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イベリア帝国の始まり

西インド諸島に到達したコロンブス一行
イベリア帝国は16世紀後半にスペインとポルトガルの同君連合から連合帝国に発展した。当時広大な海外植民地を持っていたこの二国は連合によってさらに領地を拡大し、世界の覇権を握った。
イベリア帝国の最大版図(赤:元スペイン 青:元ポルトガル)
とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はイベリア帝国が繁栄した時期であり、黄金世紀と呼ばれている。君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は不滅の帝国(Imperio Inmortal)と形容された。また、この頃から帝都をマドリードに遷都し、その繁栄は現在まで続いている。

最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていた。ダニエル二世はこれを財の力で対抗しようと試み、国内産業を発展させるためにレコンキスタを緩和した事によりコーン人の富をもたらした。

財欲と奴隷の帝国

財を持てば持つほど社会で優遇される制度を築き上げてしまったダニエル二世は財欲の王と呼ばれ、貧民層の反感を買うことになった。また、ありとあらゆる植民地から奴隷を引きずり出して労働させたり、金の為ならばどんな事でもしようとする上層部の様子から、諸外国からは財欲と奴隷の帝国と揶揄された。また、財を持つコーン人の優遇などによりカトリック教徒の反感も買い、1582年にイベリア大反乱が起こった。

帝国軍は事態をなんとか鎮圧、さらなる反乱を恐れた国王は仕方なくコーン人の優遇を取りやめる代わりに、各地に警備隊を配置して民衆らを取り締まった。

停滞期

一方で対外的にはイベリア帝国も衰えを見せ始める。1588年に アルマダ海戦でイベリアの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行った。イングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していった。

ダニエル三世の頃には八十年戦争でネーデルラント連邦共和国が事実上独立。イベリアは貿易や産業で重要な地域となっており、17世紀前半の世界経済の中心となるオランダを失った。

その後ハプスブルク家・カトリック国として三十年戦争に介入したが、ダニエル4世の治世において、オリバーレス公伯爵の改革は特権を守ろうとする貴族階級の抵抗に遭い、1640年12月1日にポルトガル革命でポルトガルが独立すると、ポルトガル王政復古戦争が始まり、1640年5月、ポルトガルと同君連合を結ぶカタルーニャでも収穫人戦争が勃発。1643年にオリバーレス公伯爵は更迭され、三十年戦争も敗退した。1659年には西仏戦争の敗北でフランスとピレネー条約を締結し、ルシヨン地方などをフランスに割譲。イベリアの「黄金時代」は完全に終わりを告げた

新王朝

18世紀に入るとハプスブルク家が断絶し、フランスのルイ14世は自らの孫、ブルボン家のフィリップをイベリア王にしようとした。ところがそれに各国が異議を唱えイベリア継承戦争が始まった。この戦争は12年に及び、1713年のユトレヒト条約でオリオノ家のレオナルドがレオナルド一世として即位することは承認されたが、イギリスにジブラルタルを割譲。さらに新大陸に於けるアシエントを譲り、海外での影響力は著しく低下した。その後、オーストリア継承戦争、7年戦争に参加するがイギリス、フランス、オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなった。

このように対外的には衰えを見せたイベリアだが、国内では産業の成長が進んだ。また、1759年に即位したカルロス3世によって、ある程度の中興を果たしている。

西欧連邦

ナポレオンのイベリア侵攻
1808年、ナポレオン・ボナパルトはイベリアに進駐し、カルロス4世が退位してナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトがイベリア王ホセ1世となる。5月2日にフランス軍占領下のマドリードでスペイン人の反乱が起き、半島戦争が始まった。敗北を喫したイベリアはフランスに併合され、後にナポレオンを国家元首とする西欧連邦の一部になる。

王政復古

長らく西欧連邦の一部としてナポレオンの支配を被っていたが、1872年に独立戦争が勃発し勝利、イベリア帝国は再び独立を果たした。1874年にはアルフォンソ12世が即位したことで王政復古。

1898年、米西戦争に敗北したイベリアは残っていた主要な海外植民地(キューバ・グアム・プエルトリコ・フィリピン)を失った。これによりカリビアン帝国の全身のキューバ人民共和国が独立した。しかし北アフリカ征服の目論みは功を奏し、メリリャ戦争に勝利してモロッコを獲得したイベリア帝国は徐々に力を取り戻し始める。

第一次世界大戦

第一次世界大戦において、イベリアは中立政策をとった。大戦中のインフレーションは、貧民層の困窮化を深めさせ、労働運動が急速な高揚をみせた。
プリモ・デ・リベラ
1923年9月にミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし政権を握った。混乱の収拾を望む世論が強かったため、共産党や急進的な労働組合の一部が抵抗したものの、プリモ・デ・リベラ独裁政権の成立は総じて各層から容認された。あいつぐテロは収束し、労働者によるストライキやデモの件数も大幅に減少した。国内産業の保護・育成を進め、国道建設、鉄道の電化・複線化、エブロ川流域の開発など公共事業に力を注ぎ、経済発展を図った。

しかし、プリモ・デ・リベラ独裁は第一次大戦直後の混乱を乗り切るための暫定的措置として支持されたにすぎず、その独裁が長期化の様相を示すと反独裁の動きが各地で高まった。

第二共和政

王制打倒後に成立した新政府は、社会労働党の主導で労働者・貧農に対する政策を打ち出したほか、カタルーニャの自治政府を容認し、軍改革も行った。また、収拾のつかない政治的混乱は議会制民主主義への失望を招き、ファシズム政権の樹立を待望する主張が強まっていった。左派、右派ともに急進化が進み、さらに地域自立の動きは混沌に拍車をかけた。しかし、1935年のコミンテルン第7回大会において、人民戦線戦術(反ファシズムの統一戦線)が採択されたことは、左派勢力の再結集を促した。当時の右派勢力の足並みが乱れていたこともあり、左派の巻き返しが進んだ。こうした中行われた1936年選挙では左派が圧勝、人民戦線政府が成立した。

イベリア内戦とフランコ独裁

フランシスコ・フランコ
人民戦線政府の成立後も政治的混乱は続き、都市部ではストライキ、農村部では貧農による暴動が続いた。こうした中、1936年7月にフランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起こし、各地で右派による反乱が勃発、イベリア内戦へと突入した。フランコはドイツとイタリアのファシズム政権から支持を受けて戦いを有利に展開した。1939年にはマドリードが陥落、フランコ側が勝利を収めた。

フランシスコ・フランコは、1937年に自ら組織するファランヘ党の総統となった。1939年、内戦終結後は国家元首として、その独裁は彼の死1975年まで続いた。フランコ政権はその成立時からドイツ、イタリアのファシズム政権から支援を受け、ファランヘ党の一党独裁、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。

民政移管

モルガン一世は即位後フランコの独裁を継承せず、立憲君主制の下で民主化と欧米諸国との協調を進めるようになった。また、イベリア帝国を六つの構成国からなる連合帝国とし、新体制にちなんで国号をイモールタル=イベリア帝国に定めた。1987年には、新憲法が承認され立憲君主制に移行した。

現代のイベリア帝国

1986年にSATOに加盟、南米諸国との対等な立場を確認すると共に、貿易などで密接な関わりを持った。2004年の総選挙でww2中立派のロドリゴ・デ・モンド・ドミンゴが政権を獲得した。2014年にはイザベル三世が即位。2015年の総選挙でシャ・マトゥリ政権が誕生。首相の地位についたレオナルド・シャ・マトゥリは周辺国との協調を訴えつつ、大国に頼らない政治を目標に掲げている。

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