5-177様

(何処で、間違えたの)
それは、『ウィリー・ウィリー』に保護されてこの方、幾度となく反復した自問だった。そして、彼女は回想する。

出会ったのは、この世界の吹き溜まり。歓楽街の路地裏で。そのときはただ、興味を持ったのだ。何かに、引き寄せられるように。『探偵さん』。花街では珍しくもない、その存在に。軍人、訳有り、異種、旧人類。あの場所に
「珍しい部外者」など在る筈もない。

(ひょろりと高く伸びた身体を、着古したシャツに包んで。着ている服は、わたし
 の知る限りでは、いつも同じ。同じではないけれど、おなじ。みじかい漆黒の髪、
 瞳は冱えたうすい緑。莫迦を気取るけれど、本当の意味で、その奥に張り詰めた
 ものが緩むことはない)

そんな人間、スラムでは珍しくもない。多少、身奇麗ではあったけれど、彼はあの場所に一部の違和感もなく馴染んでいた。だから、何ごともなく、それで終わっていた筈の、有り触れた出会い、そのはずだった。
―――そして、そうはならなかった。

(わたしが、アトキンズの娘、そういう素体だったから)
旧人類の手で作り出された、太古の魔女の血を継ぐ吸血鬼の一族、最後の一人。
誰も幸福にならない、不毛な、何も産みださない、そんな出会いだった。
ほんの少しだけ心を許し、慕っていた青年は、義母の亡骸を前に膝をつく彼女に、自らの裏切りと、目的とを明かした。所属組織である某国諜報機関の、異種対策室と渡り合う為に、彼はマリィと義母に接触し―――そして、その結果、隠密に軍への敵対行動を取っていた義母は命を落とすことになったのだということ。
今後、彼のシナリオには、異種の王の娘たる彼女の身柄が必要となること。

彼女は、彼の申し出を受けた。
義母が生前就そうとした事、すなわち異種たちの血を呑み込んで回る工作機械、
『血の塔』を破壊する、その機会を得るために。
全てを失った彼女は、せめて、義母が生前、望んだことに殉じようと、決めた。
そして、あの日、マリィは、他者と深く関わることを自らに禁じた。

悲しまないように、悲しまれないように。
研究所から連れ出し、養ってくれた義母。
世界を認識することすら覚束無かった彼女に、笑い方を教えてくれた。
その人は今はもう居ない。この世界の、何処にも。
死んだ。ちっぽけな鉛球に打ち抜かれて、それきり。

碌でもない生まれだったものの、迫害された経験は無い。研究所時代は腫れ物よろしく扱われていたし、義母と過ごしたスラムは、もとよりはぐれ者の吹き溜まり。有象無象ひとしく価値はなく、それゆえに、彼女のような存在でも生きてこれた。孤立することを決めたのは、他者に絶望したからではない。
一度手にした幸福を失う恐怖に耐えかねてのこと。
戦う道を選んだことも、そのために選んだ方法も、後悔はしていない。
けれど今、こうして身動きが取れなくなってしまっている。
逡巡の出口を求めても、堂々巡り。

