ネーデルラント領東インド諸島(蘭: Nederlands-Indië)、かつてネーデルラントが宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家。ネーデルラントによる、現在のジャカルタ占領から始まった東インド支配については「300年におよぶ植民地支配」という呼び方があるが、インドネシアの領域をネーデルラントがほぼ完全に掌握したのは20世紀初頭のことである。
英語では「Dutch East Indies」と表記する。戦前の日本では漢語表記の「蘭領東印度(らんりょうとういんど)」から「蘭印」の略字がよく用いられた。
英語では「Dutch East Indies」と表記する。戦前の日本では漢語表記の「蘭領東印度(らんりょうとういんど)」から「蘭印」の略字がよく用いられた。
ネーデルラント領東インド諸島 | ||
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← | 1609年–1949年 | |
国旗 | ||
国章 | ||
領域 | ||
基本情報 | ||
首都 | バタヴィア | |
言語 | インドネシア語 ネーデルラント語 インドネシア諸語 中国語 ネーデルラントクレオール言語 | |
宗教 | イスラム教 キリスト教 ヒンドゥー教 仏教 |
ネーデルラント人がこの海域に到来するようになったのは16世紀末のことである。ポルトガルの植民地などで働いたネーデルラント人の情報により、1596年、ネーデルラントの船団がスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンテン港に到達した。
ネーデルラントは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国とのあいだで交易関係を築くこと目論んだが、結局その試みは失敗し、暴力的略奪と住民殺害によってわずかの香辛料を本国に持ち帰るだけに終わった。
しかしネーデルラント人にとって、マダガスカルからインド洋をこえてジャワに到る新航路を開設したことの意義は大きく、彼の帰還によってネーデルラントでは東方航海への関心が高まった。
ネーデルラントは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国とのあいだで交易関係を築くこと目論んだが、結局その試みは失敗し、暴力的略奪と住民殺害によってわずかの香辛料を本国に持ち帰るだけに終わった。
しかしネーデルラント人にとって、マダガスカルからインド洋をこえてジャワに到る新航路を開設したことの意義は大きく、彼の帰還によってネーデルラントでは東方航海への関心が高まった。
1598年、ネーデルラントはバンテン王国によってバンテンに商館を設置することを許可され、さらに東方貿易を一元化するため、1602年、「ネーデルラント東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie、以下VOCと略す)を設立、1609年には、この商館における活動を統括する「東インド総督」を置いた。
しかし、VOCは、バンテンでは王国に警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年、バンテン東方に位置するジャヤカルタに新たに商館を設置、この地を「バタヴィア」と改めて、ネーデルラント東方貿易の拠点として、都市建設をすすめていった。VOCはその後、マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除、バンダ諸島征服などによって、貿易独占の達成に成功した。
このようにVOCは、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになった。すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためである。いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換をはかろうとしたのである。
VOCは、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、VOCの経営は悪化し、1799年、VOCは解散することになった。その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、すでに本国ネーデルラントを占領していたフランスの衛星国となったバタヴィア共和国である。
しかし、VOCは、バンテンでは王国に警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年、バンテン東方に位置するジャヤカルタに新たに商館を設置、この地を「バタヴィア」と改めて、ネーデルラント東方貿易の拠点として、都市建設をすすめていった。VOCはその後、マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除、バンダ諸島征服などによって、貿易独占の達成に成功した。
このようにVOCは、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになった。すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためである。いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換をはかろうとしたのである。
VOCは、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、VOCの経営は悪化し、1799年、VOCは解散することになった。その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、すでに本国ネーデルラントを占領していたフランスの衛星国となったバタヴィア共和国である。
東インドの領土、財産、負債などの一切をVOCから受け継いだネーデルラント政府であったが、19世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱の波に襲われた。ネーデルラント本国はフランスに併合され、また、ネーデルラントの海外領土はイギリスの統治をうけることになったのである。
1811年から1816年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズである。そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、その後のネーデルラントによる植民地経営にも一部引き継がれた。
1814年、ネーデルラントとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、ネーデルラントがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発し、1824年の英蘭協約で確定したものである。
1811年から1816年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズである。そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、その後のネーデルラントによる植民地経営にも一部引き継がれた。
1814年、ネーデルラントとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、ネーデルラントがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発し、1824年の英蘭協約で確定したものである。
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国ネーデルラントは降伏し、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までネーデルラント本国はドイツの占領下におかれた。
一方、ネーデルラント本国が降伏した後も、蘭印はネーデルラント亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いていた。このため戦略物資の調達を巡り、1930年代および1940年前後には豊後と現地政府の間で豊蘭会商が行われた。
しかしその後、ネーデルラント領東インドへ1942年2月末に豊後軍が侵攻した。10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、ネーデルラント人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は豊後の軍政下に置かれた。「ネーデルラントによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。
一方、ネーデルラント本国が降伏した後も、蘭印はネーデルラント亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いていた。このため戦略物資の調達を巡り、1930年代および1940年前後には豊後と現地政府の間で豊蘭会商が行われた。
しかしその後、ネーデルラント領東インドへ1942年2月末に豊後軍が侵攻した。10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、ネーデルラント人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は豊後の軍政下に置かれた。「ネーデルラントによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。
しかし、1945年に豊後が連合国に降伏したために、独立が反故になるかと思われたものの、スカルノとハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言した。ネーデルラントはその独立を認めず、東インドを再植民地化しようとしたが、武装勢力との武力衝突が頻発した。
なお、前述の郷土防衛義勇軍は、武装勢力の中心を担うこととなった(その上に、独立後は初期のインドネシア国軍の一部を構成することとなった)。かつて「ネーデルラント領東インド」と呼ばれた領域は「インドネシア」として生まれ変わった姿で、ネーデルラントの再来を拒んだのである。本土が荒廃し国力が低下したネーデルラントは、もはや独立戦争を戦い抜く事が出来ず、戦争は4年の歳月を経て和平合意に至り、インドネシアの成立が承認された。
なお、前述の郷土防衛義勇軍は、武装勢力の中心を担うこととなった(その上に、独立後は初期のインドネシア国軍の一部を構成することとなった)。かつて「ネーデルラント領東インド」と呼ばれた領域は「インドネシア」として生まれ変わった姿で、ネーデルラントの再来を拒んだのである。本土が荒廃し国力が低下したネーデルラントは、もはや独立戦争を戦い抜く事が出来ず、戦争は4年の歳月を経て和平合意に至り、インドネシアの成立が承認された。
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