当時ドコモのポケベルのCMなどでブレイクしかけていた若き日の広末涼子。

「広末涼子は処女である。」

誰しもそう信じ、人々がまだ夢を見ることが許される幸せな時代だった。
その男はレジに同じ雑誌2冊を差し出し、こう言った。

「あ、あ、あ、、あの、これ、どっちがカワイイ、で、ですか?」

レジの女性店員は、いかにも対処に困っているようだった。


話を本筋に戻します。
1999年7の月。ノストラダムスの大予言により人類が滅亡する予定だった年月。世の中ではそれらしいことも起こらず、人々はごく平穏な日常生活を送っていた。アンゴルモアの恐怖の大王が天から落ちてくることもなかった。
一方、芸能界では激震が走っていた。当時のトップアイドルだった広末涼子が早稲田大学入学そして登校騒動を巡って芸能マスコミから激しいバッシングを受けていたのである。偶像は引きずり下ろされようとしていた。

この頃、広末涼子はドコモのCMに出演していた。ドコモ各支店はホームページを持ち、その中の一つドコモ埼玉支店のHPは掲示板(BBS)を運営していた。今ならば企業のHPは書き込み事前検閲制(マンセー意見しか公開してあげない)か会員制が当たり前で、そもそも掲示板を設置しない場合が多い。この頃はまだ双方向コミュニケーションとやらの幻想があり、誰でも書き込める掲示板を設置している企業HPが割合に多かった。

広末バッシングは当時ようよう普及しかけていたインターネットにも波及する。ドコモ埼玉支店の掲示板にも広末涼子を批判する書き込みがなされた。すると掲示板の管理者は速攻で書き込みを削除。これは人間の性(さが)であろうか、書き込みを削除されると腹が立つ。また広末涼子について書き込む。管理者はまた間髪をいれずに削除。とにかく、広末という単語があると中傷と見なし容赦なく削除。削除。削除。削除。この掲示板の管理者は世間の広末バッシングに対してかなり過敏になっていたようだ。

この頃はまだ“あめぞう”は健在であった。“あめぞう”芸能にスレッドが立てられ、有志がドコモ埼玉掲示板へ突入するが、管理人に前にことごとく玉砕する。もちろん、こんなことで引き下がるわけはなく突撃が繰り返される。そうこうしていると、まだできて間もない2ちゃんねるにもスレッドが立てられた。スレタイは「ドコモ埼玉支店BBSの凄まじい攻防戦」。

この抗争では、2ちゃんねる側は西村自らが指揮を執っている。

「こういうのって妙に燃えてくるよね。えへえへ。」

“あめぞう”・2ちゃんねる住民の数時間にわたる波状攻撃に末にドコモ埼玉支店掲示板は陥落し、閉鎖に追い込まれた。抗争の火の手はドコモ茨城支店にも飛び火し、同じく閉鎖に追い込まれている。

この抗争事件は新聞沙汰になり、7月23日「広末さん中傷書き込み ドコモ埼玉・茨城 HP掲示板を閉鎖」と題して全国紙で報道された。
最初の大規模抗争事件の勝利により、2ちゃんねるはその力の程を電網世界へ誇示したのである。

この抗争事件を皮切りに、2ちゃんねるは武闘派路線へ突き進んだ。

2ちゃんねらーたちは各地の掲示板に出没しては、場所柄もわきまえず「氏ね」「逝ってよし」「すくつ(巣窟・正しくは「そうくつ」)」「ガイシュツ(既出・正しくは「きしゅつ」)」など乱暴な2ちゃんねる用語をお構いなしに使い傍若無人に振る舞ったという。
そして、“痛い”管理人の掲示板を見つけてはURLを2ちゃんねるに晒し、突入して荒らし次々と閉鎖に追い込んでいった。脆弱な個人運営の掲示板なぞは2ちゃんねらーが集団で押し寄せればひとたまりもなかった。

「うらうらー、なめたマネすっと2ちゃんにスレ立てっぞ!!」

それでも屈せずHPを閉鎖しない者たちに対しては、過酷なヲチの運命が待っていた。ヲチとは2ちゃんねる内に対象者のスレッドが立てられてネット内外での行動が監視され、何ヶ月も下手をすると何年も延々とネチネチネチネチと叩かれ続けるのである。2ちゃんねるからヲチされる精神的な重圧は当事者にとっては計り知れぬものがあるという。

2ちゃんねるでの誹謗中傷について、西村はこううそぶいている。

「言うのも悪いが、言われるほうにも原因があるうだろう。」

その後も2ちゃんねるは「銃夢ハンドル事件」「小金井某市議掲示板閉鎖事件」などマスコミ沙汰になるネット騒動の中心となり、抗争を繰り返すたびにその勢力を拡大していった。

そして、2000年5月3日。あの事件が起こる。


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この作品は実話を元にしたフィクションであり、実在の人物、団体、インターネットサイトとは関係ありません。
ここに書かれている内容は、実際とは異なる場合がかなり多いでしょう。
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2008年03月22日(土) 05:49:30 Modified by battlewatcher




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