当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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純文学の能無し

 ここに書いたことは『チン太のこと』の解説の解説にも描いたのでそちらもご参照ください。

 純文学とは、wikipedia情報ですが「大衆小説に対して娯楽性よりも芸術性に重きを置いている小説」らしいです。
 ということは、エンターテインメント性が稀薄だということです。エンターテインメント性が稀薄だということは、商業的には成功がしにくいということです。当然、村上春樹のような例外はあるわけですが。

 村上春樹みたいな商業的に成り立つものを公表・頒布することは止めはしませんが、そうではない純文学を発表する意味はどこにあるんでしょうか。作者の自己満足なんでしょうか。作者が書きたいだけなら、わざわざ人に読んでもらう必要はないと思います。人に読んでもらうからには、何か伝えたいこと(=主題)があるのでしょう。
 でも、主題を伝えるのであれば、それだけを抽出して伝えるのがよほど直截で完結だと思います。純文学というのは物語ですが、物語は具体的なエピソードの奥に伝えたい主題を隠してしまうので、具体性によって訴求力が増す反面、長くなるとともに主題が伝わりにくくなってしまいます。

 例えば、「お金ばかりを追求する拝金主義は良くない」ということを伝えたい物語を筆者なりに書いてみます。

富豪がジェット機に乗ってしまいました。ジェット機は故障し、砂漠に不時着しました。生存者は富豪と乗り合わせた庶民の男性客一人だけでした。富豪は腹に札束をいくつも抱えていましたが、砂漠の照り付ける太陽で息も絶え絶えの状態でした。ふと富豪が生き残った男性客のほうを見ると、水筒から水を飲んでいるではありませんか。富豪は札束を出して男性客に言いました。「その水を、分けてくれ。一口につきこれを一束やろう」男性客は答えました。「嫌です。私は、死にたくありません」富豪はゆっくりと目をつむりました。

 ほら。長いでしょう。それに一回読んだだけでは拝金主義批判という主題が伝わりにくいでしょう。「飛行機に乗るときは注意しろ」という主題だとも読めるのではないでしょうか。

 こういうことがあるので、純文学を書く場合は、せめて作者本人が解説を用意して主題を説明すべきだと思うのです。そうすれば主題が伝わりにくくなるという弊害を防止したうえで具体的なエピソードの訴求力という物語のメリットを存分に享受することができます。
 でも、このような解説がある純文学は少数派ではないかというのが筆者の今のところの印象です。だから、文学者みたいな作者以外の第三者がその作者の意図を推理するという非効率な状態に陥っています。作者本人の態度がはっきりしないので、主題を推理するという議論は紛糾して訳の分からないことになっていることも少なくありません。なぜこんなことになっているのでしょうか。

 筆者が立てた仮説は、今のところ以下の二つです。

1.作者も、自分が書いた物語の主題が何か分かっていない(=純文学作家というのは、物語を書く能力はあってもそこから何らかの主題を抽出して言語化する能力がない)
2.物語に込められた主題自体が陳腐(前述の、「拝金主義は良くない」みたいな言い古された言説)なので、それがバレるのを避けたいから敢えて黙って煙に巻いている

 どうでしょうね。1.に関して追加で言うならば、物語を書く能力とそこから主題を抽出する能力というのは完全に別物ですからね。作家には主題から物語を組み立てるタイプも、まず物語を書いてしまうタイプも両方いると思いますが、後者は1.に当たる場合が多いのではないでしょうか。逆に前者は、主題が分かっているので黙っている必要はないと思いますが、こちらが黙っているのは2.に該当するからでしょう。2.は、それっぽいものを作って「すげえだろ。お前らには分かんねえだろ」とふんぞり返っている裸の王様そのものです。それでいいんでしょうか。本人は、いいんでしょうね。

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