つと、彼女を現実に引き戻したのは、落ち着いた女性の声だった。
「マリィ、マリィ?大丈夫?」
慌てて、顔を上げる。
目の前で、オーソドックスな看護服に、細身の長身を包んだ年上の女性が気遣わしげな視線を向けている。医務室。『彼』と先ほど話して、直ぐに訪れたのだ。……他に、彼を避ける方法がおもいつかずに。
「一昨日の小競り合いで血清のストックが切れてしまって……なるべく早く、
 手配しますね。いくら否って言っても、もう認めません」
随分と情けない話だと思う。
「だ、大丈夫よ?身体は充分休めてるし、食事は美味しいし」
「ちゃんと食べてるんですか?」
「三食欠かさず」
……嘘だけれど。
「日替わりのローストポーク、凄く美味しかったわ。食欲がなかったのに、
 綺麗にお腹に入れてしまったもの」
三日前に遇々確認した、一週間分のメニューを思い出しながら、そんなことを言う。
「いいわ、信じておいてあげる」
悪戯めいた笑みに、すこしだけ胸が痛んだ。よく気が付く人、短い付き合いでもわかる。
「是が非でも、血を摂って欲しいところだけれど……隣の市で大規模な事故があって、
 安全な血清の流通量が減ってるんです」
「事故?」
問うた彼女に、アリサが頷く。
「対策室もこの所、不審な動きを見せているけれど、異種の過激派組織の動きが
 激しくて手が回らないんです。私達には動きにくい状況ね」
「過激派」
記憶を辿る。思いつくのは、
「この辺りだと、『A.VA』と、『盟約の者』?」
「そういった巨大な組織ではなく……昨夜の事故は、特定の組織による犯行ですら
 ありませんでした。追い詰められた民間の異種と、その協力者―――だから、
 余計にきな臭いのだけれど」
それは報道されているのと、問い返す。
「公には、否。でも、情報が伝わるのは早いでしょう?」
市井の人々に真実を伝えるのは、公共の報道機関だけではない。
しかし、だからこそ、彼らを利用しなければならないのだと亜里沙は言った。 
「その所為で、総長も先生も出払いっ放し。明日は桜花様……いえ、舘石君とあたし
 が折衝に出て、寝んでもらう運びになっています」
元々人が少なかったというこの組織が、彼女が来て以来ずっと騒がしいのは、異種の王の娘、を受け入れたことだけが理由ではない。異種たちを取り巻く状況は、刻一刻と動いている。
「血清は―――それでも、三日後には確保できる筈。検査して、改善が見られなかっ
 たら、ベッドに縛り付けてでも点滴にしますよ?」
丁寧な口調でそんなことを言うと、彼女は笑った。
「ご自分の状態が良くないこと、ちゃんとわかっているのでしょう?」
「血のことは。アラムに相談するわ。それで問題ないでしょ?」
そう答えると、はぁ、と溜息をついて、アリサが額を押さえる。


マリィ・アトキンスは異種、それも所謂『吸血鬼』だ。
人の血を呑んで、異能を振るう種族。
けれど、血を呑む、という行為が、彼女はそもそもあまり好きではなかった。
―――あの、高揚感に、つよい酩酊。
異種は、唯人には知覚できない、ある種の力の場に自らを『接続』することで異能る。根の世界だとか、極大集合だとか、血の河だとか形容される、不可視の世界。
只人には至れない場所。

媒介は多々あれど、吸血鬼と呼ばれる種族が媒介にするのは無論、生物の『血』。
強力な血統のナチュラルボーンとして作り出された彼女の場合、親から血を受けて転化した類の急造の鬼とは異なり、普通に暮らす分には血液の摂取を必要としない。
しかし、力を振るえば、否応なく生命の甘露たる血液を求めて苦しむことになる。
今の、彼女のように。

アラム・ヴォフクと行動を共にした二年間は、彼の血を受けていた。
それも、やむを得ないときだけ―――突然に転がり込んだ二人の部外者について、目の前の年上の女性がどの程度の事を『知って』いるのか図りかねて、マリィはすこしだけ会話を止める。アラムがICUに放り込まれざるを得なくなった経緯、自分たちの立場については大まかに説明したものの、彼との出会いも、現在の関係も、詳しくは話していない。ただわかるのは、自分の立場が、眼の前の女性から、これまでではありえないくらい配慮されている、ということで。
『ウィリー・ウィリー』でマリィが対峙した人間は、みなそうだった。状況が今以上に逼迫すればどうなるのかは想像し難いものの、彼女の意思を尊重してくれているのだと、わかる。それが、逆にやり辛い。

(必要になれば、此処の人たちだって私を利用せざるを得ないだろうけれど)
今の段階で『保護』という形で滞在を許し、行動の自由を認めている。
その二点だけで、恐らくは件の同行者よりもずっと、信頼に足る人々だった。
向き合って一月にも足らない人々に甘え通しである事実が、心苦しい。
「明日も、ちゃんと来て下さいね?あたし達は居ないけど、先生がきちんと診て
 くださいます。あ、でも、あたしたちよりも厳しいかしら」
逃げ出さないでね、と、完璧な笑顔で、白衣の女性がわらう。
「……心遣いに、感謝を」
伝えるべきことは、謝罪でも、拒絶でもない。
それがわからないほどに自分は子供ではないと、そう思いたかった。

襲撃があったのは、その日の夜半。
『ウィリー・ウィリー』は小さな組織で、本部を構えるのは街中のオフィスビルの一角、それも、表に掲げられた表札は病院、である。ゆえに、これまで直接の襲撃を受けるようなことはなかったのだが―――
結論だけ言えば、「突入」は失敗に終わった。
傍目にも成功の確率の低い手段を対策室が取ったのは、小規模ながら影響力が強く、扱い辛い組織である『ウィリー・ウィリー』、そしてそこに保護されている精製者一名、異種一名への牽制の意味が強かったのだろうと、関係者達は後に憶測した。


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